完璧なアリバイと、ただ一人秘密を共有する少女
東京メガモールでのテロ事件を無事に制圧し、黒田さんの洋館へと帰還した俺を待っていたのは、かつてないほど深々と頭を下げる二人の姿だった。
「坊っちゃん……。言葉もない。君は今日、五千人の命と、この国の平和を守ってくれた。黒田宗一郎、一生かけても返しきれん恩ができてしまったな」
黒田さんが、震える声で俺の手を固く握りしめる。
その隣で、凛さんが床に膝をつかんばかりの勢いで首を垂れていた。
「カイト様……! 貴方様の身を呈したあのお姿、そして瞬く間に制圧を完了させた圧倒的なお力。この凛、感動のあまりモニターの前で涙が止まりませんでした……! 貴方様こそ、現代に舞い降りた真の神……!」
「ちょ、大げさだって二人とも! 凛さんが用意してくれたライフル(リミッター)を使ったおかげで、モールを吹き飛ばさずに済んだだけだし。あれくらい、異世界じゃただの日常茶飯事だから」
俺がへらへらと笑いながら狐の半面を外すと、二人は顔を見合わせて、どこか諦めたような、それでいて深い敬愛の混じったため息を吐いた。
「空間から銃を数十丁召喚するのが『日常』ですか……。やはり、カイト様の御前では常識など無意味ですね」
「まぁ、全員無事でよかったよ。じゃ、俺は明日も学校があるから帰るね! 宿題やらなきゃ」
世界を揺るがす大事件を解決した直後だというのに、俺の頭の中は「明日の数学の小テスト」のことでいっぱいだった。
なんとしても赤点を回避し、目立たないモブ男子としての生活を死守しなければならないのだから。
◆
翌日。
学校に登校すると、教室は予想通り、いや予想を遥かに超える熱狂に包まれていた。
「見た!? 昨日のメガモールのニュース!!」
「見た見た! マジで映画かと思った! あの狐面のヤバさ、完全に人間やめてるだろ!」
「空中に浮かぶライフルの映像、世界中でバズりまくって『現代の神話』って呼ばれてるらしいぜ……!」
クラスの話題は『幻影の狐』一色だった。
無理もない。あんな魔法みたいな光景、現代社会でおいそれと見られるものではないのだから。俺は自席で数学の教科書を開きながら、内心で冷や汗をかいていた。
(……やばい、めっちゃ話題になってる。でも、顔は狐面で完全に隠れてたし、俺だとは誰も気づいていないはずだ。ただ……)
俺の視線が、教室の中心でいつものように大騒ぎしている星野リカに向く。
昨日、彼女は俺の残像ステップを見て「狐の正体は天城くんなのでは?」と疑っていた。もし彼女がその疑惑をクラス中で言いふらせば、面倒なことになるかもしれない。
俺が息を潜めていると、リカがポンッと手を打って声を上げた。
「いやー、でもアタシ、昨日まで『あの狐、もしかして天城くんかも?』ってちょっと疑ってたんだよねー!」
「「「えっ?」」」
クラス中の視線が、一斉にリカと、そして端っこに座る俺へと集まる。
俺の心臓がヒュッと縮み上がった。終わった。俺の平和な青春が、ギャルの直感によって崩壊する――!
「でもさ、よく考えたら絶対あり得ないわ!」
「「「……へ?」」」
「だってさ! 昨日の放課後、アタシ、天城くんとずっと教室で変なダンスの練習してたじゃん! テロ事件が起きたのって、ちょうどそのすぐ後でしょ?」
リカの言葉に、周囲の生徒たちが「あー」と頷く。
「メガモールって、ここから数十キロは離れてる東京のど真ん中だよ? いくら足が速くたって、放課後にここから数分で移動できるわけないじゃん。瞬間移動でもしない限り絶対ムリ! だから、狐=天城くん説は完全に消滅しましたー!」
リカがケラケラと笑い飛ばす。
俺は心の中で、ガッツポーズをしながら咽び泣いた。
(ありがとう、星野さん……! 物理的な距離っていう、一番論理的なアリバイを自ら証明してくれて……! まさか俺が『空間魔法(瞬間移動)』を使えるなんて、現代人には想像もつかないもんな!)
俺の超常的な力が、皮肉にも俺のアリバイを完璧なものにしてくれたのだ。
「なんだよ、びっくりさせんなよ」「天城がヒーローなわけないだろw」と、クラスの空気はすっかり「ただの笑い話」へと変わっていた。
よし、これで完璧だ。
俺の「どこにでもいる一般人」というポジションは、もはや盤石なものとなった。
◆
しかし、誰もがリカの推理に納得して盛り上がる中。
教室の片隅で、ただ一人だけ、全く別の感情を抱いている少女がいた。
小鳥遊詩織。
彼女は自分の席で、分厚い文庫本に視線を落とすフリをしながら、静かに、けれど確かな熱を帯びた瞳でカイトの横顔を見つめていた。
(星野さんたちは『瞬間移動でもしない限り無理』って言っていたけれど……)
詩織は知っている。
図書室で、彼が数十キロはある段ボールの雨を、まるで時間を止めたかのように一瞬で元通りに積み直した、あの神業を。
物理法則を軽々と無視する彼にとって、数十キロの距離を瞬時に移動することなど、造作もないことなのだと。
詩織の脳裏に、昨夜何度も繰り返し見たニュース映像が蘇る。
逃げ惑う親子を庇い、無防備に銃弾の雨を浴びる漆黒の背中。
そして、全てを終わらせた後に見せた、一人の犠牲も出さなかったことに対する安堵の佇まい。
(あの痛ましいほどの自己犠牲。そして、圧倒的な優しさ……。やっぱり、あの狐の正体は、天城くんなのね)
クラス中が「幻影の狐」を現代の神話だと持て囃し、カイトを「ただの変なダンスを踊る男子」として笑い飛ばしている。
カイト自身も、周りに合わせて「俺じゃないよー」とへらへら笑っている。
その光景が、詩織の胸をひどく締め付けた。
(彼は、世界を救うほどの重圧をたった一人で背負いながら、この教室では『道化』を演じている……。誰にも称賛されず、理解されなくても、ただ私たちのこの『平和な日常』を守るために……)
普通なら、その圧倒的な力に恐怖を覚えるか、あるいは秘密を暴こうとするだろう。
だが、物語を愛し、真の英雄の孤独を知る詩織の心に芽生えたのは、恐怖でも好奇心でもなく――深くて重い、決意だった。
(天城くんは、私が守らなきゃ)
詩織は、文庫本を持つ手にギュッと力を込めた。
(彼が命を懸けて守ろうとしている、この『普通の高校生』という居場所。……私だけは全てを知っているけれど、絶対に誰にも言わない。私が、彼の孤独に寄り添い、この秘密のお守りをするんだわ)
世界を熱狂させる謎のヒーローと、その正体を知るただ一人の少女。
誰にも気づかれないまま、詩織の胸の奥で育まれる淡い恋心とクソデカ感情は、この秘密を共有したことで、もはや後戻りできないほどに大きく、深く根を張っていくのだった。




