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【100万PV突破‼︎】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第八十一話「歴史を変えるのではなく——悪い未来を回避する」

 万延元年、冬の深まり。


 一橋上屋敷の夜は、深かった。

 松下村塾一行との対面が終わってから数時間。塾生たちは退出し、松陰は感涙にむせびながら弟子たちを引き連れて辞した。

 高杉と久坂は、最後まで深く平伏した姿勢のまま部屋を出た。退出する際、二人の目には覚悟の色があった。

 糸子が御簾の奥で見送りながら、内心で「なんか、自ら問題児ばかりを集めているような?」と思っていたことを、二人は知らなかった。

 奥御殿の御座所には、糸子と葵だけが残っていた。


 冬の夜の空気が、障子の隙間から微かに流れ込んでいた。庭の方から、夜の鳥の細い声が一度だけ聞こえて、それから静かになった。

 冬の夜の静けさは、夏や秋とは質が違う。空気が乾いていて、音が遠くまで透き通って届く。その透き通りの中に、一橋藩上屋敷の冬の夜が、静かに沈んでいた。


 文机の前に、行灯が一つ、ぽつりと灯っていた。

 炎が静かに揺れていた。風はないのに、揺れている。行灯の中で、油の表面に浮かんだ芯が、わずかな空気の動きを捉えて燃えていた。その揺れが、机の上に置かれた帳面の表紙に、不規則な影を作っていた。


 糸子が湯呑を手に取った。

 葵が淹れてくれた、宇治の濃いめのお茶だ。一口飲んだ。深い緑の味が、舌の上に広がった。一日の疲労が、わずかに、お茶の温度と一緒に体の中に染み込んでいく感覚があった。

 「葵」

 「はい」

 「今夜は——少し、考えごとをします。もう休みます」

 「はい、姫君様。お水と、火鉢の備えはこちらに」

 「おおきに」

 葵が静かに退室した。襖が、音もなく閉まった。

 部屋に、糸子一人が残った。


 糸子は文机の前で、しばらく動かなかった。

 今日の出来事を、頭の中で整理していた。

 松陰、高杉晋作、久坂玄瑞。塾生二十一名。

 (疲れた…)

 糸子の内心の最初の言葉は、それだった。


 高杉と久坂の問答は、想像以上に厳しかった。久坂の七段の問い。高杉の揺さぶり。最後の挟み撃ち。

 あの時、本当に「沖さん、やっておしまいなさい」と命じかけた。その後のご愛顧。本気モードへの切り替え。御門様への書状の件——。

 (あの二人は厄介だ。しかし、使える…のかな?)


 (高杉は感覚で、久坂は論理で、どちらもわたくしの計画の核心に近いところまで到達した。「育てば話してもらえる」と高杉は受け取った。十年後にあいつは本当に問い返しに来るかもしれないが…その時までに、計画②をどこまで形にできるか——いや、十年後のことなんて、いちいち覚えて居られない。すっかり忘れてしまおう!)


 (なれど、それより先に考えなければならないことがある)


 (長州のことだ)

 糸子が湯呑を置いた。

 筆を取った。

 白紙の帳面を開いた。

 (今日、一気に長州の主要人物が手元に集まった。松陰、高杉、久坂、塾生二十一名。これに村田蔵六殿を加えれば——長州の中核となる人材が、ほぼ全員、わたくしの周辺にいる)


 (この状況で、長州攻略を始めない理由は——ない)

 糸子が筆を取って、白紙の頁の上に一行書いた。

 「長州攻略——本格検討」


 糸子は筆を置いて、しばらく頁を見た。

 (その前に、まず——なぜ長州を抑える必要があるのかを、もう一度、自分の中で整理しよう)

 糸子は記憶を呼び戻した。橘咲として大学院で学んだ、幕末史の知識を。

 (万延元年——今、この時代を起点として、史実では何が起きたか)


 (文久二年——寺田屋事件と生麦事件。薩摩が攘夷の主導権を取り始めた。これは島津久光の上洛に関係する事件だ。

 寺田屋では薩摩藩内の過激派が粛清され、生麦では薩摩藩士が英国人を斬った。この二つの事件で、薩摩は「攘夷を実行する藩」として全国の志士から注目されるようになる)


 (文久三年——八月十八日の政変。長州が朝廷から追放された。

 会津藩と薩摩藩が結託して、長州派の公家と長州藩兵を京から排除した。これが——長州が「朝敵」化への道を歩み始めた瞬間だ)


 (元治元年——禁門の変。長州が御所に発砲した。完全に「朝敵」確定。これが致命的だった。

 御所への発砲は、いかなる理由があっても許されぬ行為だ。この一事で、長州は朝廷の敵として全国に認識されることになる)


 (同じ年——第一次長州征伐。幕府が長州に攻め込んだ。長州藩内では俗論派が一時的に主導権を握り、

 正義派——高杉、久坂たちの一派——を粛清した。久坂は禁門の変で死んでいたが、その同志たちが俗論派に処刑された)


 (慶応元年——高杉の功山寺挙兵。長州藩内クーデター。正義派が藩政を奪還した。

 これは奇兵隊と力士隊と遊撃隊の連合による、わずか八十名から始まった挙兵だった。それが、藩を一つひっくり返した)


 (慶応二年——薩長同盟と第二次長州征伐。坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介で薩長が結んだ。

 そして第二次長州征伐で幕府が敗北。幕府の権威が完全に失墜した。

 それまで幕府は曲がりなりにも「公儀」だったが、長州一藩に負けたことで、その権威の根幹が崩れた)


 (慶応三年——大政奉還、王政復古)


 (明治元年——戊辰戦争。鳥羽伏見の戦いから始まり、東北戦争、会津戦争、箱館戦争まで一年半続いた。

 会津戦争での死者は両軍合わせて数千。会津若松城の戦いでは、白虎隊の悲劇が起きた。

 長州藩兵による会津への報復は、苛烈だった。この苛烈さが、明治新政府の出発に、暗い影を落とした)

 糸子が一旦、筆を置いた。

 窓の外で、夜の風が松の葉を揺らした。

 (この一連の流れの中で、わたくしが最も注目しているのは——四つの「分岐点」だ)


 (一つ目——八月十八日の政変。これがなければ、長州は朝廷との関係を保てた。長州派の公家——三条実美たち——が京から追放されることもなかった)


 (二つ目——禁門の変。これが「朝敵」化の決定打だった。御所への発砲がなければ、長州は朝敵にならなかった)


