第18話 見えない敵
ある朝、賢の執務室に一冊の報告書が届いた。
差出人は新設の公衆衛生局、局長のアーダルベルト・フォン・ザイフェルトという初老の医師だった。
賢は表紙を開いた。
皇国及び傀儡国における疾病による死亡統計、とあった。
数字を追った。
肺炎による死亡、年間推定1万6000名。消化器内出血性感染症《腸チフス》、推定3500名。産褥熱、推定2500名。敗血症、推定6000名。その他感染症、1万名超。
合計、推定4万名以上が毎年感染症で死んでいた。
賢はその数字を、しばらく見ていた。
アルクハインとの戦争での皇国軍全体での戦死者が302名だった。
モンデブーレとの戦争は300名以下だった。
戦場で死んだ兵士の、100倍以上の人間が毎年感染症で死んでいた。
賢はペンを取り、ザイフェルトに返答を書いた。
「明日、お話しを聞かせてください」
翌日、ザイフェルトが執務室に来た。
六十代の瘦せた男で、白髪を丁寧に整えていた。
医師特有の、観察するような目をしていた。
長年ベルフストで開業医をしており、公衆衛生局の開局も主導して行った、産業革命後に急増した都市労働者の医療に携わってきた人物だった。
「報告書を読みました」
賢は言った。
「感染症による死亡を減らすために、何が必要だと思いますか」
ザイフェルトは少し意外そうな顔をした。若い実力者から意見を求められると思っていなかったのかもしれない。
「三つあります」
ザイフェルトは答えた。
「一つ目は公衆衛生の徹底。上下水道の整備、ゴミの適切な処理、手洗いの習慣化。都市ではある程度進んでいますが、農村部はまだ手付かずです」
「二つ目は」
「医療従事者の育成と配置です。現在、農村部には医師がほとんどいません。都市に集中しており、農村では病気になれば教会の治癒魔法に頼るしかない状況です」
「三つ目は」
ザイフェルトが少し間を置いた。
「感染症そのものを治す手段が必要です。現在の医学では、感染症に対して有効な治療法がほとんどありません。熱を下げる、安静にする、水分を与える。それが精々です。感染症を引き起こす小さな生き物を直接殺す薬が、もし作れるなら」
「作れます」
賢は言った。
ザイフェルトが目を細めた。
「……何を、ですか」
「細菌を殺す物質、抗生物質です。青カビが作り出す物質の中に、細菌を死滅させる力を持つものがあります。ペニシリンと呼ばれます」
「青カビが……?」
「私の世界の知識です」
賢は言った。
「詳細な製造方法は分かっていますが、この世界の素材と設備で実現できるかを確かめるには、研究が必要です。協力してもらえますか」
ザイフェルトはしばらく賢を見ていた。
「……信じがたい話ですが」
老医師は静かに言った。
「あなたがこれまでやってきたことを見ていれば、信じないわけにもいかない」
ベルフスト研究大学の一角に、新しい研究室が設けられた。
賢の提案で半年前に設立された大学は、まだ規模が小さかったが、科学の分野で優秀な人材が集まり始めていた。
その中から、賢は二人を研究室に呼んだ。
一人は25歳の青年、クレメンス・ホフマンだった。
魔道具師の家に生まれ、化学に強い関心を持っていた。
魔力反応と化学反応を組み合わせた研究をしており、ゴドフリーから「筋がいい」と推薦されていた。
もう一人は30歳の女性医師、マリア・フォン・エッシェンバッハだった。皇国の医師免許を持ち、城下の病院で働きながら、感染症の研究をしていた。
ザイフェルトが「最も信頼できる若手だ」と言った人物だった。
三人が研究室の机を囲み、賢が説明した。
「青カビ、ペニシリウムという種類のカビが作り出す物質が、特定の細菌を殺します。まず、ペニシリウムを安定して培養することから始めます。次に、培養液から有効成分を抽出する。最後に、それを人体に使える形に精製する。段階的に進めます」
「細菌、というのは」
マリアが聞いた。
「感染症を引き起こす小さな生き物のことですか。顕微鏡で見えるという」
「そうです。顕微鏡は既に製造できているのですか」
「基本的なものなら」
クレメンスが言った。
「高倍率ものは、まだ難しいですが」
