第八十七話「村田の報告。商務語学所の制度化」
一
万延二年、新春。
一橋上屋敷の奥御殿を包むのは、新春の余韻を濃く残した静寂である。だが、和紙を透かして届く光は、いつの間にか冬の終わりを告げる乳白色へと変わりつつあった。
松の葉を縁取る霜の結晶は、朝陽を浴びて真珠のように煌めき、冷たさの奥底に、萌したばかりの春の熱をひっそりと隠しているようだった。
庭の片隅に灯った石蕗の黄色が、冬から春へと移ろう季節の輪郭を鮮やかに描き出していた。
御座所の床の間では、青磁の花入れが紅白の梅を凛と受け止めている。綻び始めた冬梅の蕾からは、秘めていた紅がひと筋、こぼれんばかりに覗いていた。
違い棚に据えられた京仕立ての飾り扇が、新春の寿ぎを静かに物語る。部屋の隅で赤々と熾る炭は、時折「ちりり」と小さく鳴り、その微かな音が朝の静寂をより深く際立たせていた。
火鉢の上で揺らめく薄明かりのような陽炎が、凍てついた空気をゆっくりと、慈しむように解かしていく。
ニ
廊下から、足音が近づいてきた。
いつものしっかりとした、しかし、わずかに重みのある足音。
葵が、襖の前で一度、止まった。
「姫君様、村田殿がお越しになりました。ご報告がおありの様にございます」
糸子は——わずかに姿勢を正した。
(——村田殿)
(タイミングが——いいですね)
(商務語学所の経過報告ですね)
糸子の声が、御簾の奥から響いた。
「お入りなさいませ」
襖が静かに開いた。
村田蔵六が——いつもの無表情に近い、静かな顔で入ってきた。
しかし、その眼の奥には、わずかな満足と…わずかな疲労が宿っていた。
村田は御簾の前で、深く一礼した。
「姫君様、新春早々に、御目通りを賜り誠に恐縮にございまする」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「村田殿、御足労いただきおおきに」
葵が御簾の横で、いつものように静かに控えていた。
御簾の奥に、糸子が座していた。
冬梅の蕾は、もう少しで花を咲かせそうだった。
障子の向こうの新春の朝の光は、変わらず白く差し込んでいた。
村田は、平伏したまま——商務語学所の現状を、ご報告し始めていた。
「姫様——商務語学所の、最新の状況を、ご報告申し上げまする」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「お聞かせください、村田殿」
村田は姿勢を整えて、丁寧に語り始めた。
「まず、確認から…一期生十名の構成でございますが——」
「三井の番頭格から、二名」
「横浜にて、実際に異国商人と取引している商人から、二名」
「長崎の通詞から、一名」
「薩摩の実務官僚から、一名」
「若手の志士から、二名——これは坂本殿が、選び出してきました」
「残りは私が推薦する、蘭学の素養がある者から、二名」
「以上、合計十名にございます」
糸子は、頷いた。
「以前、教科書の試験運用の授業で見させていただいた方々ですね。」
「その後、彼らの勉学はいかがですか?」
村田は続けた。
「はい、教えている第一巻と第二巻の、授業の進み具合について、ご報告致します」
三
村田は文机の上に、自分が持参した帳面を開いた。
「第一巻——『経済と国際環境』につきましては、純粋な学習時間が、およそ十五刻でございます」
「金銀比率の失敗、異国商人の思考、貿易構造と日本の弱点——これらを体系的に、学んでいただいておりまする」
糸子は頷いた。
「第一巻は、基礎的な概念の習得ですね。難易度はそれほど高くはありませぬが、思想の根幹に関わる部分となりましょう」
村田は続けた。
「第二巻——『商談・交渉』につきましては、純粋な学習時間が、およそ二十刻でございます」