 (三つ目——第二次長州征伐の幕府敗北。これが幕府の権威崩壊の決定打だった。それまで幕府は公儀だった。長州一藩に負けたことで、公儀ではなくなった)


 (四つ目——戊辰戦争、特に会津戦争。長州が幕府と会津に持った怨みが、戦後の苛烈さを生んだ。これがなければ、明治新政府はもう少し穏やかに出発できた)


 (この四つを止めれば——日本の近代化は、少なくとも血の量が、はるかに少ないものになり、もっと近代化の道は早かったと思う)


 (無傷の長州が薩摩と組んでいたら、討幕はもっと早く、もっと整然と進んだかもしれない。

 両征伐で長州が消耗したのは事実だ。その消耗がなければ——明治の出発は、もっと早く、もっと冷静に、もっと建設的になった可能性がある)

 糸子は筆を取って、頁にもう一行書いた。

 「禁門の変と長州征伐を回避できれば——幕府の急速な衰退も、長州の怨念も、両方を防げる」

 書いた後、しばらく見た。

 (これが——歴史の構造だ)


 (わたくしが、今、変えようとしているのは、——歴史そのものではない。歴史の中の「悪い未来」を、回避することだ)


 糸子は次の頁を開いた。

 筆を取って、書き始めた。

 「歴史を変えるのではなく——悪い未来を回避する」

 (これがわたくしの戦略の根本だ)


 (歴史を変えるなら——あらゆる事件、あらゆる人物、あらゆる動きに介入する必要がある。それは、神でなければできない)


 (しかし悪い未来を回避するだけなら——四つの分岐点で、それぞれ介入すれば良い。それなら、人間の手の届く範囲だ)


 糸子は頁に四つの項目を書いた。

 「八月十八日の政変を起こさせない——長州を朝敵化させない」

 「禁門の変を起こさせない——長州が御所に発砲する事態を防ぐ」

 「長州征伐を起こさせない——幕府の権威崩壊を防ぐ」

 「戊辰戦争を起こさせない——東北諸藩への報復を防ぐ」

 四項目を書き終えて、糸子は頁を見た。

 (これらを、一つずつ、潰していくのが、わたくしの戦略になる)


 (しかし——一つずつ潰していくのは、手間がかかりすぎる)


 (一つの分岐点を回避するために、何人もの人物に接触し、何度も書状を送り、何度も交渉し、何度も裏で動かなければならない。それを四回繰り返すのか?)

 糸子は筆を置いて、しばらく考えた。

 (しかし——今日、状況が変わった)


 (吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、そして塾生二十一名。これに村田蔵六を加えれば——長州の主要人物が、わたくしの周辺に一気に揃った)


 (この状況で——長州藩そのものを攻略してしまえば、四つの分岐点全てが、一気に消える可能性がある)


 (八月十八日の政変は、長州が朝廷で過激な動きをしたから起きた。長州を朝廷の同盟者として位置づければ、政変は起きない)


 (禁門の変は、政変で京を追われた長州が、京を奪い返そうとして起きた。政変が起きなければ、禁門の変も起きない)


 (長州征伐は、禁門の変で長州が朝敵になったから起きた。朝敵にならなければ、征伐もない)


 (戊辰戦争の苛烈さは、長州の怨念から来た。怨念がなければ、戦争そのものが起きないか、起きても穏やかなものになる)


 (つまり——長州を一つ抑えるだけで、四つの分岐点が、連鎖的に消える)

 糸子は手のひらに筆をぽんぽんと当てた。


 (手間が一気に省ける。しかも、長州攻略は、今、最も準備ができている)

 糸子は次の頁を開いた。


 糸子は新しい頁に書き始めた。

 「長州攻略——なぜ今、長州なのか」


 糸子は頭の中で、戦略上の妥当性を整理し始めた。

 (まず大方針として、「一藩ずつ」という戦略が正しいかどうか)


 (一つ——実務キャパシティの問題。わたくしの手元には、旭狼衛、善次郎、村田、水無瀬、あとは協力がいるが…、それでも足りない。複数藩同時工作は、人手が圧倒的に足りない。一藩ずつなら、確実にこなせる)


 (二つ——情報統制の問題。複数藩同時だと、情報漏洩経路が増える。一藩ずつなら、その藩への開示範囲を厳密に管理できる)


 (三つ——実績による説得力。「長州が動いた」という既成事実があれば、薩摩への説得材料になる。ゼロから説得するより、はるかに楽だ)


 (四つ——幕府の警戒分散。複数藩同時工作は、幕府に「謀反の連合」と見られる。一藩ずつなら、「個別の経済協力」に見える)

 糸子は頁にこの四点を書いた。

 (この四点で、「一藩ずつ」が戦略上正しいことが確認できる)


 (次に、なぜ最初に長州なのか——メリットとデメリットを整理しよう)

 糸子は新しい頁を開いた。


 「長州を最初にする——メリット」

 (一つ——わたくしの協力者が既に揃っている)

 (村田蔵六、長州藩出身。共同で教科書編纂を担った)

 (高杉晋作、長州藩名門。今日、糸子の協力者となった)

 (久坂玄瑞、長州藩名門。今日、糸子の協力者となった)

 (吉田松陰、精神的支柱。糸子を「神」と崇拝する超信者)

 (松下村塾生、二十三名。実働部隊)

 (他藩でこれだけの手協力者は揃っていない。長州は最も「準備ができている」藩だ)


 (二つ——長州は最も「火種」が大きい藩)

 (史実で禁門の変・長州征伐・戊辰戦争の主役。ここを抑えれば、最大の悲劇を回避できる。逆に、ここを抑えなければ、他藩を抑えても無意味だ)


 (三つ——藩主・毛利敬親の特性)

 糸子はここで、少し笑った。

 (毛利敬親——「そうせい侯」と呼ばれた人物。家臣の意見をほぼ採用する。糸子の手協力者——吉田、高杉、久坂——が藩内で動けば、藩主は追従する可能性がある)


 (藩主を直接説得する必要がない——これは決定的に楽だ)


 (四つ——長州藩の内部状況)

 (文久年間、長州は「航海遠略策」——長井雅楽の公武合体路線——から「破約攘夷」へ転換しようとしている時期だ。派閥が流動的で、糸子が介入する余地が大きい)


 (史実で長井雅楽が失脚するのが文久二年。それまでに介入すれば——長井路線、つまり公武合体路線を生かしたまま、近代化に進める可能性がある)


 (五つ——地理的優位)

