第八十五話「経済学を学ぶ——四人の特別講義」
一
万延二年、新春。
一橋上屋敷も、新春の装いを整えていた。
部屋の床の間には、紅白の梅を一枝、青磁の花入れに活けてあった。冬梅の蕾は、半ばまでほころび、淡い紅の色を、見せ始めていた。違い棚の上には、新春の祝いとして、京の親戚から届いた飾り扇が、丁寧に置かれていた。
障子の向こうでは、新春の朝の光が、白く、柔らかく、差し込んでいた。庭の松の葉には、まだ薄く霜が残り、その霜が、朝の光を受けて、白く輝いていた。庭の隅で、つわぶきの黄色い花が、——冬の終わりの季節を、静かに、告げていた。
部屋の四隅には、近藤勇が一人——いや、近藤勇と沖田総司が、それぞれの位置に立っていた。近藤は相変わらず、無言で正面を見つめている。沖田はにこにこと笑いながら、しかし眼の奥ではしっかりと部屋の様子を観察していた。
御簾の横では、葵が静かに控えていた。
前には坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞——三人が平伏していた。
三人は、ついさきほど糸子から、無血近代化計画の全容を知らされたばかり。それぞれの胸の中にはまだ、計画の余韻が残っていた。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
軽やかな、しかし、しっかりとした足音だった。
糸子の侍女・小夜の足音と、そしてもう一人別の人物の足音。
襖の前で、足音が止まった。
小夜の声が静かに響いた。
「姫君様、吉田殿をお連れ致しました」
糸子の声が御簾の奥から響いた。
「お入りになられてくださいまし」
二
襖が——静かに開いた。
吉田松陰が入ってきた。
その姿を見て御簾の奥の糸子は、わずかに目を見開いた。
(——ん?)
(中二病が、いつもと違う……)
松陰は——いつもよりも、きりりとしていた。凛々しかった。
羽織は、いつもより少し丁寧に整えられ、髷もわずかに形を整えてある。歩く姿勢が、いつもの興奮で前のめりになる姿ではなく——奇妙なほど整っていた。
その理由は——糸子は知らないが、松陰の中では明確だった。
(新春早々、姫君様にお会いできる)
(これは——何という幸運なのだ)
(この機会に、わたくしの最も格好いい姿を姫君様にお見せせねば!)
(普段の私ではない。「決めた」この松陰を姫君様に、お見せするのだ!)
松陰は、内心で密かに燃えていた。
しかし、その燃え上がりを表に出さない、「きりっとした」演技を見事にこなしていた。
小夜は——松陰の様子を、しばらく見てから丁寧に平伏した。
「それでは、失礼致します」
松陰は小夜の方を、きりりと見た。
「小夜殿、ご案内、誠にありがとうございました」
声色まで——いつもより低く整っていた。
小夜は、一瞬、ぴくりと表情を動かした。
(——あれ? 吉田殿…いつもと声が違う……?)
(なんて不気味な……)
しかし、小夜は口には出さず、もう一度丁寧に平伏した。
「はい、それでは吉田殿。ごゆるりと——」
小夜は、襖を閉めて退室した。
松陰は御座所に入る直前に平伏した。
「姫様——松陰にございます」
「新春早々、こうして姫様の元に訪れることが出来、感無量にございます」
「それでは、失礼いたし——」
松陰は頭を上げかけて、途中で止まった。
三
松陰の視線の先に——三人の男がいた。
久坂玄瑞、高杉晋作、坂本龍馬。
松陰は——眉を、ぴくりと寄せた。
「なんじゃ——お主たち」
「先に来ておったのか?」
久坂と高杉が、平伏した姿勢のまま声を上げた。
「はい、先生」
「あけましておめでとうございます」
龍馬も、平伏のまま声を上げた。
「先生、先に来ちょったよ」
「あけましておめでとうちや」
松陰は、少し間を置いた。
「あっ、——ああ」
「あけましておめでとう」
そして、その口から小さく、しかし明確に漏れた音があった。
「……ちっ」
舌打ち。
坂本は、その音を聞き逃さなかった。
思わず顔を上げて松陰を見てしまった。頭の中では衝撃が走っていた。
(——!!)
(先生、今、舌打ちしたぜよ!?)