「商談の七原則、別条の策——これらを、模擬商談で実地に学んでいただきまする」
糸子は、また頷いた。
「第二巻は応用実践編。演習が必須ですから、時間がかかりますね」
村田は頷いた。
「左様にございます」
「純粋学習合計は、およそ三十五刻」
「予習・復習・議論を含む実時間は、およそ七百二十九刻」
糸子は驚いた。
「なるほど。実時間は、思った以上にかかっておりますね」
村田は続けた。
「一期生十名は、奉公人や商売人などを含むため、一日の平均学習時間は、約三刻から四刻」
「純粋な学習期間は、約五十日」
「これに加えて、試験・反応確認・修正の時間が、十日から二十日」
「合計の所要期間は——約二ヶ月から二ヶ月半でございます」
糸子は頷いた。
「想定していた期間と、ほぼ一致しております。さすがでございます、村田殿」
村田は平伏した。
「ありがとう存じます、姫様」
「完了時期は、万延二年正月末から、二月初旬と見込んでおります」
四
糸子は御簾の奥で、静かに頷いた。
(——よし)
(一期生十名の、第一巻・第二巻の習得は、万延二年正月末から二月初旬に、完了する見込み)
(そして、わたくしの、四人組——松陰、高杉、久坂、龍馬への、三月余の特別講義の終了もほぼ同時期)
(つまり、万延二年の春には、「四人組(攻略エージェント)の獲得」と「一期生十名(事業の実働部隊)の育成」が、ほぼ同時に完成する)
(——わたくしの計画の第一段階の、人材確保がほぼ整う段階)
糸子は、続けて尋ねた。
「ところで、一期生の中で、特に注目すべき方はおられますか?」
村田は、しばらく考えてから答えた。
「三井の番頭の一人が、——理解が極めて速うござります」
「複式簿記の概念を、二日で消化されました」
「彼は、卒業後、商務語学所の教員、もしくは、天朝物産会所の中核に据えるべきお人と思われまする」
「また、薩摩の実務官僚の方も、——興味深い御人柄」
「藩の財政を熟知しておられて、第三巻の予習として、自ら帳面を持参してこられた」
「『これを使って学びたい』と申されまして」
糸子は——感心した。
「素晴らしいですね、村田殿」
「皆、本気で学んでおられる」
村田は、頷いた。
「皆、本気でござります」
「『無料同然で、これだけの学問を学べる』という事実が、彼らに本気を出させているのでございましょう」
糸子は——息を吸った。
(——奨学金型の仕組みが、効いている)
(経済的負担をゼロにすることで、彼らが学ぶことに集中できる)
(その代わりに卒業後三年は、天朝物産会所に関わる義務がある——という構造)
五
糸子は村田の方を見て、口を開いた。
「村田殿——わたくしの方からもお知らせと、お願いがございまする」
村田は姿勢を正した。
「なんでしょう?。お聞かせください」
糸子は続けた。
「実は、わたくし自身が教師となって、この一橋上屋敷で別枠で、吉田松陰殿、高杉殿、久坂殿、坂本殿の四名を教えることになりました」
村田は——目を見開いた。
「——姫様、ご自身でお教えになるのですか?」
糸子は頷いた。
「左様にございます」
村田は息を呑んだ。
(——姫様がご自身で、教師となって教えられる)
(これは……たまげた)
糸子は続けた。
「それぞれの性格と能力に即して、特別な内容を教えまする」
「期限は、三月余…」
「その後、四人それぞれに特別にやって貰いたい、お役目があるのでございます」
村田は——深く頷いた。
「なるほど——四人組をエージェント…化されるおつもりですな」
糸子は、御簾の奥で、わずかに笑った。
「『エージェント』という言い方をされるとは——洒落た言い回しでございますね、村田殿」
村田は、少し照れたように笑った。
「英語の知識から——拝借いたしました」
「以前、姫様が『リスク』とおっしゃられていたのを、少し真似してみました」