 (下関海峡を押さえれば、対馬・朝鮮・上海ルートが手に入る。海洋国家戦略との整合性が高い)


 糸子は五つのメリットを書き終えた。

 (次に、デメリットを整理する)


 糸子は次の頁を開いた。

 「長州を最初にする——デメリット」

 (一つ——幕府の警戒)

 (長州は関ヶ原以来の外様大名筆頭格。幕府は本能的に警戒する)

 (しかし——擬態戦略、つまり経済協力の名目で進めれば、回避可能だ)


 (二つ——薩摩との関係)

 (史実では文久二年から慶応元年までは薩長対立期。長州を取った後、薩摩が「長州と組んだ近衛家は敵」と判断するリスクがある)

 (しかし——薩摩も近衛家との伝統的関係を持つ。島津家は近衛家と古くから縁が深い。糸子の介入で、関係修復は可能だ)


 (三つ——派閥対立)

 (長州藩内の正義派対俗論派。糸子が正義派になる——高杉、久坂、松陰——を支援すれば、俗論派——椋梨藤太たち——が反発する)

 (しかし——糸子が、もしくは………が「派閥対立そのものを止める」立場で介入すれば、両派を統合できる可能性がある)


 (四つ——松陰の暴走リスク)

 糸子はここで、少し疲れた顔をした。

 (中ニ病があの調子だ。萩で塾生をかき集めて江戸に送り込んだのは、まだ良い方の動きだ。今後、糸子の意図と違う方向に走り出す可能性は、常にある)

 (しかし——条件三つで縛ってある。「暗殺計画禁止・弟子の過激行動禁止・糸子の指示より先に動かない」。これを破れば、即座に切る)


 (五つ——計画漏洩リスク)

 (藩レベルで動かすと、開示範囲が広がる。これは構造的なリスクだ)

 (しかし——長州攻略の成功で得られるものは、このリスクを上回る)

 糸子は両頁を見比べた。


 (メリットがデメリットを上回っている。圧倒的に大きい。理由は単純で——長州を抑えなければ、「無血」は不可能だから)


 (史実の悲劇のほぼすべて——禁門の変、長州征伐、戊辰戦争——の主役が長州。ここを抑えなければ、他のどの藩を抑えても、わたくしの計画は破綻する)


 (長州攻略は——選択肢ではなく、必須課題だ)


 (そして、最も準備ができているのも、長州。手協力者が揃っている今、動かない理由がない)


 糸子は筆を置いて、しばらく頁を見ていた。

 (決まった)

 (長州攻略を、本格的に動かす!)

 (そして——これは、無血近代化計画の中で「公議政体」を確立する第一歩になる…)


 (御門様をトップに戴きつつ、有力な藩主たちが合議で物事を決める「公議政体」。新政府への移行前段階として、この体制を確立する必要がある)


 (その第一歩として、長州藩を朝廷側の傘下に収める。これができれば、薩摩、土佐、肥前などの雄藩も、後に続く可能性が高い)

 (一つの成功事例があれば——他藩の説得が、はるかに楽になる)


 糸子は深く息を吸った。

 (さて——本格的に動くなら、必要なものがある)


 (一つ目——父上の協力)

 (朝廷レベルでの動きを仕掛けるなら、父上の協力なしには無理だ。父上は御門様に日常的に接する立場。父上が計画を理解していれば、御門様への奏上が適切にできる)


 (二つ目——御門様の御了承)

 (長州への綸旨を発行するのは御門様。御門様が計画の大枠を理解していなければ、綸旨の内容が不適切になる)


 (それから三つ目——わたくし自身の覚悟)

 糸子は少し止まった。

 (これまでは——わたくしは近衛家の姫、朝廷の使者として動いて来たけど…)

 (「江戸で動く者」だった。御所御用達の天朝物産会所、商務語学所、教科書編纂——これらは江戸で完結する仕事だ)


 (なれど、もう一つ、自身が………)

 (わたくし自身の身の置き方が——変わる可能性がある)

 (それを腹を括る時が来た)

 糸子は深く息を吐いた。


 (よし——父上に書状を書こう)


 糸子は新しい紙を取り出した。

 (父上への書状で、何をどこまで開示するか——ここを慎重に考える必要がある)


 (結論——計画①は開示する)


 (理由は五つある)

 (一つ目——計画全体を理解していれば、父上が政治を行う上で戦略的に動ける。断片だけ知らされていると、何を支援すべきか判断できない)


 (二つ目——五摂家筆頭としての正当性。父上が計画①を知っていれば、「これは近衛家全体の計画である」と他の公家に説明できる。糸子一人の独走ではなく、近衛家の戦略として位置づけられる)


 (三つ目——御門様との連携。父上は御門様に日常的に接する立場。計画①を知っていれば、御門様への説明や奏上が適切にできる)


 (四つ目——他藩派遣の正当性。朝廷の使者が他藩に行く正当性は、「朝廷の使者」だけでなく、「無血近代化計画の一環として」が加わる)


 (五つ目——今後の協力を得るため。他藩を次々と攻略していくことになれば、父上が計画を理解していれば、朝廷レベルでの支援が継続的に得られる)


 糸子は頁の余白に書いた。

 (しかし——もう一つの……は、絶対に開示しない)


 (理由——公家の倫理観だ)

 (五摂家筆頭として、露骨な…、…という発想は、父上の価値観と衝突する。朝廷の立場と近衛家の家格が、近代資本主義的発想と相容れない)


 (父上に話せば、父上は理解できないか、あるいは理解した上で否定する。どちらにせよ、計画が止まる可能性を波乱でいる)


 (だから——もう一つの……は、わたくしと善次郎だけの秘密として保持する)


 (計画②についても——同じだ。帝国主義参戦計画は、まだ早い。父上に話す時期ではない)


 (しかし——代理戦争論と海洋国家論は、積極的に開示する)


 (代理戦争論は、計画①の根拠となる戦略的認識だ。「日本人同士が戦えば、異国が得をする」という認識。父上が他藩に赴く時の説得材料になる)


 (海洋国家論は、日本の進むべき方向性。朝廷の長期戦略として位置づけられる。父上が御門様に奏上する時の材料になる)


 糸子は頁を見直した。

 (次に——御門様への開示)

 (結論——御門様には「無血近代化計画」の存在と概要のみ開示。具体は非開示)


 (開示すべき理由は三つ)

 (一つ目——綸旨の発行主体。長州への綸旨を発行するのは御門様。御門様が計画の大枠を理解していなければ、綸旨の内容が不適切になる)


