第一章「乾諦十という少年」中編「現実の綻び」
午前の授業は、どこか現実味を欠いていた。
教壇に立つ教師の声は耳へ届いている。
黒板へ走るチョークの音も、窓を叩く風の音も確かに存在している。
それなのに諦十には、そのすべてが薄い膜を一枚隔てた向こう側で起きている出来事のように感じられた。
「……乾。」
名を呼ばれる。
反射的に立ち上がる。
「この英文、訳してみろ。」
教科書へ視線を落とす。
そこには見慣れた英語が並んでいた。
簡単な長文だ。
昨日の自分なら迷わず答えられた。
しかし、その瞬間だけ文字が歪んで見えた。
アルファベットが滲み、紙の上をゆっくりと這うように動いていく。
諦十は瞬きをした。
文字は元へ戻る。
「……乾?」
「あ、はい。」
深呼吸を一つ。
「『人は未知なる世界に触れたとき、自らの価値観を見直す』……です。」
「正解だ。」
教師は頷き、授業を続ける。
諦十は静かに席へ腰を下ろした。
(……疲れてるだけか。)
そう結論づけるしかなかった。
昨夜は奇妙な夢を見た。
雨。
本屋。
白い本。
そして聞き覚えのない少女の声。
夢にしては妙に鮮明で、現実にしては曖昧だった。
まるで記憶と空想の境界が曖昧になっているような、不思議な感覚だけが残っている。
昼休み。
諦十はいつものように図書室へ向かった。
昼の図書室は静謐だった。
窓から差し込む陽光が本棚を斜めに照らし、紙の匂いと木の香りが静かに混ざり合っている。
この空間だけは、学校という喧騒から切り離された別世界のようだった。
「やっぱりここにいた。」
聞き慣れた声に振り返る。
幼なじみの相沢拓真が、紙パックのコーヒー牛乳を片手に立っていた。
「昼飯は?」
「あとで。」
「また本か。」
「落ち着くからな。」
拓真は肩を竦める。
「お前ってさ、本当に作家になりたいんだな。」
「……うん。」
諦十は本棚へ視線を向けたまま答えた。
「でも最近、少し分からなくなってきた。」
「何が?」
「物語を書くってこと。」
拓真は黙る。
諦十はゆっくりと言葉を続けた。
「読むのは好きなんだ。」
「だけど書こうとすると、急に全部嘘になる気がする。」
「頭の中では面白いのに、紙へ書いた瞬間、それが急に安っぽく見える。」
「才能がないのかな。」
沈黙が流れた。
拓真は少し考えてから笑う。
「難しく考えすぎじゃね?」
「そうかな。」
「だってさ。」
彼は本棚を軽く叩いた。
「ここにある本だって、最初から名作だったわけじゃないだろ。」
「書いて、失敗して、また書いて。」
「だから今ここに並んでる。」
その何気ない一言が、不思議と胸へ残った。
諦十は小さく笑う。
「ありがとう。」
「珍しく真面目なこと言った。」
「おい。」
二人は笑った。
その笑い声だけが、静かな図書室へ柔らかく響いた。
しかし。
その穏やかな時間は長く続かなかった。
諦十は何気なく窓の外を見た。
校庭。
部活動をしている生徒たち。
春の風。
揺れる木々。
すべてが日常だった。
――そのはずだった。
一人だけ。
校門の前に立つ少女がいる。
銀色の長い髪。
制服ではない白いワンピース。
こちらを見上げている。
その瞳だけが、驚くほど透き通っていた。
諦十と目が合う。
少女は静かに口を動かす。
声は聞こえない。
しかし、その唇は確かにこう動いていた。
「思い出して。」
諦十は立ち上がる。
「……っ!」
「どうした?」
拓真の声で我に返る。
もう少女はいなかった。
校門には誰も立っていない。
風だけが静かに吹き抜けている。
(……まただ。)
胸の鼓動が少しずつ速くなる。
夢ではない。
見間違いでもない。
だが、それを証明する術はどこにもなかった。
諦十は無意識のうちに胸ポケットへ手を伸ばす。
そこには、昨夜見つけたはずの白い栞など入っていない。
それでも指先には、紙の感触だけが残っている気がした。
現実は確かにそこにある。
しかし、その現実の輪郭は、少しずつ綻び始めていた。
昼休みが終わる頃には、空は朝とは別の表情を見せ始めていた。
灰色の雲が幾重にも重なり合い、陽光は鈍く濁っている。天気予報では夕方から雨だと言っていたが、空はその刻限を待ちきれないようだった。
教室へ戻る途中、諦十は廊下の窓辺で足を止める。
校庭の隅に植えられた桜は、春の盛りを過ぎ、若葉へと姿を変えつつある。
風が吹くたび、名残の花弁が数枚だけ舞い上がり、ゆっくりと地面へ降りていく。
その様子を眺めながら、諦十はふと考えた。
(物語も、同じなのかもしれない。)
