↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/35

第19話 集まる者達

 研究室に、クレメンスからの報告が届いたのは深夜だった。


 賢が執務室で設計図に向かっていると、ドアを叩く音がした。


 開けると、クレメンスが立っていた。

 髪が乱れ、目の下に隈があった。


 しかし目が輝いていた。


「できました」


 それだけ言った。


 賢は立ち上がった。


 研究室に、マリアも来ていた。


 机の上に、小さな瓶が並んでいた。

 透明に近い淡黄色の液体が、十数本。


「純度の確認が終わりました」


 クレメンスが言った。


「動物実験での有効性と安全性は確認済みです。人への投与ができる水準に達していると判断します」


「最初の患者は誰にしますか」


 マリアが賢に向いた。


「先生が決めてください」


 賢は答えた。


「私が決めることではありません」


 マリアが頷いた。


「病院に、敗血症の患者がいます。四十代の男性で、農具で深い傷を負い、感染が全身に回っています。

 現在の医療では手の施しようがない段階です。本人と家族に説明した上で、同意が得られれば」


「明日の朝、話してきます」



 翌朝、マリアは患者とその妻に説明した。


 新しい薬のこと。

 まだ人に使った例がないこと。

 効果がある可能性があること。

 副作用が出る可能性もあること。

 全てを正直に話した。


 妻が夫の手を握り、しばらく黙っていた。


「先生」


 妻が言った。


「このままでは、夫は助からないのですか」


「はい」


 マリアは答えた。


「このままでは、助からない可能性が高い」


「それなら」


 妻が夫を見た。

 夫が頷いた。


「試してください」


 投与から三日後。

 患者の熱が下がり始めた。


 五日後、傷口の赤みが引いた。


 一週間後、患者が自分で食事を取れるようになった。


 マリアは記録を見ながら、長い間立っていた。

 クレメンスが隣に来た。


「効いた」


「効いた」


 マリアが繰り返した。


 二人は黙っていた。

 言葉が出なかった。

 患者の部屋から、妻の泣き声が聞こえた。



 効果の確認をしてすぐ、賢は設備の起動を命じた。


 量産の準備は3ヶ月前から進めていた。

 ゴドフリーが設計した培養設備が、工場地区の一角に既に完成していた。

 大型の培養槽が12基、抽出と精製のラインが並んでいた。


「最初の2週間は試運転を兼ねた少量生産です」


 賢はゴドフリーに言った。


「品質の安定を確認しながら、3週目から本格稼働に移ります。1ヶ月後には月産5000単位を目指します」


「設備は動く」


 ゴドフリーは答えた。


「問題は青カビの培養の安定性だ。温度と湿度、pHの管理が難しい」


「魔力を使った冷却管とヒーターで温度制御の機構を追加します。クレメンスに設計させます」


「それができれば安定するだろう」


 生産が始まった。

 最初の週は品質にばらつきがあり、規格外品が多かった。

 クレメンスが工場に張り付いて工程を修正し、二週間目から品質が安定し始めた。



 最初のロットが病院に届いた。


 ベルフスト中央病院の薬局に、初めて抗生物質(ペニシリン)が入荷した日のことを、薬剤師のアンネリーゼは後年まで覚えていた。


 小さな瓶が20本、木箱に入って届いた。


「これが」


 アンネリーゼは瓶を手に取った。


「あの薬ですか」


「そうです」


 マリアが言った。


「敗血症と産褥熱の患者から優先的に使います。使用記録を必ずつけてください。効果と副作用の全ての記録が、次の改良に繋がります」


「分かりました」


 アンネリーゼは瓶を棚に並べた。


「先生、本当に効くんですか」


「効きます」


 マリアは静かに、しかし確かに言った。


「私が見ました」



 それから3ヶ月が経った。


 ザイフェルトが統計を持って賢の元に来た。


「感染症による死亡数の速報値です」


 ザイフェルトは紙を広げた。


「抗生物質(ペニシリン)投与を開始した病院での敗血症死亡率が、3ヶ月前比で63%減少しました。産褥熱については71%減です」


 賢は数字を見た。


「配布できていない地域は」


「農村部です。まだ量が足りていません。都市の病院を優先しているため、農村部への配布は来月から本格化する予定です」


「増産を加速します。ゴドフリーに設備の追加を依頼してください。培養槽を倍にします」


「もう一つ報告があります」


 ザイフェルトが別の書類を出した。


「乳幼児死亡率が低下し始めています。抗生物質(ペニシリン)の直接の効果というより、医療制度改革全体の成果だと思われますが、出生後1年以内の死亡率が前年比で12%低下しました」