 (二つ目——糸子の役割の正当化。御門様が糸子を「朝廷の代理」と認識している現状を、正式な役割に格上げする必要がある)


 (三つ目——長期的な信頼。計画は十年から二十年に及ぶ。御門様の継続的な支持が不可欠)


 (しかし——計画①の具体的な手順は、御門様には伝えない。御門様に「無血近代化」という概念と「雄藩協力体制」の大枠は伝えるが、具体的な手順——人材、資金、スケジュール——は伝えない)


 (御門様が細部に介入すれば、計画の柔軟性が失われる)


 (伝え方も重要だ。父上から、口頭で大枠を伝える。書状による正式な奏上は避ける——証拠を残さない。御門様が「糸子を信頼して任せる」状態を作る)


 (御門様に伝える内容は、こう簡潔にまとめる)


 (「無血にて日本を新しき世に導く計画」)

 (「雄藩の協力を取り付け、朝廷の威光を中心に据える」)

 (「異国に対する経済的対抗策」)


 (この三点を父上から御門様に口頭で奏上していただく)

 (御門様が「分かった、励め」とおっしゃられれば、それで十分だ)


 糸子は筆を取った。

 (よし——書こう!!)


 糸子は新しい紙を文机の上に広げた。

 筆を取って、父上への書状を書き始めた。


 書状の冒頭に、「父上、お元気にしておられましょうや」と書いた。

 いつもの書き出しだ。父上に書く時、糸子はいつもこの一文から始める。

 しかし、続きは違った。


 冬の夜の静けさの中で、筆の音だけが続いた。行灯の炎が、糸子の手元を照らしていた。糸子の影が、襖の上に大きく映っていた。今日は、本題が重い…… 

 その影が、筆を動かすたびに、わずかに動いた。


「ご無沙汰しております。糸子でございます。江戸の冬は、京より深く、寒うございますが、わたくしは元気に過ごしております。こちらでの日々は、お陰様で順調に進んでおりまする。本日は、父上様に折り入ってお話し申し上げたいことがあり、書状をしたためております。これを書状にてお伝えするのは、心苦しき限りでございますが、内容の重さを思えば、文字に残す必要がございました」


 糸子は書きながら、頭の中で内容を整理していった。


 「これからお伝えする内容は——わたくしが江戸に下って以降、密かに進めてきた計画の全体像でございます。父上にも、これまで断片的にしかお伝えしておりませんでした。本日、その全体を初めて、文字にしてお伝えする決意を致しました」


 糸子は息を吸った。


 「計画の名は——『無血近代化計画』と名付けました。期間は十年。目標は、内戦なき日本の近代国家建設にございます」


 糸子は計画の三つの段階を書いた。。第一段階(人材確保・制度設計・後継者問題着手)。第二段階(雄藩会議試験運用・軍制改革設計・情報網拡充)。第三段階(公議政体への移行実行・新政府制度化)。三事業の土台——天朝御用商務惣会所、商務語学所、海外輸出。


 糸子は一度筆を止め、行灯の火を見つめた。

 「この計画に至りし理由は、世界の動きにございます」

 「清国は英仏連合軍に敗れ、都を踏み荒らされ、もはや半ば列強の支配下にあります。ロシアは北より南下し、沿海州を奪い、我が国の海に迫っております」

 「アメリカは内に分裂の兆しを抱え、その混乱の前に我が国との交渉を急いでおります」

 「さらに欧州諸国もまた、統一と拡張を進め、力を蓄えております」

 「今の世界は、すべての国が生き残りを賭して動いておりまする」


 「ゆえに、日本もまた傍観することは許されませぬ」


 その上で、計画の根拠となる二つの認識を書いた。

 「一つは、代理戦争論にございます。仮に日本国内で諸藩連合と幕府が分かれて戦えば、諸藩はイギリスから武器を買い、幕府はアメリカから武器を買い、両者の戦が長引けば長引くほど、日本の富は異国に流れ続けます。新政府が成立しても、後ろ盾の異国に恩を負って、半ば属国のような状態になります。日本人同士が殺し合う中で、最も得をするのは異国の連中なのでございます」


 「もう一つは、海洋国家論にございます。日本は、イギリスのような海洋国家を目指すべきにございます。海運を制し、交易で富を得て、海軍力で外洋に出る。これが日本の道にございます。大陸国家を目指せば、際限のない国境線の拡大に追われ、国力を疲弊させまする。清国の大陸には、絶対に手を出してはなりませぬ」


 糸子は続けて、計画の三つの土台事業を書いた。

 「この計画を支える土台として、三つの事業を進めておりまする。一つ、天朝御用商務惣会所——これは商家連合体にございます。二つ、商務語学所——これは人材育成の学校にございます。三つ、海外向け商品開発販売——浮世絵を第一弾とする文化外交にございます。これら三つは既に、御門様の綸旨を賜って、動き始めておりまする」


 糸子は、計画の現状を簡潔に書いた。

 善次郎が江戸惣会所を回していること。村田蔵六が商務語学所の学長として教科書編纂を完了したこと。坂本龍馬が人材発掘を続けていること。中岡慎太郎が全国志士の地図を作成中であること。岩崎弥太郎が商売修行をしていること。吉田松陰が三条件付きで救出され、塾生二十三名と共に江戸に来たこと。

 ここまで書いて、糸子は筆を止めた。


 (さて——本題だ)


 糸子は再び筆を取った。

 「そして、父上にお願いしたきことの中心は——以下にございます」

 そして書きながら、深く息を吸った。

 (ここから、最も慎重に書く必要がある)


 「父上、わたくしはこの計画を、近衛家の計画として、進めとう存じまする。わたくし一人の独走ではなく、五摂家筆頭・近衛家として、御門様をお支えする道として、進めとうございます。父上が御門様に奏上していただく時——『これは近衛家の計画である』と、明確にお伝えいただければ、御門様も御安心なされましょう」


 「ただし、御門様には、計画の細部までは、お伝えにならぬ方が宜しゅうございます。大枠——『無血にて日本を新しき世に導く計画』『雄藩の協力を取り付け、朝廷の威光を中心に据える』『異国に対する経済的対抗策』——この三点のみを、口頭にてお伝えいただければ、御門様の御信頼を得るに、十分かと存じまする」


