深海の魔窟、幻影の狐の蹂躙と『理』の崩壊
深夜の東京湾。黒田グループが所有する、表向きは海洋調査用とされる特注の潜水艇の中で、俺と凛さんは最終的な作戦会議を詰めていた。
「カイト様、海底遺跡への侵入経路を確定しました。敵対組織『紅煉』の潜水基地を経由し、最深部の『歪み』へと向かいます」
モニターを見つめる凛さんの指先が、流れるような速さでキーボードを叩く。
狐の半面を傍らに置き、俺は彼女の横顔をじっと見つめていた。
「潜入後の索敵は俺が魔法でやるよ。凛さんはバックアップと、施設のシステムハッキングをお願い。……あ、あと、紅煉の連中が持ってる魔科学兵器のデータ収集もね」
「心得ております。……カイト様、道中お気をつけください。海底という閉鎖空間、何が起こるか分かりません」
「大丈夫。凛さんの作戦は完璧だからね。あとは俺が暴れるだけだよ」
俺は狐の半面を装着し、漆黒の和装を翻した。
◆
水深500メートル。
水圧を無視して魔法障壁で包まれた俺は、潜水艇から射出されると、音もなく紅煉の海底基地へと降り立った。
――作戦開始。
「……侵入者だ! 撃てッ!!」
エアロックを強行突破した俺を待ち構えていたのは、数十名の武装兵だった。彼らが構えているのは、以前遭遇したものを遥かに凌ぐ出力を持つ、新型の魔科学ライフルだ。
ドゴォォォォンッ!!
一斉に放たれる蒼白い熱線。鉄をも一瞬で蒸発させる一撃。
だが、俺はそれを紙一重でかわし、あるいは最小限の魔力で弾き飛ばしながら、『縮地』によって彼らの視界から消えた。
「なっ、どこへ――」
「後ろだよ」
首筋に一撃。鳩尾に一撃。
人道的な「手加減」を施しながらも、その速度と精度はもはや災害に近い。
十数秒後、通路には意識を失った兵士たちが転がるだけとなった。
『お見事です、カイト様。基地中央の動力室への隔壁を解除しました。そこからさらに深部へ……』
「了解。どんどん行くよ」
俺は基地の防衛網を文字通り蹂躙しながら、最深部へと突き進んだ。
◆
基地の最奥。そこには紅煉のボスが狂喜の表情で待ち構えていた。
そして、彼の背後にある巨大な強化ガラスの向こう側――。
そこには、異世界の魔素が濃密に渦巻く、青白く光る海底遺跡が鎮座していた。
「ヒハハハッ! 幻影の狐か! だが、もう遅い! この遺跡から呼び出した『神の使者』がお前を喰らい尽くすわ!! やれッ!!」
ボスの合図と共に、遺跡の中心にある歪みから、一匹の異様な生物が這い出してきた。
それは、この地球の進化系統には存在しない、半透明の皮膚と無数の触手を持つ、異世界の『魔獣』だった。
(……魔獣。向こうの世界じゃ『下級の雑魚』だけど……こっちの世界の武器が通用するか、一応試してみるか)
俺は懐から、凛さんが用意してくれた最新鋭の対装甲用グレネードを取り出し、ピンを抜いて魔獣の足元へ放り投げた。
ドゴォォォォンッ!!
凄まじい爆発音と共に、分厚い装甲車すら吹き飛ばす爆炎が魔獣を包み込む――が。
「……やっぱり、効かないか」
爆煙が晴れた後、そこには触手一本、傷一つ負っていない魔獣の姿があった。
『カ、カイト様!? 対装甲の爆発が直撃したのに無傷……!? 物理的な干渉を完全に無効化しています! 現代の科学兵器が一切通用しない生物だなんて――!』
通信機越しに、凛さんの明らかな焦りと動揺の声が響く。
だが、俺は全く動じることなく、静かに一歩前へ出た。
「凛さん、落ち着いて。……予想通りだよ。あれは魔力のコーティングで物理法則を無視してるだけだから、こっちの現代兵器じゃ傷一つつかないんだ」
魔獣が俺を認識し、不快な咆哮を上げて猛スピードで突っ込んでくる。
「向こうの世界の相手なら……俺が一番慣れてる」
俺は腰に差した(偽装用の)刀ではなく、右手の指先を向けた。
魔獣が触手を振り下ろすよりも早く。
「――『氷華・裂砕』」
パキパキという音と共に、魔獣の足元から巨大な氷の柱が噴き出し、一瞬でその巨体を凍りつかせた。
そして、指先を軽く弾いた瞬間、魔獣は音もなく粉々に砕け散り、魔素の霧となって消えていった。
「な……バカな……究極の兵器が……っ!」
「兵器なんかじゃないよ、ただの生き物だ。……それより」
俺は、青白く脈打つ遺跡の中心――『歪み』の震源地を見つめた。
そこからは今もなお、禍々しい魔素がドクン、ドクンと溢れ出し、周囲の海水を変質させている。
(これを放置しておけば、もっと強い奴が来ちゃうな。……俺が壊した穴なんだから、俺が閉じなきゃ)
俺は遺跡の最深部、時空の亀裂へと手を伸ばした。
全魔力を集中させ、無理やりその亀裂を「縫い合わせる」ように魔力を流し込む。
「ぐ、あぁぁぁ……ッ!!」
世界が歪み、空間が悲鳴を上げる。
莫大なエネルギーの反動が腕を焼き、和装の袖がボロボロに弾け飛ぶ。
だが、俺は手を離さなかった。
キィィィィンッ……!!
高周波の音と共に、青白い光が収束し、ついには一粒の輝きとなって消失した。
時空の歪みが、俺の力によって強引に閉じられたのだ。
◆
数時間後。
作戦を終え、潜水艇の個室に戻った俺は、ボロボロになった和装を脱ぎ、椅子に深く腰掛けていた。
腕にはひどい魔力火傷の跡が残っているが、再生魔法のおかげで少しずつ消えていく。
ガチャリ、とドアが開いた。
入ってきた凛さんは、俺の腕の傷跡を見るなり、痛ましそうに顔を歪めた。
「カイト様……。そこまで無理をなさらなくても……」
「……いや、いいんだ。俺のせいで起きたことだから」
凛さんは何も言わず、俺の隣に座ると、ガーゼと薬を手に、丁寧に傷の手当てを始めた。
「……カイト様。今回の事件で、紅煉は壊滅しました。……ですが、あの遺跡から漏れ出した魔素の余波が、世界各地で観測されています」
「……やっぱりか」
「ええ。特に海外……一部の過激なテロ組織が、この魔素を『資源』と見なし、より大規模な調査を進めているという情報が入っています。……この日本以上の、巨大な歪みを目指して」
凛さんの言葉に、俺は窓の外、深い海の闇を見つめた。
平和への道は、思っていたよりもずっと険しいらしい。
「いいよ。どこに現れても、俺が全部閉じて回るから」
「……ええ。私も、どこまでもお供いたします」
凛さんは、俺の手当てを終えると、そっとその手を握りしめた。
海底基地を壊滅させた「幻影の狐」の顔はそこになく、ただ、自分の宿命に立ち向かう一人の青年の顔だけが、そこにあった。




