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お袋は、大きなプラスチックの寿司桶をポリ袋から取り出し、ゆっくりとダイニングテーブルの中央へ据えた。
三本のろうそくのオレンジ色の炎が、半透明の蓋越しに、艶やかなネタの色彩を不気味に浮かび上がらせる。
台所から、カチャカチャと上品な硬い音が響いた。
戻ってきたお袋の両手には、我が家が誇る最高級の、マイセンのブランド食器が四人分、恭しく重ねられていた。
ろうそくの頼りない光しか届かない暗闇の台所で、水道から出るあの真夏特有の生ぬるい水を使い、一枚数万円もするマイセンの薄い磁器を、絶対に割らないように手洗いすることがどれほど神経をすり減らすことか。
お袋はそれを百も承知で、あえて使い捨ての紙皿ではなく、エリートにふさわしい純白の磁器を並べてみせる。その無言のセッティングそのものが、食後の「片付け」という見えない重圧となって、親父の喉元へ押し当てられた冷たい刃だった。
「さあ、お父さん。せっかくの最高級のお寿司ですもの。ふさわしい器で、ふさわしい演出を楽しませていただくわね」
お袋は柔らかく微笑み、親父の目の前に純白の取り皿を置いた。
「ああ……。そうだな。エリートの食卓には、細部に至るまで一ミリの妥協もあってはならないからね。さすがは俺の妻だ、よく分かっている」
親父は、汗だくの額を手の甲で拭いながら、これ以上ないほど誇らしげに頷いた。
だが、その視線はテーブルの隅に置かれた、お袋が注いでくれた「生ぬるいお茶」のグラスへと落とされる。
冷蔵庫が死んで丸一日が経つ。当然、氷はない。
お袋がファミレスのドリンクバーから水筒に詰めて持ち帰ってきたというそのお茶は、すでに完全にリビングの生温い熱気に同化し、グラスの表面に結露すら作っていなかった。
お湯が出ないため、全員が昼間の汗をただの生ぬるいシャワーで無理やり流しただけの、どことなくベタつく肌。
浴びている瞬間は多少涼しくとも、エアコンの切れた脱衣所に出た瞬間にまたじっとりと汗が噴き出してくる。
洗濯機が使えず、浴室で冷水手洗いされたきり、水分を含んだままエアコンの死んだ湿気の中で乾かされた衣服からは、かすかに生乾きの湿った匂いが漂っている。
それでも「不潔さ」という最悪のボロだけは出すまいと、エリートの外面を必死に死守しようとする家族の執念が、暗闇の中で静かに燻っていた。
「本当、エアコンもきかない贅沢な温室で、獲れたての新鮮なお寿司をいただくなんて、どんな高級料亭も敵わない粋な趣だわ。この不便を楽しむ心の余裕こそ、本当のステータスね。お父さんのバイタリティには、本当に救われるわ」
お袋は、自分の前に置かれた寿司の蓋を、静かに、滑らかに引き剥がした。
その瞬間、リビングの淀んだ空気が一変した。
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