砂場を越える英雄と、無自覚な女神たちの泥まみれカモフラージュ
異世界魔大陸から帰還して数ヶ月。
俺、天城カイトの『一般人擬態ライフ』は、自分でも驚くほど完璧に、そして順調に進んでいた。
今日も教室の自分の席に座れば、周囲の男子生徒たちから熱烈な視線を感じる。……ふっ、わかるぞ。俺の「どこにでもいるモブキャラ」としての究極のオーラが、このクラスの平和な調和を保っていることに、みんな感謝しているんだろう。
――しかし、現実は全く違っていた。
(……おい見ろよ、今日も天城の野郎、あの三人に囲まれてやがる)
(学園トップカーストの星野さんに、孤高の剣士の神宮寺さん、図書室の天使の小鳥遊さん……。俺たちの三大女神が、なんであんなモブ男の機嫌を取るみたいに群がってんだよ……っ!)
(昨日も黒田グループの超高級車で送迎されてただろ? どんな前世の徳を積めばあんなハーレムになるんだよ……マジで爆発しろ……!)
男子生徒たちの血を吐くような嫉妬と怨嗟の叫び。
だが、100年の死線を潜り抜け、殺意以外の感情(嫉妬など)を感知する機能がポンコツになっている俺の耳には、そんな声は微塵も届いていなかった。
「天城くーん! 次の体育、走り幅跳びだって! 楽しみだね!」
俺の右腕に、星野リカがこれでもかと胸を押し付けながら体重を預けてくる。甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「星野さん、学校では節度を持ちなさい。天城くんが困っているでしょう」
そう言いながらも、神宮寺ナギサは自分の制服の裾を整え、俺の左側という特等席をキープして離れない。
「あ、あのっ……天城くん、体操着、忘れてないですか……?」
小鳥遊詩織は、顔を真っ赤にしながら俺の背中側にトコトコとついてくる。
うん、今日も争いのない、平和そのものの日常だ。
◆
校庭での体育。走り幅跳びの計測時間。
俺は列に並びながら、脳内で緻密な物理計算を行っていた。
(よし。前の奴が3メートル。その前の陸上部の奴が5メートル強か。……ならば、『一般人』の男子高校生として悪目立ちせず、かつ手を抜いているようにも見えない完璧な数字は、だいたい4メートル50センチのはずだ)
魔大陸での100年間、俺の筋肉は常に120%の致死出力を出すように調教されてきた。その出力を、わずか0.001%以下の「一般人レベル」にまで抑え込む。……これは、魔王の首を刎ねるよりも遥かに高度な、精神と肉体の精密操作を要求される極秘ミッションなのだ。
「次、天城ー! 跳べー!」
体育教師の気の抜けた合図。俺は助走を始めた。
踏み切り板を意識し、太ももから膝のバネにかけての出力を極限まで……「抜く」。
(――あ、しまった。ちょっと膝の『溜め』が残ってたかも)
ドォォォォォンッ!!!