「改良を並行して進めてください。細菌を目で見て確認できることが、研究の基礎になります」
「青カビは、どこから採取するのですか」
「どこにでもあります」
賢は言った。
「パンや果物が腐った時に生える青緑色のカビです。ただし、ペニシリンを多く作る種類を選別する必要がある。多くのカビを培養して、比較する作業から始めます」
マリアが頷いた。
「地道な作業ですね」
「最初の研究は、ほぼそれだけです」
「それでも、やりましょう」
マリアは静かに言った。
「昨日も私の病院で産褥熱で若い母親が亡くなりました。防げる死が、毎日起きています」
医療改革が動き始めた頃、問題が浮上した。
皇国の正教会が、公式に懸念を表明した。
教会の医療局長、ファビアン・デア・ハイリゲという司祭が、オットーの元に書状を送ってきた。
内容は三点だった。
世俗の医学が教会の治癒魔法の領域を侵している。
抗生物質なるものによる治療は神の摂理に反する可能性がある。
医師免許制度の整備は、教会の治癒師の権限を不当に制限する。
オットーが書状を持って賢の執務室に来た。
「教会が動いたぞ」
賢は書状を読んだ。
「予想していました」
賢は言った。
「治癒魔法は現在、農村部の医療の大半を担っています。医師が少ない地域では、教会の治癒師が唯一の医療手段です。医療改革が進めば、その役割が縮小する。教会にとっては利権の問題でもある」
「どう対処する」
「正面から対立しません」
賢は言った。
「治癒魔法は否定しない。むしろ、医学と治癒魔法を補完関係に置く」
「どういう意味だ」
「治癒魔法は外傷の回復や症状緩和などに非常に有効です。しかし感染症には効きにくい。治癒魔法で傷口を塞いでも、細菌が体内に残れば敗血症になります。逆に、抗生物質は細菌を殺せますが、切断した手足は戻せない。役割が違います。その違いを説明し、共存できることを示します」
「教会が納得するか」
「全員は無理です。しかし現場の治癒師には分かる人が多いはずです。感染症で患者が死ぬのを見続けてきた人たちです」
翌週、賢はファビアン司祭と会談した。
五十代の堂々とした体格の男で、教会の権威を体現するような存在感があった。
賢を見る目に、明確な警戒心があった。
「福神賢殿」
ファビアンが言った。
「単刀直入に申し上げる。教会は医療の領域に深く関わってきた。その伝統を、世俗の制度が侵すことは認められない」
「侵すつもりはありません」
賢は答えた。
「一つ聞いていいですか。産褥熱で亡くなる母親を、今年何人見ましたか」
ファビアンが一瞬止まった。
「……統計は把握していないが、多い」
「昨年の統計では推定2500名です。出産後の母親が感染症で亡くなっています。治癒魔法では防げていない死が、毎年2500回もある」
ファビアンが黙った。
「私は治癒魔法を否定しません」
賢は続けた。
「骨折の治癒、傷の回復、痛みの緩和。これは医学では代替できません。教会の治癒師にしかできないことがあります。ただ、感染症については、別のアプローチが必要です。その2500人の母親を救えるかもしれない手段を研究しています」
「青カビから作る薬とやら」
「はい。まだ研究中ですが、可能性があります。教会と医学が協力できれば、救える命が増えます。競合ではなく、連携です」
ファビアンがしばらく腕を組んでいた。
「……条件がある」
やがて言った。
「聞きます」
「教会の治癒師を、医療制度の中に正式に位置づけること。世俗の医師と同等の資格として認めること」
「認めます。ただし一定の訓練と試験を課します。魔法の力があっても、衛生管理や基本的な解剖知識がなければ患者を傷つける可能性があります。教会の治癒師にも、その教育を受けてもらいたい」
「教会の者に世俗の試験を受けさせると」
「目的は患者を救うことです。そのために必要な知識は、出所が問題ではない」
ファビアンがまた沈黙した。
長い間の後、「検討する」と言った。
完全な合意ではなかった。
しかし拒絶でもなかった。
研究と並行して、マリアは城下の病院での仕事を続けていた。
ベルフスト中央病院は、産業革命後の人口増加に合わせて拡張された施設だった。
石造りの建物に病室が並び、常時百名以上の患者が入院していた。