糸子は笑顔で続けた。
「そうでございしたか……とても良いと思いまする」
「ところで、村田殿にお願いがあるのでございます。お時間がある時に、わたくしの四人組の授業の補助を、お頼みしたいのでございます」
村田は——深く頷いた。
「もちろん、私でよければお引き受けいたしまする」
「姫様のためならば——いくらでも、時間をお作り致しましょう」
糸子は、御簾の奥で、にこにこと笑った。
「ありがたく存じまする」
「ところで、村田殿——」
「松下村塾二十名、渋沢栄一殿、渋沢平九郎殿、岩崎弥太郎殿たちの本格的な授業は、一期生十名の授業が、終了してから行いたいと存じまする」
「それまでは、序盤の授業のみで、ご対応願いませぬでしょうか?」
村田は頷いた。
「分かりました。姫様」
「現在、既に序盤の授業は、すで開始しております」
「主に第一巻の概論を簡潔に、お伝えしている段階でございます」
糸子は——驚いた。
「あら、もう序盤の授業を、お始めくださっていたのですね」
「さすがでございます、村田殿」
村田は、少し照れたように頷いた。
「ありがたきお言葉」
「ただ姫様、一つお訊ねしたきことがございます」
糸子は頷いた。
「何でございましょう?」
六
村田は慎重に、口を開いた。
「松陰先生、高杉殿、久坂殿、坂本殿への特別講義…」
「松下村塾二十名、渋沢殿たち、岩崎殿への、本格的な授業」
「これらと、一期生十名への進行中の授業」
「——これら全てが、これから並行的に進むこととなりますな」
糸子は頷いた。
「左様にございます」
村田は続けた。
「私は、これから——もっと、忙しくなるということでございます」
糸子は、御簾の奥で、心配げな声で応じた。
「村田殿、お負担は、大丈夫でございますか?」
「もし、お疲れでしたら、他の手立ても考えますが」
村田は——にっこりと笑った。
「姫様、ご心配は、ありがたく存じます」
「しかし、人に物を教えるのは…私にとって楽しき仕事にございます」
「適塾で学び、宇和島で軍制改革に関わり——様々なことを学んでまいりましたが」
「私が最近一番、生き生きとしているのは、人に物を教えている時なのかもしれぬと、最近気がつきました」
「特に一期生のように、本気で学ぼうとされる方々を相手にできるのは、——医者や蘭学者の私には、得難い経験にござります」
「自分が学ぶことも当然よいですが、人に物を教える…というのも、存外悪くはありませぬ」
糸子は——御簾の奥で、優しく笑った。
「それは、ようございました」
「それを聞いて、少し安心いたしました」
「村田殿のお力なくしては——商務語学所は決して回りませぬ」
「お身体を、大切になさってくださいませ」
村田は深く平伏した。
「ありがたきお言葉——」
「姫様のご配慮——心の底まで染み入りまする」
七
糸子は、次の話題に移った。
「村田殿、もう一つ…申し付けたきことが、ございます」
村田は姿勢を正した。
「お聞かせくださいませ」
糸子は——慎重に、口を開いた。
「商務語学所の……学業の取り決めについてで、ございます」
「現在の取り決めにいくつか、追加・修正したい点がございまする」
村田は、興味深そうに頷いた。
「ほう……」
糸子は続けた。
「まず、一期生十名についての特別措置から、お話致しまする」
「一期生は——『試験生徒』として扱いまする」
「現在の取り決めの当てはまらない部分は『適応外とする』特別処置を行いまする」
「ただし、適用できる部分については、適応させまする」
村田は、——深く頷いた。
「なるほど、一期生は『試験生徒』として…特殊な扱いを致す、ということですな」
「了承致しました」
糸子は、続けた。
「もう一つ——」
「一期生については、学業の終了証明書は…発行できぬ旨を生徒にお伝え下さいませ」