俺が踏み切った瞬間、校庭の地面から爆発音のような轟音が鳴り響き、踏み切り板ごと地面がすり鉢状に陥没した。
凄まじい砂煙が舞い上がる中、俺の体は、美しい放物線を描いて――砂場を完全にオーバーラン。砂場どころか、その後ろにある用具置き場すらも飛び越し、校庭の端にある高さ10メートルの防球ネットの上部まで一気に跳ね上がってしまった。
「「「「…………え?」」」」
クラス中の時が止まった。
体育教師の口から、ホイッスルがポロッとこぼれ落ちる。
滞空時間にして数秒。俺は防球ネットの細い支柱の先端に、音もなく「スッ」と忍者すら青ざめるバランスで着地し、そのまま平然と地面へと飛び降りた。
「……あー、今のなし。ちょっと追い風が強かったかな?」
俺がへらへらと笑って誤魔化そうとしたが、周囲の視線は「台風でもあんなに飛ばねぇよ!!」と絶叫していた。
俺の一般人ライフが、開始数ヶ月で完全に崩壊しようとした、その時だ。
「はいカットォォォーーッ!! 天城くん、いまのワイヤーアクション動画、マジでバズるっしょ!!」
リカがスマホを高く掲げながら、猛ダッシュで俺の元へ駆け寄ってきた。
「みんな見て! これ、最新の『透明ワイヤー』のテスト動画撮影中だから! 私のパパの会社の新製品! マジですごくない!? 天城くん、めっちゃ高く吊り上げられてたっしょー!」
「そ、そうよ! 彼は今、物理法則を利用した最新のスタントの練習をしていたの! 素晴らしい演技力だったわ天城くん!! 先生、今のは機械の故障によるエラー計測です! 記録は『無効』ですね!?」
ナギサが物凄い剣幕と武道家特有の殺気で体育教師に詰め寄り、計測不能の異常記録を強引にもみ消しにかかる。
その裏で、詩織が必死に砂場の前の陥没したクレーターを、小さな足で「えいっ、えいっ」と踏み固めて証拠隠滅を図っていた。
(ふぅ……。危なかったな。やっぱりワイヤーアクションってことにすれば、大抵のことは解決するんだな。現代科学ってすごい!)
俺が一人で深く納得している横で、ヒロイン三人は白目を剥きながら「加減してよおバカ勇者!! 寿命が縮んだよ!!」と心の中で絶叫していた。
◆
そして同日の放課後。
四人で連れ立って中庭を歩いていると、突然空がどす黒く暗転した。
――ザァァァァァァァッ!!
「わっ、ゲリラ豪雨!? 最悪ー!」
「みんな、早く軒下へ!」
周囲の生徒たちが悲鳴を上げながら慌てて校舎へと走る中、俺の体は無意識のうちに反応していた。
パチン、と指を鳴らす。
100年間の野営生活で身についた『絶対防御結界(物理)』。雨、風、砂、毒ガスなど、あらゆる不快なものを半径2メートルから完全に排除する、俺にとってはもはや呼吸と同じレベルの自動魔法だ。
中庭に激しい滝のような雨が降り注いでいるはずなのに。俺たち四人の周りだけ、まるで透明なガラスのドームに覆われているかのように、一滴の雨も落ちてこない。
「あ、雨、止んだのかな? 涼しくていい天気だね」
「…………天城くん。周りを見て」
ナギサが、顔面を蒼白に引きつらせながら、俺を指差した。
周囲の生徒たちが、傘を差したりずぶ濡れになったりしながら、「……おい、あいつらの周りだけ、雨が不自然に弾かれてね?」「透明な傘でも差してんのか?」と、怪訝な顔でヒソヒソと話し始めている。
(……あっ。結界、解くの忘れてた)
しまった。これはスタントマンや最新科学の言い訳は通じない。完全に超能力者かバケモノだと思われてしまう。
俺が冷や汗をかいた、その瞬間だった。
「あーっ! 天城くん、水たまりで遊ぶのやめなよー!!」
リカが唐突に大声で叫びながら、結界の外にある泥だらけの巨大な水たまりに向かって、自らダイブした。
「バシャバシャ! あはは、転んで濡れちゃったー! ほら天城くんも濡れちゃえー!」
制服を泥水でドロドロにしたリカが、俺の結界の中に強引に突っ込んできて、俺の首にぎゅっとしがみついた。
その衝撃と彼女の体温で俺の集中が乱れ、結界がパリンと音を立てて砕け散る。
途端に、容赦のないゲリラ豪雨が俺たちを打ち据え、俺もリカの泥水と雨でずぶ濡れになった。
「えいっ! 私もよ! 水遊びなんて子供みたいだけど、付き合ってあげる!」
「わ、私もっ……! 天城くん、冷たいですねっ!」
なんとナギサと詩織まで、自ら泥水を蹴り上げて自分たちの体を汚し、雨に打たれながら俺にしがみついてきた。
結果、俺たちは激しい雨の中、全員がぐしょぐしょの「普通に雨に降られてはしゃぐ高校生」に擬態することに成功した(?)のだ。
「あはは! みんなで濡れちゃったね。これぞ青春だな!」
「……青春で済めばいいけどね、本当……」
リカが泥だらけの顔で溜息をつく。
しかし、俺は心の底から安堵していた。
(よし。今日も『一般人』としての平穏は完璧に守られたな!)
