剣士の疑念と、完璧なる「被弾」の演技
神宮寺ナギサは、剣道部の部室で一人、タブレット端末を凝視していた。
画面に映っているのは、世界中を騒然とさせている『メガモールテロ事件』の映像。漆黒の和服に狐面を被った謎の男――幻影の狐の姿だ。
「……身長はおよそ170センチ。体重は60キロ前後。骨格や肉の付き方、肩幅、そしてこの一切の無駄を省いた静かな立ち姿……」
ナギサは画面を一時停止し、映像の狐面の男のシルエットと、彼女の脳内に強く焼き付いている『ある少年』の姿を重ね合わせた。
「間違いない。天城カイトくんと、身体的特徴が完全に一致している」
星野リカは「テロの直前まで一緒に教室にいたから不可能だ」と言い切っていた。普通に考えれば、その物理的なアリバイは絶対だ。
しかし、ナギサの武道家としての直感は、そんな常識を警鐘とともに否定していた。
(体育の授業で見せた、あの完璧な重心。そして体力テストでの、人間離れした跳躍と縮地……。あの身体能力があれば、数十キロの距離を瞬時に移動する手段を持っていても不思議ではないわ)
ナギサの胸の内で、疑惑はすでに『確信』に近いものへと変わっていた。
だが、証拠がない。彼が本当に幻影の狐であるなら、なぜあんなにも「冴えない一般人」のフリをしているのか。
「……直接、確かめるしかないわね」
ナギサはタブレットを閉じ、静かに闘志を燃やした。
◆
その日の放課後。
俺は日直の仕事で、誰もいなくなった教室の掃き掃除をしていた。
(ふぅ、今日も一日、完璧なモブとして平和に過ごせたぞ。リカのやつも狐の話題に飽きてきたみたいだし、この調子でいけば……)
「天城くん。掃除、お疲れ様」
「うおっ!? あ、神宮寺さん。びっくりした……」
突然背後から声をかけられ、俺は(一般人らしく)大げさに肩を揺らして振り返った。
そこには、竹刀袋を背負ったナギサが、ポニーテールを揺らしながら鋭い眼光で俺を見つめて立っていた。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったの。……ねえ、天城くん」
「ん? なに?」
「天城くんって、背丈や体格が、あの『幻影の狐』にそっくりだよね。歩き方のクセも、なんだか似ている気がして」
ドキッ。
俺の心臓が嫌な音を立てた。リカの直感とは違う、論理的で観察眼に優れた武道家のアプローチ。これは非常にマズい。
「あ、あはは! そうかな? 俺なんか全然、あんなカッコいいヒーローとは程遠いよ。ほら、腕立て伏せも10回くらいでプルプルしちゃうし!」
「……そう。でも、体育の剣道の時、君は素晴らしい構えを見せていたわ。見様見真似だと言っていたけれど……本当に、それだけ?」
ナギサが一歩、距離を詰めてくる。
彼女の目は、俺の嘘を一枚一枚剥がそうとするかのように鋭い。
「ほ、ほんとだって! 時代劇の見すぎでさ。あ、掃除まだ終わってないから、俺こっち掃くね!」
俺は露骨に目を逸らし、ほうきを持って彼女から背を向けるように歩き出した。
これ以上ボロを出さないためには、会話を切り上げるのが一番だ。
しかし、俺が背を向けたその瞬間。
ナギサの瞳に、武道家としての鋭い光が宿った。
(言葉では誤魔化せても、肉体に染み付いた『本能』は嘘をつけないはず……!)
ナギサの思考は澄み切っていた。
どれほどの達人であっても、背後からの完全な死角からの奇襲、それも殺気を伴った一撃に対しては、肉体が無意識に反応してしまうものだ。回避、あるいは迎撃。
もし彼が『幻影の狐』であるなら――この一撃を、必ず躱す。
シュッ!
