19
美咲の部屋を出て、階段を降りる。
直射日光を浴びる二階の灼熱からは逃れられたものの、エアコンの死んだ一階もまた、逃げ場のない熱気が淀んでいた。
台所から漂うかすかな酸っぱい臭いは、確実にその濃度を増している。お袋の姿はリビングにはなく、ただあの巨大な「鉄塊」だけが、沈む夕日を浴びて長い影をフローリングに伸ばしていた。
零二はそのまま玄関のドアを開け、外へ出た。
モワリ、とアスファルトが放つ生温い風が、容赦なく全身にまとわりつく。
西の空は、濁った血のような不気味な赤紫に染まっていた。
門扉の脇にある、山崎家の郵便ポスト。
「エリートの家」にふさわしい、磨き上げられたモダンなステンレス製のデザインだが、直射日光を一日中浴びていたそれは、触れれば火傷しそうなほど熱を持っていた。
零二は、スマートな手つきでポストのダイヤルを回し、パカパカと乾いた音を立てて蓋を開けた。
中に入っていたのは、数枚のデリバリーピザのチラシ。 それと、厚手のしっかりとした紙に印刷された、品格のあるロゴが入った封書だった。
差出人は、彼がサボり続けている都内有数の大手予備校。
宛名は、世帯主である親父ではなく、零二本人の名になっている。
零二はチラシをその場でゴミ箱へ捨て、その青い封筒だけを手に取った。
糊付けされた端を、汗ばんだ指先で静かに破る。
中に二つ折りにされて入っていたのは、一枚の警告書だった。
『前期授業料・未納に伴う除籍処分予告書』
上品なフォントで印刷されたその紙面には、山崎零二の籍が、今週末をもって完全に抹消される旨が極めて事務的に綴られていた。
「教育へのプレミアムな投資」を惜しまないはずの我が家で、第一志望合格の切り札であるはずの予備校の学費が、一円も振り込まれていなかったのだ。
零二は、夕暮れの赤い光の中で、その警告書をじっと見つめた。
「なるほどね」
ぽつりと、乾いた独り言が口からこぼれた。
怒りも、焦りも、驚きすらない。
ただ、胸の奥からせり上がってくるのは、完璧に美しく組み上がったパズルを眺めるときのような、ゾクゾクするような高揚感だった。
親父の、財布の中に千円しか入っていない「リストラ無職」。
お袋の、その無職の夫を担保にした「ヤミ金一歩手前の多額の借金」。
美咲の、逮捕秒読みの「常習万引きと五万円の示談金」。
そして零二の、「学費未納による予備校除籍」。
我が家の全員が、それぞれの喉元に致命的な爆弾を抱えながら、お互いの仮面を必死に磨き合っている。
これで、すべてのカードが揃った。
この山崎家という崩壊しかけた劇場で、誰がどのカードを最初に切り、誰の嘘から爆破していくのか。その主導権は、今やこのすべての秘密を握る零二の手の中にあった。
零二は、警告書を丁寧に三つ折りにし、ポケットのスマホのすぐ脇へと滑り込ませた。
満充電のスマホの冷たさと、除籍通知の乾いた紙の感触が、ポケットの中で静かに同居している。
家の中からは、美咲が親父の部屋から戻ってきたのだろう、ドタバタとした微かな足音が聞こえてきた。
今夜、美咲は親父の「大黒柱としてのプライド」を、一番可愛い顔で脅迫しに行く。
零二は唇の端を不気味に吊り上げると、じっとりとした熱気が満ちる家の中へと、ゆっくりと足を踏み入れた。
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