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本マグロの脂の、甘く濃厚な匂い。
それが、台所の奥から漂ってくる、腐敗の始まった生ゴミの酸っぱい死臭と、窓から流れ込むドブの熱気の中にまざまざと溶け出していく。
鼻腔を刺すそのグロテスクな匂いのマリアージュに、零二は喉の奥で小さく乾いた笑いを漏らした。
「お父さん、すごーい。この暗闇の中に並ぶ特上寿司、なんだか美術品みたいに眩しいわ。私、こんなドラマチックなディナー、お父さん以外の男性には一生ご馳走してもらえないって確信しちゃった」
美咲が、美しく整えられた爪で箸を取りながら、うっとりとした甘い声を上げた。
ロフトの店長が防犯カメラの映像を握りしめて待っているという、破滅へのカウントダウン。
それを一瞬で消し去るための五万円の「将来への投資」を、このお寿司を頼めるほど有能な父親なら、当然一瞬で決済してくれるはずだ。
美咲の笑顔には、そんな冷酷な信頼(脅迫)が、一点のブレもなく宿っていた。
「はは、当然さ。美咲。一流の男は、どんな逆境でも家族を飢えさせたりはしない。いつでもスマートに、最高のエンターテインメントを提供してみせるのが、大黒柱の義務だからね。さあ、遠慮せずに食べなさい。これからはもっと、大きな取引がいくつも動く予定なんだからね」
親父は、昨夜鉄塊にぶつけ、さらにさっき玄関の門扉に強打した膝の痛みに耐えるように、太ももを固く震わせながら言った。
きっちりと締められたネクタイのノットには、じっとりと汗が染み込み、濃い紺色に変色している。
零二は、暗闇の中でスマホをそっとポケットの奥へと押し込み、箸を手に取った。
テーブルの隅。
そこには、お袋がわざわざ用意したマイセンの純白の醤油皿が、不気味なほど白く、ろうそくの光を反射していた。
誰も本当のことは言わない。
電気も、ガスも、お金も、未来も、何一つ残されていないこの暗闇の食卓で。
彼らはただ、目の前にある極上の寿司を「最高のエリートの証」として、互いの喉元に嫌味の刃を突き立てるためのエサにしていく。
ゾクゾクとするような快感が、零二の背筋を冷たく這い上がっていった。
「さすが親父。それじゃあ、我が家の誇る最高のディナーを、心ゆくまで味合わせてもらおうかな」
零二は微笑み、トロの脂が妖しく光る一貫へと、ゆっくりと箸を伸ばした。
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