久坂と高杉も——同時に、その音を捉えた。
二人は平伏のまま、ちらりと目を見合わせた。
高杉が、口の動きだけで囁いた。
(今、先生が思いっきり、舌打ちしたんじゃ)
久坂が、口の動きで応じた。
(なしてだ!?)
高杉が少し考えてから、口の動きで推測した。
(ひょっとしたら——姫様と、二人っきりで会えると思っちょったら)
(わしらが、先に来ちょったきか?)
久坂が、口の動きで信じられない、というように応じた。
(いや、——ぼっちりそれは……)
二人は、同時に額に汗を滲ませた。
しかし、松陰の本心が、彼らの推測どおりであることに、ほぼ確信を持ち始めていた。
四
松陰は、すぐに気を取り直した。
いや——気を取り直したと見せかけた。
松陰は、御簾の前へと進んだ。
深々と平伏した。
周囲の三人を一切無視するような姿勢だった。
松陰の声が、御簾の奥に向けて、響いた。
いつもの興奮した声ではなかった。——格式高い、雅な言葉に近い整った声色だった。
「新春の御慶、慇懃に言祝ぎ申し上げ奉ります」
「常盤に、姫君様の弥栄を祈念し奉り、併せて、拝賀仕ります」
御簾の奥で——糸子は、わずかに引いた。
(——どうした、中二病?)
(いつもよりなんか……すごい気合を感じるぞ……)
(少し、怖いかも……)
糸子は、慎重に口を開いた。
「吉田殿——」
「——かたじけのうございます。本年も、どうぞよしなにお頼申します」
「新しい一年が、そなた様にとって、雅で幸多きものとなりますよう、心よりお祈りいたしております」
糸子もいつもより——わずかに、格式高い言葉で応じてしまっていた。
その瞬間——。
部屋の隅にいた、沖田総司の手が、——ゆっくりと刀の柄に伸びた。
糸子は、御簾越しにその動きを、感じ取った。
(——!?)
(沖田、それはNO!、ダメ、ダメ!!)
糸子は、御簾越しに首を、これでもかというくらい横に振った。
目を思いっきり見開いて、「やめて!」という意思を必死に伝えた。
沖田は、にこにこと笑いながら、ゆっくりと刀から手を離した。
糸子の方を——にっこりと笑って見た。
糸子は、冷や汗をかいた。
(……あぶねー)
(わたくしが、いつもと様子が違う中二病を見て、少し怖いかも…って感じたから?)
(沖田の判断が、早すぎる)
(それにして——沖田は…なぜわかる?)
(まるで、わたくしの心が……)
(はっ!——まさか、沖田はニュータイプ、だとでも言うのでしょうか?)
(まさか沖田殿は、あの赤い人のように「見えるぞ、私にも敵が見える!」的なカンジで、見えちゃっていたりするのでしょうか?)
(よし!——今度改めて…また夢のせいにして、沖田殿に聞いてみましょう!!)
(あっ、いけない!)
(中二病のことを、一瞬忘れていたー)
(んっ?、んんんー??)
糸子の意識が——御簾の前の松陰に戻った。
松陰は、平伏したまま——震えていた。
ぶるぶる…と肩が震えていた。
糸子は、その様子を見て引いた。
(——なぜ、震える?)
(感、極まっているのかな??)
(んんんーーー???)
