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お袋は、親父がすでに一年前にリストラされ、毎日公園で鳩にパンを投げていることなど、とっくに百も承知なのだ。
にもかかわらず、返済を迫る金融業者に対しては、その「エリートサラリーマンの夫」という存在しない虚像を誰よりも熱心に、そして必死に担保として差し出している。
お袋が、親父の「有能な大黒柱」というメッキを誰よりも丁寧に磨き上げていた理由が、ここですべて繋がった。
もし親父の失業が公になれば、お袋の「エリートの妻」という世間体だけでなく、この「夫の昇進とボーナス」という大嘘による借金の延命システムそのものが一瞬で大爆発を起こす。
お袋にとって、親父が無職であることを『知っている』と明かすことは、自分の首を絞めることと同義なのだ。
だからこそ、お袋は親父の空のブリーフケースを健気に見送り、その嘘を優しく甘やかしていた。
自分の借金という、もっと泥臭くて無惨な現実を覆い隠すために。
「ええ、はい……絶対に、今月末までには。何卒、よろしくお願いいたします……はい、失礼いたします」
通話が切れる音が響き、お袋はゆっくりとスマホを耳から離した。
そのまま、鉄塊の冷たいフレームに、お袋はすがりつくようにして額に押し当てた。
十万円のカードローンで買った、狭いリビングを完璧に引き裂く巨大な無駄遣い。
エアコンのハミング音がない山崎家には、ただ、ぬるい熱気と、お袋の荒い呼吸の音だけが虚しく満ちている。
零二は、音を立てずにドアを静かに閉めた。
予備校をサボっている自分。
無職を隠して鳩にパンを投げる親父。
借金の言い訳にその無職の親父を担保にするお袋。
お互いに本当のことは言わない。
いや、言えないのだ。このシステムを存続させるために、全員が誰かの嘘を、命綱のように握り締めているのだから。
ポケットの中で、スマホがバッテリーの限界を告げる低い警告音を震わせた。
画面の右肩で、赤くなった電池マークが「残り15%」を指している。
コンセントの死んだこの家で、全員がどうやってこの命綱を繋ぎ止めているか。その答えは、考えるまでもない。
零二は、暗闇の劇がゆっくりと、しかし確実に、取り返しのつかない終幕へと向かって転がり始めているのを肌で感じていた。
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