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ボウルに張られた生ぬるい水道水に両手を浸し、母はプラスチックの寿司桶へ指先を滑り込ませた。
カサ、と乾いた音が狭い台所に響く。
三十度を超える密室で一晩晒され、表面が黄色く硬化したシャリの塊が、母の濡れた掌の中で押し潰されていく。酢と糖分が結晶化して指肌に粘りつき、ミシミシと繊維が軋む微小な感触が、無言の空間に染み渡る。
表の鉄扉には、依然として鈍い衝撃が断続的に打ち込まれていた。
「開けろ! 居留守使ってんじゃねえぞ!」
男の濁った怒声が壁の石膏ボードを共鳴させ、床板をかすかに震わせる。
母はその振動に一度も視線を向けず、濡れた掌に体重を預けて、石のように固まった米粒をぎゅうと丸め込んだ。塩すら振らない。ただ水道水で表面の乾きを強引に湿らせただけの、歪な白い塊が四つ、シンクの横に置かれたマイセンの大皿へ並べられていく。昨夜の醤油の輪染みが落ちきらないまま薄く残る、純白の磁器の上へ。
母は皿を両手で持ち上げると、何事もない足取りでダイニングテーブルの中央へ運んだ。
「お父さんの新しいスタートを祝って、最高にミニマムな朝ごはんを用意したわ。感謝してね」
澄み切った母の声が、熱気の中に置かれた。
父は脇に抱えた空のブリーフケースの革を、爪が食い込むほど握りしめたまま、その皿を見つめている。額から顎へと垂れた汗が、襟元に落ちて小さな濃紺の染みを作った。
勝手口のサンダル前で立ち止まっていた美咲が、ゆっくりと踵を返し、音を立てずに椅子を引いた。制服のプリーツスカートを滑らかに整え、皿の上にある一番小さな塊を指先でつまみ上げる。
「いいじゃん。お父さんがエリートなおかげで、初日からサバイバル感が味わえて最高だわ」
美咲は唇の端を引き上げ、前歯でその硬い塊の端を削り取った。ボリ、と奥歯で乾いた酢飯を噛み砕く鈍い音が、静まり返った部屋に小さく鳴る。喉仏が不自然に大きく動き、乾ききった米が食道を通る痛みを堪えるように、美咲の眉根が一瞬だけ寄った。
零二もまた、テーブルへ歩み寄り、冷たく固まった塊を一つ手に取った。
指先に伝わる感触は、食べ物というよりは乾いた樹脂に近い。
「さすがだね。これで俺たち、どんな泥沼でも生きていけるって証明されたわ。助かるよ、本当に」
零二はそれを口に含んだ。
酸っぱさと、生ぬるい水道水のカルキ臭が舌の上に広がる。唾液を急速に奪われ、口腔内の粘膜に硬い米粒が張り付くのを、顎の力だけで強引にすり潰していく。
父の乾いた喉が、ゴクリと空気を呑み込む音を立てた。
父は床に置いたブリーフケースの角に視線を落とした後、ゆっくりと、震える右手を伸ばした。
太い指先が、皿に残った最後のおにぎりに触れる。
指先がわずかに痙攣し、握り締めた瞬間に、ぽろぽろと乾いた米粒が二、三粒、マイセンの皿の上へとこぼれ落ちた。
父はその塊を口元へ運び、大きく口を開けて押し込んだ。
ギチリ、と前歯と米が擦れ合う音が響く。
唾液の足りない口内で、父は何度も、必死に顎を動かした。噛み砕くたびに首筋の腱が浮き上がり、充血した眼球から、汗とは違う透明な液体がじわりと滲み出て、無精髭の伸びた頬を伝い落ちる。
喉が詰まり、息が止まりかけ、父の胸郭が大きく波打った。
それでも父は吐き出さず、喉の奥を鳴らしてそれを胃の底へと落とし込んだ。
唇の端に張り付いた米粒を手の甲で拭うこともせず、父は掠れた声の残骸を、絞り出すように紡いだ。
「……ありがとよ。お前らがそうやって、俺の『新しい挑戦』を最高に甘やかしてくれるから、俺は今日も、胸を張って次の『クライアント』を開拓しに行けるわ」
その声の語尾は湿って震えていたが、顔の筋肉だけは、完璧なエリートの笑顔を張り直していた。
零二は、口の中に残る米の破片を舌でまとめ、強引に飲み干した。
食道を通る冷たく硬い異物感が、胸の奥を重く冷やす。
ドガアン、と玄関の鉄扉が、外側から一段と激しく蹴りつけられた。
その衝撃で、テーブルの中央に残された空のプラスチック寿司桶が、カサリと微かに位置をずらした。
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