第10話 祝祭の影
アルクハイン公国との戦争が終わって五日後、皇国軍の先頭部隊がベルフストに帰還した。
城門から目抜き通りにかけて、人が溢れていた。
沿道に立ち並んだ市民が、声を上げて兵士たちを迎えた。
花びらが石畳に撒かれ、子供たちが旗を振り、老人が目に涙を浮かべた。
工場帰りの労働者、商人、貴族、農村から見物に来た者。
身分も年齢も関係なく、人々が一つの興奮を共有していた。
二週間。
たった二週間で公国を制圧した。
それがどれほどの快挙かを、市民は肌で感じていた。
「すごい、見ろよ!」
カールが人混みの中で子供を肩車しながら叫んだ。
横でマティアスが口笛を吹いた。
工場の仲間が十数人、連れ立って凱旋を見物に来ていた。
「銃を持った兵士ってのが、あれか」
マティアスが目を細めた。
「俺たちが作った部品が入ってるんだろ、あの銃に」
「そうだ」
カールは誇らしい気持ちで言った。
「俺たちの仕事が、戦争に勝ったんだ」
行列の中ほどに、颯人たちクラスメイトの姿があった。
馬上の颯人が沿道を見渡すと、市民が一際大きな歓声を上げた。
召喚された英雄たちの活躍は、すでに城下に広まっていた。
公国軍の前線を一人で突き崩した剣の英雄、無詠唱で竜騎兵を仕留めた大賢者、いかなる攻撃も受け止めた鉄壁の盾。
尾鰭のついた噂が酒場から工場の食堂まで駆け巡り、クラスメイトたちはいつの間にか英雄譚の主人公になっていた。
颯人は居心地悪そうに、しかし沿道の子供たちには笑顔を向けていた。
行列の最後尾の方に、賢が馬に乗っていた。
市民の視線は颯人や他のクラスメイトに集まり、賢に向けられる歓声は少なかった。
名前が知れ渡っていないわけではない。
しかし|見たこともないような武器《現代の銃》を持った小柄な男が、特別に派手な戦いをしたという噂は広まりにくかった。
賢は沿道の喧騒を静かに眺めながら、馬を進めた。
歓声が自分に向かうかどうかに、興味はなかった。
凱旋の夜、城下の酒場は満員だった。
ルーカスとニコラスは、工場仲間の数人と連れ立って、労働者街近くの安酒場に入った。
普段は混んでいても席があるその店が、今夜は立ち見が出るほどの人で埋まっていた。
「乾杯だ!」
誰かが叫び、店全体がそれに合わせてジョッキを上げた。
「アルクハインを二週間で落とした!」
「ゲールアライヒ皇国万歳!」
「英雄様万歳!」
「皇帝陛下万歳《Heil der Kaiser》!」
ニコラスが上機嫌でルーカスの背を叩いた。
「なあ、公国が皇国になったってことは、向こうにも工場が建つんだろ? 仕事が増えるんじゃないか」
「そうらしい」
ルーカスが言った。
「工場長が言ってた。アルクハイン向けの農具の注文が入ったって。新しい生産ラインを増設するかもしれないって」
「給料、また上がるかな」
「上がるんじゃないか。最近ずっと上がってるし」
その会話が、隣の席の年配の男の耳に入った。
「若いっていいな」
男がぼんやりと言った。
「俺が若い頃は、こんな夜はなかった」
ルーカスが振り返った。
五十がらみの男で、顔に深い皺が刻まれていた。
古い職人の外套を着ている。
「ご職業は何ですか」
「鍛冶師だ。昔は武器を打っていた。今は工場に飲み込まれちまったが」
男が杯を傾けた。
「まあ、今の方が儲かるしな。文句は言えない」
「いい時代ですよね」
ニコラスが言った。
「戦争に勝って、工場は増えて、飯も食えて」
男がしばらく黙った。
「そうだな」
それだけ言って、また杯を傾けた。
ルーカスにはその返事が、少し違う響きを持って聞こえた気がしたが、すぐに周囲の歓声に掻き消された。
凱旋の三日後、賢は執務室でオットーと向き合っていた。
机の上に、最新の経済統計が広げられていた。
「工業生産高は先月比でさらに30%増加だ」
オットーが羊皮紙を指した。
「アルクハイン向けの復興物資の受注が急増したことと、軍の補充物資の追加発注が重なっている。税収も過去最高を更新した」
「国債の発行残高は」
オットーが一瞬、表情を固くした。
「……2ヶ月前の3倍になっている」
賢は数字を見た。
黙ったまま別の書類を手に取った。
「メフォ票の残高は」
メフォ票。
正式名称を皇国軍需金融証書という。
賢が設計した金融商品で、表向きは政府が発行する短期債券だ。
