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第一章 「乾諦十《いぬいてんと》という少年」前編

朝六時三十分。


 目覚まし時計が鳴る10秒前に、乾諦十は目を開けた。


 天井をぼんやり見つめたまま、小さく息を吐く。


「……またか。」


 昔からそうだった。


 目覚ましが鳴る直前になると、なぜか自然と目が覚める。


 偶然だと思っていた。


 でも高校生になっても続いている。


 理由は分からない。


 ただ、少しだけ気持ちが悪かった。


 枕元のデジタル時計を見る。


 [6:29]


 数字が切り替わる。


 [6:30]


 同時に目覚ましが鳴り響いた。


 諦十は慣れた手つきでボタンを押し、布団から起き上がる。


「諦十ー! 朝ごはんできてるわよ!」


 一階から母の声が聞こえた。


「今行くー!」


 制服に袖を通し、机の横を通る。


 そこにはノートが一冊置かれていた。


 黒い大学ノート。


 表紙にはボールペンで乱雑に書かれた文字。


『境界の記録(仮)』


「……全然進まないな。」


 諦十は苦笑した。


 ページを開く。


 三十ページほど書いてある。


 その先は真っ白だった。


 主人公やヒロイン。


 そして世界観。


 全部考えてある。


 なのに、一文字も続きが書けない。


「才能ないのかな……。」


 ノートを閉じる。


 机の横には、積み上げられたライトノベルが山になっていた。


 百冊ではきかない。


 いや、もう二百冊近いかもしれない。


「異世界」「学園」「ラブコメ」「SF」「バトル」「泣ける作品」


 どれも好きだった。


 読めば読むほど思う。


「どうしてこんな世界が書けるんだろう……。」


 自分もいつかこんな物語を書きたい、誰かの人生を少しだけ変えられるような物語を。


 その夢だけは、小学生の頃から変わらなかった。


 しかし、書こうとすると手が止まる。


 読むことと、創ることは全然違う。


 それだけは嫌というほど分かっていた。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


[リビング]



 食卓には焼き鮭と味噌汁。


 卵焼きにご飯。


 ごく普通の朝食だった。


「また夜遅くまで起きてたでしょ。」


 母が呆れたように言う。


「いや、昨日は一時くらい。」


「それ十分遅いから。」


「小説を読んでたんだよ。」


「ほどほどにしなさい。」


 父は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。


 テレビでは朝のニュース。


 アナウンサーが今日の天気を伝えていた。


『ー今日は夕方から局地的な雷雨となる地域があります。ー』


 その言葉を聞いた瞬間、諦十は妙な既視感を覚えた。


「……あ。」


 頭の中に、一瞬だけ映像が浮かぶ。


 [古い本屋]


 [雨]


 [風鈴]


 [白い本]


 そして――


『ーーようこそ。ーー』


 誰かの声。


「諦十?」


 母が不思議そうな顔をする。


「どうしたの?」


「え……?」


 映像は消えていた。


「いや……何でもない。」


 夢だ……きっと昨日見た夢だろう。


 でも、妙にリアルだった。


 思い出そうとしても思い出せない。


 胸の奥だけがざわつきながら家を出た。


 通学路、駅までの道を歩く。


 いつもの信号、いつもの交差点。


 いつものコンビニ。


 いつもの見慣れた同じ景色。


 ……なのに今日は少し違った。


 信号待ちをしていると、道路の向かい側に銀色の髪が見えた。


 制服姿の少女。


 風に揺れる長い髪。


 静かにこちらを見ている。


 諦十と目が合った。


 少女は小さく微笑んだ。


 信号が青になる。


 人の波が交差する。


 ほんの数秒目を離しただけだった。


 そこに彼女の姿はなかった。


「……え?」


 急いで信号を渡り辺りを見回す。


 どこにもいない。


 小さな交差点だ。


 周りに隠れる場所もお店なんてない。


「見間違い……?」


 そう思った瞬間。


 誰かが耳元で囁いた。


「ーーまたね。ーー」


 その声に思わず振り返る。


 でもそこには誰もいない。


 人々が普通に歩いているだけ。


 聞こえたのは自分だけだったのだろうか。


 胸が少しだけ高鳴る。


 理由は分からない。


 でも、不思議と怖くはなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 [教室]


 二年B組。


 ホームルーム開始まであと少し。


「おーい、諦十。」


 後ろから声が飛ぶ。


 振り返ると、幼なじみの相沢拓真がパンを片手に近づいてきた。


「また本読んでるのか~、好きだなお前も。」


「朝は静かだからな。」


「そのうち本と結婚しそうだなお前。」


「できるならしたい。」


「末期だ……。」


 二人は笑う。


 こういう何気ないやり取りが、諦十は嫌いではなかった。


「そういえばさ。」


 拓真が思い出したように言う。


「放課後、新しい古本屋行かね?」


「古本屋?」


「駅前にできたらしい。」


 その言葉に、諦十の手が止まる。


「……古本屋。」


 なぜだろう。


 胸がざわつく。


 昨日も古本屋へ行った気がする。


 でも思い出せない。


 夢だったような。


 現実だったような。


「行く?」


 拓真が聞く。


 諦十は少しだけ考え、笑って頷いた。


「ああ、行こう。」


 その何気ない返事が、彼の運命を大きく変えていくことを、この時の二人はまだ知らない。

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