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【100万PV突破‼︎】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第八十六話「父からの返書——千年の家格、千年の知」

 万延二年、新春。


 江戸の正月の三日松も既に終わり、町には日常の音が、徐々に戻り始めていた。

 しかし新春の気配は、まだ濃く残っている。武家屋敷の門前には、注連縄と門松が掲げられ、商家の軒先には、屠蘇祝いの縁起物が、幾つも飾られていた。子供たちの凧揚げの声が、遠くから風に乗って届いてくる。

 一橋上屋敷の表門にも、立派な門松が一対、控えめに、しかし格式高く飾られていた。注連縄には、京の御所を意識した、淡い紫の和紙の御幣が、添えられている。


 奥御殿の御座所。

 部屋の床の間には、紅白の梅を一枝、青磁の花入れに活けてあった。冬梅の蕾は、ようやく半ばまでほころび、淡い紅の色を、覗かせ始めていた。

 違い棚の上には、新春の祝いとして京の親戚から届いた飾り扇が、丁寧に置かれている。


 部屋の隅では、新しい炭を入れた火鉢が、いつもより力強く燃えていた。炭の燃える「ちりちり」という小さな音だけが、新春の朝の静けさの中で、奇妙に賑やかに響いている。火鉢の周囲には、わずかに陽炎のような揺らぎが立ち上っていた。


 障子の向こうでは、新春の朝の光が、白く柔らかく、差し込んでいる。庭の松の葉には、まだ薄く霜が残り、その霜が朝の光を受けて、白く輝いていた。庭の隅で、つわぶきの黄色い花が、冬の終わりを静かに告げている。


 池の水面には、薄い氷がまだ張っていた。その氷の縁が、朝の光を受けて虹色に薄く光っていた。

 文机の前で糸子は、一通の書状を見つめていた。


 書状は、まだ封を切られていない。表には見慣れた、しかし…いつ見ても胸の奥が熱くなる筆跡で——「糸子へ」と書かれていた。

 近衛忠房の筆跡。

 父からの返書であった。


 葵が、その書状を糸子の元に届けたのは、つい四半刻ほど前のことだった。


 「姫君様、京から——」

 葵の声は、いつもよりわずかに高かった。葵自身も、この書状の重みを察していた。


 「ようやく届きましたか」

 糸子の声は、平静を保とうとしていた。しかし葵の目には、糸子の指先が、わずかに震えていることが、はっきりと見えていた。


 葵は書状を、文机の上に丁寧に置いた。

 そして——糸子が書状を、手に取らないことに、すぐに気づいた。

 糸子は——書状を見つめているだけだった。

 じっと、ただじっと…見つめている。


 葵は、文机の脇で静かに座って待った。

 お茶を淹れ直すこともしなかった。袖に隠した手を、膝の上で揃えたまま、ただ、糸子のそばに控えていた。

 (——姫君様)

 (怖いのでございますね)

 (あれほど大事な書状を、御自ら書かれて京に送られた)

 (なれど——届いた返書を、すぐにお開きにならない)

 (中身を知るのが——怖いのでございますね)

 葵にも、その気持ちは分かった。


 糸子が父上に書いた書状の重みは、葵も近くで見ていて感じていた。

 あの夜、糸子は文机の前で、何度も何度も筆を止め、長い溜息をつき、そしてまた書き続けていた。

 書状を書き終えたとき、糸子の目元は、明らかに赤かった。


 その書状への——返事である。

 もし、父上が「お前はやり過ぎだ」と書いてこられたら。

 もし「近衛家として、そのような無謀な計画は認めぬ」と書いてこられたら。

 もし「お前は京に戻ってこい」と書いてこられたら。

 葵はその全ての可能性を考え、——そして、糸子もまた、考えているのだろうと思った。


 糸子の指が——書状の縁に、触れた。

 しかし、すぐに離れた。


 糸子は思う…

 (——どうしよう)

 (父上は何と書いてこられただろう)

 (怒っておられるだろうか?)

 (いや…父上が、わたくしに対して怒られたことは、過去に一度もない)

 (なれど——今回はもしかしたら……)

 (怒られなくとも——「やめろ」と書いてこられたら…)

 (わたくしは、どうすればいい?)

 (父上は、わたくしの計画を——理解してくださるだろうか)


 糸子の指がもう一度、書状の縁に触れた。

 今度は、すぐには離れなかった。しかし——封は、まだ切られていない。


 時が、ゆっくりと流れていった。

 火鉢の炭が、ちりちりと燃える音だけが部屋に響いていた。


 葵は、ただ静かに見守っていた。

 (——姫君様、ご自分のお心の整理がつくまで、お待ちしておりますからね)

 (葵は、いつでもお側におりまする)