工場が軍の発注を受けた際、代金を即座に現金で支払う代わりに、この証書で支払う。
工場はその証書を担保に銀行から融資を受けることができ、国の財政には直接負担が出ない仕組みだ。
戦争が続き、軍の発注が増え続ける限り、工場は証書を換金し続けられる。
工場の資金繰りは回り、銀行も融資を続ける。
経済は好調に見える。
しかし軍の発注が止まった瞬間、証書は紙切れになる。
工場は融資を返せなくなる。
銀行が連鎖的に傾く。
「三ヶ月分の証書が、市場に流通している」
オットーが静かに言った。
「今のところ信用は保たれている。工場も銀行も、軍の発注は続くと信じている」
「信じているから回っています」
賢は言った。
「続く限り、問題はありません」
「続かなくなったら?」
「続かせます」
オットーがじっと賢を見た。
「……次の戦争で、ということか」
「経済を戦争に依存させたのは意図的です」
賢は静かに言った。
「産業革命初期の工業生産力を最大限に引き出すには、大規模な発注者が必要でした。
民間需要だけでは成長が遅い。軍需が経済の牽引役になることで、工業化を加速させた」
「分かっている」
オットーが言った。
「私もその設計に乗った。しかし、これは」
老宰相が書類を静かに置いた。
「工場で働く者たちは、このことを知らない」
「知る必要はありません」
オットーが低く言った。
「昨夜、凱旋の夜に酒を飲んで、子供を肩車して笑っていた者たちのことだ。
彼らは経済が順調だと信じて、未来を信じて働いている」
「信じていてもらっていいです。実際に生活は良くなっている。嘘ではありません」
「しかし、その基盤が」
「崩れないようにします」
賢は遮った。
「そのために次を動かす。モンデブーレ王国との問題は早晩表面化します。その前に、こちらから条件を有利に整えます」
オットーは窓の外を見た。
ベルフストの街に工場の煙が上がっていた。
「……戦争をやめられない経済を作ったわけか」
老人が静かに呟いた。
「意図して」
「意図してです」
賢は答えた。
「産業革命の初期に必要な規模の投資を民間だけで賄うことはできない。
軍需で工業化を加速し、工業力が自立できる水準に達したら、民需に切り替える。その過渡期です。
今はまだ、戦争が必要な段階です」
オットーがゆっくりと賢の方を向いた。
「過渡期はいつ終わる」
「2年以内に」
老宰相はしばらく黙っていた。
やがて静かに立ち上がった。
「……分かった」
そう言ったきり、それ以上は何も言わなかった。
その頃、カールは夜の労働者街を歩いていた。
残業を終えた帰り道で、隣にはアンナがいた。
子供たちは学校の友人の家に泊まっており、夫婦だけで夕飯を食べに出てきていた。
凱旋の喜びがまだ街に残っており、目抜き通りの屋台には灯りが並んでいた。
「ねえ」
アンナが歩きながら言った。
「何だ」
「ベルフストに来て良かったって、本当に思う」
「ああ」
「村にいた頃はさ」
アンナが続けた。
「来年の収穫がどうなるかって、毎年怖かったじゃない。
でも今は毎月決まった日に賃金が入る。子供の学校も無料で、先生が丁寧に教えてくれる。こんな生活、想像もしてなかった」
カールは石畳を踏みしめながら頷いた。
「俺もだ」
「これが続くといいね」
「続くさ」
カールは言った。
「工場の仕事はまだまだ増えそうだって工場長も言ってた。公国の方にも工場が建つらしいし、新しい鉄道もできるし。当分は仕事に困らないはずだ」
「そうだよね」
アンナが柔らかく笑った。
屋台の明かりの下を、二人は並んで歩いた。
焼いた腸詰めの匂いが漂い、カールは二本買ってアンナに一本手渡した。
「子供たちも大きくなってきたしな」
カールが言った。
「上の子は字の覚えが早いって先生に言われた。勉強を続ければ、俺たちより良い仕事に就けるかもしれない」
「そうなれるといいな」
「なれる。今の皇国なら、なれる気がする」
カールは心の底から、そう思っていた。
工場の煙突から上がる煙が、夜空に溶けていくのを見上げた。
あの煙が自分たちの生活を支えていると、カールは信じていた。
疑う理由は、どこにも見当たらなかった。
酒場の帰り道、ルーカスは一人で夜の通りを歩いていた。
ニコラスたちとは途中で別れ、労働者街の外れに借りた小さな部屋へ向かっていた。