村田は——わずかに目を見開いた。
「ほう……終了証明書は発行されぬのですか」
糸子は続けた。
「はい、一期生は制度が確定する前の試験的な集まりでございます」
「これからのことを考えますと…正式な卒業生としては、扱えないのでございまする」
「ただし、一期生の方々には、別の形でお返しを致しまする」
糸子は、少し笑って続けた。
「一期生の方々は、天朝物産会所の最初の協力者として、特別な立場を得ることになりまする」
「終了証明書はなくとも、実質的な特権をお与え致しまする」
村田は——深く頷いた。
「なるほど、理解致しました」
「一期生に、その旨をお伝え致しまする」
八
糸子は、更に続けた。
「村田殿——」
「ここからが、重要な追加でございます」
村田は、姿勢を正した。
「はい」
糸子は文机の上から、自分が事前にまとめた、覚え書きを取り出した。
葵に目で合図した。
「葵——これを村田殿の前に」
葵は、糸子の覚え書きを両手で受け取り、村田の前に丁寧に置いた。
覚え書きには、糸子が新たに考案した、商務語学所の追加学業条件「十一項目」が、細かく几帳面な筆跡で書き込まれていた。
村田は、覚え書きを開いて読み始めた。
最初の数行を読んで、村田の眉がぴくりと動いた。
そして数頁読み進めて、村田の眼が大きく見開かれた。
最後の一行を読み終えた時、彼は呼吸を忘れたかのように静止した。村田はしばらく動けなかった。
九
覚え書きには、——糸子が考案した、十一項目の追加条件が書き込まれていた。
(い)「入学の儀」二名以上の身元保証を要すること。
(ろ)「在学中の規律」教科書の写本を厳禁とすること。
(は)「成績と進級」
(に)「卒業の証」朱印と番号を付し、三年間の奉公義務を課すこと。
(ほ)「教員の定め」五年に一度、再試験にてその資格を改めること。
(へ)「守秘義務の永続性」
(と)「違反行為への対応」
(ち)「学業中断と復学」
(り)「苦情・紛争処理」
(ぬ)「教科書の改訂と再教育」
(る)「朝廷との関係」——。
その内容は、驚くほど緻密で体系的で、同時に厳格で、巧みな仕掛けを含んでいた。
(い)の入学条件では——推薦制を基本としつつ、二名以上の身元保証人と入学誓約書を求める仕組み。
(ろ)の在学中の規律では、守秘義務、教科書の取り扱い(写本禁止)、段階的開示の遵守、政治活動への参加禁止。
(は)の成績と進級では——上中下の三段階評価、各巻ごとの試験。
(に)の卒業条件では——朱印と識別番号付きの卒業証明書、卒業後三年間の天朝物産会所への関与義務。
(ほ)の教員条件では——教員免許の五年ごとの更新、剥奪条件の明文化。
(へ)の守秘義務では——卒業後も生涯にわたる守秘義務。
(と)の違反対応では——身元保証人・家族・所属組織への連座制。
(ち)の学業中断では——休学・退学の規定。
(り)の紛争処理では——三段階の対応(教員→村田→糸子)。
(ぬ)の教科書改訂では——改訂版の再教育義務。
(る)の朝廷との関係では——御門様への定期報告、綸旨の効力。
村田は…絞り出すように声を出した。
「姫様——」
「…これは、何とも恐ろしいほどに……緻密な仕組みにございますな」
糸子は御簾の奥で、わずかに苦笑した。
「お褒めいただき、恐れ入りまする」
村田は続けた。
「特に——(と)の『連座制』(へ)の『生涯の守秘義務』(ろ)の『段階的開示の遵守』」
「この三つは——情報の統制の実に良い形にございますな」
「違反した者は——本人だけでなく、家族・所属組織にも累が及ぶ」
「一見厳しく思えますが……」
「これは——御門様の綸旨の重みが、生徒一人ひとりに、心の底まで刻まれる仕組みだと思います」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「左様にございます」