 四半刻ほどが、経った。

 糸子は深く、深く息を吸った。

 そして——ようやく、書状を手に取った。


 封を切る指は、震えていた。

 葵はその震えを、視線の隅でしっかりと捉えていた。


 糸子は、書状を開いた。

 書状は——長かった。

 糸子の指が、一文字、また一文字と追っていく。

 最初は、ゆっくりと。

 次第に——速く。

 そして、再びゆっくりと…

 糸子の眼が、文字を追っていた。

 部屋の中の時間が、止まっていた。


 糸子は、書状を読み始めた。


 「糸子へ」

 「書状、確かに受け取った。父は今、京の書院にて、お前の書状を読み終えたところである」

 「読み終えてから——しばらく、何も書けずにおった。文机の前に座り、お前が江戸にて書いたであろうこの書状を、何度も読み返しておった」


 糸子の眼が——わずかに揺れた。

 (——父上も、何度もお読みになられたのですね)


 「父は驚いた。いや、驚いたという言葉では足りぬ。お前が一年余の間に、これほどの大事を、これほどの深さで、これほどの広さで進めておったとは——父は知らなんだ。いや、上部だけしか知らなんだ。父の不明を恥じる」


 糸子の喉が、動いた。

 (——父上が、不明を恥じると?)

 (そんな——)

 (父上は、何も悪くない)

 (わたくしが、敢えて細部を伏せていただけなのに…)

 糸子は——次の段落を読んだ。


 「お前が書状にて述べた『無血近代化計画』。十年から二十年に及ぶ計画。代理戦争論。海洋国家論。三つの土台事業。協力者たちの名前一つひとつ、父はゆっくりと心に刻んだ」

 「糸子。父はお前の書状を読みながら、何度も思うた」

 「——この子は、本当に十二歳であるのか?とて」


 糸子の指が、書状の縁を、強く握った。

 (——父上)

 (父上、それは違うのです)

 (わたくしは——本当はあの…)

 糸子の眼が、潤み始めた。


 「お前が見ておる世界の広さ、お前が背負うておる重さ、お前が考えておる時間の長さ——どれをとっても、父の見てきたものを遥かに超えておる。父は五摂家筆頭・近衛家の当主として、御門様にお仕え申し上げ、朝廷の事に身を尽くしてきた。なれど、お前ほどの広き視野で、世界を見たことはなかった」


 糸子は——首を横に振った。

 (——違うのです、父上)

 (わたくしは、転生してきただけなのです…)

 (前世で、この時代の歴史を学んだだけのこと)

 (わたくしの広い視野は、わたくし自身の力ではありません)

 (先人たちが、紡いでくれた歴史の知識を、わたくしは…ただ借りているだけのこと…)

 (父上、それを言えなくて——本当に申し訳ありません)

 糸子の頬を、涙が一筋伝った。


 糸子は、続きを読んだ。

 「江戸へ送り出した時のお前は、まだ十一の娘子であった。あの秋の終わりの日、京を発つお前を、父は門前にて見送った。お前は振り返らなんだ。振り返らずにまっすぐ前を向いて、駕籠に乗ったあの後ろ姿を、父は今でもはっきりと覚えておる」


 糸子の眼から、涙がもう一筋、流れた。

 (——父上)

 (あの日)

 (わたくしは、父上の方を振り返れなかったのです)

 (振り返れば——きっと、泣いてしまうから)

 (泣いて、京に残りたい、と——わがままを言ってしまうから)

 (だから、わたくしは振り返らなかった)

 (父上は——それを、ちゃんと見ていてくださったのですね)


 「あの時、父は思うた。糸子は強き子じゃと。なれど父は、お前の強さの本当の深さを、見誤っておった。お前はただ強きだけの子ではなかった。お前は——日本の行く末を、小さき肩に背負える子じゃったのじゃ」


 糸子は両手で——書状を握りしめた。

 (——父上)

 (わたくしは、決して強くなどないのです)

 (毎日、毎日、不安で、毎日、毎日、怖くて…)

 (夜中に、独りで泣くこともあるのです)

 (父上は——わたくしを、強い子だと思っておられる)

 (けれど——わたくしは、父上が思うほど、強くないのです)

 しかし、糸子は気づいた。

 次の段落を読みながら、——気づいた。


 「糸子の願い——『この計画を、近衛家の計画として進めとう存ずる』——父は受け入れる」

 「いや、受け入れるという言葉は不適切である。父は、お前のこの願いを、近衛家当主として、父として、誇りをもって担う」


 糸子の手が、震えた。

 (父上が——担ってくださる)

 (誇りをもって、担ってくださる)


 「これより後、この計画は近衛家の計画である。近衛忠房が当主として、その全責を引き受ける。お前一人の独走では、もはやない。近衛家千年の家格、千年の知の蓄積、千年の朝廷との縁——その全てを、この計画の支えとする」


 糸子の眼から、涙が止まらなくなった。

 (——千年の家格)

 (千年の知の蓄積)

 (千年の朝廷との縁)

 (——その全てを、わたくしの計画の支えとしてくださる)

 (父上——)

 (父上はなんと——なんと、有り難いことを)

 糸子は、書状を顔の前まで持ち上げた。

 涙が、書状の上に落ちないようにと——慌てて、顔を背けた。

 しかし、涙はもう止まらなかった。


 葵がすぐに動いた。

 懐から、絹の手巾を取り出して、そっと糸子の手元に差し出した。

 「姫君様——どうぞ」

 葵の声は優しかった。

 糸子は、手巾を受け取った。

 「葵——」

 「ありがとう…」

 糸子は、手巾で目元を押さえた。

 しかし、涙は次から次へと溢れ続けた。

 葵は、それ以上、何も言わなかった。

 ただ静かに、糸子の隣に控えていた。

 (——姫君様)