(本当に分からん、謎なおっさんだ……)
次の瞬間——。
松陰が、勢いよく顔を上げた。
その眼から——大量の涙が溢れ流れていた。
「姫君様——!」
松陰の声が、震えていた。
「この松陰——」
「姫君様より、誠に暖かい新春のお言葉をかけてくださり—今、猛烈に感動しておりまする」
「この一年、松陰は、身命を賭して姫君様のため、この日本のために働いていこうと——気持ちを新たにするところであります」
松陰は、再び深く平伏した。
「是非に、是非に——」
「この松陰を——お使いくださいませ!!」
糸子は、御簾の奥で引いた。
(OH…なんてこったい……)
「はい——」
「その心意気、実にかたじけのうございまする」
「そなた様のような、雅な御仁と誼を通じることができ、わたくしも喜悦に堪えませぬ」
松陰の眼が、更に輝いた。
「なんと——!」
「勿体なき、お言葉」
「姫君様——!!」
五
御簾の前の三人は、絶句してその様子を見ていた。
坂本が平伏のまま、口の動きでぼそりと呟いた。
「先生、なんか…人格が変わっちゅうやないか?」
高杉が、苦笑しながら口の動きで、応じた。
「姫様が関わると——いっつもこねーなことになるんじゃ」
「あんまり、深入りしんさんな」
坂本が、口の動きで頷いた。
「おっ、おう……」
久坂は、目を伏せて何も言わなかった。いや、言わないように心掛けていた。
しかし、その内心は——既に別の方向を向いていた。
(——先生は、姫様の前ではいつもこうなる)
(その姿を——これから三月余、続けて目の当たりにすることになる)
(——これは、苦行だ)
(しかもその間、わしらは経済学とやらを、死ぬ気で学ばねばならぬ)
(——三重苦じゃ)
久坂の額には、わずかに汗が滲んでいた。
六
糸子は御簾の奥で、深く息を吸った。
(——よし)
(中二病の感動も、ようやく収まったみたいだし)
(本題に入ろう)
糸子は、口を開いた。
「それでは改めまして——」
「そろそろ、本題のお話に入りましょうか?」
「本日、皆様をお呼びしたのは……」
久坂、高杉、坂本——そして松陰の四人が同時に姿勢を正した。
「はい」
糸子は、続けた。
「久坂、高杉、坂本の三人には、すでにお話致しましたが——」
「吉田殿を含めた、四人には——」
「わたくしが講師となり——」
「三月余、みっちりと…商務語学所で教える経済学を、特別に学んでいただきまする」
松陰の眼が——大きく見開かれた。
「!!!?」
「……姫君様が、自ら講師となって——私にその経済学とやらを…教えてくださる——?」
松陰の声が、明らかに震えていた。
次の瞬間——。
「なんと——素晴らしきことか——!!」
松陰が勢いよく、両手を合わせた。
「この松陰、命を懸けてその経済学とやらを、習得してみせましょうぞ——!!」
糸子の声が、少し戸惑ったように響いた。
「おおきに、お礼申し上げます」
糸子の内心。
(いちいち感動して…ありがたいけど、なんか……話が進まないー)
糸子は、慎重に続けた。
「それでですね——」
「『三月余と、期限を区切るのは——その後に、それぞれ特別に動いて貰わなければならないため』にございまする」
松陰の眼が、更に輝いた。
「なんと——!!」
「ついに、わたくしも姫君様のお役に——」
「お役目をいただけるので、ございますかー!!」
「なんとも恐れ多い、なんとも有難いー」
「しかし、この松陰は、姫君様のためならば、全力をもってそのお力に、ならせていただきます」
糸子は御簾の奥で、額に手を当てた。
糸子の内心。
(——やっぱり、最後まで聞いてくれない……)
糸子は、慎重に声を整えた。
「あの——吉田殿」
「申し訳ありませぬが…」
「しばらく、わたくしの話を、最後まで聞いていただけないでしょうか?」
松陰は、平伏した。
「これは——失礼を」
「余りに、興奮してしまいました——!」
「是非、最後まで拝聴させていただきたく——!!」
糸子は、軽い息を吐いた。
「それではお話を進めます…」
(はぁ、なんでまだ肝心なことは話していないのに、こんなに疲れるのだろう)
