第23話 赤い地図
ベルフスト統合参謀本部。
産業革命から3年が経ち、城下の中枢部に建てられた石造りの大建築だった。
軍参謀、各師団長、軍需省、外務省、財務省の幹部が一堂に集まれる大会議室を備えており、今日はその全てが埋まっていた。
正面の壁に、大陸全図が掛けられていた。
皇国とその傘下の領域が青で塗られていた。
次に、周辺の人類国家が緑。
そして大陸の南西部から中央部にかけて、広大な赤い領域が広がっていた。
魔族支配領域。
赤い色は、血の色だった。
賢が地図の前に立った。
「魔族領植民地化計画について、説明します」
「現状を確認します」
賢は棒で地図を指した。
「魔族支配領域は、大陸全体の約三割を占めています。かつては人間や亜人が住んでいた土地で、200~300年前に魔族に占領されました。現在も生存している人間の集落がいくつかありますが、大半は魔族の支配下に置かれています」
「魔族の軍事力は」
グスタフが聞いた。
「魔力による攻撃が主体です。個体の魔力量は人間の魔導兵を大きく上回ります。ただし組織的な軍事作戦の概念は乏しく、補給や通信の概念も我々より遅れています。数で言えば魔族が約2万から4万、魔族が使役する魔獣が数十万規模と見られています」
室内にざわめきが走った。
「数十万の魔獣」
師団長の一人が言った。
「それは」
「全てが同時に動くわけではありません」
賢は続けた。
「魔獣は基本的に個別に行動し、魔族に指揮されて初めて組織的に動きます。魔族の指揮系統を潰せば、魔獣の組織的行動は崩れます」
「なぜ今、侵攻するのだ」
オットーが聞いた。
「三つの理由があります」
賢は言った。
「一つ目、皇国の経済規模が拡大し続けており、新たな資源と市場が必要です。魔族領には豊富な鉱物資源と広大な未開発地があります。
二つ目、魔王復活以来、魔族の活動が活発化しており、放置すれば再び人類側への侵攻が始まります。先手を打つ方が損害が少ない。
三つ目、技術格差が最も大きい今が、最も低コストで達成できる時期です」
「魔王軍との関係は」
「魔族領と魔王軍は、現時点では別物です。魔王は復活していますが、まだ本格的な大侵攻の準備ができていない。その間に、魔族の根拠地を削ぐ」
軍務卿の補佐官が別の地図を広げた。
皇国軍の現状戦力図だった。
「現在の皇国軍の兵力は総員10万2000名です」
補佐官が説明した。
「内訳は歩兵師団が6個、騎兵機動師団が1個、砲兵支援師団が1個、航空師団が1個、海軍が別途。」
元の世界でいう1910年代~1930年代頃の技術力であろうか。
この世界にとって、それは十分なオーバーテクノロジーだった。
賢が続けた。
「特殊部隊については、現在一個連隊規模、3000名に達しています。完全な現代装備で、通常部隊の10倍以上の戦闘効率を持ちます。航空戦力については、AC-130を2機、F/A-18戦闘機を12機、AH-64アパッチ攻撃ヘリを18機を生成できます」
グスタフが地図を見た。
「侵攻ルートは」
「三方向から同時進行です」
賢は地図を指した。
「第一軸、北部回廊。皇国南部から直接魔族領北縁に侵攻します。地形が比較的平坦で、機甲部隊と砲兵の展開に適しています。
第二軸、東部海上。海軍が沿岸部に艦砲射撃を加えながら、陸軍が上陸します。
第三軸、特殊部隊による先行浸透。通常部隊が動く前に、特殊部隊が魔族の指揮拠点と補給拠点を叩きます」
「三方向同時は、兵站が課題です」
グスタフが言った。
「その通りです。だから今から準備を始めます」
翌日、財務省との会議が開かれた。
財務大臣のヘルムートが資料を広げた。40代の精緻な男で、数字に強かった。
「軍需品の増産には、工場の生産ラインの切り替えが必要です」
ヘルムートは言った。
「現在は民需が7割、軍需が3割という比率です。これを逆転させるとなると、民需品の生産が落ちます」
「全部は逆転させません」
賢は言った。
「食料と医薬品と基礎インフラ関連は民需を維持します。それ以外の消費財の一部を軍需に切り替える。比率で言えば、軍需を五割まで上げます」
「民間への影響は」
「消費財の一部が不足します。価格が上がる品目が出ます。しかし食料と医療が維持されれば、生活水準の急激な低下は防げます。期間を限定することが重要です」
「どのくらいの期間を想定していますか」
「侵攻から植民地化の安定まで、5ヵ月から7ヶ月を目標にします。その後は植民地の資源と市場が経済に組み込まれ、動員を緩められます」
ヘルムートが数字を書き留めた。
「工場の切り替えには設備投資が必要です。資金の手当ては」