ある朝、マリアが病棟を回っていると、新しく入院した患者の部屋で立ち止まった。
三十代の男性で、右腕の傷が化膿していた。
工場での作業中に切り傷を負い、一週間放置していたという。
傷口の周囲が赤く腫れ、熱を持っていた。
「いつから熱がある」
マリアが聞いた。
「三日前から」
男性が答えた。
「だんだん上がってきて」
マリアは傷口を確認した。
感染が深部まで及んでいる。
「切開して膿を出します。その後、患部を清潔に保ちながら経過を見ます」
マリアは看護師に指示を出した。
「石炭酸水での消毒を徹底してください」
石炭酸水による消毒は、賢の指示で半年前から病院に導入されていた。
手術前後の器具と患部の消毒が義務づけられ、院内感染の発生率が以前より低下していた。
しかしそれでも、感染症による死は防ぎ切れていなかった。
切開処置を終えて廊下に出ると、隣の病室から呻き声が聞こえた。
昨日から入院している若い女性だった。
出産後に発熱し、産褥熱と診断されていた。
22歳。
子供は無事に生まれていた。
しかし母親の熱が下がらない。
マリアは部屋に入った。
若い母親の顔は赤く、呼吸が速かった。
夫が傍らで手を握っていた。
赤ん坊は別の病室にいた。
「先生」
夫が顔を上げた。
「妻は、助かりますか」
マリアは患者の状態を確認した。
熱は40℃を超えていた。
脈が速い。
「最善を尽くします」
マリアは言った。
答えになっていないことは分かっていた。
廊下に戻り、看護師に冷却と水分補給の指示を出した。
それ以上、できることがなかった。
マリアは廊下に立ち、壁に手をついた。
抗生物質。
あれがあれば。
まだ研究中だった。
まだ人に使える形になっていなかった。
マリアは唇を結び、次の病室に向かった。
研究室では、クレメンスが培養実験を続けていた。
青カビの培養を始めて3ヶ月が経っていた。
様々な条件で培養を試み、培養液の成分を分析する作業を繰り返していた。
魔力を使った分析器具が役に立っていた。
魔道具師として育ったクレメンスは、顕微鏡に魔力による集光の機構を組み込み、より細かい観察ができるようにしていた。
また、化学反応を魔力で加速させることで、通常より速く実験を進める方法も開発していた。
ある夜、白熱電球の明かりの中、クレメンスは培養液の一つに異変を見た。
細菌を加えた培養皿の中で、カビの周囲だけ細菌が死んでいた。
クレメンスは顕微鏡を覗き直した。
見間違いではなかった。
カビが作り出した何かが、周囲の細菌を溶かしていた。
「……これが」
クレメンスは顔を上げ、時計を確認した。
夜中の二時だった。
それでも立ち上がり、廊下に出た。
マリアの部屋のドアをノックした。
しばらくして、ドアが開いた。
マリアが寝ぼけた顔で顔を出した。
「何ですか、こんな時間に」
「見てほしいものがあります」
マリアは目を細めてクレメンスを見た。その顔に、普段見せない興奮があった。
「……分かりました」
二人が顕微鏡を覗いた。
マリアは長い間、接眼レンズから目を離さなかった。
「本当に」
マリアが静かに言った。
「細菌が、溶けている」
「カビの周囲だけです。何かを分泌していて、それが細菌を殺している」
「これが、抗生物質」
「まだ確認が必要ですが」
クレメンスは言った。
「でも、おそらく」
マリアが顕微鏡から顔を上げた。
目が赤かった。
「……どうしました」
クレメンスが戸惑った。
「なんでもない」
マリアは言った。
声が少し震えていた。
「ただ、今日も産褥熱の患者が亡くなったので」
クレメンスは黙った。
「早く、人に使える形にしましょう」
マリアは顕微鏡に向き直った。
「次は何をすればいい」
「培養液から有効成分を抽出します。溶媒を使った分離の工程が必要で、純度を上げる精製も必要です。魔力触媒を使えば、反応速度を上げられると思っています」
「どのくらいかかりますか」
「うまくいけば、1ヶ月から2ヶ月」
「早くできますか」
「できる限り急ぎます」
医療制度の改革が進む中、現場での摩擦も起きていた。
農村部では、教会の治癒師と新しく派遣された世俗の医師が、同じ地域で活動するケースが増えていた。