「教える経済学を、死ぬ気で勉強していただき、——自分の血に肉にしていただきまする」
「銭、すなわち経済は、あらゆるものに直結しておりまする」
「それは、今後のあなた方の助けとなることでしょう」
「だから、そなたたちに学んでほしいのでございます」
糸子は、続けた。
「ちなみに、三月余と時間が区切られているため、経済学の全てを学ぶことはできませぬ」
「よって、それぞれに合わせた内容を——特別に学んでいただきまする」
「時間が限られておりますから、それぞれの今、必要のないものは学ばないということ」
「あなた方ならば、それでも問題はないはずでございまする」
四人は——姿勢を正した。
糸子は、文机の上から、四冊の帳面を取り出した。
御簾の横の葵に、目で合図した。
「葵——」
「これをお四方に、お渡しくださいまし」
「はい、姫君様」
葵は、四冊の帳面を両手で受け取り、それぞれ四人の前に、丁寧に置いた。
松陰、高杉、久坂、龍馬の前に…それぞれ、別々の学習計画書が置かれた。
七
糸子は御簾の奥で——息を整えた。
そして、本格的に説明を始めた。
「では、経済学の構成をまず、お伝え致しまする」
「教科書は——全四巻でございます」
「第一巻——『経済と国際環境』」
「これは、——経済学の入門編。約十五刻で学べます」
「金銀比率の失敗、異国商人の思考、貿易構造と日本の弱点——これらを体系的に学びまする」
松陰、高杉、久坂、龍馬は——皆、頷いた。
糸子は、続けた。
「第二巻——『商談・交渉』」
「これは、——応用実践編。約二十刻。演習を含みまする」
「商談の七原則、別条の策(交渉が決裂した際の最善の代替案)——これらを模擬商談で実地に学びまする」
高杉が、わずかに目を輝かせた。
糸子は、続けた。
「第三巻——『為替・複式簿記』」
「これが、最も難しい巻。約三十刻。計算練習が必須でございます」
久坂が、——わずかに姿勢を正した。
糸子は続けた。
「第四巻——『海運・物流』」
「これは、——専門知識。約ニ十刻」
「主要航路の知識、保険の概念、危険性管理——これらを学びまする」
龍馬が、わずかに目を輝かせた。
糸子は、息を吸った。
「合計——百七十時間」
「およそ、八十五刻の修練でございます」
「九十日の間、毎日欠かさず一刻は、雑念を払い、真剣に書と向き合う時間を設けまする」
「予習・復習、さらには同志との激論や実践を含めれば——」
「一日のうちに、三刻から四刻は——学問に没頭することになりましょう」
「明六つに起き出してから、日が落ちる暮六つ、あるいは夜更けの八つに至るまで」
「まさに寝食を忘れて、己を磨き上げねばなりませぬ」
四人の額に、わずかに汗が滲んだ。
糸子は、更に続けた。
「ただし——」
「全員に全巻を均等に…というのは、非効率にございまする」
「それぞれの能力、性格、これからの役割に応じて——重点を配分致しまする」
八
糸子は、最初の一人を見た。
「吉田殿——」
「あなたには、第一巻を中心に学んでいただきまする」
松陰は——目を見開いた。
糸子は続けた。
「あなたは教育者として超一流のお人」
「朱子学・陽明学・兵学・蘭学の素養もありまする」
「学問の能力は、わたくしの周りの誰よりも高い方」
松陰の眼が、震えた。
糸子は続けた。
「ただし、あなたに複式簿記の細かな計算まで、習得していただく必要はありませぬ」
「あなたは——『教える側』の御方」
「あなたが第一巻『経済と国際環境』を、完全に消化されれば——」
「あなたが後に藩士たちに、その内容を伝えることができましょう」
「『なぜ、経済を学ぶ必要があるのか?』」
「『真の敵は、誰なのか?』」
「これを、漢学・兵学の文脈で語れる吉田殿が——」
「最も重要な思想伝道の役を、担っていただきます」
松陰の眼に、涙が滲んだ。
「姫君様——」
「わたくしを、『思想伝道の役』とお見立てくださり——」
「松陰、身に余る光栄にございます」
糸子は、続けた。
「具体的には——」
「第一巻に、二ヶ月。深く繰り返し学んでいただきます」
「第二巻と第四巻の、概念の部分を三週間」