 (ようやく、御父上様からのお返事が届いて)

 (ようやく、お一人で抱えておられたものを、御父上様にも分け持っていただけることになりました)

 (よかった——本当によかった)

 葵の眼にも、わずかに涙が滲んでいた。


 しばらくの間、糸子は手巾で顔を覆ったまま、涙を流していた。

 火鉢の炭が、燃え続けていた。

 障子の向こうの新春の光は、変わらず白く、柔らかく差し込んでいた。


 やがて、糸子は——少しだけ落ち着きを取り戻した。

 手巾で顔を拭い、深く息を吸った。

 そして、続きを読み始めた。


 「御門様への奏上は、父の判断にて最適と思われる時期に、最適と思われる方法にて、進めよう。お前が望む通り、書状での正式な奏上は避ける。口頭にて、大枠のみを、御門様にお伝え申し上げる。証拠は残さぬ。柔軟性を保つ」


 「御門様には、こうお伝えする所存である」


 「『近衛家として、無血にて日本を新しき世に導く計画を進めておりまする。雄藩の協力を取り付け、朝廷の威光を中心に据え、異国に対する経済的対抗策を講じております。詳細は、近衛家の責にて進めておりますれば、御門様には御心安らかにお過ごしくださいませ』」


 「これにて御門様の御信頼は得られると、父は確信しておる。御門様は、お前を朕の代理と認められておる方である。父からの奏上は、その認識を補強するに留まる」


 糸子は——息を呑んだ。

 (——父上は、わたくしの指示通りに動いてくださる)

 (わたくしが書いた、その通りに…)

 (御門様への奏上は、口頭で大枠のみ)

 (「詳細は近衛家の責にて」という形)

 (父上は——わたくしの戦略を、完全にご理解くださった)

 (御門様の権威を傷つけないため、責任を全て近衛家で背負うという——その意図を汲み取ってくださった)


 糸子は感動と同時に、別の深い感情を覚えた。

 (——なれど、これは……)

 (父上が——御門様への奏上で、何かが起きた時の責任をご自身で背負うということ)

 (もし計画が失敗すれば、父上が腹を切ることになるかもしれない)

 (父上は、それを承知の上で、引き受けてくださっているのだ)

 糸子の手が——再び震えた。


 「糸子。父はもう一つ、お前に伝えたきことがある」

 「お前が江戸にて、表に立つ場面が増えるであろうことを、父は理解しておる。藩を動かし、雄藩を取り込み、御門様の御意向を伝える——その働きを、もはや御簾の奥からだけでは進められぬであろう」


 糸子の眼が見開かれた。

 (——父上は、わたくしが「前に出る覚悟」を決めたことを、ご存じなかったはずなのに)

 (書状にも、わたくしは…そこまで書いていない)

 (なれど、父上は、わたくしの計画から自然にその必要性を察しておられる)


 「ゆえに、父はこう申し渡す」

 「——表に立つ役、泥をかぶる役、矢面に立つ役は、父が引き受ける」


 糸子は——息を呑んだ。

 手の中の書状が、わずかに、揺れた。


 「お前は奥に隠れよ、とは申さぬ。お前は表に立つ覚悟を既に決めておる。それは父にも分かる。なれど、お前が一人で全ての矢を受け止める必要はない。父は近衛家当主である。朝廷内の争いも、他の公家の探りも、幕府の警戒も——その類の泥は、父が引き受ける」


 糸子の眼から——再び、涙が溢れた。

 (——父上)

 (父上は、わたくしの覚悟を見抜いておられた)

 (そして、その覚悟を、お一人で背負わせるおつもりはないとはっきりと書いておられる)

 (——わたくしは、独りではなかったのですね)


 「お前は、お前にしかできぬ仕事に専念せよ。世界を見る眼、計画を立てる頭、人を動かす言葉——それはお前にしかできぬ。父にはできぬ。ゆえに父は、父にできることを、全力で果たす」

 「これは父の、当主としての矜持である」

 「これは父の、お前への父親としての務めである」


 糸子の手の震えが、大きくなった。

 (——父上)

 (父上は——わたくしを、対等な相手として扱ってくださっている)

 (「お前にしかできぬ仕事」と認めてくださっている)

 (そして——「父にもできることがある」と、ご自身の役割を、明確に定めてくださった)


 「お前の後ろには、近衛家千年の家格が立っておる。お前の後ろには、五摂家筆頭としての父が立っておる。お前の後ろには、御門様の御信任が立っておる。——お前は前を向いて迷わず進め」


 糸子の頬を、また涙が流れた。

 しかし、今度の涙は、先ほどまでの不安の涙ではなかった。

 安堵と、感謝と、強さの涙だった。

 (——わたくしの後ろには)

 (近衛家千年の家格)

 (五摂家筆頭としての父上)

 (御門様の御信任——)