ナギサは背負っていた竹刀袋から木刀を引き抜き、無音のまま、カイトの背中(右肩)へ向けて鋭い刺突を放った。
怪我をさせないよう、ギリギリで寸止めできる完璧なコントロールを保ちながら。
◆
(――来た!)
背後で空気が裂ける音よりも早く、俺の100年鍛え抜かれた本能が『殺気』を感知していた。
速度、およそ時速80キロ。軌道、俺の右肩甲骨。
異世界の魔族の暗殺攻撃に比べれば、止まって見えるほどの遅さだ。
俺の脳内演算は、コンマ0.1秒でこの状況の最適解を弾き出した。
(神宮寺さんは、俺が『反応できるかどうか』を試している! ここで少しでも避ける素振りを見せたり、気配で防御を張ったりすれば、俺の正体がバレてしまう!)
ならば、答えは一つ。
【完全に無防備な一般人として、無様に被弾する】ことだ。
(だが、俺のカンストした肉体は、ただ突っ立っているだけで鋼鉄より硬い。木刀が当たった瞬間、反発力で木刀がへし折れるか、神宮寺さんの手首が砕けてしまうかもしれない!)
それは絶対に避けなければならない。一般人は、木刀で突かれたらちゃんと「痛がる」ものだ。
俺は迫り来る木刀の切っ先が肩に触れる、その0.001秒の間に――。
右肩周辺の筋肉の緊張を極限まで解きほぐし、骨格の結合を意図的に緩め、接触の瞬間に木刀の運動エネルギーを『自身の肉体を後方へ弾き飛ばす力』へと100%変換する魔法(衝撃吸収)を無詠唱で発動させた。
ドスッ!!
鈍い音とともに、俺の体は「ごく自然に、かつ大げさに」前方へと吹っ飛んだ。
「あ痛っっ!!? な、なに!?」
俺は掃除用具入れに派手にぶつかりながら床に転がり、右肩を押さえて(演技で)涙目になった。
完璧だ。どこからどう見ても、不意打ちに対応できず吹っ飛ばされた、か弱い一般男子である。
「えっ……!?」
木刀を突き出した姿勢のまま、ナギサは愕然と目を見開いていた。
手応えがあった。彼からは一切の防御反応がなく、ただ無防備な肉体をさらしていただけだった。
「あ、天城くん! ご、ごめんなさい! ちょっと手が滑って……っ!」
「手が滑って木刀が飛んでくることある!? びっくりしたぁ……肩外れるかと思ったよ……」
俺が痛そうに肩をさすって見せると、ナギサはひどく狼狽した様子で木刀を引っ込めた。
(……反応できなかった。背後からの殺気に、微塵も気づいていなかった。本当に、ただの素人の反応だった……)
ナギサの胸の内で、確信に近かった疑惑が、スルスルと音を立てて崩れ去っていく。
あの『幻影の狐』のような本物の達人が、あんな無防備な無様な転がり方をするはずがない。
「本当にごめんなさい、天城くん! 怪我はない!? 保健室に……!」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと打っただけだから。……神宮寺さん、危ないから教室で木刀は振り回さないでね?」
俺が苦笑いしながら立ち上がると、ナギサは申し訳なさそうに深く頭を下げた。
「……ええ、本当にごめんなさい。私、どうかしていたわ……」
(私の思い過ごしだったのね……。歩き方が似ているなんて、ただの偶然。彼を疑って不意打ちまでするなんて、武道家として恥ずかしい……っ)
激しい自己嫌悪に陥るナギサをよそに、俺は背を向けたまま、ホッと安堵の息を吐き出していた。
(よし! 完璧な『やられっぷり』だった! これで神宮寺さんの疑いも完全に晴れたはずだ。俺のモブライフ、今日も完全防衛完了!)
ナギサの疑念を(物理的な自重で)見事にねじ伏せた俺は、ズキズキと痛むふりをしながら、心の中で盛大なガッツポーズを決めるのだった。