「第三巻は、基礎のみ一週間」
「これが、あなたの学習計画でございます」
松陰は、深く平伏した。
「承知、致しました」
「この松陰——命を懸けて第一巻を、わたくしの血と肉に致しまする」
九
糸子は、次に高杉の方を見た。
「高杉——」
「あなたには、第二巻を中心に、学んでいただきまする」
高杉は、わずかに目を見開いた。
糸子は、続けた。
「あなたは——萩の明倫館で学び、昌平坂学問所にも、留学経験のある御方」
「頭の回転が速く、吸収力が高い」
「理論よりも、実践的応用に強い方」
高杉の眉が、わずかに動いた。
糸子は続けた。
「あなたの機知と機転を、交渉術で磨き上げまする」
「商談の七原則」
「別条の策——『最善の代替案』という考え方」
「『感情を表に出さない』」
「『時間を使う者が勝つ』」
「これらを模擬商談で、実地に学んでいただきまする」
「あなたがこれらを、ご自身のものにすれば、各藩の若手・中堅層への浸透、そして遊撃・情報収集——あらゆる場面で、力を発揮していただけまする」
高杉は、平伏したまま微笑んだ。
「面白そうじゃ——姫様」
「俺の機知を、交渉術で磨いていただけるんなら、こりゃ楽しみじゃ」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「具体的には——」
「第二巻に二ヶ月。演習を重視」
「第四巻——『海運・物流』に一ヶ月。これは上海・朝鮮経路を視野に入れた知識」
「第一巻と第三巻は、並行して全期間で、週に数時間」
「特に、第二巻の演習では——田中屋清兵衛に、相手をしていただきまする」
高杉が、首を傾げた。
「田中屋……?」
糸子は続けた。
「先日、横浜にて教科書通りに生糸の商談で、異国商人に勝った…商人にございます」
「あなたには彼を相手に、模擬商談を繰り返していただきまする」
「勝つまで、続けていただきまする」
高杉は——にやりと笑った。
「商人相手に、勝つまで繰り返しか」
「面白い」
「楽しみにしちょりますけぇ」
しかし、高杉の内心は、別の感情も抱えていた。
(——姫様、本気でこれを考えちょる)
(俺の特性を見抜いた上で、交渉術で磨くと決めちょる)
(俺の田中屋という商人を相手に、模擬商談を勝つまで繰り返させる…というのも容赦がない)
(しかし——なんで姫様は、ここまで俺のことを分かっちょるんじゃ?)
(このお方は、本当に何者じゃ?)
(俺の頭の回転の速さ、機知の特徴、実戦的応用に強い性質——)
(全部、見抜いちょる)
(しかも、俺の役割まで先に決めちょる)
(『藩内の若手・中堅層への浸透、遊撃・情報収集』——これはまさに、俺の好む役どころじゃ)
(——警戒せねばならぬ)
(このお方は…まことおそろしいお人じゃ)
十
糸子は次に、久坂の方を見た。
「久坂——」
「あなたには全巻を、均等良く。特に第三巻を重視していただきまする」
久坂がわずかに、姿勢を正した。
糸子は、続けた。
「あなたは、松下村塾の四天王の一人」
「漢学の素養が、極めて深い」
「理詰めで学び、体系的学習に強い御方」
久坂は、平伏のまま頷いた。
糸子は続けた。
「あなたの理詰めの能力を、財政分析と、為替の理解に活かしていただきまする」
「複式簿記を、完全に習得していただきます」
「藩の財政状況を数字で、分析できる程度まで」
「為替の仕組み、為替差益の罠——これらを、自分の言葉で説明できるようになって頂きまする」
久坂の眉が、ぴくりと動いた。
糸子は続けた。
「これができれば——」
「あなたは各藩の要人——理性的な御方——に対等に、議論を仕掛けることができるようになりましょう」
「人によっては感情論では、動かぬ御方もおりましょう」
「数字で語れる、久坂…あなただけが、そういう人を説得できる」
久坂が目を見開いた。
「なるほど。晋作とは役割が違うとことですね」
「しかし……」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「以前より——調べさせていただいておりましたので」