 「書状での正式な奏上は、お避けいただきとう存じまする。証拠を残さぬ方が、計画の柔軟性が保たれまする」

 糸子は最後の段落を書いた。


 「父上、この計画は、十年から二十年に及ぶ長き道のりにございまする。父上のお力なくしては、一歩も進めませぬ。何卒、お力添えを賜りたく、伏してお願い申し上げまする」


 「御門様への奏上は、父上のご判断にて、最適と思われる時期に、最適と思われる方法にて、お進め下さいませ。わたくしは、父上の御判断に全幅の信頼を置いておりまする」


 「江戸からの長き書状、お読みいただきありがとうございました。お風邪など召されませぬよう、お身体をご自愛くださいませ」

 

 「糸子拝」


 糸子は書き終えて、筆を置いた。

 行灯の炎が、揺れていた。


 (書き終えた)

 (これで——父上に、本格的な協力を求める段階に入った)

 (明日の朝、葵に頼んで、善次郎経由で京に送る)

 (父上は——必ず動いてくださる)

 糸子は書状を二度、読み返した。


 (よし)

 糸子は書状を丁寧に折りたたんだ。

 封をして、宛名を書いた。

 「近衛忠房様 糸子拝」


 行灯の火が、その動きに合わせて微かに揺れた。


 糸子は文机の前で、深く息を吐いた。

 (さて——これで動き出す)


 (あとは父上の動きを待つ)


 (その間にもやることが、いっぱいある——)

 糸子は襖の向こうの葵の気配を確かめてから、布団の方へ向かった。

 (もう寝よう)


 (疲れた)


 (今日のような日が、これから何回もある——)


 (もう、京に帰りたい——)

 糸子はそんなことを思いながら、布団に入った。

 行灯の火は、葵が後で消しに来る。

 冬の夜の静けさの中で、糸子は——目を閉じた。

 すぐに眠りに落ちた。


 翌朝。

 冬の朝の光が、奥御殿の障子を白く染めていた。

 夜明けは遅い。冬の朝は、夏より一刻ほども遅く、東の空に光が差す。その遅い光が、ゆっくりと、庭の松の葉を照らし始めていた。松の根元に降りた朝霜が、その光を受けて、白く、しかし暖かそうに輝いていた。

 池の水面が、今朝は氷が張りかけていた。

 完全には凍っていない。しかし、水面の縁の方に、薄い氷の膜ができていた。その膜が、朝の光を受けて、薄く、虹色に光っていた。冬の池の、最初の氷だった。

 葵が朝の支度をしていた。

 糸子の文机の上に、昨夜の書状を見つけた。葵は手に取って、宛名を確認した。「近衛忠房様」——京の父上様への書状だった。


 葵は、すぐに察した。

 (姫君様、夜のうちに、京に書状をお書きになられたのですね)


 (昨日の松陰殿との対面の後、何かをお決めになられたのでしょうか?。それともやはり昨日言われていた通りの内容の……)

 葵は書状を、丁寧に懐に入れた。


 糸子が起きた。

 いつもより少し疲れた顔をしていた。しかし眼は、はっきりとしていた。何かを決めた者の眼だった。

 「葵」

 「はい、姫君様」

 「文机の上の書状、見つけましたか」

 「はい。昨夜お書きになられたものでございますね」

 「父上に、京まで届けてほしい。善次郎に頼んでください」

 「承知しました。すぐに、善次郎殿のところへ参ります」

 「急ぎでお願いします」

 「はい」

 葵は一礼して、部屋を出た。


 糸子は朝の身支度を整えた。

 葵が淹れてくれた朝のお茶を一口飲んだ。冬の朝のお茶は、夜とは違う味がした。澄んでいて、頭がはっきりする味だった。

 (さて、今日は何があるか)

 糸子は記憶を呼び起こした。


 (今日は……特に予定はないはず。しばらくは、教科書の試験運用の経過を見ながら、長州攻略の準備を進める段階だ)

 しかし、その「予定なし」の朝に——廊下から声が響いた。

 「姫様ーーー! おはようちや、龍馬ですぜよーーー!」

 糸子の表情が、わずかに動いた。

 (……坂本)


 (あの土佐の駄犬が、こんな朝早くに何の用だ?)


 (しかし——あれの声が、いつもよりさらに大きい)


 (何か、いいことがあったのかな?)

 葵が廊下を急いで戻ってきた。

 「姫様、坂本龍馬殿が……お連れの方と、一緒に参られました」

 (連れ?)


 (ま、まさか——)

 糸子の心が、動いた。


 「姫様ーー! 久しぶりやねぇーー!」

 龍馬が部屋に入ってきた。

 いつもの土佐の格好だ。旅塵を帯びている。長旅から帰ってきたばかりだということが、その姿から分かった。しかし、顔は明るかった。何かを成し遂げた顔だった。


 その後ろに、二人の若者がいた。

 一人は、龍馬と同じくらいの年頃に見えた。背は中背、痩せ気味、しかし顔つきには、知性と落ち着きがあった。眼が鋭い。商家の出ではあるが、武士の素養を学んだ気配もある。

 もう一人は、もっと若い。十七、八に見えた。涼やかな顔立ちで、眼が真っすぐだった。一人目の若者の縁者であることが、顔つきから分かった。

 (来た——)


 (渋沢栄一だ)


 (そして——もう一人は渋沢平九郎ですね)

 糸子は内心で、深く息を吸った。

 (ようやく来た。坂本、よくやった!)


 龍馬が、御簾の前に進んで、深々と平伏した。

 「姫様、お役目果たして参りましたぜよ!」

 「ご苦労にておじゃりました。坂本」

 糸子の声は、御簾の奥から、いつもの落ち着いた声で届いた。

 「ご紹介申し上げます。武蔵国血洗島の渋沢栄一殿と、その従弟・渋沢平九郎殿でぜよ」

 二人が、龍馬の隣に進んで、平伏した。

 「大儀である」

 糸子の声が、響いた。

 「面を上げよ」


 二人がゆっくりと、顔を上げた。

 しかし、御簾の向こうは見えない。糸子の影だけが、薄く透けて見える。

 (御簾の奥に、坂本の旦那が言ってたあのお方がいんべえ…)


 (さて、——いかなるお方か)

 渋沢栄一は、内心で、緊張していた。

 「わたくしは、近衛糸子である。遠路、ようお入りやした」


 その声に、二人は息を呑んだ。

 (——近衛糸子…様?)

 (ごせっけの…このえけのひめぎみだぁー??)

 (この御簾の奥にいんのが、えっ…近衛家の姫君様???)

