業火の救済と、氷を溶かす神様
その日の夜、イヤホン型の通信機から聞こえてきた凛さんの声は、かつてないほど切羽詰まり、そして激しい怒りに震えていた。
『カイト様……! 大変です。お祖父様が個人的に支援している児童養護施設が、敵対する半グレ組織の襲撃を受けました! 奴ら、施設にガソリンを撒いて火を放ちやがったのです……!』
「なんだって!?」
俺は部屋の窓を全開にし、異空間から漆黒の和装と狐面を取り出した。
『消防の手配はしましたが、到着より先に建物が崩落します! 中にはまだ、逃げ遅れた子供たちが……っ!』
「凛さん、場所の座標を送って! すぐに行く!」
網膜に投影されたマップ情報を確認するや否や、俺は空間魔法を発動し、燃え盛る夜の街へと直接跳躍した。
◆
現場は、まさに地獄だった。
木造の古い施設は猛火に包まれ、夜空を焦がすように火柱が上がっている。周囲には野次馬と、泣き崩れる職員の姿があった。
「ああっ……! 誰か、誰かあの子たちを……!」
俺は誰にも見られないよう、上空から燃え盛る建物の屋根を突き破り、直接内部へと侵入した。
中は猛毒の一酸化炭素と、鉄すら溶かすような熱気の渦だ。一般人なら一呼吸で肺が焼け焦げて死んでしまう環境だが、カンスト済みの『火属性耐性』と『状態異常無効』を持つ俺にとっては、少し息苦しいサウナ程度の空間でしかない。
(さて、子供たちは……いた!)
二階の奥の部屋。炎に退路を断たれ、部屋の隅で身を寄せ合って泣き叫ぶ五人の子供たちを見つけた。
「もう大丈夫だよ。目を閉じて、息を止めててね」
俺は漆黒の和装の大きな袖とマントで子供たちをすっぽりと包み込むと、微弱な『浄化魔法』を展開して新鮮な空気を保ちながら、窓を蹴破って一気に外へと跳躍した。
ストッ。
施設の裏手の安全な芝生の上に、音もなく着地する。
「……えっ?」
「ほら、もう熱くないよ。怪我はない?」
俺がマントを開くと、子供たちはポカンと口を開けて俺を見上げた。
炎の照り返しを受ける、漆黒の衣装と狐の半面。
その人間離れした姿を見て、一人の男の子が目を輝かせて叫んだ。
「きつねの……神様だ!! 神様が、助けてくれたんだ!!」
「ありがとう、神様っ!」
子供たちが俺に抱きついてくる。俺はただの高校生なんだけどなと苦笑しながら、彼らの頭を優しく撫でた。
『……カイト様。子供たちの無事、上空のドローンカメラで確認いたしました。ありがとうございます……!』
通信機越しに、凛さんの安堵して泣き崩れそうな声が聞こえる。
だが、俺の耳は、崩れゆく施設の中から聞こえる「別の声」を捉えていた。
「凛さん、まだ中に人がいる。助けてくる」
『えっ? いえ、名簿上の子供と職員はこれで全員の……あっ!』
凛さんは一瞬で状況を理解したようだ。
『カイト様、止めてください! 中にいるのは、施設に火を放った半グレの実行犯どもです! ガソリンの引火に巻き込まれ、瓦礫の下敷きになって逃げ遅れたのでしょう。……自業自得です。放っておいてください!』
凛さんの声は、再び氷のように冷酷なものに戻っていた。
罪のない子供たちを焼き殺そうとした外道。裏社会に生きる彼女にとって、そんなゴミを助けない理由はあれど助ける理由はどこにもない。
――しかし。
俺は子供たちから離れると、再び燃え盛る炎の中へと迷いなく飛び込んだ。
「助け……誰か……熱い、熱いぃぃっ!!」
一階の廊下。焼け落ちた太い梁の下敷きになり、火だるまになる寸前の男が三人、絶望の涙を流して呻いていた。
俺は炎の中をゆっくりと歩み寄り、片手で数トンの瓦礫を軽々と持ち上げて払い除けた。
『カイト様! なぜですか! なぜ、彼らのようなゴミまで救うのですか! そいつらは、貴方様が慈悲をかける価値もない人間のクズですよ!』
通信機越しに、凛さんが悲痛な叫びを上げる。
俺は、煤まみれになった狐面の下で、小さく笑った。
「価値なんてどうでもいいよ、凛さん」
俺は男たちの襟首を掴み、引きずり起こす。
「俺はね、平和な『普通の生活』を送りたいんだ。……だから、俺の目の前で人が燃えて死ぬのを見過ごすのは、ちっとも平和じゃないからね。それだけだよ」
◆
モニター室でその言葉を聞いた瞬間。
凛の心臓が、大きく、痛いほど激しく跳ねた。
(……あぁ)
善人も悪人も関係ない。
彼にとっては、命が理不尽に消えゆくことそのものが「平和ではない」のだ。
裏社会の憎悪も、復讐の連鎖も、彼の手にかかれば全てが「ただの救済」へと塗り替えられてしまう。
(この方は……。本当に、底知れない、神様のような御方……っ!)
凛の瞳から、ボロボロと熱い涙がこぼれ落ちた。
これまでの尊敬や、淡い恋心といったチャチなものではない。
自分の汚れた魂すらも包み込んでくれる圧倒的な慈愛に対する、限界を突破した『狂信的な愛』が、彼女の全身を焼き尽くしていた。
モニターの中では、カイトが男たちを施設の外へ放り投げている。
「熱い! 痛い!!」と泣き叫ぶ半グレたちだったが、命だけは確実に救われていた。
「カイト様……。貴方様のその優しさは、私には眩しすぎます……」
凛はモニター画面の狐面にそっと手を触れ、火照る頬を隠すようにうつむいた。
◆
それから、数日後。
俺が放課後に黒田邸を訪れると、凛さんがノートパソコンに向かって何かの手続きをしていた。
「凛さん、お疲れ様。何してるの?」
「あ、カイト様。……いえ、あの児童養護施設の再建のために、黒田グループのダミー会社から、匿名で多額の寄付(五億円ほど)を振り込んでいたところです」
凛さんは、少し照れくさそうに眼鏡の位置を直した。
「え、そんなに!? 黒田さん、太っ腹だね」
「お祖父様の指示ではありません。……私の、個人的なポケットマネーからです。あの子供たちが、これ以上理不尽な思いをしないように……」
そう言って微笑む凛さんの表情は、以前のような「氷の秘書」の冷たさはなく、春の日差しのように柔らかく、穏やかなものだった。
「そっか。凛さん、すっごく優しいね。子供たちもきっと喜ぶよ!」
「……っ! い、いえ、私はただの薄汚れた裏社会の……」
俺が無邪気に笑いかけると、凛さんは顔を真っ赤にして口ごもってしまった。
俺の望む「平和な一般人生活」の裏側で。
俺の行動が、氷のように冷たかった裏社会の美女の心を、ここまで丸く、そして激重に溶かしてしまっていることなど。
俺はやっぱり、全く気づいていないのだった。




