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火曜日の、午後七時。
電気が遮断されて三日目の夜、山崎家は完全に外界の生温い闇に同化していた。
エアコンのハミング音が消えたリビングは、少しでも風を通しようと窓を開け放してあったが、流れ込んでくるのは夜の熱気と、どこか遠くのドブの匂いだけだった。台所からは、腐敗の始まった生ゴミの酸っぱい臭いが、目に見えない煙のようにじわりと漂っている。
ダイニングテーブルの上では、残り少なくなった三本の白いろうそくが、頼りなく揺れていた。
その貧相な光に照らされて、お袋と美咲、そして零二が、お互いの視線を外しながら静かに座っている。
その時、開け放たれた窓の向こうから、カブのけたたましいエンジン音が近づき、門扉の前でピタリと止まった。
出前のバイクだ。
やがて、玄関先で、聞き慣れた堂々とした声と、配達員の若い男の事務的な声が交わされるのが聞こえてきた。開いた窓からは、遮るものなく二人の会話がリビングへと筒抜けになっている。
「山崎様ですね。特上寿司四人前、代引きで一万二千円になります」
「ああ、ご労様。ちょうどプロジェクトの祝杯でね……。ええと、一万二千円ね。ちょっと待ってくれ……あ、あれ、おかしいな……」
親父の声が、不自然に上ずった。
カサカサと、財布のポケットを焦って探る音が、静まり返った夜の空気によく響く。
「あの、お客様、一万円札一枚と……千円札が一枚、ですかね。あと千円足りないようですが」
「いや、ある、あるから。ちょっと待ってくれ。今、別のポケットに……あ、痛っ!」
直後、ゴン、と鉄製の門扉に硬い骨を激しくぶつけたような、鈍い音が響いた。昨夜リビングの鉄塊にぶつけて悶絶していたあの膝を、焦りのあまりまたどこかに強打したのだろう。痛みに耐えかねた親父の、短い呻き声が聞こえる。
「あ、いや、大丈夫だ。あ、すまない、小銭が落ちた。ちょっと拾うのを手伝って……」
「……あの、お客様。今かき集めていただいた小銭、全部で七百円、ですかね。すみません、あと三百円足りないようですが」
「十円、二十円……ほら、これでぴったりだろ?」
ジャラジャラ、とアスファルトに無残に小銭がこぼれ、それを必死にかき集める金属音が響く。
一流メーカーのエリートサラリーマンが、玄関先で、わずか数百円の端数のために這いつくばって小銭を数えている。そのあまりにも見苦しい現実の音が、暗闇のリビングに容容なく流れ込んできた。
お袋は、揺れるろうそくの炎をじっと見つめたまま、微動だにしない。
美咲は、美しく整えられた爪を静かに弄んでいる。
二人とも、その「現実」を確かに耳にしながら、まるで高尚なクラシック音楽でも聴いているかのように、エレガントな無表情を貫いていた。
やがて、カブのエンジン音が遠ざかり、玄関のドアがガチャリと重い音を立てて開いた。
リビングに入ってきた親父は、汗だくの額を手の甲で拭いながら、これ以上ないほど輝かしい大黒柱の笑みを浮かべていた。
その両手には、出前の白いポリ袋に包まれた、大きなプラスチックの寿司桶が恭しく抱えられている。
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