28
零二が口に運んだ大トロは、驚くほど生ぬるかった。
三十度を超えるリビングの熱気に晒され、ネタの脂はだらしなく溶け出し、舌の上で重くまとわりつく。冷房の死んだ家では、最高級のネタも、ただの温まりかけた生魚の肉塊にすぎない。
お茶を飲んで喉を潤したいが、結露すら作らないグラスの中の液体は、リビングの淀んだ空気と完全に同化して生温い。
零二は、純白のマイセンの皿の上で、シャリをゆっくりと噛み締めながら、対面に座る親父へ微笑みを向けた。
「ほんと、このお寿司、余計なキャッシュを限界まで絞り出したようなタイトな締まり具合だね。まるで親父の緻密な資産ポートフォリオを見ているみたいだ。一ミリの無駄なキャッシュも余らせない、極限までスリム化されたスマートな我が家の家計そのものだよ」
一ミリの無駄なキャッシュも余らせない、タイトな資産ポートフォリオ。
それは、どこからか無理やり工面してきた一万円札をはたき、それでも足りずに財布の底をさらって数十円の小銭まで這いつくばってかき集めなければ一万二千円すら払えなかった親父の、救いようのない困窮に対する、最高に上品に仕立て上げられた皮肉だった。
お袋が、箸でウニの軍艦を美しくつまみ上げながら、零二の言葉に流れるように乗っかる。
「本当にそうね。お父さんがこうして日々、世界を相手に『スマートに』資金を循環させてくれているおかげで、私たちはこうして暗闇の中でも、何一つ不安を抱かずに最高級の味覚に集中できるのね。今日の大口のプロジェクトの成功で、私たちの『家計の健全性』もさらに強固なものになるんでしょうね。本当に、この頼もしさには言葉もないわ」
お袋の目が、ろうそくの炎を反射して不気味に細められる。
お袋は、親父がとっくにリストラされている無職であることを知っている。引け目に感じている無職の親父を「大企業エリートの夫」としてヤミ金に担保として差し出し、返済を今月末まで延命しているのだ。
つまりお袋にとっても、親父が今日「プロジェクトを成功させて昇進した」という大嘘は、自身の破滅を先延ばしにするために絶対に本物として維持しなければならない生命線なのだ。
だからこそお袋は、親父の無能を「スマートな資金循環」と言い換え、そのメッキを誰よりも悪意を込めて磨き上げる。
親父は、喉の渇きを堪えるように、ぬるいお茶を一口だけ含んだ。
汗で紺色に変色したネクタイのノットが、彼の呼吸に合わせて激しく上下する。
「はは……当然さ。スマートな資金流動性の確保は、一流のビジネスマンにとって呼吸と同じだからね。明日からもまた、さらに大きな取引の資金が動く予定だから、何も心配はいらないよ。すべては、君たちの贅沢な暮らしを維持するための、大黒柱としての最低限の義務にすぎないからね」
よく響く、堂々とした美声。
しかし、その声は熱気を含んだ室内のせいで、どこか湿り気を帯びて重い。
親父は、必死に自分のメッキにしがみついている。そうしなければ、明日から「出勤」するための公園のベンチすら失ってしまうからだ。
美咲が、マイセンの純白の醤油皿に、ほんの一滴だけ醤油を落とした。
ろうそくのオレンジ色の光が、美しく整えられた彼女の爪を妖しく照らし出す。
「すごーい。大きな取引ね。お父さん、それなら私の次の……『ロフト』」
不意に、美咲の言葉がピタリと途切れた。
「ロフト」という単語が、暗闇の中で鋭いナイフのように彼女自身の喉元に突き刺さった。
(しまっ……!)
美咲の呼吸が、熱気の中でひゅっと止まる。
常習的に万引きを繰り返し、防犯カメラの映像を店長に握られている、駅前の「ロフト」。
その忌まわしい名前が、焦燥のあまりに滑り落ちてしまった。
ろうそくの灯りに照らされた美咲の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
面白いと思われましたらページ下部の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援お願いします!