 (——その全てが、立っていてくださる)

 (前を向いて——迷わず進め)

 (——父上が、そう仰せになっている)


 「糸子——」

 「お前は、この書状をどのような顔で書いたのか。父はそれを思うておった」


 糸子は——書状を、ぎゅっと握りしめた。

 (——父上)


 「江戸は冬じゃ、と書いておったな。お前の指は冷えてはおらなんだか。長く書いて、お前は疲れてはおらなんだか」

 「父はお前の書状を読みながら、何度も思うた。お前は誰にも見せぬところで、泣いてはおらなんだかと…」


 糸子は——書状を、両手で胸の前に押し当てた。

 涙が止まらなかった。

 (——父上)

 (父上は、見抜いておられた)

 (あの夜、わたくしが、書状を書きながら……何度も泣いていたことを、——父上は、書状の文字の向こうから、見抜いておられた)


 「お前は強き子じゃ。父はそれを知っておる。なれど、強き子もまた人の子である。背負うておるものが大きければ、夜中に独りで泣くこともあろう」

 「もし——もしも、お前が独り泣きたくなった時は」

 「父の元へ、書状を送れ」

 「『父上、糸子は今日、少し疲れました』——たったこれだけの一行でよい」

 「父はお前の文字を見るだけで、お前の心の中を察するであろう」

 「そして父は、お前に返事を書く。何度でも、書く」


 糸子は——もう涙を抑えきれなかった。

 書状を胸に押し当てたまま、——両肩を震わせて、声を殺して泣いた。

 (——父上)

 (父上、父上、——父上)

 (わたくしは、本当は——強くなどないのです)

 (毎日、毎日、不安で——毎日、毎日、怖くて)

 (一人で書状を書いていた、あの夜)

 (わたくしは——本当に、独りだった)

 (けれど、父上は——独りではない、と仰せになっている)

 (書状を、何度でも書け、と)

 (一行でよい、と)

 (——父上は、わたくしの父上、なのですね)

 葵が、もう一枚、新しい絹の手巾を、そっと差し出した。

 「姫君様——」

 葵の声も、震えていた。

 糸子は、それを受け取った。

 しかし——涙はしばらく、止まらなかった。


十一

 「江戸と京は遠い。父はお前の隣に座って、頭を撫でてやることはできぬ。お前を抱きしめてやることもできぬ。なれど——書状を通じてなら、父はいつでもお前と共におる」

 「忘れるな、糸子。父はお前の父である。お前がどれほど大事を成そうと、父にとってお前は、いつまでも父の娘子である」


 糸子は書状を、もう一度胸に押し当てた。

 (——父上)

 (わたくしは——父上の、娘子なのですね)

 (どれほど、大きなことを成そうとも——父上にとっては、わたくしは、いつまでも、——父上の娘子)

 (——父上)

 (——おとうさま)

 糸子の心の中で、いつもの「父上」という呼び方ではなく——もっと幼い、——もっと小さな子供の頃の呼び方が、自然に浮かんでいた。


十二

 「最後に——」

 「お前が前に書いてくれた書状の中に、こうあった」

 「『辛くなったらいつでも京に帰っておいで』——父はそう書いたと」

 「あの言葉は、今でも、いつでも生きておる」


 糸子は——目を見開いた。

 (——父上)

 (あの言葉が、今でも生きている)

 (わたくしは自分の手で、その退路を塞ぐ覚悟を決めた)

 (けれど、父上はその退路を、塞ぐおつもりはない)

 (父上にとっては、あの言葉は永遠に生きている…)


 「お前が江戸での務めを果たし終えて、京に戻ってくる日——その日まで、父はこの書院にてお前を待っておる」


 糸子は——もう一度、涙を流した。

 (——父上が待っていてくださる)

 (あの京の書院で——)

 (わたくしが、いつか帰る日まで)


 「お梅もまた、お前を待っておる。お梅は近頃、お前のことを毎日のように口にする。『姫様はいつ戻られるのか?』と。父はその度に、『いずれ必ず戻るであろう』と答えておる」


 糸子の頬に、微かな笑みが浮かんだ。

 (——お梅)

 (毎日、わたくしのことを心配して口にしている)

 (——お梅、待っていてください)

 (必ず、京に帰りますから)


 「御門様も、お前のことをよく訊ねられる。『糸子は元気にしておるか』と…

 父は、『糸子は元気にお役目を果たしておりまする』とお答えしておる」

 「京には、お前を待つ者が多くおる。父も、お梅も、御門様も——皆、お前を待っておる」

 「糸子よ、これだけは忘れずにおれ」


 糸子は——書状を、深く胸に抱いた。

 (——御門様も)

 (——父上も)

 (——お梅も)

 (——皆、待っていてくださる)

 (わたくしは、わたくしの帰りを…こんなにも待ってくれている人たちがいるのですね……)


十三

 「冬は寒かろう。風邪などひかぬよう、温かきものを飲み、温かきものを食べよ。火鉢に近づきすぎて、火傷などせぬように」


 糸子は——思わず、笑った。

 涙を流しながら、笑った。

 (——父上)

