29
沈黙。
エアコンのファンが沈黙したリビングには、ただ、開け放たれた窓から流れ込む生温いドブの風が通り抜ける音だけが、不気味に響いていた。
お袋は静かにウニを口に運び、親父は自分の痛む膝をさすりながら、美咲の不自然な沈黙を訝しそうに見つめている。
美咲は、汗ばんだ掌のなかで、美しく整えられた爪を痛いほど肉に食い込ませていた。
引きつりそうになる口元を、血が滲むほどの自制心で必死にコントロールし、美咲は喉の奥を鳴らして、無理やり極上の甘い笑顔を貼り直した。
「……ロフト、じゃなくて、あの、私の『将来への投資』の五万円。それも、お父さんの偉大なキャッシュフローの、ほんの微々たる一滴に過ぎないってことよね。お父さんの壮大なビジネススケールに比べたら、私の小さな悩みなんて本当にちっぽけに見えてきて、すっかり安心しちゃった」
流れるような美声をどうにか繋ぎ合わせたものの、その語尾はかすかに震えていた。
しかし、親父もお袋も、その「ロフト」という単語の本当の意味を知らない。
「ロフト? ああ、あのオシャレな雑貨屋のことかい。ふむ、美咲はあそこで何か勉強机でも買うのかな。それとも部屋の模様替えかな」
親父は、少しだけ不思議そうに眉をひそめたものの、深くは追及しなかった。
お袋もまた、美咲の不自然な硬直を「若者らしいオシャレへの関心」としか受け止めておらず、ただ優雅にお寿司を口に運んでいる。
暗闇の中で、美咲の失言の『本当の意味』を正確に理解し、その自滅寸前の表情を味わっているのは、ただ一人――すべてを知っている零二だけだった。
零二は、美咲が焦って美しく整えられた爪を痛いほど掌に食い込ませ、必死に笑顔を取り繕おうとする様子を、ゾクゾクとするような快感とともに眺めていた。
(最高だ。やっぱりこの劇場は、一秒先すら退屈させない)
零二は、すかさず美咲に向かって極上の笑みを投げかけ、彼女の危機を「エリートの会話」として甘やかす。
親父は、膝の痛みに耐えながら、娘の「投資」という言葉に大きく頷いた。
「はは、五万かい。美咲、そんなものは投資と呼ぶにも値しない、ただの日常の端数だよ。一流の男にとって、家族の未来への投資ほど効率の良い使い道はないからね。いつでも、一番スマートな形で決済してあげるよ」
美咲は、親父のその言葉に安堵の吐息を漏らしつつも、自分を冷たく見つめる零二の視線に気づき、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
誰も本当のことは言わない。
電気も、ガスも、お金も、未来も、何一つ残されていないこの暗闇の食卓で。
彼らはただ、目の前にある生ぬるい特上寿司を「最高のエリートの証」として、互いの喉元に笑顔という名の嫌味の刃を深く突き立て合っていた。
じわりと、室温が上がっていく。
全員の肌を覆う生ぬるい汗が、ろうそくの火に照らされて、不気味にギラギラと光り輝いていた。
面白いと思われましたらページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




