図書室の妖精は、道化を演じる勇者に涙する
小鳥遊詩織は、教室の入り口の壁に半分身を隠しながら、胸に抱いた分厚い本をそっと抱きしめていた。
丸眼鏡の奥にある彼女の瞳は、教室の後ろで繰り広げられている奇妙な光景に釘付けになっていた。
「あはははっ! 何それ天城くん、めっちゃウケるんだけど! もっと足開くの!?」
「いや、星野さんこそ動きが硬いって。ここはもっとスッ、スッ、と風の抵抗をなくすようにだな……」
クラスの中心人物である派手なギャル、星野リカ。
そして、その隣で「残像ステップ」なる謎の横歩きダンスを真面目な顔で踊っている少年――天城カイト。
周りの生徒たちも「天城って案外ノリいいんだな」と笑いながら二人を眺めている。
……しかし、詩織の目には、その光景が全く違って見えていた。
(天城くん……。貴方はどこまで、お優しい方なのでしょうか……)
詩織は、図書室で彼が見せた神業を忘れてはいない。
自分に降り注ぐはずだった暴力的な質量の段ボールの山を、まるで見えない力でふわりと空中で受け止め、一瞬にして元通りに積み直してしまったあのお姿。
そして今日の体力テストで見せた、空を飛ぶような跳躍と、古の武術のような残像。
彼は間違いなく、一騎当千の力を持つ『本物の英雄』だ。
そんな圧倒的な力を持つ彼が、なぜ今、星野リカに合わせて道化のようなダンスを踊っているのか。
物語を愛する詩織の脳内では、その答えはとうの昔に導き出されていた。
(強大な力を持つ方が、あえて滑稽な振る舞いをされている……。ご自身の力を隠し、周囲に恐怖を抱かせないための、悲しくも優しいお気遣いなのですね……)
詩織の目には、謎のステップを踏むカイトの姿が、『平和を守るために自らの尊厳を犠牲にしてピエロを演じる、気高き勇者の舞』として映っていた。小さく、熱を帯びたため息が漏れる。
しかし、詩織の鋭い観察眼は、教室の隅に渦巻く『冷たい感情』にも気がついていた。
「……くそっ、なんであんな陰キャが星野さんと……」
「許せねぇ……絶対に許せねぇぞ天城……ッ!」
クラスの男子たちの嫉妬と悪意に満ちた視線が、一斉にカイトへと突き刺さっている。
詩織は、胸が締め付けられるような思いで眉を下げた。
(……あんなにも鋭い悪意を向けられているのに。天城くんは、微塵も気になさっていないのですね……。ご自身の名誉を傷つけてまで、この教室の日常を守ろうとされているなんて……)
普通なら萎縮してしまうほどの視線を浴びながらも、カイトは穏やかな笑みを浮かべている。(※本人は本当に嫉妬に気づいていないだけである)
すべてを背負い込むその背中が、詩織には痛々しいほど尊く見えた。
「……ん?」
その時、ふとカイトが教室の入り口の方に視線を向けた。
壁の陰から見つめていた詩織と、ふいに目が合ってしまう。
「あっ……」
詩織はビクッと肩を揺らし、頬をほんのりと赤く染めて俯いた。
見られていた。あんな尊い自己犠牲の舞を、陰から覗き見していたなんて。
しかし、カイトは全く嫌な顔一つせず、詩織に向かって小さく手を振り、ニコッと『人畜無害な笑顔』を向けてくれた。
トクン、と。
詩織の胸の奥で、静かに、けれど確かに大きな音が鳴った。
(『僕のことは気にしなくていい。君は君の日常を生きて』……そんな、お声が聞こえた気がしました)
詩織は本を胸に抱いたまま、カイトに向かって深く、恭しく一礼をした。
(私、誰にも言いません。天城くんが本当は、世界で一番強くて優しい勇者様だということ……。私だけは、ずっと遠くから見守らせていただきます……)
胸がいっぱいになった詩織は、靴音を立てないように静かに、けれど足早にその場を立ち去っていった。
◆
一方、教室に残された俺は、小走りで去っていく詩織の背中を見送りながら、ホッと胸をなでおろしていた。
「よし……! 図書委員の小鳥遊さん、俺が星野さんと変なダンス踊ってるのを見て、呆れたように会釈して帰っていったな。『天城くんって、ただの変な男子だったんだ』って安心(?)してくれたみたいだ」
これで完全に「ちょっとお調子者のモブキャラ」としての地位を確立できたはずだ。
俺はリカの「ちょ、どこ見てんの天城くん! ステップ遅れてる!」という声に「ごめんごめん!」と笑い返し、完璧な自重計画の成功に酔いしれていた。
……もちろん、彼女が自分を『悲劇の聖騎士様』として脳内神格化し、静かに忠誠を誓っていたことなど、100年の戦闘経験をもってしても微塵も予測できていないのだった。
◆
――同刻。
カイトが平和な放課後を謳歌していた頃、東京の中心部では、かつてない規模の異常事態が静かに進行していた。
先月オープンしたばかりの、国内最大級の複合商業施設『東京メガモール』。
週末を控えて数万人の買い物客で賑わうその巨大な建造物の周囲に、突如として数十台の黒い大型バンが乗り付けた。
中から降りてきたのは、漆黒のタクティカルギアに身を包み、重火器で武装した数百名にも及ぶ正体不明の集団。
彼らは一切の躊躇なくモールの全エントランスを制圧し、防弾仕様の巨大なシャッターを次々と下ろしていく。
「きゃあああああっ!?」
「な、なんだこいつら!? 銃を持ってるぞ!!」
逃げ惑う人々の悲鳴と怒号が響き渡る中、メガモールは完全に外界から遮断された。
黒田邸の地下モニター室。
並べられた複数のディスプレイが、一斉に真っ赤な『WARNING(警告)』の文字に染まる。
キーボードを叩く凛の表情から、いつもの冷静さが消え失せていた。
「……お祖父様。最悪の事態です」
「どうした、凛」
葉巻を手にした黒田宗一郎が、険しい顔でモニターを見上げる。
「東京メガモールが、正体不明の完全武装グループに占拠されました。内部の通信は完全に遮断され、人質の数は……推定で、五千人を超えます」
凛の冷たい声が、地下室に重く響き渡る。
「警察の特殊部隊(SAT)も出動要請を受けていますが、敵の武装レベルが異常です。通常のテロリストではありません……持ち込まれた重火器の数、そして統率力。まるで『軍隊』です」
黒田がギリッと奥歯を噛み締めた。
「五千人の人質に、軍隊規模のテロリストだと……。警察の手には負えんぞ。最悪の場合、国内最大の惨事になる」
モニターに映し出される、完全に封鎖された巨大な絶望の箱。
圧倒的な暴力と恐怖が、現代の平穏を食い破ろうとしていた。
「……カイト様を、呼んでまいりましょうか」
未曾有の危機が、平和を愛する元・勇者の日常に牙を剥こうとしていた――。




