試着室の秘め事と、崩れ去る保護者の仮面
中間テストを数日後に控えた、放課後の図書室。
俺は「友達と放課後に残ってテスト勉強をする」という、高校生として100点満点の青春イベントを満喫していた。
……ただ一つ、問題があるとすれば。
「ねー天城くん、ここの古典の訳、全然わかんないんだけどー。教えて?」
隣に座る星野リカの距離感が、バグレベルで近いことだ。
質問をするフリをして、リカの柔らかい肩や太ももが、俺の体にピタッと密着している。しかも、上目遣いで覗き込んでくる彼女からは、甘い香水の匂いがふわりと漂ってきた。
(ち、近い……! 現代の女子高生はパーソナルスペースという概念がないのか!? いや、ここで動揺して突き飛ばしたりしたら一般人失格だ。耐えろ俺!)
俺が必死にポーカーフェイス(冷や汗ダラダラ)を保っていると、向かいの席から「バキッ」という不穏な音が響いた。
「……星野さん。勉強の邪魔よ。離れなさい」
神宮寺ナギサが、真っ二つにへし折れたシャープペンシルを握りしめながら、般若のような形相でリカを睨みつけていた。
「えー? 別にいいじゃん、天城くんに聞いてるだけだしー。ねー?」
「よくありません! 天城くんが困っているじゃない!」
ナギサはガタッと立ち上がると、机越しに身を乗り出し、俺の右腕をガシッと掴んで自分の方へ強く引き寄せた。
「うおっ!?」
不意を突かれた俺は、バランスを崩してナギサの胸元に顔を埋めそうになり、ギリギリのところで机に手をついて堪えた。
至近距離で目が合う俺とナギサ。彼女の顔が、一瞬でリンゴのように真っ赤に染まる。
(……っ! 私、なんて大胆なことを……!)
ナギサの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
本当は「保護者」として彼を正しく導かなければいけないのに。リカが彼に触れているのを見るだけで、頭の中が真っ白になるほどの嫉妬が湧き上がってくるのだ。
「あ、ご、ごめんなさい天城くん! その……テストが終わったら、気分転換に少し出かけましょう! 星野さんも、文句ないわね!?」
「えっ、休日に天城くんとお出かけ!? 行く行くー!」
ナギサの咄嗟の誤魔化しから、なぜか週末、三人でショッピングモールへ出かけることになってしまった。
◆
日曜日。駅前の大型ショッピングモール。
ナギサの目的はあくまで「天城くんの無駄遣い(遺産の食いつぶし)を監視すること」だったはずなのだが。
「天城くん、これ絶対似合う! 今時のオーバーサイズ! ほら、試着室行ってきなよ!」
「えっ、あ、うん」
リカのペースに完全に巻き込まれ、俺は言われるがままにメンズ服の試着室へと押し込まれた。
外では、「星野さん、そんな派手な服、天城くんには似合わないわ!」「はぁ? 神宮寺さんの選ぶ服、地味すぎっしょ!」と二人が言い争う声が聞こえる。
(やれやれ、女子の買い物に付き合うのも大変だな……)
俺が着ていたTシャツを脱ぎ、リカから渡されたシャツに袖を通そうとした、その時だった。
「あっ、ごめーん天城くん、サイズ違うの渡しちゃったかも――って、えっ?」
シャッ!という音とともに、リカが勢いよく試着室のカーテンを開けてしまった。
そして、運悪く(?)その背後には、リカを止めようとしていたナギサも立っていた。
「「…………え?」」
二人の女子高生が、彫像のように固まった。
そこにあったのは、ひょろっとしたオタク男子の体などではなかった。
極限まで削ぎ落とされ、鋼のように引き締まった完璧なシックスパック。
彫刻のように隆起した大胸筋と、丸太のように太い腕。
そして、その美しい筋肉の上に刻まれた、無数の『かすかな傷跡』。
それは、100年の死線を潜り抜けた者にしか宿らない、圧倒的で暴力的なまでの『雄の肉体』だった。
「あ、ごめん星野さん。今着替えてて――」
俺が振り向いた瞬間。
リカが「えっ、やば……」と頬を染め、その肉体に完全に魅入られそうになった。
「――見ちゃダメッ!!」
バンッ!!!
ナギサが悲鳴のような声を上げ、咄嗟にリカの両目を手で塞ぎ、もう片方の手で力任せにカーテンを乱暴に閉めた。
「ちょっ、痛い痛い! 神宮寺さん何すんの!?」
「ほ、星野さんはあっちに行ってなさい! レジ! レジを見てきなさい!」
リカを無理やり追い払い、ナギサはその場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。
顔から火が出るほど熱い。脳裏に、先ほどのカイトの『男の体』が鮮明に焼き付いて離れない。
(……どうして。どうして私、あんなに焦って星野さんの目を隠したの……?)
答えは、ナギサの心の奥底ですでに決まっていた。
見られたくなかったのだ。あの綺麗で、恐ろしくて、最高に男らしい彼の体を。
自分以外の女の子に。
(私……天城くんのお世話係なんかじゃない。……ただ、彼を独占したいだけなんだわ……っ)
試着室のカーテンを挟んで。
ナギサはついに、自分の抱えていた感情の正体が『激重な独占欲を伴う恋』であることを、完全に自覚してしまったのだった。
◆
翌日、放課後。
俺は借りていたジャージを返すため、剣道部の道場を訪れていた。
なぜか「私も行くー!」とついてきたリカが、道場の隅から「天城くーん! カッコいいー!」と無駄に黄色い声を上げている。
「あはは、星野さんうるさいって」
「天城くぅーん、手振ってー!」
俺がへらへらと手を振り返していると、道場の中央で試合稽古をしていたナギサの動きが、ピタリと止まった。
(……また、星野さんと笑い合ってる。……嫌。嫌だ……っ)
試着室で自覚してしまった強烈な恋心と独占欲。
それに囚われたナギサの剣先がブレる。武道家としての明鏡止水の心は、もはや見る影もなかった。
「神宮寺、隙ありぃっ!!」
「あっ……!」
対戦相手の竹刀を避け損ね、ナギサは体勢を崩した。
足がもつれ、道場の硬い床に向かって、無防備に後頭部から倒れ込んでいく。
(……やばい!)
俺の100年の本能が、一般人偽装のリミッターを強制解除した。
リカの歓声が響く中、俺は『縮地(音速移動)』を発動。誰の目にも止まらぬ一瞬の踏み込みでナギサの背後へと回り込み、床に叩きつけられる寸前の彼女の腰を、右腕でガシッと抱きとめた。
「――っ!?」
「危ないよ、神宮寺さん。怪我はない?」
ふわりと、石鹸の香りがした。
ナギサが目を開けると、そこには、自分を抱きとめてくれたカイトの顔が、息がかかるほどの至近距離にあった。
昨日試着室で見た、あの逞しい腕が、自分の腰を力強く支えてくれている。
「あ……天城、くん……」
遠くで、リカが「えっ、今の動き何!? ずるい!!」と嫉妬に狂った声を上げているのが聞こえた。
しかし、今のナギサにとって、そんなことはどうでもよかった。
(……もう、嘘はつけない。私は保護者なんかじゃない)
自分を助けてくれた彼の、少し心配そうな瞳を見つめながら。
ナギサは、武道家としてのプライドも、お節介な委員長の仮面も全て脱ぎ捨て、ひとりの恋する乙女として、カイトの腕の中で熱い吐息を漏らすのだった。




