呪いを砕く少女たちと、いつもの日常(後編)
「俺のことは……もう、忘れてくれ」
血を吐くような俺の言葉が、冷たい地下シェルターのコンクリート壁に虚しく吸い込まれていった。
視線を床に落としたまま、俺はただ静かに、彼女たちの足音が遠ざかるのを待っていた。
軽蔑されるだろう。恐怖されるだろう。
あんなおぞましい地獄で、魔物の血肉にまみれて100年も生きてきた男だ。平和な日本で、クレープの味に感動したり、テストの点数で笑い合ったりしていた日々が、どれだけ滑稽で薄気味悪い偽りだったか。彼女たちなら気づくはずだ。
だから、逃げてくれ。俺という異物から。俺という呪いから。
そう祈るように、きつく目を閉じた、その時だった。
――ダッ!!
勢いよく床を蹴る、鋭い足音が響いた。
逃げる足音ではない。俺に向かって、真っ直ぐに踏み込んでくる音。
顔を上げるより早く、俺の胸に、強い力で誰かが飛び込んできた。
「……っ!?」
「……は? 100年? 魔法? バケモノ……?」
耳元で、鼻声混じりの震える声がした。
星野リカだった。彼女は、顔をくしゃくしゃにして大粒の涙をボロボロとこぼしながら、俺の背中に両腕を回し、ゼロ距離で強く、強く抱きしめてきたのだ。
ふわりと、いつも彼女からする甘いバニラとシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。戦場の鉄と血の匂いなど欠片もしない、ただの、普通の女子高生の匂い。
「……だから、何!?」
「ほ、星野さん……?」
「アンタがバケモノだろうが、100歳超えてようが、そんな昔のことなんかマジでどうでもいいし! 幻影とか見せられても、全然ピンとこないし!」
リカは、俺の胸に額をグリグリと押し付けながら、しゃくり上げるように叫んだ。
「私が知ってるのは! 飛んできたボールから私を庇ってくれた、めっちゃカッコいい天城くんで! 一緒にクレープ食べて笑ってた、ただの同級生で……っ。今ここで、一人で勝手に全部背負い込んで、今にも泣きそうな顔してる……バカで不器用な男の子じゃん!!」
「……っ」
「勝手に遠ざけようとしないでよ! 忘れるわけないじゃん! 100年一人だったなら、もう絶対、一人になんかさせないし!!」
リカの体温が、俺の服越しにじんわりと伝わってくる。
それは、魔大陸のどんな業火よりも温かく、俺の心臓にこびりついていた絶対零度の氷を、いともたやすく溶かしていった。
「……星野さんの言う通りよ、天城くん。貴方、本当にバカね」
顔を上げると、神宮寺ナギサが、袖口で乱暴に涙を拭いながら、真っ直ぐに俺を見据えて立っていた。
彼女の足は、まだ恐怖の余韻で微かに震えていた。それでも彼女は、武道家としての誇りと、それ以上に強い『一人の少女としての愛』で、その震えをねじ伏せていた。
「私、ずっと勘違いしてた。貴方が貧しい生活をしてるって。だから、私がお世話してあげなきゃって。……でも、貴方が戦ってきた現実は、そんなチャチなものじゃなかったのね」
「神宮寺さん……俺は……」
「何も言わないで!」
ナギサは一歩、俺に歩み寄った。
その瞳には、かつて見たどんな剣豪よりも鋭く、そして美しい光が宿っていた。
「貴方が100年、たった一人でこの世界を守るために戦ってきたなら……これからの100年は、私がお世話するわ! 貴方が二度と剣を握らなくていいように、誰かを傷つける痛みに震えなくていいように……私が貴方の『平和の剣』になる。絶対に、貴方の手を離したりしないわ!」
それは、彼女の生涯を懸けた揺るぎない宣言だった。
俺を恐れるどころか、俺の背負った罪ごと丸抱えにして、共に生きていくという強烈なまでの覚悟。
「天城、くん……っ」
そして。
リカの腕の中で呆然とする俺の右手を、小鳥遊詩織が、両手でギュッと包み込むように握りしめた。
小動物のように震える小さな手。けれど、その力は驚くほど強かった。
「私、知っていました。天城くんが、普通の高校生ではないこと……どこかからやってきた、神様のような英雄なのだと」
詩織ちゃんは、ポロポロと涙を流しながら、俺の傷だらけで無骨な指先を、愛おしむように撫でた。
「でも、違ったんですね。貴方は神様なんかじゃなかった。痛みに耐え、孤独に震えながら、誰にも見られずに泣いていた……ただの、優しい男の子だったんですね」