17歳、独り身の部屋は狭かったが、農家の四男として育った自分が一人で部屋を持てていること自体、一年前には想像できなかった。
歩きながら、考えていた。
工場での仕事は面白かった。
最初は単純な削り作業だと思っていたが、慣れるにつれて精度の追求が楽しくなってきた。
自分が削り出した部品が、正確に組み合わさって銃になる。
その銃が戦争で使われ、皇国が勝った。
そのことが、奇妙な誇りとして胸にあった。
工場長から、先週声をかけられた。
「お前、下士官学校の志願制度を知っているか。工場勤務者でも志願できる。試験に受かれば、給料は今の倍になる」
軍に入ることへの怖さはある。
しかし今の皇国軍は強かった。
公国を二週間で落とした。
そう簡単に死ぬようには思えなかった。
それに賃金が倍になれば、もう少し広い部屋に移れる。
いつか所帯を持つ時のために、貯金もできる。
ルーカスは夜空を見上げた。
星が出ていた。
農村にいた頃も同じ星を見ていた。
しかしあの頃と今では、自分の立っている場所が違う気がした。
あの頃の星は、ただ遠かった。
でも今は、手が届きそうな気がした。
明日、工場長に志願の詳細を聞いてみようと、ルーカスは思った。
夜も更けた頃、ゴドフリーは作業場に一人で残っていた。
次の魔力機関炉の改良設計に取り掛かっていたが、手が止まっていた。
机の上に、一枚の書類があった。
"皇国軍需金融証書"
メフォ票と呼ばれているものだ。
今月の工場への支払いの一部として、現金の代わりに渡されていた。
銀行に持っていけば換金できると説明された。
実際に換金できた。
問題はなかった。
しかし、ゴドフリーは長年の職人の勘で、何かが引っかかっていた。
あの福神賢という男が設計した仕組みだ。
あの男が設計するものに、意味のないものはない。
全てが何かに向かって組み合わさっている。
魔力炉、工場、銃、軍のドクトリン改革、諸侯の取り込み、そしてこのメフォ票。
一つひとつを見れば、どれも理にかなっている。
しかし全部を並べると、一つの方向を向いているように見えた。
戦争が続くことを前提にした設計。
ゴドフリーは書類をそっと引き出しの中にしまった。
考えすぎかもしれない。
自分は魔道具師であって、政治家でも経済学者でもない。
賢のような頭のある男が、ちゃんと考えた上でやっていることだろう。
そう思いながら、しかし引き出しの中の書類が気になり続けた。
ゴドフリーは設計図に向き直り、ペンを走らせ始めた。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせながら。
夜中の二時を過ぎた頃、執務室の明かりはまだ消えていなかった。
賢は書類の束を前に、計算を続けていた。
メフォ票の流通残高。
軍需工場の生産能力。
次の作戦に必要な物資量。
モンデブーレ王国との国境の情勢。
諸侯の参加状況と残る不満分子の動向。
外交情報の断片。
数字を並べると、猶予はそう長くないことが見えた。
メフォ票の信用を維持するには、軍の発注を継続させる必要がある。
発注を継続するには、軍需物資を消費する場所が必要だ。
つまり次の戦争が必要になる。
賢はその構造を、最初から分かった上で設計していた。
産業革命の初期に必要な大規模投資を民間だけで賄うことは不可能だった。
軍需を牽引役にして工業化を加速させ、その過程で生産技術と人材が育ち、やがて民需が自立する。
歴史上の産業革命国家の多くが、意図的かどうかに関わらず、似たような経路を辿った。
問題はその過渡期に、どれだけ多くの者が信じて働いてくれているかだ。
親が子供を肩車して笑っていた。
青年が仕事に誇りを持っていた。
工場の煙突が煙を上げ続けていた。
その全てが、賢の設計した構造の上にある。
感傷を持つつもりはなかった。
しかし今夜だけは、少しだけ、その重みを感じた。
賢はペンを置き、窓の外を見た。
夜のベルフストに、工場の明かりが点々と灯っていた。
眠らない街が、祝祭の余韻の中で動き続けていた。
――二年以内に、民需で自立させる。
それが守れなければ、今夜笑っていた者たちが、その代償を払うことになる。
賢は再びペンを取り、次の計算に向かった。
「王国...どうやって戦争までもっていくか...」
夜は長かった。