 賢は黙って数字を見た。


 半年前、この部屋に届いた最初の統計書類。

 毎年4万人以上が感染症で死んでいた。

 その数字が、動き始めていた。


「続けてください」


 賢は言った。



 抗生物質(ペニシリン)の効果は、国内に留まらなかった。


 商人が話を持ち帰り、旅人が口伝えし、時には手紙が届いた。


 周辺国の人々の耳に、皇国で起きていることが伝わっていった。


 病気が治る薬がある。

 工場で働けば、村にいるより稼げる。

 子供が無料で学校に通える。

 毎日腹いっぱい食べられる。


 それは一部は誇張で、一部は本当だった。

 しかし誇張と本当が混ざり合って、噂は一人歩きし始めた。



 ゲールアライヒ皇国の隣国、大陸最大規模の大国である「シーヴィル連合王国」。

 その構成国家に、ロンテール公国という国がある。


 ロンテール公国と皇国との国境に近い村に、テオドールという30歳の農夫が住んでいた。


 シーヴィル連合王国は正教会の本拠地があり、影響が強く、科学的な技術の導入に消極的だった。

 工業化は教会が「神の摂理に反する」と反対し、皇国から流入する技術は国境で止められていた。

 農業は相変わらず手作業で、医療は教会の治癒師に頼るしかなかった。


 テオドールの妻が、出産後に産褥熱で亡くなったのは2年前だった。


 子供は生きていた。

 しかし妻は高熱が続き、一週間で死んだ。

 教会の治癒師が毎日魔法をかけたが、熱は下がらなかった。


 そして今回、隣国の皇国で産褥熱が薬で治るようになったという噂を聞いた。


 テオドールは最初、信じなかった。

 しかし同じ噂を、別の商人から、別の旅人から、何度も聞いた。


 ある日、テオドールは赤ん坊を背負い、荷物をまとめた。


 村の人間に行き先を告げた。


「ベルフストに行く」


「帰ってこられるか分からないぞ」


 老人が言った。


「帰ってこなくていい」


 テオドールは答えた。



 皇国の国境検問所の記録によれば、外国からの入国者数が急増し始めたのは産業革命から1年半後のことだった。


 最初は細流だった。

 しかし月を追うごとに増え、1年半後には週に数百人規模になっていた。


 出身国は様々だった。

 シーヴィル連合王国、グニース帝国、チエルマ共和国、ブーヴァ王国、さらに遠い国から来た者もいた。


 農民、職人、商人、医師、学者。

 身分も様々。

 動機も様々。


 しかし、多くが共通することを口にした。


「ここでは、死なずに済む病気で死ぬことが少ないと聞きました」


「工場で働けば、子供を学校に行かせられると聞きました」


「自分の技術が、ここでなら活かせると思いました」


 国境検問所の責任者、マルコフという中年の官吏は、増え続ける入国者の対応に追われていた。


 ある日、一人の男が列の先頭に来た。

 小さな子供を抱いた、やつれた顔の男だった。


「名前は」


 マルコフが聞いた。


「テオドールと申します。シーヴィル連合王国の、ロンテール公国から来ました」


「目的は」


「働くためです。そして」


 男がわずかに間を置いた。


「この子を、ちゃんとした医師に診せたいと思って」


 マルコフは子供を見た。

 二歳くらいの女の子で、頬が少し赤かった。


「熱でもあるのか」


「少し前から」


 テオドールが言った。


「うちの国では、医師が近くにいなくて。教会の先生に診てもらいましたが、魔法では熱が下がらなくて」


 マルコフは書類を取り出した。


「入国を許可する。ベルフストに行くなら、城下の中央病院を訪ねろ。入国者向けの受付がある」


「ありがとうございます」


 テオドールが深々と頭を下げた。


 マルコフは次の入国者を呼びながら、テオドールの後ろ姿を少し見た。


 こういう者たちが、毎日来る。

 最初は戸惑っていたが、最近は慣れてきた。

 それが良いことかどうか、マルコフには判断できなかった。

 ただ、来る者を受け入れるのが自分の仕事だった。



 人が増えた。


 ベルフストの人口は、産業革命開始時の約5.5万人から大幅に増え、既に20万人を超えていた。

 そこに外国からの流入が加わり、さらに膨らみ続けていた。


 城下の地図が、次々と書き直された。


 東の工業地区が拡張された。

 北に新しい住宅地が開発された。

 西の旧市街が商業地区として再整備された。


 そして城壁の外に、かつては独立した小さな集落だった衛星都市が、次々とベルフストに吸収されていった。


 東のエルムドルフ。

 かつては平野が広がる農村だったが、工場が建ち、労働者が集まり、あっという間に工業衛星都市になった。

