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深夜二時。
二階の自室から出ると、階段の吹き抜けを通じて、ねっとりとした生温い湿気が這い上がってきた。
無風。エアコンの稼働音がない家は、まるで巨大なコンクリートの棺桶のようだ。
零二は音を立てずに階段を降りた。
暗闇に慣れた目で一階のリビングを見渡すと、窓の外から差し込む、街灯の薄汚れたオレンジ色の光だけがフローリングをぼんやりと照らしている。
台所の方から、かすかにカチャリ、と硬い磁器が擦れ合う音が響いた。
お袋が整えたマイセンの皿は、シンクの中にそのまま重ねて放置されていた。
お湯の出ない蛇口から細く出た生ぬるい水で、こびりついた醤油の乾いた輪染みだけでも洗い流そうとしたのだろう。だが、指先すら見えない暗闇の中で、滑らせたら一瞬で割れる薄い高級食器を扱うプレッシャーに耐えかね、結局は汚れを落としきる前に途中で諦めたのだ。
中途半端に濡れた、薄汚れた醤油の跡が残る純白の皿たちが、闇の中で鈍く光っている。
ダイニングテーブルの脇、あの巨大な鉄塊(懸垂マシン)の影に、黒い塊が沈んでいた。
親父だった。
まだ、きっちりと仕立てられた紺色のスーツを着たままだ。ネクタイのノットすら緩めることなく、親父はフローリングの床に両膝を突き、額を床に擦り付けるようにしてうずくまっていた。
その背中が、細かく、規則的に波打っている。
声は聞こえない。
ただ、荒い呼吸が喉の奥で押し潰され、ヒュウ、ヒュウと掠れた空気の音だけが暗闇に漏れ出ていた。
床に突き合わされた両拳は白くなるほど握りしめられ、じっとりと流れた汗と、床に落ちた涙が、街灯の光を浴びて不気味にきらめいている。
無音の慟哭。
この期に及んでも、親父は声を上げて泣くことすら自分に許さなかった。
もしその泣き声が二階の子供たちや妻の耳に届けば、自分が築き上げてきた「有能な大黒柱」という、生存のための唯一のメッキが完全に溶けて消え去るからだ。
零二は、階段の最後の一段に腰掛け、その様子を黙って見つめていた。
声をかけるつもりはなかった。
「どうしたの」とも、「大丈夫」とも言わない。そんな安っぽい同情や慰めは、この家を支配する冷酷なルールに対する無作法でしかない。
親父は、ただの「ごめん」という一言が言えない。
「本当は無職なんだ。ヤミ金に手を出した。お前たちの学費も払えない。助けてくれ」と、その薄っぺらいプライドを捨てて頭を下げれば、どれほど楽になれただろう。
しかし、それを口にした瞬間、彼は明日からスーツを着て「公園」へ行く資格を失う。家族から「有能な大黒柱」として磨き上げられるゲームの主役の座を追われる。
だからこそ、親父は自ら望んで、この大嘘という名の強固な檻に鍵をかけ、その内側で窒息しかけているのだ。
親父の震える肩を、巨大な鉄塊の影が、まるで値踏みするように上から冷たく見下ろしていた。
零二はゆっくりと立ち上がり、自室へ戻るために階段へと足を向けた。
明日の朝になれば、親父はまた、じっとりと汗の染み込んだそのスーツに無理やり体を押し込み、空のブリーフケースを持って「出勤」する。お袋はそれを笑顔で見送り、美咲は一番可愛い笑顔で彼を脅迫するだろう。
誰一人として、救済を求めていない。
この滑稽で、美しいまでの地獄のシステムは、まだ崩壊の引き金を引くには至っていなかった。
零二は階段を上りながら、喉の渇きを覚えることも忘れ、ただ背中にまとわりつく湿り気のある闇を、愛おしむように静かに引き連れていった。
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