「小鳥遊、さん……」
「勇者様の、一人きりの悲しい物語は……もう、終わったんです。今日で、おしまいです」
詩織ちゃんは、真っ赤に泣き腫らした目で、それでも、この世で一番美しい満面の笑みを浮かべた。
「これからは、天城くんという一人の人間の、温かくて幸せな日常のページを……どうか、私たちと一緒に、綴らせてくださいっ」
パチン、と。
俺の心の奥底で、絶対に解けないと思っていた黒い鎖が、音を立てて砕け散る音がした。
『100年の孤独』という呪い。
俺は人間じゃない。誰かと共に生きる資格はない。そう思い込んでいた俺の心を、三人の少女たちの熱い想いが、温かい涙となって洗い流していく。
「……君たちは、本当に……バカだな」
声が震えた。視界がぼやけて、三人の顔が滲む。
気づけば、俺の目から、大粒の涙がボロボロと溢れ出していた。
異世界でどんな致命傷を負っても、仲間がいない孤独な夜でも、決して泣くことなどなかった俺が。100年ぶりに、自分のために涙を流していた。
「こんな血塗れのバケモノに、そんなこと言って……後悔、するかもしれないぞ」
「うるさい! バケモノでもなんでも、私が一緒にいてあげるって言ってんの!」
リカが俺の背中に回した腕に、さらにギュッと力を込める。
ナギサが優しく俺の肩に手を置き、詩織ちゃんが俺の右手を額に当てて祈るように目を閉じる。
「……あははっ。そっか。俺……もう、一人じゃないんだな」
俺は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、生まれて初めて、心の底から嬉しくて、愛おしくて、大きな声を出して笑っていた。
「……というわけで。カイト様はもう、孤独という殻に逃げ込むことはできませんよ」
コツン、とヒールの音を鳴らし、少し離れた壁際から凛さんが静かに歩み寄ってきた。
彼女は、大人の余裕に満ちた、慈愛の微笑みを浮かべている。このすべてを最初から見通していたかのような、底知れぬ包容力。
「カイト様がどれほど突き放そうと、この温かい日常を生きる彼女たちは、もう離れません。……そして、カイト様と皆様のこの平穏な日常を守り抜くことこそが、私と黒田組の……生涯を懸けた使命でございます」
凛さんの言葉で、全てが一つにまとまった。
俺の世界は、もう灰色じゃない。血の色でもない。彼女たちが持ち込んでくれた、色鮮やかで騒がしい、愛おしい日常の色だ。
俺は四人の顔を見渡し、心の底から「ありがとう」と呟いた。
ようやく、俺の本当の平和な青春が始まるんだ――。
「……それはそれとして!」
感動の涙を乱暴に拭ったリカが、急にバッと俺から離れ、腕組みをして俺をジロリと睨みつけた。
「ん? 星野さん、どうしたの?」
「過去のことが解決したのはいいけどさ! 結局、天城くんは誰をカノジョにするつもりなわけ!?」
「……えっ?」
「そうです! 私は天城くんの、一番の彼女になりたいんですから! 今こそハッキリさせてください!」
「わ、私も負けませんっ! 天城くんのこれからの温かい日常は……私だって、一番側で支えたいですっ!」
「あらあら。皆様、ずいぶんと威勢がいいこと。……ふふっ。私は側室で構いませんので、何があろうともカイト様に一生添い遂げますよ」
さっきまでの感動的な空気は、一体どこへ消えたのか。
リカ、ナギサ、詩織ちゃんが真っ直ぐに俺に詰め寄り、最後尾から凛さんが大人の余裕(という名の退路を断つ包容力)を見せつけ、地下シェルターはあっという間にバチバチの修羅場へと逆戻りしてしまった。
「そ、側室!? いや凛さん、それ大人の余裕っぽく微笑んでるけど一番重いからね!? っていうかみんな、さっきまでめっちゃいい雰囲気だったじゃん!? なんで急にそうなるの!?」
「いいから答えなさいよ! 天城くんは誰を選ぶの!?」
「お茶を濁すのは許しません!」
「ひぃぃぃっ!? な、なんだこれ、魔王軍の四天王よりプレッシャーキツいんだけど!!」
俺の悲鳴は、ヒロインたちの言い争う声に虚しくかき消されていく。
100年の孤独な戦いは、確かに終わった。
だが、どうやら俺の『平和な日常』という名の新たなクエストは、魔王討伐よりも遥かに高難易度で、まだまだ前途多難らしい。




