7
日曜日、朝八時。
カーテンの隙間から差し込む鋭い朝日は、昨日と変わらず容赦なく部屋を照らし出していた。
エアコンはまだ、規則的なハミング音を響かせながら冷たい風を吐き出し続けている。電気が通っている、最後の数時間だ。
玄関の鏡の前で、親父は入念にネクタイのノットを整えていた。
昨夜の「ツツジの葉」の件などまるでなかったかのように、その紺色のスラックスにも、プレスの利いたジャケットにも一点の乱れもない。
脇に抱えられた革のブリーフケースは、やはり不自然なほどに薄く、軽々と揺れている。
お袋が台所から、冷えたミネラルウォーターのペットボトルを持って現れた。それを両手で恭しく手渡す手つきは、まるで戦地へ赴く夫を送り出す健気な妻のそれだった。
「今日も早いのね。週末なのに緊急プロジェクトだなんて、本当に頭が下がるわ。あなたがいなくなると、この家が一気に静かになって、電気代も節約できて本当に助かるわ」
お袋は柔らかい微笑みを湛えながら、静かに親父の喉元へ刃を突き立てる。
そこには、昨日の惣菜のトレイを片付けたときのような、生活の垢は微塵も感じられない。
親父は一瞬、ネクタイを整える手を止めたが、すぐに完璧な「一家の大黒柱」の笑みを取り戻した。
「ああ、急なトラブルでね。でも、すべては君たちの平穏な暮らしのためさ。俺は外で死ぬ気で戦ってくるよ。不便なキャンドルナイトの夜には、最高の仕事の成果を持って帰るからね」
よく通る、自信に満ちた声。
お袋が裏で借金に追われていることも、自分がすでに一年前からリストラされていることも、この声の持ち主は知らないふりをし続けている。
リビングの壁に背を預け、冷え切った麦茶を飲んでいた零二は、グラスを置いて微笑みかけた。
「いってらっしゃい、親父。その、すべてを背負って戦う広い背中、今日も目に焼き付けとくわ」
親父の肩が、ピクリと微かに揺れた。
昨夜、零二にスラックスの「ツツジの葉」を指摘された記憶が、その脳裏をよぎったはずだ。だが、親父は振り返ることもなく、ただ力強く頷いてみせた。
「ああ、男の背中を見て育ちなさい。じゃあ、行ってくる」
重厚な玄関ドアが静かに閉まり、防犯鍵が閉まる金属音がカチャリと響く。
その瞬間、まるでスイッチを切ったように、リビングの空気が変わった。
お袋の顔から、さっきまでの「健気な妻」の笑みが、音を立てて剥がれ落ちる。
手元に残ったペットボトルのキャップを、爪が白くなるほどの力でねじ込みながら、お袋は閉まったドアをじっと見つめていた。その瞳は、一切の光を吸い込んで反射しない、絶対零度の暗闇だった。
お袋は零二の方を見ることすらなく、小さく、吐き捨てるように呟いた。
「……本当に、あの背中だけは立派よね」
その声には、怒りすら通り越した、泥のような諦念と侮蔑が混ざり合っていた。
零二は残りの麦茶を飲み干した。
今日、親父がいつもの公園のベンチで、どんな顔をして鳩にパンを投げるのか。
お袋がこの後、どんな顔をしてヤミ金への言い訳電話をかけるのか。
完璧な悲劇の観客席として、これほど贅沢な日曜日はない。
零二はスマホをポケットに滑り込ませ、自室へ戻るためにゆっくりと歩き出した。
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