第17話 大地を変える白い粉
無煙火薬の製造が始まって半年が経った頃、賢は生産統計を眺めながら一つの数字に目を止めた。
アンモニアの生産量。
軍需向けに設計した製造設備が、想定より効率良く動いていた。
無煙火薬の原料となるアンモニアが、月産で必要量の2.2倍出ていた。
余剰分は貯蔵タンクに積み上がり続けていた。
賢はペンを止め、別の数字を引っ張り出した。
皇国と傀儡国を合わせた農業生産量。
皇国の肥沃な大地と機械化で生産性は上がっていたが、人口増加のペースに追いつき始めていた。
アルクハイン地方、モンデブーレ大公国の農村部では、皇国と比較すると土壌の栄養が薄く、単位面積あたりの収量が皇国直轄地より三割ほど低かった。
賢は二つの数字を並べた。
余剰アンモニアと、土壌栄養不足。
答えは単純だった。
翌朝、賢はゴドフリーと農務省の官僚を執務室に呼んだ。
「化学肥料を作ります」
農務省の官僚、ヘルマン・クラーゲという四十代の地味な男が首を傾げた。
「化学肥料、とは?堆肥や骨粉のことでしょうか」
「違います」
賢は図面を広げた。
「アンモニアを原料にした窒素肥料です。植物の成長に必要な窒素を、大量に、安定した形で土壌に供給できます」
「アンモニアを」
ヘルマンが眉をひそめた。
「あの、刺激臭のするものを肥料に使うのですか」
「そのまま撒くのではありません。硫酸と反応させて硫酸アンモニウムにする。あるいは別の工程で尿素に変換する。どちらも白い粉の形になり、扱いやすくなります」
ゴドフリーが図面を覗き込んだ。
「炉の熱を使った反応プロセスか。……これは魔道具の触媒反応と似た原理だな」
「そうです。ゴドフリーさんに設備の設計をお願いしたい。アンモニアから硫酸アンモニウムへの変換炉を、既存の製造設備に付設する形で」
「どのくらいの規模が必要か」
「月産1000tから始めたい。3ヶ月後に月産3000tを目指します」
ゴドフリーが暗算するような目をした。
「設備の設計は一週間あれば図面が引ける。製造は三週間ほどで試作ができるだろう」
「お願いします」
賢はヘルマンに向き直った。
「農務省には、肥料の配布体制と、農民への使用指導の仕組みを作ってほしい。ただ配るだけでは効果が出ない。土壌の状態に合わせた使用量の指針も必要です」
ヘルマンがまだ半信半疑の顔をしていた。
「それで、本当に収量が上がるのですか」
「三割から五割、上がります。土壌によっては倍になる場合もある」
「……本当ですか」
「確かめてみれば分かります」
三週間後、試作の硫酸アンモニウムが完成した。
白い顆粒状の粉末で、見た目は砂糖に近かった。
刺激臭はなく、手で触れても問題ない。
袋詰めにすると、普通の農業資材と変わらない見た目になった。
試験農場が三ヶ所設けられた。
皇国の農村と、アルクハイン地方の農村と、モンデブーレ大公国の農村。
それぞれ区画を分け、肥料を使う区画と使わない区画を並べて栽培した。
試験農場の管理を担当した農業指導員の一人が、ヨハネス・ブルンという五十代の老農家だった。
皇国で長年農業を営んできた男で、農務省から指導員として声をかけられていた。
最初は懐疑的だった。
「白い粉を撒いて収量が上がるとは、信じられん」
ヨハネスは指導員仲間に言っていた。
「堆肥を十分に入れて、水を正しく管理して、そうやって育てるものだ。粉一つで変わるとは思えない」
しかし秋の収穫で、ヨハネスは黙った。
肥料を使った区画の麦が、使わなかった区画より明らかに穂が重かった。
収量を計測すると、42%増だった。
ヨハネスは収穫した麦の穂を手に取り、しばらく眺めていた。
「……同じ土で、同じ水で、これだけ違うのか」
その秋から、化学肥料の本格的な配布が始まった。
皇国直轄地から順に、傀儡国の農村へと配布範囲を広げていった。
農業指導員が各農村を回り、使い方と使用量を説明した。
最初は半信半疑で受け取る農民が多かった。
しかし一作目の収穫が終わると、状況が変わった。
モンデブーレの農村、ヴァロワ村。
農夫のピエールは、収穫した麦の山を前に立っていた。
五十年近く農業をしてきた。
凶作の年も豊作の年も経験した。
しかしこれだけの量が一度に取れたのは、生まれて初めてだった。
「なんだ、これは」
ピエールは隣の農夫に言った。
「俺の畑も同じだ」
隣の男が首を振った。
「例年の倍近くある」
「あの白い粉のせいか」
「そうとしか思えない」
ピエールは麦の穂を手に取った。
重かった。
粒が詰まっていた。
村の指導員が馬車で回ってきた。