「国債を発行します。ただし今回はメフォ票ではなく、正式な国債です。償還の裏付けは、植民地の資源収益を担保にします」
「植民地が取れることを前提にした国債ですね」
「取ります」
賢は静かに言った。
工業地区の工場長会議が招集された。
50棟以上の工場の責任者が一堂に集まった。
賢が立った。
「国家の要請として、生産ラインの一部を軍需に切り替えていただきます。具体的には、弾薬工場の増設、装甲車両の部品工場、航空機部品の製造ラインです。協力していただいた工場には、優先的な資材供給と価格保証を行います」
工場長の一人が手を上げた。
「期間はどのくらいですか」
「7ヶ月を目標にしています。状況次第で短縮する可能性があります」
「労働者への説明は」
「皆さんにお任せします。ただし、志願者を除き、強制的な長時間労働は求めません。残業手当を通常の1.5倍にできるよう、国から補助を出します」
別の工場長が聞いた。
「魔族領への侵攻ということは、成功すれば新しい市場が開けますね」
「そうです。魔族領に工場を建てることになれば、新しい事業機会が生まれます。先行して協力した工場には、優先的な進出機会を提供します」
室内の空気が変わった。
義務としての動員から、利益が見える動員へ。
工場地区の布工場では、カールが同僚のマティアスと話していた。
「また軍需に切り替えるらしいぞ」
マティアスが言った。
「今度は布じゃなくて、工場の一部を弾薬の梱包に使うって」
「戦争か」
カールが言った。
「魔族領に攻め込むって話だ」
「魔族に」
カールは少し間を置いた。
「……大丈夫なのか、そんな」
「分からないけど、まあ賢さんが計画してるなら、今まで外したことないしな」
「それはそうだが」
工場長が全員を集めた。
説明が行われた。
残業は希望者のみ、手当は1.5倍、期間は半年程度。
「協力できる人は申し出てください」
工場長は言った。
「強制ではありません」
その夜、カールはアンナに話した。
「残業の手当が1.5倍らしい」
「やるの?」
アンナが聞いた。
「少し考えてる」
カールは言った。
「残業分を貯めれば、もう少し広い部屋に引っ越せる。子供たちもそろそろ部屋が必要だし」
「でも、魔族に攻め込むための準備なんでしょ」
アンナが少し心配そうに言った。
「直接戦うわけじゃない。梱包だ」
カールは言った。
「兵士みたいに前に出る者がいる。俺は後ろで作れる分を作る」
アンナが少し間を置いた。
「分かった。でも無理しないで」
「ああ」
ルーカスは下士官として、新設された第7師団の第3大隊に配属されていた。
第7師団は今回の侵攻のために新編された師団で、装備は最新だった。
半自動小銃、軽機関銃、対魔法障壁用の徹甲弾、魔力遮断効果のある特殊弾薬。
通常の魔獣や魔族の魔法を相手にするための装備が充実していた。
「魔族は魔法を使う」
訓練教官が説明した。
「魔法障壁を持つ個体が多い。通常弾では効果が薄い場合がある。炸裂弾と特殊弾薬の使い分けを覚えること」
「魔族の強さはどのくらいですか」
ルーカスが聞いた。
「個体差が大きい。弱い魔族なら一般兵士でも対処できる。しかし上位の魔族は、魔力が非常に強く、勇者クラスの祝福がないと正面からは厳しい」
「では、どう戦うのですか」
「正面に出ない」
教官は言った。
「遠距離から砲撃と銃撃で削り、上位魔族には航空支援と特殊部隊を当てる。歩兵は、弱体化した後の掃討と占領を担当する」
ルーカスは訓練を続けながら、複雑な気持ちを持っていた。
工場で部品を作っていた頃と、今は立場が違う。
今は、自分が前に出る番だ。
怖くないと言えば嘘だった。
しかし逃げたいとも思わなかった。
ヴォルクは特殊部隊の第2大隊に配属されていた。
同じ大隊に、後から来た兎人族の狙撃手エルナも配属されていた。
訓練場で、ヴォルクとエルナが並んでいた。
「お前も来たか」
ヴォルクが言った。
「呼ばれた」
エルナは短く答えた。
「魔族領に行くと聞いた」
「ああ」
「私たちも連れていくのか」
エルナが言った。
「獣人を」
「連れていく。嫌か」
「嫌ではない」
エルナは静かに言った。
「魔族は、俺たちの敵でもある。人間の戦争に付き合うのではなく、自分の戦争だと思っている」
ヴォルクが頷いた。
特殊部隊の訓練は厳しかった。
しかしヴォルクとエルナにとって、獣人の身体能力と感覚は大きな強みになっていた。
ヴォルクの嗅覚は、魔族特有の魔力の匂いを遠距離から感知できた。
エルナの視力は、一km先の目標を肉眼で捉えることができた。
ハンスがその二人を見て、賢に言った。