◆
その後、女子更衣室。
リカ、ナギサ、詩織の三人は、シャワーを浴びて泥を落とし、タオルで髪を拭きながら、安堵のため息を吐き出していた。
「ふぅーっ! 今日はマジで危なかったぁ! 幅跳びも雨も、一歩間違えたら天城くんの異常性が全校生徒にバレてたよ!」
「ええ。でも、星野さんの咄嗟の判断には助けられたわ。……私も、あえて泥を被ることで『天城くんの異常な結界』から周囲の目を完全に逸らすことができた。完璧な一般人としてのカモフラージュだったわね」
ナギサが、自分たちの完璧な隠蔽工作(という名の奇行)に満足げに頷く。
「わ、私も……ただのクラスメイトとして、不自然じゃないように……自然に天城くんに抱きつけたと思いますっ……!」
「だね! 私たち、天城くんの平和な日常を守る『普通の友達』として、今日も完璧な立ち回りだった! 誰にも天城くんの特別さも、私たちの気持ちもバレてないし!」
三人は「うんうん」と頷き合い、秘密を共有する戦友のように熱い絆を確かめ合っていた。
……そう。彼女たちは、完全に、圧倒的に『無自覚』だったのだ。
自分たち三人が、学園でも一、二を争うトップカーストの美少女ギャル、剣道部の孤高の美少女主将、そして図書室の可憐な天使として、男子生徒たちの『高嶺の花(三大女神)』であるという事実に。
そして、そんな彼女たちが一人の冴えないモブ男子のために、泥水に飛び込んでまで嬉しそうに抱きつきにいくという光景が、カモフラージュどころか、周囲にどれほどの絶望と特大のヘイトを振り撒いているのかということに。
◆
一方、その頃の男子教室。
窓から中庭の光景を見ていた男子生徒たちは、文字通り血の涙を流し、絶望の淵に立たされていた。
「……おい、見たかよ。星野さんが……あのトップカーストの星野さんが、天城のためにわざわざ泥水に飛び込んで、笑顔で抱きついてたぞ……」
「神宮寺さんまでだぞ!? 普段は男に指一本触れさせないあの氷の剣士が、自分から天城に濡れた体ですり寄ってた……。小鳥遊さんなんて、完全に天城の腕にしがみついて上目遣いだった……! 透けたブラウスでだぞ!?」
「なんなんだよアイツはァァァッ!! なんで学園の三大女神が、あんなモブ男の泥除けみたいになって嬉しそうにしてんだよ!!」
「宗教だ! あいつ絶対、ヤバい洗脳魔法かなんか使ってるんだ!! 許せねぇ……天城ぃぃぃぃっ!!」
窓ガラスが割れんばかりの、男子生徒たちの怨嗟の叫び。
彼らの言う通り、カイトは確かに魔法を使っている。だが、彼女たちを狂わせているのは魔法ではなく、ただの『激重な恋心』だという事実に、モブ男子たちが気づく日は永遠に来ない。
そして当の天城カイトはといえば、教室の隅で一人、呑気に温かいお茶をすすっていた。
(ふぅ……。今日も俺の『目立たないモブキャラ』としての一般人ライフは完璧に守られたな。みんな、俺が普通すぎるから、気を使って一緒に雨に濡れてくれたんだな。本当にいい奴らだ)
世界を救った最強の鈍感勇者と、愛が重すぎて常識がバグってしまった無自覚な女神たち。
彼らの歩く道が、周囲から見て『平和な日常』になることなど、この先も絶対にあり得ないのだった。
『……カイト様。ドローンからの映像を見ておりますが、お嬢様方の必死なフォローと、男子生徒たちの血の涙を、少しは労って差し上げてくださいね?』
インカムから聞こえる凛さんの呆れた声に、俺は「何のこと?」と小首を傾げるだけだった。