若い男で、農務省から来たという。
「収穫はどうでしたか」
「見ての通りだ」
ピエールが言った。
「信じられないほど取れた。あの粉のおかげか」
「そうです。窒素肥料の硝酸アンモニウムです」
指導員が言った。
「植物の成長に必要な栄養を土壌に供給します。来年はさらに効果的な使い方を覚えると、もう少し増やせます」
「来年も使えるのか」
「はい。継続して供給します。価格は農務省が管理しますので、一般の農家が買える水準に設定します」
ピエールはしばらく黙った。
「……皇国に負けた時は、何もかも終わりだと思った」
ピエールはゆっくりと言った。
「でも」
指導員が静かに聞いていた。
「今年の収穫を見たら、終わりじゃなかったのかもしれない、と思い始めた。そう簡単に思えないが」
「そうですね」
指導員は答えた。
「来年も一緒に頑張りましょう」
ピエールは答えなかった。
ただ、手の中の麦穂を、もう一度見た。
化学肥料の普及が進むにつれ、農業生産量が急増した。
半年後の統計で、皇国直轄地の穀物生産量が前年比38%増となった。
傀儡国を含めた全域では31%増。
人口増加をカバーして余りある増産だった。
問題は価格だった。
物が増えれば値段が下がる。
穀物の卸価格が下落し始めた。
農村では「増産したのに収入が増えない」という声が上がり始めた。
ヘルマンが賢に報告を持ってきた。
「農民からの不満が出ています。生産量は増えたのに、価格が下がって手取りが思ったほど増えていないと」
「想定内です」
賢は答えた。
「二つ手を打ちます。一つは政府による買い上げ価格の設定。最低価格を保証することで、農民の手取りを安定させます。もう一つは余剰穀物の活用先の拡大です」
「活用先、とは」
「酒造、食品加工、飼料です。余った穀物を原料に、加工食品と畜産を増やす。肉と乳製品の生産が増えれば、市民の食事が豊かになります。加工工場が増えれば、農村周辺に雇用が生まれます」
ヘルマンが書類を広げた。
「酒造については既に申請が増えています。穀物が安くなったので、醸造所を増やしたいという業者が多いです」
「認可を進めてください。食品加工工場については、皇国が初期投資を支援する形で誘致します。農村近くに工場を建てることで、農産物の輸送コストを下げます」
「飼料の件は」
「牧畜の振興計画を別途作ります。余剰穀物を飼料に回して牛と豚の頭数を増やす。肉の供給が増えれば価格が下がり、一般市民が肉を食べやすくなります」
ヘルマンが書き留めながら言った。
「農業だけで終わらない話ですね」
「食料の増産は経済全体に繋がります。食料が安定すれば、工場労働者の生活コストが下がり、実質賃金が上がります。実質賃金が上がれば消費が増える。消費が増えれば工場の生産が増える。一つの変化が連鎖します」
試験農場での仕事を終えたヨハネスは、農業指導員の仕事を続けることになっていた。
最初は気が進まなかった。
農家として土を耕すことが自分の仕事だと思っていた。
農務省の仕事など、役人仕事だと思っていた。
しかし各農村を回るうちに、考えが変わった。
指導員として肥料の使い方を教え、収穫量が上がるのを見た。
農民の表情が変わるのを見た。
それは、自分が一人で耕すより、ずっと広い面積に影響を与えていた。
モンデブーレの農村を訪れた日、ピエールという老農夫と話した。
「来年はもう少し早めに肥料を撒くといい」
ヨハネスは言った。
「土に馴染む時間が必要だから、種を撒く三週間前には入れておくこと」
「分かった」
ピエールが頷いた。
「あんた、皇国の人間か」
「そうだ」
「モンデブーレが皇国に負けて、お前たちが来た」
ピエールはしばらく間を置いた。
「正直、良い気はしなかった。でも」
「でも?」
「こうやって一緒に畑のことを話していると、どこの人間か、あまり関係ない気もしてくる」
ヨハネスは何も言わなかった。
「農民は農民だな」
ピエールが続けた。
「どこにいても、同じ土を触って、同じ雨を待って、同じように実ることを祈っている」
「そうだな」
ヨハネスは静かに言った。
「そうだと思う」
二人は並んで畑を見た。
秋の陽が、収穫後の土に斜めに差していた。
カールは夕飯の席で、アンナが珍しいものを出していることに気づいた。
豚肉の煮込みだった。
「肉か」
カールが言った。
「どうした、今日は」
「市場で安くなってたの」
アンナが言った。
「前は週に一度だったけど、最近は値段が下がってきて、もう少し食べられそうで」
「そういえば」
カールはフォークを動かしながら言った。