 人口が増え、道路が繋がり、気づけばベルフストの一部になっていた。


 南のトルメロンブリ。

 王都への物資を集散する商業地区として発展し、ベルフストの南門から続く目抜き通りと一体化した。


 北のクラインブルク。

 教育施設と医療施設が集まる地区として整備され、大学と病院の拡張に伴って急速に発展した。


 三つの衛星都市を吸収したベルフストは、一つの連続した都市圏になりつつあった。


 オットーが地図を広げ、頭を抱えていた。


「行政区画の整理が追いつかない」


 老宰相は言った。


「エルムドルフもトルメロンブリも、元は別の自治体だった。税制も条例も違う。統合するための法整備だけで半年かかる」


「急ぎません」


 賢は言った。


「人が動いている時に制度を急ぎすぎると混乱します。生活インフラを先に整えて、制度は後から追いかける形で」


「インフラの方も追いつかない」


 オットーが続けた。


「上下水道の延伸、道路の整備、学校の増設。予算はあっても、工事の人手が足りない」


「人手が足りないなら、入国者を使います」


 賢は言った。


「建設の仕事を優先的に紹介する。工事が終わった後も定住すれば、そのまま労働力になります」


「入国者を積極的に活用するということか」


「この国に来た者は、この国で働いてもらう。皇国の法と制度に従う意思のある者は、身分を問わずに」


 オットーが少し考えた。


「……民族や出身国による差別はしないということか」


「ええ。"法律では"しません」


 賢は言った。


「しかし、言語の壁がある。習慣の違いがある。摩擦は必ず起きます。

 ただし制度としての差別はしません。同じ仕事をすれば同じ賃金を払います。同じ法の下に置きます。

 "区別あれども差別なし"です」



 ベルフストに来て半年が経った。

 テオドールは工場地区の建設現場で働いていた。


 石を積む仕事で、体は疲れたが給料は安定して出た。


 娘のエマは回復していた。

 入国した日にすぐ病院に連れて行き、抗生物質(ペニシリン)を投与してもらった。


 三日で熱が下がった。

 今は二歳半になり、元気に走り回っていた。


 住んでいるのは、北のクラインブルクの集合住宅の一室だった。

 外国人の入居者が多い棟で、様々な言語が飛び交っていた。


 最初は訛りが違くて言葉が思うように通じず苦労したが、最近は皇国訛りの言葉も話せるようになってきた。


 ある夜、隣室のロンテール出身の男、ハインツと食堂で話した。


「慣れたか、ベルフストに」


 ハインツが聞いた。


「慣れてきた」


 テオドールは言った。


「最初は何もかも違って戸惑ったが」


「俺もそうだった」


 ハインツが杯を傾けた。


「ロンテールと全然違う。街がうるさいし、工場の音が夜も聞こえるし」


「でも」


 テオドールは言った。


「エマが元気に走ってる」


「それだけで十分か」


「十分だ」


 テオドールは杯を持ち上げた。


 妻のことを思った。

 あの薬が二年前にあれば、と思った。


 思ってもどうにもならないことだと知っていた。

 それでも時々、思った。


「ロンテール(母国)に戻るつもりはあるか」


 ハインツが聞いた。


「ない」


 テオドールは答えた。


「俺はエマを、ここで育てる」



 日曜日の午後、目抜き通りは人で賑わっていた。


 様々な言語が飛び交い、様々な顔が行き交っていた。


 皇国の労働者、アルクハイン出身の商人、モンデブーレの農夫、シーヴィルの職人、チエルマの学者。


 それぞれが別々の服装で、別々の言葉で話し、しかし同じ石畳を歩いていた。


 カールは家族と連れ立って市場に出ていた。


 隣を歩くアンナが言った。


「最近、外国の人が増えたわね」


「そうだな」


 カールは周囲を見渡した。


「前は皇国の人間ばかりだったけど、今は色々な顔がある」


「子供たちの学校にも、外国から来た子が何人かいるって言ってた」


「どうだ、仲良くやれてるか」


「まあ言葉が通じないこともあるって言ってたけど、一緒に遊んでるみたい」


 上の子が露店の方に駆けていった。

 見慣れない食べ物が並んでいた。

 グニース料理の屋台らしかった。


「お父さん、これ何?」


「知らん」


 カールが屋台の主人を見た。

 外国人らしい顔をした男が、片言の皇国語で説明してくれた。


「食べてみるか」


 カールはアンナに言った。


「食べてみよう」


 アンナが笑った。



 今日も皇国で、多く人の笑顔が生まれていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。