18
美咲は観念したように奥歯を噛み締め、ポケットから親父の空っぽの財布を取り出すと、ゴミでも捨てるように冷酷に廊下へと落とした。
パサリ、と力ない音を立てて、ブランド物の財布が転がる。
「無能ね。あの男」
「お父さんのこと?」
「ええ。超一流企業のエリートサラリーマンの財布に、たったの千円よ? 今の日本のビジネス界って、お給料を『信用』っていう目に見えない仮想通貨で払うシステムにでもなったのかしら。これじゃ、私の将来設計に一ミリも投資できないじゃない」
吐き捨てるような、しかしどこか気品を保とうとする掠れた声。
美咲は、親父が無職であることを薄々察してはいた。しかし、いざ目の前で「千円の財布」という絶対的な無能を突きつけられ、自分の逮捕という現実が秒読みになったことで、エリートの仮面を維持する余裕を失いかけていた。
零二は転がった財布を爪先で軽く突き、美咲を見つめた。
「エリートだよ。うちの親父は。だから、美咲が『次のテストで学年一位を取ったから、お祝いに五万円ほしい』って可愛くねだれば、一瞬で用意してくれるさ。例えそのお金が、どこかのオフィスから引っ張ってきた泥臭い五万円だとしてもね」
「……え?」
「親父は『有能な大黒柱』のロールプレイを維持するためなら、どこからでもお金を工面してくる。それが例え、自分の首をさらに絞めることになってもだ。お前はただ、お父さんのその『プライド』を、一番可愛い顔で甘やかして、スマートに脅迫すればいいだけだよ」
美咲の呼吸が、熱い空気の中でひゅっと止まった。
零二の言っていることの恐ろしさを、彼女の冷徹な頭脳は一瞬で理解した。
父親が「無職で金がない」と知りながら、それを「知っている」とは絶対に口にせず、ただ「有能なお父さん」という大嘘を限界まで甘やかし、自分のために借金を重ねさせる。
お袋が、親父の無職を担保にヤミ金から借金をしているのと同じシステム。
この山崎家という劇場では、親父の「プライド」こそが、全員が寄生し、吸い尽くすべき最も甘い蜜なのだ。
やがて、美咲の唇の端が、じわりと不気味に吊り上がっていった。
絶望に染まっていた瞳に、いつもの、冷酷で有能なエリートの娘としての光が戻ってくる。
「……そう。そうよね。お父さんはエリートだもんね。五万円くらい、一瞬よね。お兄ちゃんのその、どん底から最適な解決策をスマートに導き出す要領の良さ、さすが我が家の長男だわ」
「どういたしまして。だから、今夜のキャンドルナイト、楽しみにしておきなよ」
零二は笑い、美咲の横を通り抜けて階段を降りていった。
廊下に残された、ブランド物の空っぽの財布。
美咲はそれを拾い上げ、丁寧に埃を払うと、何事もなかったかのように親父の部屋のチェストの上へと戻した。
誰も本当のことは言わない。
ただ、狂ったように磨き上げた嘘の刃を、お互いの背中から深く、深く、突き立てていくだけだ。
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