第16話 凪の季節
モンデブーレとの戦争が終わって2ヶ月が経った頃、賢は執務室で一枚の計算書を完成させた。
数字が整然と並んでいた。
メフォ票の流通残高。
軍需工場の生産能力。
民間需要の成長曲線。
皇国直轄地と傀儡国を合わせた市場規模。
鉄道網の延伸による流通コストの変化。
農業機械化による農村購買力の増大。
賢は計算書を最初から最後まで確認し、ペンを置いた。
時期が来た。
翌朝、オットーを呼んだ。
「メフォ票の新規発行を停止します」
老宰相が目を上げた。
「……今、か。」
「今です。既存の流通分は3ヶ月かけて順次償還します。
軍需工場の発注を段階的に民需に切り替え、同時期に消費財の関税を引き下げて民間需要を喚起する。
鉄道と運河の整備に国債を切り替え、長期の社会インフラ投資として経済を支える柱にします」
オットーが計算書を手に取り、ゆっくりと読んだ。
「……メフォ票を停止して、民間需要だけで経済を支えられるか」
「今なら支えられます」
賢は答えた。
「モンデブーレの市場が加わりました。併合したアルクハインも合わせて、1年半前の皇国単独の市場の5倍以上になっています。民間の消費力が、軍需の穴を埋められる水準に達しています。これ以上メフォ票を続ければ、逆に歪みが大きくなりすぎます」
「民間への移行で、一時的な落ち込みは」
「あります。軍需工場の生産量が落ちる分、数ヶ月は数字が鈍化します。しかしインフラ投資と消費拡大で半年以内に吸収できます」
オットーが計算書を机に置いた。
「……最初からこの時期を計算していたのか」
「はい」
「メフォ票を始めた時から?」
「始める前から」
賢は静かに言った。
「産業革命の初期に必要な資本を軍需で供給し、市場が自立できる規模になった時点で民需に切り替える。その転換点を1年半と見ていました。ほぼ計算通りです」
オットーはしばらく黙っていた。
「……恐ろしい男だな」
老宰相はやがて静かに言った。
「褒めているのか貶しているのか、自分でも分からないが」
「どちらでも構いません」
賢は答えた。
「準備を始めてください」
それから3ヶ月後。
夜明け前のベルフストに、いつも通り魔力機関炉の煙が上がった。
カールは目を覚まし、身支度をして工場に向かった。
石畳を踏む足取りは変わらない。
顔見知りの労働者たちとすれ違い、いつもの挨拶を交わす。
屋台のパン屋が店を開け始めていた。
工場の門をくぐり、持ち場に着いた。
三台の織機を確認する。
糸の張り、布の目、機器の状態。
全て問題ない。
マティアスが隣の持ち場に来た。
「おはよう、カール」
「おはよう」
いつも通りの朝だった。
しかし、何かが少し違う気もした。
カールは手を動かしながら、その違和感の正体を考えた。
仕事の量が、少し落ち着いた気がする。
2ヶ月ほど前まで、工場長が毎日「目標を増やせ」と言っていた。
残業が続く週もあった。
しかし最近は残業が減り、目標の数字も以前ほど上がらなくなっていた。
悪くなったわけではない。
給料は変わらず入る。
仕事はある。
生活に困っているわけでもない。
ただ、あの頃の勢いが、少し落ち着いた。
「マティアス」
カールは言った。
「最近、工場の感じが落ち着いたと思わないか」
「ああ」
マティアスが織機を確認しながら答えた。
「前は毎月目標が上がってたのに、最近は横ばいだな。何かあったのか」
「さあ」
「まあ、仕事はあるし、給料も出てるし、いいんじゃないか」
「そうだな」
カールはそう答えながら、しかしその違和感を完全に消化しきれないまま、手を動かし続けた。
ルーカスは、2ヶ月前に下士官学校を修了していた。
工場での仕事を続けながら夜間の課程に通い、半年かけて卒業した。
今は銃兵師団の下士官として、訓練を受けながら次の配属を待っていた。
給料は工場の時の倍になった。
しかし最近、不思議な感覚があった。