糸子の内心。
(——転生前の知識で、知っているなんて言えないもんなー)
久坂は、深く平伏した。
「光栄に存じまする」
「この玄瑞、対等に議論できるよう——血と汗を流して学びまする」
糸子は続けた。
「具体的には——」
「第一巻に三週間。理論武装として必須」
「第三巻に二ヶ月。複式簿記まで完全習得」
「第二巻に二週間。交渉の原則のみ」
「第四巻に一週間。海運の基礎理解のみ」
久坂は、目を輝かせた。
(——これはわしの体系的学習の能力を、最大限に活かす配分じゃ)
(姫様は、わしの強みも弱みも見抜いちょる)
(しかも、わしに藩の財政を、自分の力で、分析できるほどにまで、引き上げると決めちょる)
(これは、身が引き締まる)
久坂は、深く頷いた。
十一
最後に糸子は、龍馬の方を見た。
「坂本——」
「あなたには、第四巻を中心に学んでいただきまする」
龍馬が、にこにこと笑った。
「おっ、海の話か。姫様、わしの本職じゃきに得意な分野ぜよ」
糸子は続けた。
「あなたは、既に第四巻の編纂に、協力していただきました」
「主要航路の知識——江戸大坂、大坂長崎、横浜上海——」
「保険の概念——オランダ海上保険」
「これらを徹底的に、習得していただきまする」
「勝海舟殿との対話、横浜・長崎での実地体験、海運業者・船頭との対話——」
「あなたの直感を、理論で裏付けまする」
龍馬は頷いた。
「了解ぜよ——姫様」
「わしの直感を、ちゃんと理論で裏付けるんじゃね」
糸子は続けた。
「次に第二巻、商談・交渉も重要にございます」
「あなたは、——他藩志士を説得する、外部代理人役」
「別条の策の概念、模擬交渉——これらを徹底していただきまする」
「特に——高杉と組んで、模擬交渉を行っていただきまする」
龍馬の眼が、輝いた。
「おおー!晋作と組むのか」
「こりゃ、面白くなりそうぜよ!」
高杉も、にやりと笑った。
「龍馬、お前と組むんじゃったら、面白い演習になりそうじゃ」
糸子は、——続けた。
「第一巻も、理解は必須」
「代理戦争論を、他藩に伝えるための武器」
「金銀比率の失敗など、他藩志士に語る具体例」
「事例の語り方を、特に練習していただきまする」
「なお、坂本には別途、金銀比率の失敗、代理戦争論、海洋国家論をお話し致しまする」
糸子は息を吸った。
「第三巻——為替は基礎のみ」
「あなたに、複式簿記の完全習得は、不要」
「ただし『為替差益の罠』『手形の仕組み』は、商人と話す時に最低限、分かっていなければ話になりませぬ」
「基礎概念のみ、習得していただきまする」
龍馬は、うなだれた。
「えっ、わし計算は苦手ぜよ……」
糸子は、御簾の奥で笑った。
「だから基礎のみ、と申しております」
「久坂があなたの分まで、計算をやってくれましょう」
久坂が、隣で苦笑した。
「坂本殿、わしがお前さんの計算係か」
龍馬が、にやりと笑った。
「久坂、よろしう頼んじゅうきに」
「わしの分までお主が、計算してつかぁせ」
久坂は、首を横に振った。
「……勘弁してくれ」
龍馬が御簾を見ながら…にかりと笑った。
「けんど、姫様。さっき話された金銀比率の失敗、代理戦争論、海洋国家論…これぁ俄然、気になってきたぜよ。話を聞くがを、楽しみにしちょりますき」
部屋の空気が、わずかに和らいだ。
十二
糸子は最後に、全体の流れを説明した。
「次に、三月の流れをお伝えします」
「第一段階——最初の二週間」
「四人共通で、第一巻を学んでいただきまする」
「毎日、集中講義」
「第一巻の全三章を、二週間で習得していただきまする」
松陰、高杉、久坂、龍馬は、同時に頷いた。
糸子は、続けた。
「この段階の試験は、わたくしが口頭試問」
「『代理戦争論を、自分の言葉で説明せよ』と問います」
「合格するまで、次に進めませぬ」
四人の額に——わずかに汗が滲んだ。
糸子は続けた。
「第二段階——次の六週間」
「役割別に、分岐学習」
「吉田殿は、第一巻の応用・深化。村田殿と対話しながら『藩士にどう伝えるか』を、練っていただきまする」