 二人の顔色が、一気に変わった。


 渋沢栄一は緊張で、口が乾いていた。

(近衛家——五摂家筆頭ってぇ、とんでもねぇ名門の姫様が、なんでまた? おらなんぞに会うってお召しを、坂本様を通じて武蔵まで寄こしたんだんべ……)

 (坂本様の話ぁ聞いていた。だけんど……まさか、ここまでの御方だたぁ思わなかった——)

 (粗相ぁしちゃなんねぇ。とにかく、失礼なことぁ、ゆめゆめあっちゃなんねぇぞ……!)


 渋沢栄一は、両手を前に揃えた。声を整えて、口上を述べた。

 「武蔵の国、血洗島からめぇりました、渋沢栄一と申します。本日、坂本様のお計らぇで、近衛様にお目通りを賜るなんてぇ光栄に預かり、まっとうに、恐悦至極に存じます。……なにとぞ、なにとぞ、よろしくお願ぇ申し上げまする!」

 声が、少し震えていた。


 その隣で、渋沢平九郎も口上を述べた。

 「おんなじく血洗島からめぇりました、渋沢平九郎でございます。栄一兄ぃの縁者で、今日は一緒に来られたこと、本当に恐れ入ります。……よ、よろしくお願ぇ致しまする!」

 平九郎の声は、もっと震えていた。


 (へー、これが渋沢栄一かー)

 (史実で見た写真と、全然違うなー)

 (写真では、もっとふくよかで、髭を蓄えた老紳士だった。今は二十歳そこそこ。背は中背、痩せ気味、若い。しかしこれが、明治の経済界を作る男になる)


 (平九郎の方は、史実では飯能戦争で自害する若者だ。今、わたくしの目の前にいる)

 (なんて勿体ない。彼を、わたくしが救いましょう)

 (救って、計画①の協力者の一つにしよう!)

 糸子は心の中で、決めていた。


十一

 糸子は、いつもと違う動きをした。

 御簾の向こうで、ゆっくりと立ち上がった。


 葵が、はっと息を呑んだ。

 (——姫君様、御簾を出られる!)

 糸子は御簾を、自らの手で、わずかに横に押した。

 御簾の縁を持って、奥御殿の冬の朝の光の中に、姿を現した。


 その瞬間——。

 部屋の全員が、息を呑んだ。

 (——たまげたなぁ)

 (おっかねぇぐれぇ、ありがてぇ……)

 糸子の姿が、初めて、渋沢栄一と渋沢平九郎の前に現れた。


 十二歳の少女だった。しかし、その立ち姿に、あまりにも気品があった。冬の朝の光が、糸子の白い肌を、薄く透き通るように照らしていた。

 装束は、京の最上格のもの。淡い紫の小袿に、白の練絹の袴。髪は長く、結われているが、その結い方の格式が、近衛家の姫君そのものを物語っていた。

 眼が、真っすぐだった。十二歳の眼ではなかった。何かを見通した者の眼だった。しかしその眼の奥には、子供の素直さも残っていた。その対比が、糸子の姿を、神々しく見せていた。


 (これぇ、近衛の姫様かよ……?)

 (こんお方が、坂本様がよぉ、何度もいってた『姫様』って奴かぇ?)

 (こんお方の前よぉ、おらちに、一体何ができんだ?)

 渋沢栄一は、思わず、深く頭を下げた。


 しかし、その動きが、震えていた。

 渋沢平九郎は、口をぽかんと開けたまま、固まった。


 龍馬は——龍馬すら、口を開けたまま、糸子の姿を見ていた。

 (——わし、姫様にこんなに何度も会うちょるが、御簾の外でこんなにじっくり姫様の姿を拝見するのは、二度目やけんど)

 (……ぶち、神々しいがぜよ)

 (こんな…清浄な姿のお方を、わしは改めて見たことがないがぜよ)

 (こりゃあ、渋沢殿たちが、固まるのも無理はないがぜよ……)


 糸子は、ゆっくりと、平九郎の隣まで進んだ。

 そして——渋沢栄一の前で立ち止まった。

 深く一度、目礼をした。

 糸子が、突然、渋沢栄一の手を取った。


 渋沢栄一が、思わず息を呑んだ。

 (——え!?)

 (こ、近衛の姫様が、わしの手ぇ、取られたんだぁ???)

 (こ、こりゃあ——一体、何が起きてんだんべぇ??)

 糸子が両手で、渋沢栄一の右手を、そっと包んだ。


 そして——頭を下げた。

 深く、深く、頭を下げた。

 「其の方の尽力、このわたくしに預けてはたもれぬか」

 糸子の声が、静かに響いた。

 「この通りにておじゃりますれば」


 渋沢栄一は、——固まった。

 完全に、固まった。


 (——な、なんと)

 (こ、近衛の姫様が、わしみてぇな、武蔵の百姓に……)

 (頭を下げられた……)

 (手ぇ取って、頭を下げられたんだ……)

 (なんでぇ……?)

 (わ、わしを、なんだと思ってんだぁ???)

 (わしに、何ができるとお思いなんだんべぇ——?)

 (わ、わしの力が——必要だ、っつーことか??)

 渋沢栄一の頭の中で、何かが、崩れた。


 二十歳の渋沢栄一は、これまで、自分の人生に明確な目標を持っていなかった。攘夷の志はあった。しかし、それを具体的にどう動かすか、自分が何を成すべきか——明確にはなっていなかった。

 その自分に、近衛家の姫君様が、頭を下げた。


 (——わしは、このお方のために、生きるべぇ)

 (このお方が「力を貸してくんろ」と仰るんならば——わしの一生、全部捧げるだ)

 (こりゃあ、何かの運命だんべぇ……)

 渋沢栄一は、自分でも驚くほどの、覚悟を決めていた。


 「——か、近衛様」

 渋沢栄一の声は、震えていた。

 「い、いえ、滅相もねぇこって……わ、わしのようなもんの、何が、お役に立つんだか……」


 しかし、糸子の手は、渋沢栄一の手を、放さなかった。

 糸子の眼が、渋沢栄一を真っすぐに見ていた。

 「渋沢殿。其の方は、わたくしにとって欠かせぬお人でございます」


 その一言で——。

 渋沢栄一が、陥落した。

 (——お、お任せくだせぇ。一生懸命、やらせてもらうべぇ)

 (わしの一生を、近衛様に預けますだ。何でも言ってくだせぇ)

 (——ど、どうぞ、このわしを好きに使ってくだせぇ)


 渋沢栄一は、糸子の手の中で、自分の手を、固く握り返した。

 (—渋沢殿はわたくしがこれから事を成すには、必ず必要になるお人…)

 (わたくしなりの誠意が通じて、本当によかった)

 (明治の経済界の父、渋沢栄一が——わたくしの協力者になってくれた)

 (坂本はよくやってくれました。さすがにございます)

 糸子は、内心で深く、満足した。


 (しかし——出来ればこういうの、わたくしもあまりやりたくないですけどね。なにか…申し訳ございません)

 (この渋沢殿は本当に高い人気のあるお方、こちらから頭を下げるのが筋でございましょう…)

 (今後の計画にすぐにでも力を貸して欲しいですしね)

 (わたくしの中では未来でも見ているのではないか?と思うほどの大物…)

 (さあ、存分に力を貸していただきましょう!!)