軍の発注が落ち着いているせいか、工場にいた頃の仲間たちが残業の話をしなくなったと聞いていた。
給料は変わらないが、ボーナスが少し減ったという話も聞こえてきた。
工場で同期だったニコラスが、先週会いに来た。
工場をやめて転職したという。
「どこに行ったんだ」
とルーカスが聞くと、
「鉄道の工事だ」
とニコラスが答えた。
「アルクハインとモンデブーレを繋ぐ路線の建設が始まってて、そっちの方が今は仕事が多い」
「給料は?」
「工場とほぼ同じだ。でも仕事の種類が面白い。橋を架けたり、トンネルを掘ったり」
ルーカスはその話を聞きながら、工場にいた頃を思い出した。
部品を削り出す仕事は確かに面白かった。
しかし今は軍にいる。
次の戦争があれば実戦に出ることになる。
怖くないと言えば嘘だった。
しかしルーカスは、自分が軍にいることを後悔していなかった。
工場の仕事も軍の仕事も、この国を動かすための歯車の一つだと思っていた。
自分がその一部であることに、奇妙な誇りがあった。
ゴドフリーは最近、仕事の種類が変わっていた。
軍需の工業用魔力機関炉改良から、民生用の魔道具開発に軸足が移っていた。
きっかけは3ヶ月前に賢から呼び出された時だった。
「家庭用の魔道具を設計してほしい」
賢が言った。
「照明、調理、空調。一般の市民が買える価格帯で、使いやすいものを。だれでも使えるように、魔力がない人でも扱えるものを優先してください」
「軍需ではないのか」
ゴドフリーが聞くと、賢は
「当面は民生品が優先です」
と答えた。
ゴドフリーは少し意外に思いながら、しかしその仕事に面白みを感じていた。
軍の魔力機関炉は大きく、複雑で、精度が命だった。
しかし家具となると、まったく違う制約がある。
小さく、安く、壊れにくく、誰でも使えること。
その制約の中で最善を絞り出す作業が、職人としての血を騒がせた。
試作品の家庭用照明器が完成した時、ゴドフリーはそれを自分の作業場に置いてみた。
スイッチを入れると、柔らかい光が部屋を満たした。
ろうそくより明るく、均一で、煙が出ない。
「……悪くないな」
ゴドフリーは一人で呟いた。
軍の装備を作っている時には感じなかった満足感が、そこにあった。
ある夜、カールは帰宅すると、アンナが珍しく神妙な顔をしていた。
「どうした」
「ちょっと、話があって」
アンナが言った。
「工場の奥さん仲間と話したんだけど、最近ボーナスが減ったっていう家が多くて」
「うちも少し減ったな」
カールは靴を脱ぎながら答えた。
「でも基本給は変わらない」
「そうなんだけど」
アンナが少し考えながら言った。
「みんなで話してたら、なんでだろうって。前はどんどん良くなってたのに、最近は横ばいじゃないかって」
「落ち着いてきたんじゃないか」
カールは椅子に腰を下ろした。
「ずっと急いで上がり続けるわけじゃないだろ」
「そうかな」
「そうだと思う」
カールは言った。
「給料は出てる。仕事はある。子供たちは学校に行ってる。困ってることは何もない」
「うん、それはそう」
アンナが頷いた。
「困ってるわけじゃない。なんとなく、前の勢いがなくなった気がして、そわそわするのかな」
「慣れたんだろ」
カールは静かに言った。
「初めてここに来た時は、全部が驚きだったけど、今はこれが普通になった。普通になったら、急に良くなることへの驚きも減る」
アンナがしばらく考えた。
「そういうものかな」
「そういうものだ」
上の子が部屋から顔を出した。
「お父さん、帰ってたの? 今日学校で面白いことがあって」
「なんだ、聞かせてくれ」
カールは子供の話を聞き始めた。
ボーナスの話は頭から離れていった。
週末の夜、労働者街の酒場にカールとマティアスと、工場仲間が数人集まっていた。
杯を傾けながら、自然と話題が仕事のことになった。
「なあ、最近仕事の量が落ち着いたのはなんでだろうな」
マティアスが言った。
「軍の発注が減ったんじゃないか」
仲間の一人が言った。