「高杉は第二巻、商談実務・交渉術を、集中習得。模擬商談を実際の商人との間で、繰り返していただきまする」
「久坂は第三巻、為替・金融基礎を、集中習得。善次郎の帳面を直接手に取って、複式簿記の計算練習を毎日続けていただきまする」
「坂本は前半三週間で、第四巻を徹底習得。後半三週間で、第二巻を実戦習得。横浜の天朝物産会所拠点で数日、実地研修も組み込みまする」
龍馬の眼が、輝いた。
「実地研修——!」
「わし、机の前にずっと座っちょるんは、苦手じゃきに」
「実地研修なら、いくらでも行くぜよ!」
糸子は、御簾の奥で笑った。
「あなたの性格を、存じておりますので」
糸子は続けた。
「この第二段階の終わりに、中間試験を課しまする」
「吉田殿は、藩士を想定した模擬授業を、わたくしに向けて行っていただきまする」
「高杉は、模擬商談で、商人と対決。勝つまで繰り返していただきまする」
「久坂は、藩内の財政分析を提出。そして数字で論じていただきまする」
「坂本は、他藩志士を想定した、模擬対話を行っていただきまする」
四人の表情が、緊張で引き締まった。
糸子は、続けた。
「第三段階——最後の四週間」
「四人で連携訓練」
「週三日は、四人で議論・模擬工作」
「『要人の説得』を想定した、役割演習」
「『藩士への講義』を想定した、吉田殿の練習」
「『藩内若手への浸透』を想定した、高杉の練習」
「『他藩への遊説』を想定した、坂本の練習」
「久坂は要人への進言書草案を作成」
「最後に——」
糸子の声が——わずかに強くなった。
「最終試験を課しまする」
「わたくしの前で——」
「想定を薩摩藩とし、わたくしに協力していただけるように、説得する模擬交渉を…」
「坂本に、実演していただきまする」
龍馬の眼が大きく、見開かれた。
「なっ……薩摩!? いきなり薩摩ながか!?」
糸子は、御簾の奥で頷いた。
「あなたが、自分らしくできるかを、——確かめさせていただきまする」
龍馬は頭を抱えた。
「うっ、薩摩か……そりゃあ難しいちや……」
「姫様、勘弁してつかぁさい……」
糸子は、御簾の奥で笑った。
「だからこそ、三月余、しっかり学んでいただきまする」
十三
話を聞き終えた四人は、それぞれ別の表情をしていた。
久坂玄瑞は、目を輝かせていた。
(——新しいことが知れる)
(しかも、藩の要人と対等に議論できる程度まで、引き上げていただける)
(こりゃあ——たまらん)
(玄瑞、血と汗を流して学びまする)
久坂の表情には、純粋な知的好奇心と、責任感が宿っていた。
高杉晋作は、警戒の色を宿していた。
(——余りに授業内容が細かい)
(しかも、各自の特性を完全に、見抜いた上で配分されちょる)
(このお方は、本当に何者じゃ?)
(俺の長所、強い部分を——全部見抜いちょる)
(しかも、田中屋清兵衛という具体的な商人相手まで、用意しちょる)
(このお方は、どこまで見ちょる?)
(警戒せねばならぬ…)
しかし、その警戒の奥には、同時に深い好奇心もあった。
吉田松陰は、使命感に燃えていた。
(——姫君様が、自ら講師となって、私に教えてくださる)
(これは、一生に一度あるかないかの機会ぞ)
(しかも、私を『思想伝道の役』とお見立てくださった)
(この松陰、是が非でもこの学問を、自分のものにして、全ての藩士たち…皆に伝えなければ)
(これは、わたくしの生涯の使命だ)
松陰の眼には、情熱の炎が宿っていた。
坂本龍馬は、少しだけげっそりしていた。
しかし、その奥に——別の感情もあった。
(——わしゃあ、机の前にずっと座りっ放しいうがは、まっこと苦手ぜよ)
(しかも、三月余りも、毎日学問じゃというがか?)
(うわぁ、気が遠うなる……)
(けんど——)
(姫様の言いゆうことは、肌で感じるき。魂が言いゆう。……こりゃあ、絶対に、先々のわしに必要になる知識じゃ、と)
(経済を知らんと、わしゃあ他藩の志士を説得できんきに)
(『代理戦争論』とやらを、わしの言葉で語れんといかんがじゃ)
(よし——腹は決まった)
(学ぶ。こじゃんと、徹底的に学ぶぜよ)
(姫様、わしは覚悟ができたき!)