 (父上は、本当に、わたくしの父上なのですね)

 (あれほど、大きな計画を引き受けてくださると言いながら——最後には、風邪と火傷の心配)

 (——なんて、お優しい父上…)


 「お前を支えてくださる方々にも、近衛家として深く感謝しておる旨、お伝えなさい」


 糸子は、頷いた。

 (——皆に伝えます)

 (葵にも、近藤殿にも、土方殿にも、沖田殿にも、斉藤殿にも)

 (善次郎にも、村田殿にも、坂本にも、中岡にも、岩崎にも)

 (吉田殿にも、高杉にも、久坂にも、塾生の皆にも)

 (栄一にも、平九郎にも)

 (——皆に、必ず伝えます)

 (父上が、近衛家として、深く感謝されていると)


 「父からの返書は、これにて筆を擱く」

 「糸子よ、身を案じよ。父はお前の道を必ず支える」

 「近衛家当主として、父として——ここに誓う」

 「新春を間近に控え、京の書院にて」

 「近衛忠房」


 糸子は——書状の最後の一行を、三度読み返した。


 「父はお前の道を、必ず支える」

 「近衛家当主として、父として——ここに誓う」


 糸子の眼から、もう一度涙が溢れた。

 (——父上)

 (——おとうさま、かたじけなく存じます)


十四

 糸子は書状を一度、閉じた。

 しかし、すぐに——もう一度開いた。

 最初からもう一度、読み始めた。

 葵はその様子を、静かに見守っていた。

 (——姫君様、もう一度お読みになるのですね)

 (御父上様のご厚情を、もう一度、味わわれるのですね)

 糸子は二度目を、読み終えた。

 しかし、三度目に入った。

 今度は、ゆっくりと一文字、一文字、丁寧に…心に刻むように。


 火鉢の炭は、ちりちりと…燃え続けていた。

 障子の向こうの光は、変わらず、柔らかく差し込んでいた。


 糸子が、三度目を読み終えるまで——半刻ほどが過ぎていた。

 糸子はようやく、書状を閉じた。

 深く、深く息を吐いた。

 目元はもう、涙では赤くなかった。

 代わりに——温かい光が宿っていた。


 その光は「決意の光」というより、「信頼に支えられた、安堵の光」だった。


 糸子は、書状を、文机の上に丁寧に置いた。

 そして葵の方に向き直り、深く頭を下げた。

 「葵——」

 糸子の声は、震えていた。


 しかし、その震えは、もう不安の震えではなかった。

 「ずっとそばに、いてくれておおきに」


 葵は——慌てて両手を振った。

 「姫君様、滅相もございませぬ」

 「葵は、いつでも姫君様の御側におりまする」

 「それが、葵の務めにございますれば」


 糸子は微かに笑った。

 「おおきに、葵」

 葵の眼にも——涙が滲んだ。


十五

 京の近衛邸。

 糸子から書状を受け取って、数日後の朝のことであった。

 京の冬は、江戸の冬とは違う寒さを持つ。江戸の寒さが乾いて鋭いのに対して、京の寒さは、底冷えと呼ばれる、湿った深い冷たさだ。

 比叡おろしと呼ばれる風が、東山から吹き降ろし、町全体を、薄い氷のように覆っていく。


 近衛邸の表座敷の奥にある書院。


 書院は二十畳の広さを持ち、床の間には新春に合わせた掛け軸——能筆の達人による「松寿千年翠」の文字——と、白い椿が一輪、青磁の花入れに活けられていた。

 床柱は黒柿、長押は艶やかな朱、欄間には精緻な彫刻が施されている。畳は新しい京間で、藺草の香りがまだ薄く残っていた。


 書院の中央には、文机が一つ。その文机の前に近衛忠房は、——既に何枚かの書付を広げて、座っていた。

 糸子の書状を受け取った夜から、忠房はずっと、考え続けていた。


 (——御門様への奏上を、いつ、どのように行うべきか)

 忠房は、文机の上に並べた書付を、もう一度見直した。

 書付は、自分自身で書いたものだった。糸子の書状を読んだ後、頭の中で組み立てた論点を整理するためにしたためたものだ。


 書付の最初には、こう書かれていた。

 「奏上の最適時期——いつか」

 忠房は、筆を取った。

 そして、自問自答を書付の上で繰り返し始めていた。


十六

 (——糸子は、書状で「最適と思われる時期に、最適と思われる方法にて」と父の判断に委ねた)

 (なれど、それは「父に丸投げした」のではない)

 (糸子は、御門様に「書状での正式な奏上は避ける」「口頭にて大枠のみ」「証拠は残さぬ」と、明確に方針を示した)

 (つまり、「いつ」と「具体の言葉選び」のみが、父に委ねられた)


 忠房は、書付に書いた選択肢を、もう一度…見つめた。

 「選択肢一——即時の奏上」

 「選択肢二——成果を待っての奏上」

 「選択肢三——両方を組み合わせた、二段構えの奏上」


 忠房は、それぞれの選択肢に、利点と懸念点を書き出した。

 (選択肢一——即時の奏上)

 (利点:御門様の御聖断を、早期に既成事実化できる)