ほとんどの場合は補完的に機能していたが、ぶつかることもあった。
ある村での話が、ザイフェルトの元に報告として上がってきた。
肺炎の患者を巡り、教会の治癒師と派遣医師が対立したという。
治癒師は魔法による治療を行おうとし、医師は安静と水分補給を優先するよう主張した。
患者の家族が板挟みになり、混乱した。
ザイフェルトはその報告を持って賢の元に来た。
「現場が混乱しています。どちらが正しいかという問題ではなく、権限の所在が不明確なため、患者が迷っています」
「制度を作ります」
賢は言った。
「感染症の疑いがある患者については、世俗の医師が主治医となる。治癒魔法はその判断のもとで補助的に使う。外傷や骨折については、治癒師が主導権を持ち、医師が補助する。役割の棲み分けを明確にします」
「教会が同意するか」
「ファビアン司祭との交渉が進んでいます。感染症への治癒魔法の限界は、現場の治癒師自身が一番よく知っています。上層部の抵抗より、現場の理解の方が先に進むと思います」
「現場から変えていくということか」
「制度は後からついてきます」
その頃、ある農村の教会で、老いた治癒師のブルーノが村人と話していた。
70歳近いブルーノは、40年間この村で治癒魔法を施してきた。
骨折を治し、傷を塞ぎ、痛みを取り除いてきた。
しかし感染症については、長年無力感を抱えていた。
「先生、息子の熱が下がらないんです」
若い母親が言った。
「もう三日になります」
ブルーノは少年の額に手を当てた。
魔力を流す。
解熱魔法は使える。
しかし原因そのものを消す魔法は、ブルーノには使えなかった。
「先週、隣の村に来たという医師の先生に診てもらった方がいいかもしれない」
ブルーノは静かに言った。
「え?」
母親が驚いた。
「先生が言うんですか、そんなこと」
「私にできることは、熱を少し下げることだけだ。原因を治すことはできない」
ブルーノは言った。
「医師の先生は、感染症に詳しいと聞いた。どうか早めに診てもらいなさい」
母親が頷き、駆け出した。
ブルーノは一人で礼拝堂に戻り、椅子に座った。
負けを認めたわけではない、と思った。
ただ、できないことはできない。
患者のためを思えば、自分の限界を認める方が誠実だ。
ブルーノは長い間、静かに座っていた。
1ヶ月後、研究室で、クレメンスとマリアが精製した液体を前にしていた。
淡い黄色の液体だった。
量はまだ少ない。
動物実験では、感染症を起こしたマウスへの投与で明確な効果が確認されていた。
細菌が減り、症状が改善した。
「人に使えるか」
マリアが聞いた。
「純度がまだ十分でない」
クレメンスが答えた。
「不純物が混じっていると副作用の危険がある。もう一段階の精製が必要です」
「どのくらいかかる」
「二週間以上は」
「急いでください」
マリアは言った。
「今日も、病院で助けられなかった患者がいます」
クレメンスは頷いた。
賢がその日、研究室に顔を出した。
「進捗を聞かせてください」
クレメンスが説明した。
賢は黙って聞き、精製の工程について2,3つの技術的な提案をした。
触媒の配置を変えることで、不純物の分離効率が上がる可能性があると言った。
「試してみます」
クレメンスが言った。
「量産の設計は並行して進めます」
賢は言った。
「人に使えると確認できた時点で、すぐに大量生産に移れるよう、設備の準備をしておきます」
「大量生産を、最初から考えているのですか」
マリアが言った。
「一人を救う薬は慈善です。万人を救う薬は制度です」
賢は静かに言った。
「制度にしなければ意味がない」
マリアはしばらく賢を見た。
「……あなたは、どうしてこれを急ぐのですか」
「統計があります」
賢は答えた。
「毎年4万人が感染症で死んでいます。一日に換算すると、110人です。研究が一日遅れるたびに、110人が死ぬ」
「数字で考えるんですね、やはり」
「感情では追いつかない数です」
賢は静かに言った。
「数字にしないと、動けない」
マリアは少し間を置いてから言った。
「分かりました。二週間で仕上げます」
その女医の目には、決意が宿っていた。