十二

 糸子は、渋沢栄一の手を、ゆっくりと放した。

 そして、渋沢平九郎の方を向いた。


 平九郎は、ぽかんと、口を開けたまま、固まっていた。

 (こ、こんなことが、げぇに(本当に)あるんか?)

 (栄一兄ぃが、近衛の姫様に、手ぇ取られて頭を下げられた……)

 (夢だ、こりゃあ、夢だんべぇ……)

 糸子が、平九郎にも、優しく一言、声をかけた。

 「渋沢平九郎殿、と申されたか」


 「は、はいッ!」

 平九郎は、慌てて姿勢を正した。

 「お若いお方。これからの長い時を、わたくしと共に、歩んでおくれやす」

 「は、は、はい——!」

 平九郎は何が起きているのか分からないまま、頷いた。


 その後ろで——。

 龍馬が、遅れて反応した。

 (——え?)

 (姫様、わしの時と——扱いが、まるっきり違うがぜよ!?)

 (わしが、初めて姫様にお会いした時——「お主は土佐の駄犬じゃ」と、言われたがぜよ)

 (それが、渋沢殿には、——手を取って、頭を下げて、「其の方は、わたくしにとって欠かせぬお人でございます」じゃと??)

 (こりゃあ、——納得できんがぜよ!)


 龍馬が、思わず、声を上げた。

 「姫様!」

 「なんですか、坂本」

 「姫様、わしんときと、栄一とで、扱いがまるっきり違うがぜよ!」

 「どういうことかぜよ!?」


 糸子は、御簾を出た姿のまま、龍馬の方を、向いた。

 そして、——いつもの糸子の顔をした。

 「当然のことにておじゃりますれば、坂本」

 「其の方は、わたくしの忠実なる犬にございますれば」


 龍馬は、——大袈裟に、肩を落とした。

 「せ、せめて、もう少し優しくして欲しいがぜよ……」

 「文句ばかり言う駄犬じゃな」

 「まっことひどいーーー!」

 龍馬は、涙を流す芝居をした。

 しかし、その芝居は、誰の目にも、芝居だと分かるものだった。


 その瞬間——。

 渋沢栄一が、思わず笑った。

 声を出して、笑った。

 「は——はっはっは——!」

 部屋の空気が、一瞬で緩んだ。

 (——な、なんじゃ、この御方)


 (さっきまで神様みてぇに、お辞儀までしてくれた姫様がよ、今度は坂本の旦那を『駄犬』だなんて呼んで喧嘩してんべぇ)

 (…こりゃあ、たまげた。なんて人間くせぇお方なんだ)

 (俺ぁ、もしかしたら……とんでもねぇお方にお仕えすることになっちまったんじゃねぇか)

 (けどよ……これっぺぇ優しくて、そんでもっておっかねぇお方なら)

 (……俺ぁ、もう、絆されちまったよ)

 (一生、お供させてもらうべぇ)

 (……よし、腹ァ決まったぜ)

 渋沢栄一の心の中で、最後の覚悟が、固まった。


 (あ、渋沢殿の方が安心して、笑ってくれた)

 (少しでも緊張が解けてくれたのならよかった)

 糸子は、内心で深く満足した。


 (坂本は、本当に良い仕事をしてくる。あとでお小遣いをこっそりあげましょう!)

 (彼との掛け合いがあると、こういう緊張の場で空気が和らぐ。これも一種の坂本なりの才能ですね)

 (駄犬扱いは、わたくしの愛情表現でございます。…まぁ、本人にだけ分かってくれればそれでよいのです)

 (あら、本人もご愛嬌として受けとっているわね…素晴らしいその豊かな感性は、頑張って育てていってあげましょう)


十三

 糸子は——御簾の中に戻った。

 ゆっくりと、座った。

 その動きを、渋沢栄一・渋沢平九郎・龍馬が、見ていた。御簾の向こうから糸子の声が、また響いた。

 「では、これからの予定をお伝え致します」

 「はい、姫様」

 全員が、姿勢を正した。


 「渋沢栄一殿——あなたには、商務語学所に通っていただきます。その間、善次郎の仕事をお手伝いいただきたい」

 「は——分かりました。お世話になります、近衛様」

 渋沢栄一は、迷いなく答えた。


 「善次郎は、わたくしの商いの全てを取り仕切っている者です。数字に強く、人物としても信頼できます。その下で、まずは江戸の商いの実態を学んでくださいませ」

 「承知致しました」

 (栄一には、まず善次郎の下で実務を覚えてもらう。商務語学所での教科書の知識と、善次郎の下での実際の帳面と——両方を学ぶことで、わたくしの計画の核心人物の一人に育つ)


 (ゆくゆくは、もう一つの…まで開示するかもしれない。その時のための準備でもある)

 糸子は続けた。

 「渋沢平九郎殿——」

 「はい!」

 平九郎は、緊張して、上ずった声で答えた。

 「そなたには、商務語学所に通いながら、松下村塾の方々と共に行動していただきます」

 「しょうかそんじゅく?……とかいうとこの方々――でごぜえますか?」

 「そうでございます。先日、吉田松陰殿が萩から塾生を二十三名連れて、江戸に到着しました。その方々と、一緒に学びながら、武芸も学んでいただきます」


 「よ、よろしくお頼もうします!」

 平九郎は、深く頭を下げた。

 (平九郎は史実では飯能戦争で自害する。今、わたくしが彼の道を変える)


 (松下村塾の若者たちと一緒に学べば、彼の武芸の素養はさらに磨かれる。そして、わたくしの計画の協力者の一人に育つ)


 (これで、平九郎の運命を変えた)