 (——もし幕府や他公家が、近衛家の動きに気づいて、何かを言ってきても、御門様が「それは朕が聞き及んでおる」と仰せになるだけで、近衛家の独断という攻撃を回避できる)

 (——糸子の「朝廷の使者」という看板も、強化される)


 (懸念点:早すぎると、計画が初期段階で頓挫した時、御門様の御権威に泥を塗ることになる)


 (選択肢二——成果を待っての奏上)

 (利点:具体的な成果——例えば、長州の取り込みが成功した時——を伴った奏上ができる)

 (——御門様には、確実なものとして報告できる)


 (懸念点:その間、もし幕府が近衛家の動きに気づいた場合、後手に回る危険がある)

 (——既成事実化の機会を逃す)


 (選択肢三——二段構え)

 (一段目:今すぐ、大枠の方向性のみを奏上)

 (——「近衛家として、無血にて日本を新しき世に導く計画を進めておりまする」という、概念だけ)

 (——御門様の心に、種を蒔く)


 (二段目:具体的な成果が出た時に、補足を奏上)

 (——「先に申し上げた計画にて、某藩との連携が固まりましてござります」という、経過報告)


 忠房はしばらく考えた。

 筆を取って——書付にはっきりと書いた。


 「結論——選択肢三、二段構えが最適である」

 忠房は、深く息を吐いた。


 (——糸子の指示通りに、口頭で大枠のみ)

 (御門様の御信頼を補強する、——「儀式」として、行う)

 (細部を御門様にお伝えする必要はない)

 (むしろ、お伝えしてはならない)


十七

 しかし、忠房は——次の論点に、まだ慎重になっていた。

 (——口頭伝達だけで、後に「言った言わない」の問題は起きないか)

 忠房は、しばらく考えた。


 (万が一、政敵から「御門様を騙して勝手に進めた」と攻撃される可能性は——ある)

 (なれど、それを防ぐためには、どうすればよいか)


 忠房は書付に書いた。

 「奏上は、御門様と忠房の二人きりの密談で行う」

 その下に、理由を書き加えた。

 (一、余人を入れないことで、情報の漏洩を防ぐ)

 (二、「証拠を残さない」という糸子の方針を、最も忠実に守れる)

 (三、御門様も二人きりだからこそ、お心を開いて聞いてくださる)


 忠房は頷いた。

 (——よし)

 (御門様と二人きりの場面を作る)

 (新春のご挨拶の折に、御門様にお願いしよう)


 忠房は、最後の論点に進んだ。

 (——責任の在処を、明確にしておかねばならぬ)

 書付に書いた。

 「万が一、計画が頓挫した場合——全ての責は、近衛忠房一人が背負う」


 忠房は——その一行をしばらく見つめていた。

 (——糸子)

 (お前の計画が、もし、失敗しても)

 (その時は、父が全てを引き受ける)

 (お前には、決して累が及ばぬようにする)

 (御門様にも、累を及ばぬようにする)

 (父が、一人で腹を切る)


 忠房の眼に、わずかに涙が滲んだ。

 しかし、その涙の奥には、決意の光が強く宿っていた。

 (——これが、近衛家当主としての矜持じゃ)

 (これが、糸子の父としての務めじゃ)


 忠房は、書付を丁寧に折りたたんだ。

 文机の中にしまった。


 京の冬の朝の光が、書院の障子から静かに差し込んでいた。

 その光の中で、忠房の決意が——ゆっくりと固まっていった。


十八

 数日後の朝、京都御所——禁裏。


 近衛忠房は、新春の御挨拶のために参内した。


 近衛家の乗物は、御所の門前に静かに止められた。忠房は冬の装束に身を包み、姿勢を正して乗物を降りた。

 京の御所の正月の光景は、いつもながらに——格式が高かった。


 諸殿の屋根には、薄く残った霜が、朝の光を受けて、白く輝いている。庭の松には、新春の注連縄が掛けられ、白砂を敷き詰めた庭は、刷毛で目を立てたばかりのように、整えられていた。