どれほど壮大な冒険譚も、いつかは終わりを迎える。
登場人物は笑い、泣き、戦い、そして読者の記憶へ溶けていく。
だが、読み終えたあとも心のどこかへ残り続ける物語がある。
それは、物語が終わったのではなく、自分の中で生き続けているからなのではないか。
そんなことを考えるようになったのは、いつからだっただろう。
「乾?」
担任教師の声で思考は中断された。
「ぼんやりしてどうした。」
「あ、すみません。」
「午後は進路希望調査を書くぞ。将来について考えておけ。」
「はい。」
進路。
その二文字だけが、妙に胸へ重く沈んだ。
放課後。
校舎の窓を打つ雨音は、授業が終わる頃にはすっかり勢いを増していた。
昇降口には色とりどりの傘が並び、生徒たちは友人と笑いながら雨の中へ消えていく。
「帰るか。」
拓真が鞄を肩へ担ぐ。
「駅前の古本屋だったよな?」
「ああ。」
二人は傘を差し、校門を出た。
雨粒がアスファルトを濡らし、街は淡い灰色へ染まっている。
人々の話し声も、車の走行音も、雨の帳に吸い込まれ、どこか遠い世界の出来事のようだった。
しばらく歩いた頃だった。
諦十は足を止める。
「……どうした?」
拓真が振り返る。
諦十は駅前の交差点を見つめたまま答えない。
交差点の向こう側。
人混みの中に、ひとりだけ動かない少女が立っていた。
白いワンピース。
銀色の長い髪。
雨に濡れているはずなのに、その髪はまるで月明かりを宿したような淡い輝きを帯びている。
少女は静かに諦十を見つめていた。
その視線には敵意も、悲しみもない。
ただ、長い歳月を経てようやく何かを見つけた者のような安堵だけが浮かんでいた。
諦十は一歩踏み出す。
信号が青へ変わる。
人の流れが交錯する。
少女の姿が、人影に隠れる。
数秒後。
そこには誰もいなかった。
「……また。」
思わず零れた声を、雨音がかき消す。
「知り合い?」
拓真が尋ねる。
「いや……。」
本当に知り合いなのだろうか。
初めて見るはずなのに、胸の奥底では「知っている」と囁く自分がいる。
その感覚は、既視感という言葉だけでは説明できない。
もっと深く、もっと遠い場所から呼びかけられているような、不思議な郷愁だった。
駅前の古本屋は、雑居ビルの一階にあった。
ガラス張りの新しい店舗。
整然と並ぶ棚。
店内には穏やかな音楽が流れている。
「思ってたより普通だな。」
拓真が肩を竦める。
「うん。」
諦十も頷く。
しかし胸のざわめきは収まらない。
彼が探しているものは、本ではない。
"何か"だ。
自分でも名づけられない何か。
本棚を見て回る。
新刊。
文庫。
専門書。
画集。
どこにも、あの日見た白い本はない。
当然だ。
あれは夢だったのだから。
そう自分へ言い聞かせようとした、そのときだった。
店の奥。
雑誌コーナーの壁掛け時計が、不意に止まる。
午後五時二十三分。
秒針が微動だにしない。
諦十の心臓が跳ねた。
(……まただ。)
だが、周囲の客は誰一人として気づいていない。
店員はレジを打ち続け、子どもは絵本をめくり、老人は新聞を読んでいる。
止まっているのは時計だけではなかった。
一瞬だけ。
雨音が消えた。
店内の音楽も。
人々の声も。
世界そのものが、静寂という名の帳に包まれた。
その沈黙の中で。
どこからともなく、少女の声が響く。
「まだ、こちらへ来てはだめ。」
諦十は振り返る。
誰もいない。
次の瞬間。
カチリ、と秒針が動き出した。
世界は何事もなかったかのように音を取り戻す。
「諦十?」
拓真が怪訝そうな顔をする。
「顔色悪いぞ。」
「……大丈夫。」
本当に大丈夫なのか。
その問いに答えられるほど、諦十の心は静かではなかった。
現実は確かにそこにある。
だが、その現実の輪郭は、まるで水面へ映る月影のように揺らぎ始めていた。
そして彼はまだ知らない。
今夜、自分がその"境界"を越えることになるという事実を。
「夜」という時間には、不思議な性質がある。
昼間には気にも留めなかった些細な音が、妙に鮮明に聞こえる。
時計の針が刻む音。
窓の外を通り過ぎる車の走行音。
冷蔵庫の小さな駆動音。
普段なら意識することのないものが、静寂の中では存在を主張し始める。
乾諦十は机に向かったまま、開いたノートを見つめていた。
そこには何も書かれていない。
正確には、書けなかった。
ペン先は紙に触れている。
だが、そこから先へ進まない。
頭の中には、いくつもの情景が浮かんでいた。
遥か彼方まで続く草原。
空を舞う巨大な鳥。
見たことのない街並み。
そして――。