「この学所を軽く扱われては、困りますゆえ」
村田は頭を上げて、御簾の方を見た。
「姫様——」
「私は本当に、姫様には…驚かされてばかりでございますな」
村田は——にっこりと笑った。
「私塾のほとんどには、このような厳格な制度はございませぬ」
「寺子屋・私塾の修了証はありますが、『教員免許』『連座制』『生涯の守秘義務』——これらの組み合わせは、前例を見ぬものにございます」
「はてさて…どこからこのような考えが浮かばれたのやら?。一体、どうなっておるのでございますか?」
糸子は御簾の奥で、誤魔化し笑いをした。
(前世からの知識です…なんて言えなしなぁ)
「村田殿、…なんか、すみません。やりすぎましたでしょうか?」
御簾の奥から、消え入りそうな声が返ってきた。 糸子は内心。
(あちゃー、21世紀のコンプライアンスとガバナンスを詰め込みすぎちゃったかな……と激しく後悔していた)
村田は、更に笑った。
「姫様、なぜ謝られるのです! 私は……ただただ、感服いたしております」
膝を乗り出した。
糸子は、苦笑いで応じた。
「色々と考え過ぎてしまうのが…わたくしの悪い癖でございまして……」
村田は、深く笑った。
(——姫様の、この『笑い』は……まことに可愛らしい)
(しかし、その奥にあるのは、並外れた頭脳と、計算高さ)
(このお方はまことに——並のお方ではございませぬ)
糸子は御簾の裏で、額を押さえて苦笑いを浮かべた。
(本当にすみません。前世でブラック企業の社則とか、資格試験の規約を読み込んでたから……なんて口が裂けても言えないわ。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ、とほほ……)
十
村田は、気を取り直して覚え書きを、もう一度見直した。
「姫様、この覚え書きの内容について——いくつか、確認させていただきたきことがございます」
糸子は頷いた。
「はい、お聞かせください」
村田は——慎重に口を開いた。
「(ろ)の『教科書の段階的開示の遵守』についてでございますが——」
「第一巻・第二巻は、全在学者に開示」
「第三巻は、成績上位半数のみ」
「第四巻は、実地研修合格者のみ」
「第五巻は、天朝物産会所就職者の一部のみ」
「——これは、既存の取り決めと整合致しますね」
糸子は頷いた。
「左様にございます」
村田は続けた。
「(と)の『連座制』につきましては——」
「身元保証人、家族、所属藩、所属商家への波及」
「この武門の法度は、家門の連帯を以て保たれるもの。一人の過ちは一族の過ちとして、等しく責めを負う……これぞ太平の世を支えし厳しき掟にございます」
糸子は、頷いた。
「左様にございます。……一家一門、運命を共にするは武士の常。この学所を、ただの習い事の場と思われては困りますゆえ」
「入学希望者本人だけでなく、その身元保証人、家族、所属藩・所属商家までもが——生徒の動向を、自然に監視し、互いに律し合う形を整えたまででございます」
(……本当は、所属団体の信用失墜行為とか損害賠償っていう意味なんだけど、こっちの世界だと『連座』って言ったほうが話が早いのよね)
村田は、少しにやりと笑った。
「——姫様、これはたまげた仕掛けでございますな」
「藩や商家が、自分の所から出した生徒を、自然に監視する構造」
「これは——商務語学所が、わざわざ監視せずとも、自動的に規律が保たれる仕組み」
糸子は御簾の奥で、わずかに笑った。
「ふふふふ——」
葵だけがその小さな笑い声を、聞き取っていた。
(——あれ?また姫君様の笑いが違う…)
(村田殿は、気づいておられないでしょうが…)
(姫君様のうけけ笑いは何処へ???)