 各間からは、雅楽の音色が、微かに聞こえてくる。新春の儀礼が、御所内で整然と進められていた。


 忠房は、案内役の侍臣に従って、奥の間へと進んだ。


 御門様——孝明天皇の御座所であった。


 御座所の襖が静かに開かれた時、忠房は一段下がった位置で、深く平伏した。


 御簾の奥に、御門様のお姿があった。

 御簾越しなので、お姿の全容は見えない。しかし、その存在感は、確かに伝わってきた。

 忠房は、深く一礼した後、新春の口上を述べた。


 「謹んで、新玉の年の御慶を奏し奉り候」

 「聖寿無窮にして、宝祚のいやさかえに渡らせられますこと、誠に恐悦の至りに存じ奉り候」


 忠房の声は、雅で整っていた。京の公家の最も格式高い言い回しだった。

 御簾の奥から、御門様の声が響いた。

 御門様の声は優しく、しかし威厳に満ちていた。


「忠房、よう参ったな」

「新玉の年の賀、確かに受け取ったぞ」

「去る年は世話になった。今年も近衛の働き、頼りにしておるぞ」

「それから——朝廷への尽くし、まことに殊勝に思うておる。今年もよろしゅう頼むぞ」


 忠房は、深く平伏した。

 「御門様に御挨拶頂戴いたしまして、御門様のお優しきお言葉に、忠房、身に余る光栄に存じます」

 「五摂家筆頭・近衛家当主として、今年も、御門様と朝廷への献身に、命を賭してお仕えする所存にございまする」


 御門様は——少し間を置いてから続けた。

「忠房、時に…糸子はいかがしておるか」

「あの方からは、近頃便りなどは届いておるか」

「息災に過ごしておるのならよいのだが」


 忠房は——御門様のお心遣いに、わずかに胸を熱くした。

 (——御門様は、糸子を本当に可愛がってくださっている)


 忠房は、平伏した姿勢のまま、答えた。

 「御門様、お気にかけてくださり、糸子の父としても、御礼の言葉もございませぬ」

 「つい先日、糸子から書状が届きました」

 「江戸では、忙しき日々を送っておるそうにございまするが、元気にやっておるとのこと」

 「ただし、御門様にお会いできぬのが寂しゅうて、時には京に帰りたくなると書いておりました」

 「なれど——江戸では、まだやらねばならぬことが多くあり、当面は帰れぬとのことにございまする」


 御門様の声に——わずかな安堵と、同時にわずかな憂いが混じった。

 「左様か、息災であるか」

「それは何よりのこと。聞き及んで安堵したぞ」

「案じておったが、朕の心もようやくいだ」

御門は、目を細めて続けられた。

「なれど——そのように身を粉にして立ち働いておるのは、不憫でならぬ」

「あの子はまだ十二……いや、十三になったか。まだ蕾のような年端ではないか」

「あまり無理をせず身を大事にせよと、——朕がそのように案じておったと、ゆめゆめ伝えよ」


 忠房は——平伏したまま頷いた。

 「畏まってございまする」

 「忠房から、糸子に必ずお伝えいたしまする」

 「御門様のお心遣い、糸子もきっと…感涙にむせび泣くことでございましょう」


十九

 忠房はしばらく間を置いてから——慎重に口を開いた。

 「御門様——ところで、糸子のことで少しご相談したき儀がございまする」

 御門様は、忠房の声色の変化を感じ取られた。

 「ふむ——」


 忠房は続けた。

 「ご無理を承知のお願いにございますが——御門様と、忠房の二人きりの密議を賜りたく存じます」


 御門様は、しばらく沈黙された。

 しかし、すぐに——お分かりになった様子だった。

 「——よかろう」

 御門様の声は、明るく整っていた。

 「侍臣を退けよう。忠房、別室に参るがよい」


 忠房は——深く平伏した。

 「畏まってございまする。御門様に深く感謝申し上げまする」

 侍臣たちが、一斉に御門様の御座所を退いた。

 忠房も、案内役と共に別室へ向かった。


二十

 別室は、御所の奥にある——御門の書斎として建造された「迎春」と呼ばれる小さな間だった。

 六畳ほどの広さで、床の間には、控えめな掛け軸が一幅。畳の上には、薄い円座が二つ、向かい合うように敷かれていた。


 御門様は、既に円座の上に座っておられた。

 御門様のお姿は——もはや御簾を介さず直接、見ることができた。


 忠房は——もう一度、深く平伏した。

 「御門様、御許しを賜り、誠にありがたく存じます」


 御門様は、優しく頷かれた。

 「忠房、面を上げよ」

 「ここには、朕とそなたしかおらぬ」

 「気を楽にして申せ」


 忠房は、ゆっくりと顔を上げた。

 御門様のお顔は、優しく、しかしその奥には、賢明な眼差しがあった。


 忠房は、深く息を吸った。

 (——よし、糸子の指示通り、大枠のみをお伝えする)

 (具体は伝えぬ。御門様の御信頼を補強するに留める)

 (責任は、全てわたくしが背負う)


