8
アスファルトが放つねっとりとした熱気が、スニーカーの底を通じて足裏に伝わってくる。
日曜日、午後一時。
予備校の冷たい自習室をサボり、駅前から少し離れた児童公園へ向かう道すがら、零二はTシャツの襟元を引っ張って風を入れた。
空は白く濁った青で、容赦のない太陽がすべてを平坦に照らし出している。すれ違う人々はだらしない軽装で、額の汗を拭いながら足早に通り過ぎていく。
そんな街の中で、その一角だけが奇妙な磁場を放っていた。
駅前の児童公園。
錆びついたブランコと、触れば火傷しそうな鉄板の滑り台。その中央にあるベンチの周りだけ、異様な密度の「黒」と「白」が渦巻いている。
数十羽の鳩が、狂ったように地面を突いていた。
その中心に、親父がいた。
今朝、お袋に恭しく送り出されたときと全く同じ、非の打ち所がない紺色のスラックス。仕立ての良いジャケット。
だが、その完璧なエリートの戦闘服は、三十度を超える炎天下でじっとりとした汗を吸い、重く肌に張り付いているようだった。ネクタイはきっちりと締められたままで、喉元を締め付けるそのノットだけが、彼の最後の理性を繋ぎ止めているように見える。
親父は、百円の安売り食パンを器用に指先でちぎっては、足元に群がる鳩たちへ投げ与えていた。
「ほら、食え。たくさんあるからな」
その声は、驚くほど穏やかで、そして深く響く美声だった。
オフィスビルの最上階で、大勢の部下を前にプレゼンでもしているかのような、堂々とした態度。
鳩たちがパンの破片を求めて醜く争う様子を、親父は慈愛に満ちた、包容力のある笑みで見下ろしている。
ここでは、彼は紛れもない「与える者」であり、絶対的な「強者」だった。
家庭での序列を失い、社会での居場所を奪われた男が、わずか百円の食パンで買い叩いた、ちっぽけな支配者の玉座。
ベンチを囲む低木には、見覚えのある深緑の葉が茂っている。ツツジだ。
親父がパンを投げるたび、その肘が、あるいは膝が、ツツジの枝に擦れている。昨夜、親父のスラックスに張り付いていた「現場の証拠」が生産されるプロセスを、零二は日陰の自動販売機の陰から静かに見つめていた。
零二はポケットからスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。
画面をピンチアウトし、親父の顔をフレームの中心に捉える。
額から流れ落ちる汗が、プレスの利いた襟元を濡らしていく様子が鮮明に映し出された。その目は、鳩を見ているようで、実際は何も見ていない。ただ、虚無の焦点を宙に結んでいる。
画面をタップし、シャッターを切った。
音を消したレンズが、親父の「大仕事」の瞬間を静かに、そして完璧に記録する。
スマホの画面の中で、親父は相変わらず優雅にパンをちぎり続けている。
零二は、撮影した写真を家族グループLINEに送信したい衝動を、指先で静かに抑え込んだ。
ここでこの写真を送りつければ、ゲームは一瞬で終わる。親父のプライドは完全に爆発し、お袋の静かな嫌味のシステムも崩壊し、ただの「ありふれた悲惨な家庭」に成り下がるだろう。
それは、あまりにももったいない。
この贅沢な喜劇の幕は、もっと最悪で、もっと美しい場所で下ろされるべきだ。
このカードは、まだ切るべきじゃない。
ポケットの中で、スマホが親父の惨めな姿を吸い込んだまま、じんわりと熱を帯びていく。
零二は、鳩の羽音と親父の優しい独り言を背中で聞きながら、ゆっくりと公園を後にした。
今夜、ついに電気が消える。
真っ暗闇の食卓で、この「エリートの背中」がどんな大嘘を語るのか、今から楽しみで仕方がなかった。
面白いと思われましたらページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