村田は続けて(ほ)の教員に関する条件を、確認した。
「(ほ)の『教員免許の有効期限』につきまして——」
「五年ごとの更新、再試験を課す」
「(ほ)の更新制も、教科書の改訂に合わせるという。……うんうん、学問は止まらぬもの。教える者が一番に学ばねばならぬという道理ですな」
「教員の質を、長期的に維持する仕組みになっているわけですな」
糸子は、頷いた。
「左様にございます。教科書は改訂を続けまする」
「最新の教科書改訂内容に、対応していない教員は、もはや教員にはありませぬ」
「『一度、教員になれば、永遠に教員』という仕組みは、危険なのでございます」
村田は、深く頷いた。
「——なるほど、よく考えられておりまする」
「この『教員免許』という考え、そして『更新』。一生安泰という甘えを許さぬこの掟……。これぞ、真に国を支える人材を育てるための、火の如き厳しさでございますな」
村田は最後に(る)の朝廷との関係を確認した。
「(る)の『御門様への定期報告』につきましては——」
「重要な事項を定期的に、御門様にお伝え申し上げる」
「これにより商務語学所の動きが、朝廷の御聖断のもとに、進められておるという形が明確になりますね」
糸子は頷いた。
「その通りでございます」
「御門様の綸旨の効力を、最大限に活用するための仕組みでございまする」
十一
村田は覚え書きを、丁寧に閉じた。
そして平伏した。
「姫様——」
「これらの追加条件、全て了承致します」
「明日より商務語学所の運営に、組み込んでいきましょう」
糸子は御簾の奥で、深く頷いた。
「おおきに、お願い致します」
「特に(い)の入学条件については、一期生は適応外、二期生以降から本格適用と致しまする」
「(ほ)の教員に関する条件は、卒業者が出てから本格適用」
「現時点では(ろ)の守秘義務、(と)の連座制、(る)の朝廷との関係を、優先的に強化致しまする」
村田は頷いた。
「承知致しました」
糸子は続けた。
「これらの内容は、一期生には特別な形で、お伝え致しまする」
「『試験生徒として、特例措置を受けている』ことを丁寧に、ご説明くださいませ」
「同時に、彼らに対する信頼の証として、これら新条件の概要をお話くださいませ」
村田は、深く頷いた。
「左様に致しましょう」
糸子は御簾の奥で、にこにこと笑った。
「村田殿——」
「これらの追加により商務語学所は、情報統制、人材確保、規律維持の、三方向で完全な制度の仕組みとなりまする」
村田は頷いた。
「左様にございます」
「姫様。これら全てが商務語学所の柱となれば、これにてこの場所は、単なる私塾を超え……日本の夜明けを担う、唯一無二の『人材育成機関』となりましょう」
十ニ
糸子は御簾の奥で、深く息を吐いた。
(——よし)
(商務語学所の制度設計は、これでしばらく様子かな?)
(あとは…運用しながら、微調整を加えていくだけ)
村田は平伏し、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その顔には尊敬と——同時に深い感謝の色が、浮かんでいた。
「姫様——」
「私は姫様に、協力できることを、本当に誇りに思います」
「この村田、姫様のためならば、いかなる労も厭いませぬ」
糸子は御簾の奥で、わずかに目を伏せた。
(——村田殿)
(あなた様は、わたくしのなくてはならぬ、御方でございます)
(あなた様の蘭学の素養、軍制改革の経験と、人に物を教える熱意がなければ、商務語学所は回りませぬ)
糸子は、頭を下げた。
「村田殿——」
「こちらこそ、お礼を申し上げまする」
「あなた様が、わたくしの計画の中核にいてくださることが、本当にありがたく存じまする」
「村田殿がいればこそ、この骨組みに血が通います。」
村田はにこやかに答えた。
「なにをおっしゃいますか、姫様」
「私は姫様のお手伝いをすることは、本当に楽しいのでございますよ」
そして、深く平伏した。
「姫様の御志に、最後までお仕え申し上げます」