龍馬の眼の奥で、確かな決意の光が宿っていた。
十四
四人は——同時に深く平伏した。
「姫様——」
「これから、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」
その声が、——揃っていた。
糸子は、御簾の奥で、深く頷いた。
「よろしくおたの申します」
「数日後より、こちらの別邸にて、第一巻の集中講義を始めまする」
「皆様、——明六つには、ご集合くださいませ」
四人は、もう一度深く平伏してから——順番に退室していった。
最初に龍馬が、げっそりした表情のまま、しかし、足取りはしっかりとした調子で退室した。
次に久坂が、目を輝かせたまま退室した。
次に高杉が、警戒の色を顔に残しながらも退室した。
最後に松陰が、感極まった表情で、何度も御簾に向かって、平伏してから退室した。
「姫君様——!」
「松陰、身命を賭して学びまする——!」
松陰の声が、廊下の方へと消えていった。
部屋には…糸子と葵、そして近藤と沖田だけが残った。
十五
糸子は御簾の奥で、しばらく動かなかった。
葵が新しいお茶を、御簾の中に運んだ。
「姫君様、お疲れ様でございました」
糸子はお茶を、一口飲んだ。
深く息を吐いた。
……そして糸子は大きく項垂れる。
(これから、三月余…あのおっさんらに付き合うのか)
(いくら自ら招いたこととは言え—)
(これがなろう小説なら間違いなく、みな美形男子で、逆ハー状態なんだろうなぁ)
(読者サービスにもなりゃしない。現実はなんて残酷で、厳しいのでしょうか…はぁ……)
(あっ!そうだ。心頭滅却すれば…火もまた涼しくなるっていうし、心頭滅却して…あのおっさん達を美形男子に脳内変換してみようー!!)
「……」
「…………」
「…痛っ、いたっ」
「いたたたたたただだだだだだだだだだだだだだだだだだだーーーーーーーーーーーーーー!!!」
「あたまがぁ、頭が割れそうにぃ…痛みがぁっ!?」
頭を抱えてのたうち回る糸子がいた。御簾で誰にも見られていないのが、唯一の救いだった。
(はぁー、はぁーはぁー、脳内変換したら拒絶反応が…無理なものは、どうやっても無理だったー)
(これから毎日、毎日、あの四人の顔を見ながら、経済学を教えるのか…)
(なんの苦行だ、これ……?)
(特に——中二病の感動の嵐に付き合わねばならぬ)
(あれは、本当に勘弁してほしい)
(もうすでに、精神はガリガリ削られまくって疲弊しまくっている)
糸子はもう一口、お茶を飲んだ。
(お茶が美味しい………ほっ。)
しかし——。
糸子の眼の奥には、別の決意が宿っていた。
(——なれど)
(教えるからには、手は抜かない)
(あの四人は、既に史実で名を残した者たち)
(それならば…わたくしの教えで、史実以上の人物になってもらいましょう!)
(あの四人を、わたくしの計画の協力者として、最大限に磨き上げる)
(それがわたくしの…これからの三月余の仕事だ)
(その後はきっと、彼らは大活躍して…わたくしはその分、楽ができる!と思います。いや思いたい。いやそうならないと非常に困る。多分……?)
糸子の口元が、わずかに緩んだ。
(うけけけけーーー)
(楽しくなって参りましたー)
(そう思わないとやってられないー)
(もうどうにでもなれー)
御簾の横で葵だけが、その小さな笑い声を聞き取れた。
(——出ました、姫様の笑い)
(なにか?いつもよりヤケになっているような気が……)
(高杉殿、久坂殿、坂本殿、そして吉田殿)
(皆様——覚悟なされませ)
葵は、口元を押さえた。
部屋の隅で近藤が、無言で正面を見つめていた。
沖田はにこにこ…と笑いながら、糸子の方を見ていた。
糸子は、沖田と目が合った。
(——うっ、沖田殿は、やっぱりわたくしの心を読んでいるような?気がする……)
糸子は、目を細めて見た。
その様子を見て、沖田は更ににっこりと…笑った。
(やはりニュータイプなんだ、沖田殿は…)
このとき…沖田総司は実はニュータイプだった説が爆誕した瞬間であった。
冬の朝の光が、奥御殿の障子を、白く染めていた。
火鉢の炭は、静かに燃え続けていた。
冬梅の蕾は——更に、ほころび始めていた。
万延二年新春…三月余の特別講義が、数日後から始まろうとしていた。
日本の運命を変えるかもしれない、四人の若者?と十三歳の姫君による——
奇妙な学びの日々が………これから?いや、しばらくしたら…始まる!!
第八十五話 了
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
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