 忠房は、口を開いた。

 「御門様——」

 「糸子のことについて——お話し申し上げたきことがございまする」

 「糸子はこの一年余、江戸にて御門様の御命を奉じ、朝廷の使者として献身的に役目を果たして参りました」

 「ハリスとの条約交渉、天朝御用商務惣会所の設立、商務語学所の開設——これらは、御門様も既にご存じの通りにございまする」


 御門様は頷かれた。

 「うむ。よく聞き及んでおる」


 忠房は、続けた。

 「これらの事業は——実は糸子が独りで進めておるのではございませぬ」

 「糸子の頭の中には一つの…もっと大きな計画が、ございまする」


 御門様の眼が、わずかに、興味深そうに動いた。

 「ほう——」


 忠房は、深く息を吸った。

 「その計画とは——」

 「『無血にて、日本を新しき世に導く計画』にございまする」


 御門様は一瞬、息を呑まれた。

 「無血——にて、新しき世に導くと?」

 「ふむ——それは、興味深い言葉じゃのう」


 忠房は、続けた。

 「詳細は——御門様には、お伝えいたしませぬ」

 「むしろ、御門様の御権威を守るため、お伝えしてはならぬのでございまする」

 「なれど、概念だけお伝え申し上げます」

 「雄藩の協力を取り付け、朝廷の威光を中心に据え、異国に対する経済的対抗策を講じておりまする」


 御門様は、——しばらく、忠房の顔を見つめていた。

 その眼に、賢明さが宿っていた。

 「忠房——」

 「そなたが、朕に詳細を伝えぬのは、——朕を守るためじゃな」


 忠房は、深く頭を下げた。

 「畏れながら、御門様の仰せの通りにございまする」

 「もし、何かが起きても——御門様は『朕は知らぬ』と仰せになれます」

 「全ての責は、近衛家——いや、忠房一人が背負いまする」

 「これは、近衛家当主としての覚悟にございまする」


 御門様は——しばらく、無言だった。

 しかし、次の言葉は優しかった。

 「忠房、そなたの覚悟、朕は確かに受け取った」


 忠房は——深く感動した。


二十一

 御門様は続けられた。

 「そして…糸子が、その計画の中心におるのじゃな」

 「あの子が——日本を、新しき世に導かんとしておるのじゃな」


 忠房は、平伏した。

 「畏れ多きことながら——糸子が、計画の頭のなかにございまする」

 「近衛家として、糸子を全力で支える所存にございまする」

 「『近衛家として、無血にて日本を新しき世に導く計画を進めておりまする』——御門様には、これだけお心に留め置きいただければ、十分にございまする」

 「詳細は、近衛家の責にて進めておりまするゆえ、——御門様には、御心安らかにお過ごしくださいませ」


 御門様は——深く頷かれた。

 「分かった、忠房…」

 「朕は、あの子を朕の代理と認めておる」

 「そなたが、近衛家を挙げて、あの子を支えるのであれば——朕は何も心配せぬ」

 「朕は、近衛家を信じておる」


 忠房の眼に——涙が滲んだ。

 「御門様——」

 「身に余る、お言葉にございまする」

 「忠房、感涙にむせび泣く思いでございます」


 御門様は、優しく続けられた。

 「忠房——」

 「もし、何か朕の力が必要な時は——遠慮なく申せ」

 「朕は、できる限りのことをしてやろう」

 「あの子のためじゃ。——いや、近衛家のためじゃ。——いや、この日本のためじゃ」


 忠房は——両手を畳について、——深く、深く、平伏した。

 涙が、畳の上に落ちた。

 「御門様——」

 「御恩、一生忘れませぬ」

 「忠房、近衛家として、身命を賭して御門様にお仕え申し上げまする」


 御門様は、しばらく忠房の様子を見ていた。

 そして、優しく微笑まれた。

 「忠房、もうよい」

 「朕も、糸子のことが心配じゃった」

 「そなたが、こうして話してくれて、朕の心も安らいだ」

 「あの子に伝えてくれ。『朕は、糸子の道を見守っておる』と」


 忠房は、平伏したまま、頷いた。

 「畏まってございまする」

 「糸子に、必ずお伝えいたしまする」


 御門様の声が、最後に、——わずかに、優しく揺れた。

 「あの子は、強い子じゃ」

 「なれど、あの子もまた、人の子じゃ」

 「忠房、父としてしっかり支えてやれ」


 忠房は——もう一度、平伏した。

 「畏まってございまする」

 「父として——身命を賭して糸子を支えまする」


二十二

 御門の書斎「迎春」を退出する忠房の足取りは——軽くなっていた。

 来た時よりも、遥かに軽くなっていた。


 御所の庭の白砂を踏みながら、忠房は——心の中で、糸子に語りかけていた。

 (——糸子)

 (御門様への奏上は、うまくいった)

 (御門様は、お前を…御門の代理とお認めになられた)

 (そして、近衛家を信じると仰せになった)

 (更に「朕の力が必要な時は、遠慮なく申せ」とまで仰せになられた)

 (糸子、お前の後ろ盾は…もはや、揺るぎないものとなったぞ)

 (早く、お前にこのことを知らせてやりたい)

 (書状を書こう)

 (今夜のうちに、書こう)


 忠房は、御所の門前で——深く、深く息を吸った。

 京の冬の冷たい空気が、胸の奥まで染み込んだ。

 しかし、忠房の心は——温かかった。

 (——糸子)

 (——父は、お前の道を必ず支える)

 (近衛家千年の家格——その全てを、お前の後ろに立たせよう)

 (御門様の御信任——それを、お前の後ろに立たせよう)


 (お前は、迷わず安心して進め……)

 (我が愛しき娘よ…)


 その瞳に宿る鋭い光は、千年の家格を背負う当主のそれであったが、見つめる先の空は、どこまでも優しく澄み渡っていた。

 吹き抜ける京の冬風はなお鋭く肌を刺したが、忠房の胸に灯った親心という名の火を消すことは、到底できそうになかった。


 第八十六話 了


糸子パパーーー(´;Д;`)

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― 新着の感想 ―
こんなの泣くわ こんなの、、泣くわ パパの愛情が尊過ぎて、思わず二回言うてもた
父は誇らし過ぎるぞ。
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