「戦争が一段落したから」
「でも給料は変わらないしな」
別の者が言った。
「まあ、いいんじゃないか」
「鉄道の工事は逆に増えてるらしいぞ」
マティアスが言った。
「うちの弟が工事現場に移ったけど、今は仕事がたくさんあるって言ってた」
「軍の仕事から鉄道に移ったのか」
「そういうことらしい。橋とかトンネルとか、大きな工事が各地で始まってるって」
「鉄道か」
カールが杯を傾けた。
「モンデブーレまで繋がったら、便利になるな」
「そしたら物の値段が下がるかもしれない」
「それはいいな」
話題は自然に移っていった。
最近の食材の値段、子供の学校の話、隣の棟の住人が引っ越したこと。
誰も、不安の声を上げなかった。
ただ一人、年配の鍛冶師がいつも通り隅の席で静かに飲んでいた。
カールがふと目を向けると、老人は窓の外の煙突を見ていた。
「どうしました、おじさん」
カールが声をかけた。
「いや」
老人が杯を置いた。
「なんとなくな。最近、街の勢いが少し変わった気がして」
「悪くなりましたか」
「悪くはない」
老人は静かに言った。
「ただ、前は毎月何かが変わってた。今は、少し落ち着いた感じがする。それが良いことなのか、そうでないのか、よく分からなくてな」
「落ち着くのは、良いことだと思いますよ」
カールは言った。
「そうかもしれんな」
老人は杯を持ち上げた。
「まあ、仕事があって飯が食えれば、文句は言えない」
「ですね」
杯が合わさった。
酒場に、笑い声が続いた。
翌朝、オットーは城下を歩いていた。
老宰相が一人で街に出ることは珍しかった。
しかし今日は、侍従を断って徒歩で出てきた。
目抜き通りを歩いた。
商店が並び、屋台が開き、人が行き来していた。賑やかさは変わらない。
しかし確かに、何かのトーンが変わっていた。
数ヶ月の熱気は、少し落ち着いていた。
凱旋の時の高揚感や、工場が次々と建った頃の驚きは、日常に変わっていた。
それは成熟であり、安定だった。
オットーは労働者街の外れの食堂に入った。
朝飯時で、工場帰りの夜番の労働者と、これから出勤する者が混在していた。
パンとスープが運ばれ、人々が黙々と食べていた。
会話の断片が耳に入った。
「……今月の給料日はいつだっけ」
「20日だ。今月から鉄道手当が加算されるって話だけど」
「本当か。少し上がるかな」
「さあ。でも仕事があるだけいい」
オットーは静かに朝食を取りながら、その会話を聞いていた。
不満はなかった。
恐怖もなかった。
ただ、普通の朝があった。
それが、あの男の計算の結果なのだと思うと、オットーは複雑な気持ちになった。
民が普通に生きている。
それ自体は良いことだ。
しかしその普通が、精緻な設計の上に置かれているという事実を、民は知らない。
知る必要があるのか、と問われれば、ないとも言える。
しかし知らないまま生きていることを、良いことだとも言い切れなかった。
オットーは食堂を出た。
秋の空に、工場の煙が上がっていた。
いつも通りの煙が、いつも通りの空に溶けていた。
その夜、賢は執務室で新しい計算書を書いていた。
メフォ票の償還は予定通り完了していた。
軍需から民需への移行も、想定の範囲内で進んでいた。
一時的な数字の鈍化は3ヶ月で底を打ち、鉄道投資と消費拡大が支えとなって緩やかな回復に転じていた。
数字は正直だった。
急成長の時期は終わった。
しかし崩壊はしなかった。
設計した通り、安定成長の軌道に乗った。
急成長から安定成長へ。
その移行期に人が感じる微かな落ち着きのなさ。
それを社会の混乱に発展させず、個人の「なんとなく」の違和感に留めるには、移行の速度と規模を精密に管理する必要があった。
速すぎれば不況になる。
遅すぎれば歪みが蓄積する。
賢は三年前から、今日のこの違和感の大きさを計算していた。
違和感を少しだけ残したまま、街は眠っていた。
設計通りの、静かな夜だった。