「最近、食べものが安くなった気がするな」
「野菜も安くなってるよ。パンも少し値段が下がった」
「新肥料で農業が増産したからとかだったか?この前の新聞に書いてあったな」
「そうらしい。工場の奥さんたちも言ってたけど、同じ給料で前より食べられるようになったって」
上の子が肉を頬張りながら言った。
「おいしい!」
「そうか」
カールは子供の顔を見て、少し笑った。
アンナが言った。
「ベルフストに来た時、週に二回肉が食べられたらいいなって思ってたのよ。今は三回食べてる。気づかなかったけど、また良くなってるね」
「そうだな」
カールは頷いた。
急激な変化ではなかった。
しかし確かに、少しずつ食卓が豊かになっていた。
それは目に見えにくい変化だったが、毎日の食事の積み重ねの中で、じわりじわりと生活に滲み込んでいた。
化学肥料の製造設備が安定稼働に入った頃、ゴドフリーは次の設備の設計に移っていた。
賢から新しい課題が来ていた。
「農薬を作りたい。作物の病気と害虫を化学的に防除する。収穫量を増やすだけでなく、凶作のリスクを下げることが目的です」
「また新しい化学物質か」
ゴドフリーは呟きながら設計図を開いた。
この一年で、ゴドフリーの仕事は大きく変わっていた。
魔力機関炉から始まり、銃の製造設備、家庭用魔道具、化学肥料の製造器。次々と新しい課題が来た。
最初は戸惑いがあった。
魔道具師として三十年、特定の分野を深めてきた。
それが今は、全く異なる分野を次々と設計している。
しかし慣れてきた頃に気づいていた。
根本は同じだ、と。
魔力をどう変換するか。
素材をどう組み合わせるか。
目的に向けて最適な構造を作るか。
分野が違っても、考え方の骨格は変わらない。
賢の持ち込む課題は、いつも異なる形をしているが、同じ論理の延長線上にあった。
「農薬か」
ゴドフリーはペンを取った。
「この男は、どこまで考えているのだろうな」
誰に言うでもなく呟いた。
設計図に線を引き始めた。
春の統計が上がってきた。
穀物生産量、前年比41%増。
農村部の平均収入、前年比28%増。
食料品の消費者物価指数、前年比8%低下。
肉類消費量、前年比32%増。
賢は数字を確認し、次の計算に移った。
人口は増え続けている。
領土が広がれば、養うべき人間の数も増える。
食料の安定供給は、これから始まる更なる領土拡大の前提条件だった。
腹が減った民は戦えない。
腹が満ちた民は働く。
働く民は消費する。
消費する民は税を生む。
税は軍を動かす。
軍が動けば領土が広がる。
広がった領土に肥料を撒けば食料が増える。
一つの輪が、静かに回り始めていた。
ドアがノックされた。
オットーだった。
「統計を見たぞ」
老宰相が言った。
「農業生産の数字、想定より良い結果だな」
「はい」
「農民の反応も悪くない。最初は半信半疑だったが、収穫を見て変わったと各地から報告が上がっている」
「信用は結果が作ります」
オットーが椅子に座った。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「化学肥料を広める時、他の所の農民にも同じように配布した。アルクハインの農民も、モンデブーレの農民も、皇国の農民と同じ扱いだ。それは」
老宰相は言葉を選んだ。
「彼らを本当に豊かにしたいと思っているのか。それとも、統治の安定のためか」
賢はしばらく考えた。
「どちらでもあります」
賢は静かに答えた。
「支配地の農民が豊かになれば、皇国への反感が薄れます。反感が薄れれば統治コストが下がります。それは合理的な計算です」
「ただ」
賢は続けた。
「計算と、豊かにしたいという目的は、矛盾しません。どちらが先かという問いは、あまり意味がないと思います。結果として豊かになるなら、理由がどちらであっても、豊かになった事実は変わらない」
オットーが静かに賢を見た。
「……お前らしい答えだ」
「そうですか」
「感情と論理を、お前はいつも同じ重さで扱う。どちらかに偏らない」
「偏る余裕がありません」
賢は静かに言った。
「どちらかだけで動くと、判断が歪む」
オットーは少し間を置いてから立ち上がった。
「良い仕事をしている」
老宰相は言った。
珍しく、素直な言葉だった。
「ありがとうございます」
オットーが部屋を出た。
秋の夕暮れに、ベルフストの煙突が煙を上げていた。
その煙の中に、化学肥料の製造設備の煙も混じっていた。
軍需から始まった化学技術が、今は畑に白い粉として降りていた。
戦争のための技術が、食卓の肉を増やしていた。