「あの二人を前衛の斥候に使いたい。今まで人間にできなかった索敵ができます」
「どうぞ」
賢は答えた。
「ただし二人の意志を確認してください。命令ではなく、志願という形で」
「了解です」
クラスメイトたちの訓練も、新しい段階に入っていた。
颯人の《英雄の剣》は、今では魔力の波動を数十メートル先まで飛ばすことができた。
誠司の《大賢者の魔眼》は、複数の術式を同時に無効化しながら別の魔法を展開できる水準に達していた。
涼介の《鉄壁》は、自分から半径5メートルの範囲を守れるようになっていた。
他のクラスメイトたちも同様に、祝福の限界に近い水準まで成長していた。
ある夜、颯人が仲間を集めて話した。
「魔族領への侵攻が計画されている」
颯人は言った。
「俺たちにも役割が来るはずだ。どう思うか、聞かせてほしい」
しばらく沈黙があった。
誠司が最初に口を開いた。
「俺は行く。上位魔族の魔法への対処は、俺の《魔眼》が有効だ。必要とされるなら使う」
「俺も」
涼介が言った。
「特殊部隊への盾は、俺にしかできない部分がある」
他のクラスメイトたちも、次々と頷いた。
颯人は全員の顔を見た。
召喚された時の、あの混乱した顔はどこにもなかった。
「一つだけ」
颯人は言った。
「戦場では生き残ることを最優先にしろ。お前たちの命は、俺が守る。それが俺の役割だ」
「大げさだろ」
誰かが笑った。
「大げさじゃない」
颯人は真顔で言った。
「お前たち全員を連れて帰る。それだけ考えていてくれ」
侵攻の準備と並行して、賢の諜報組織が魔族領の情報収集を進めていた。
魔族領との境界近くに駐屯する皇国軍の観測部隊が、定期的に情報を送ってきた。
飛行可能な魔族の個体が上空偵察を行っており、その行動パターンが分かってきた。
加えて、魔族領の近くに住んでいた獣人部族からの情報が有益だった。
カルフの協力で、北部の狼人族が魔族領の境界付近の情報を提供していた。
「魔族の定期的な哨戒ルートはこのあたりです」
ハンスが地図を示した。
「魔獣の群れが月に一度、この渓谷を通ります。魔族の拠点は、この山塊の内側に集中しています。地下に大規模な居住区域があると見られます」
「地下を攻めるのは難しい」
グスタフが言った。
「その必要はありません」
賢は言った。
「地上の施設と補給路を断てば、地下に籠もった魔族は出てこざるを得ない。あるいはそのまま封じ込める」
「地下から魔術攻撃が来る可能性は」
「特殊部隊の対魔法装備で対処します」
別の情報が入ってきた。
魔族領内に、まだ生存している人間の集落があるという報告だった。
数十から数百人規模の集落が、魔族の支配下で細々と生き延びていた。
農奴のような形で使役されているという話と、比較的自由に生活しているという話が混在していた。
「侵攻の際、彼らへの配慮が必要です」
賢はグスタフに言った。
「魔族の情報源として使われている可能性もある。しかし保護の対象でもある」
「どう扱うか」
「先行する特殊部隊が、集落の位置を把握した上で、主力部隊に伝えます。攻撃目標から外す。可能であれば事前に連絡を取り、協力を求めます」
「魔族領内の人間が協力するか」
「判断は、現地の状況を見てからです」
侵攻1ヶ月前、最終的な作戦会議が開かれた。
参謀本部の大会議室に、軍参謀、師団長全員、海軍の提督、颯人たちクラスメイトの代表が集まった。
賢が作戦の全体像を説明した。
「第一段階、先行浸透。侵攻開始の72時間前から、特殊部隊が魔族領に浸透を開始します。主要な通信拠点、補給集積地、指揮中枢を攻撃します。同時に、航空戦力が魔族の哨戒飛行個体を排除し、制空権を確保します」
「第二段階、主力進撃。特殊部隊が混乱を作り出した後、三方向から主力部隊が進撃します。砲兵が先行して障害を排除し、歩兵師団が前進します。魔族の組織的抵抗が予想される拠点には、航空支援を集中させます」
「第三段階、制圧と占領。主要な魔族拠点を制圧した後、占領地の管理体制を整えます。残存する魔族と魔獣の掃討を継続しながら、植民地統治の基盤を作ります」
グスタフが聞いた。
「上位魔族への対処は」
「颯人さんたちと特殊部隊の合同チームで当たります。上位魔族は魔力が高いですが、現代兵器の物理的な火力には対応できません。誠司さんの《魔眼》で魔法障壁を無効化し、その間に集中射撃します」
「魔王軍との関係は」
賢は一度止まった。
「魔族領と魔王軍は現時点では別ですが、侵攻に対して魔王が反応する可能性があります。その場合の対応は、状況を見て判断します」
人間による魔族への侵攻。
本来なら逆の立場。
それが今、起ころうとしていた。