銀色の髪を揺らす少女。
「……誰なんだよ。」
無意識に呟く。
自分でも理解できない。
なぜあの少女が気になるのか。
なぜ初対面のはずなのに、胸の奥に懐かしさが存在するのか。
人間の記憶とは奇妙なものだ。
忘れているはずの出来事が、時折、何の前触れもなく心の底から浮上することがある。
しかし、それは記憶なのか。
それとも、自分が勝手に作り出した幻想なのか。
諦十には判断できなかった。
机の横には、昨日書店で見つけたはずの本がない。
存在しない本。
『境界の記録』
あれは夢だった。
そう考えるのが最も合理的だ。
だが、合理性だけでは説明できないものも、この世界には存在する。
人は未知を理解できない時、それを「偶然」と呼ぶ。
説明できない現象を「錯覚」と片付ける。
しかし、それで本当にすべてを理解したことになるのだろうか。
諦十は窓を見る。
暗闇に映った自分の姿。
どこにでもいる高校生。
特別な才能があるわけでもない。
運動が得意なわけでもない。
成績が飛び抜けているわけでもない。
ただ、本が好きで。
物語を書くことを夢見ているだけ。
「俺は……何を探してるんだろうな。」
答えは返ってこない。
当然だった。
部屋には自分しかいない。
――そのはずだった。
「あなたは、いつもそうだった。」
背後から声がした。
諦十の身体が硬直する。
聞き覚えのある声。
透明感のある、少し寂しげな声。
ゆっくり振り返る。
そこにいた。
窓際。
月明かりの中に、一人の少女が立っている。
銀色の髪。
淡い色の瞳。
白い衣服。
昼間、街で見た少女。
夢の中で聞いた声。
その存在が、今、自分の部屋にいる。
「……誰だ。」
問いかける。
声は震えていた。
恐怖ではない。
理解できないものを前にした、人間本来の困惑だった。
少女は悲しそうに微笑む。
「やっぱり……忘れているんだね。」
「何を?」
「私のこと。」
諦十は息を呑む。
「俺は……君を知らない。」
その言葉を聞いた瞬間。
少女の表情に、ほんの僅かな翳りが落ちた。
だが、彼女は怒らなかった。
責めることもしなかった。
ただ静かに受け入れる。
「うん。」
「今のあなたなら、そう言うと思った。」
「……意味が分からない。」
「そうだよね。」
少女は窓の外を見る。
夜空には、雲の隙間から星が見えていた。
「でも、いつか思い出す。」
「何を?」
「あなたが、私を生み出した理由。」
その言葉に、諦十の心臓が大きく跳ねた。
「……俺が?」
「そう。」
少女は振り返る。
「あなたは昔、私の物語を書いた。」
頭の奥で何かが弾ける。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
幼い自分が見えた。
机。
鉛筆。
真っ白なノート。
そこへ書かれた名前。
――天ノ川ユウキ。
「……違う。」
諦十は首を振る。
「そんな記憶……。」
「なくても不思議じゃないよ。」
少女は優しく言った。
「人は、自分が忘れたものほど近くに残しているから。」
その言葉は、不思議なほど胸に響いた。
「君の名前は?」
問いかける。
少女は少しだけ笑った。
まるで、この瞬間をずっと待っていたように。
「天ノ川ユウキ。」
その名前を聞いた瞬間。
部屋の時計が止まった。
午後五時二十三分。
ではない。
午前零時。
秒針だけが、静止する。
空気が変わる。
世界の輪郭が、一瞬だけ曖昧になる。
「諦十。」
ユウキが言う。
「あなたは、これから選ばなきゃいけない。」
「何を?」
「現実に残るか。」
少女の瞳が揺れる。
「それとも――」
部屋の壁が、まるで水面のように波打った。
その向こう側。
見知らぬ景色が一瞬だけ映る。
広大な草原。
見たことのない空。
遠くに浮かぶ巨大な城。
そして、無数の光。
「こちらへ来るか。」
諦十は息を止める。
それは夢ではなかった。
幻想でもなかった。
確かにそこに、もう一つの世界が存在していた。
しかし次の瞬間。
ユウキの姿が薄れる。
「待ってくれ!」
思わず手を伸ばす。
だが届かない。
少女は最後に、小さく微笑んだ。
「また会おうね。」
「次は……ちゃんと思い出して。」
光が消える。
部屋には静寂だけが残った。
諦十はしばらく動けなかった。
夢だったのか。
現実だったのか。
判断する術はない。
ただ一つだけ。
机の上に、見覚えのない白い紙が置かれていた。
そこには一文だけ書かれている。
「ーー物語の続きを、始めよう。ーー」
その瞬間。
乾諦十の日常は、完全に終わった。