村田の言葉に少し涙ぐむ糸子。
「あなたの…そのお言葉が、どれだけわたくしに勇気を与えましょうや…」
「おおきに、ありがたき幸せに存じます。村田殿…」
十三
村田が退出してから——。
糸子は御簾の奥で、大きく伸びをした。
「ふーーー」
長い、長い息が——出た。
(村田殿は本当に有難い人ですね…)
葵が新しいお茶を、御簾の中に運んできた。
「姫君様——お疲れ様でございました」
糸子はお茶を、ゆっくりと一口飲んだ。
深い緑の味が、舌の上に広がった。
糸子は——文机の上に置いた、父上の書状をもう一度、手に取った。
書状の表に残った涙のにじみの跡を、指先で、そっとなぞった。
(——父上)
(あなた様のご支援で、わたくしは商務語学所の制度設計まで、ようやく形にすることができました)
(これは、——父上のお力おかげです)
(父上が、わたくしの後ろに立ってくださっているからこそ——わたくしは、これだけのことを安心して進められまする)
糸子は書状をもう一度、両手でしっかりと握りしめた。
その時——
遠くから京から、御門様のあの穏やかな御声が、聞こえてきたような気がした。
「朕は其の方らの計画のために——朕の権威を、惜しまず振るうつもりである」
糸子は、もちろんその御声を、実際に聞いたわけではなかった。
御門様が忠房に、そう仰せになられたことを、糸子はまだ知らない。
しかし、糸子の心の中で確かに——御門様の御声が響いていた。
糸子は御簾の奥で、にっこりと微笑んだ。
「ふふふふ……」
その小さな笑い声を、葵だけが聞き取った。
(——あれ?いつもの姫様の笑いでは…ない?)
(しかし、これは——今までと少し違う……普通の笑い??)
(でも、どこか温かい…満ち足りた笑いだったと思います)
(姫君様、ご機嫌のようでございますね)
葵は、御簾の外でにっこりと笑った。
部屋の隅で近藤が、いつも通りに無言で正面を見ていた。
沖田は、葵の笑顔を見てにっこりと笑った。
糸子は沖田の笑顔を、御簾越しに見ていた。
(こうして改めて見ると、沖田は割と美形男子なのよねー。笑顔も優し気だし…)
(…この間は脳内で無理矢理、美形男子に変換しようとしたから、拒否反応がでてしまったのかしら?。小汚いおっさんらを美形男子に見立てようとしたこと自体、土台無理な話だったってことかー)
糸子は、少し肩を縮めた。
しかし、その表情はどこか楽しげであった。
十四
今にも、その蕾がはぜて、香りがこぼれ出しそうだった。綻びを待つばかりの蕾は、内に熱を秘めているかのようだった。
ふくらんだ蕾の先から、紅がひとしずく溢れ出しそうだった。
糸子は文机の前で、最後に一行、新しい書状を書き始めた。
「お父様上」
「御返事の御文、しかと拝受いたしました」
「糸子、その御文を三たび繰り返し拝読いたしました」
「そのたび、袖を濡らさぬ時はございませんでした」
「お父様上、かたじけなく、感涙にむせんでおります」
「お父様上の御言こそ、わたくしの何よりの杖柱にございます」
「今後とも、幾久しくお見捨てなきよう、願い奉ります」
「糸子拝」
糸子はその短い、しかし心のこもった書状を、丁寧に折りたたんだ。
封をして、宛名を書いた。
「近衛忠房様 糸子拝」
糸子は、その書状を文机の上に、丁寧に置いた。
明日の朝——葵に頼んで、善次郎経由で京に送ることになる。
糸子は御簾の奥で、深く息を吸った。
(——父上)
(このお礼、いかほど申し上げても足りませぬ)
(なれど、わたくしはいつか必ずや、京へと立ち戻りましょう)
(その日まで、どうかお健やかにおわしてくださいませ)
糸子は文机の前で、深く頭を下げた。
京の方角に向かって、深く、深く頭を下げた。
御座所に満ちる光を吸い込んで、冬梅の蕾は、今にもその身を解かんとしていた。
温かな日差しの中で、冬梅の蕾は、瑞々しくその時を待っていた。
第八十七話 了
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