 糸子は、最後に、龍馬の方を向いた。


 「坂本」

 「はい、姫様!」

 「お主は、後日、また沙汰あるまで待機じゃ。ところで——吉田殿が弟子を大勢引き連れて、萩より戻っておるぞ」

 「えっ?」

 (聞いてないがぜよ……)

 「吉田殿に顔見せるがよい」

 「先生が? 江戸に?」

 「そうでございます」

 「是非そうします! 姫様、まっこと、ありがとう!」


 龍馬の顔が、輝いた。

 (先生にも、お会いできるがか)

 (こりゃあ、嬉しいがぜよ)


 糸子は最後に、葵の隣の小夜の方を向いた。

 「小夜」

 「はい、姫君様」

 「善次郎の所に皆を案内してください」


 「はい、姫君様。では、皆さま、こちらについてきてください」

 小夜は、立ち上がって、廊下の方を示した。

 渋沢栄一・渋沢平九郎・龍馬が、立ち上がった。

 深々と一礼してから、小夜の後について、部屋を出た。

 廊下に、四人の足音が響いた。


十四

 部屋に、糸子と葵だけが残った。

 糸子は御簾の奥で、深く息を吐いた。


 (渋沢栄一…ゲットでございます!!)


 (明治の経済界の父が、わたくしの協力者になった)

 (そして、渋沢平九郎の運命も変えられる)

 (彼は、もう飯能戦争で自害することは——ない…と思う)

 (少し、わたくしのため使い…ゆくゆくは、栄一の右腕として、商業界で大成するかもしれない…)

 (場合によっては別の方面で活躍してもらうかもしれません。それは未来のお楽しみということで…)


 葵が、お茶を持ってきた。

 糸子はお茶を一口飲んだ。

 (昨夜、父上に書状を送った)

 (今朝、渋沢栄一をゲットした)

 (教科書の試験運用も進んでいる)

 (清兵衛が横浜で、教科書通りに勝った)

 (松陰、高杉、久坂も、わたくしの協力者になった)

 (協力者が、協力者が——少しずつ揃ってきた)


 (あとは、長州攻略を本格的に始める前に…)

 (わたくし自らが先生とならなければ…)

 糸子は、お茶をもう一口飲んだ。


 (ふふふ…ようやく渋沢栄一が来ましたね。本当に楽しみだわ)

 糸子は、ふっと、笑った。


 その笑いを、葵だけが見た。

 (——姫君様が笑っておられます)

 (嬉しそうに)

 (しかし、その笑いの奥には——次なる戦略が動いているのでしょうね。だって姫君様にございますれば…)

 (葵には、姫君様のご機嫌の種類が、ようやく見分けられるようになってきました)

 (これは、——「とても期待されている」ご機嫌でございます)


 葵は心の中で、微笑んだ。

 (姫君様、ご立派でございます)

 (葵は、いつまでも、姫君様にお仕え致します)


 冬の朝の光が、奥御殿の障子を、白く染めていた。

 庭の池の薄氷は、まだ、解けていなかった。


 しかし、その氷の向こうで——一橋上屋敷の庭の松だけは、変わらずに、深い緑を保っていた。

 糸子は、もう一口、お茶を飲んだ。


 (さて、——明日は、何が起きるか)

 (明日、明後日、——次々と、動きが出てくる)

 (一日も、休む暇はない)

 (——ま、いっか)

 (昔から「歴史というのは止まらないもの」)

 (ならば、わたくしも止まれない)

 (…止まらないけど…そろそろ甘味を、たくさん食べたいなぁ)


 (よし、明日は、お休みにする!)

 (わたくしは、決めた!)

 (誰が来ても、追い返す!)

 (葵に「姫様は本日お休みでございます」と言って、追い返してもらう!)

 糸子の表情が、ふっ、と緩んだ。


 (うん、明日はお休み)

 (甘味、食べる)

 (いっぱい、食べる)

 (決めた!)

 葵が、糸子の方を、ちらりと見た。

 (……姫君様は、何かを決められたようでございます)

 (また、何か計画されているのかしら……)

 (ご覚悟なさったようなお顔をしておられる)


 葵は、糸子のさらなる大計画を予感していた。


 しかし——糸子の頭の中にあったのは、ただの「明日はお休みにする」「甘味を食べる」という、とても小さな決意だけだった。

 (明日は、お休み——)

 (甘味、食べる——)

 (ふふふふ——)

 糸子の口元が、緩んだ。


 葵は、その小さな笑いを見ていた。

 (……姫君様の、いつもと少し違う笑い?でございますね)

 (しかし、これは、お疲れの時の——ささやかな笑いでございますね、多分…)

 (葵は、明日、姫君様のお好きな甘味をお出ししましょう)

 (京から取り寄せた、上物の落雁と、芋羊羹を)


 (姫君様、時にはお休みが必要でございますよ)


 葵の心の中の優しさが、冬の朝の光と一緒に、奥御殿の御座所に、静かに満ちていた。


 第八十一話 了


坂本龍馬、渋沢栄一、渋沢平九郎が糸子の元を去った後……


「それじゃあ、わしの役目も無事済んだちゅうわけじゃ。栄一さん、平九郎さん。さっき会うたき分かっちょると思うが、姫様は人を無下に扱うようなお方じゃあない。安心して励んだらええぜよ」


坂本は快活に笑い、二人の肩を叩いた。


「わしも暇を見つけては、おんしらの顔を見に来るきにな」


栄一は居住まいを正し、深く頭を下げた。

「精一杯やらせてもらうべぇ。今日まで、色々お世話んなったな。坂本さんには、なんつーか、感謝しきれねぇだ」

「ちょいちょい顔を見せてくんない。坂本さんといると、げぇにおもしれぇんだから」


平九郎が屈託なく笑うと、栄一が慌ててそれを嗜めた。

「これ、平九郎。無理言っちゃいけねぇ。坂本さんはお忙しいお方なんだんべぇ」


「わはははは! おんしらあ、ええ二人組じゃのう!」


坂本の豪快な笑い声が屋敷の空気を震わせた、その時だった。


「……坂本殿」

傍らに控えていた小夜が、静かに声をかけた。


「ん? たしか小夜さんじゃったな。どういたがぜよ?」


小夜は恭しく一包みを差し出した。

「こちら、姫君様より預かっております。これで労うように、とのことでございます」


坂本が包みを開くと、中には二両の小判が収まっていた。

「……本気ですか? 。こりゃあ、かたじけない。さすがは姫様、話がわかるのう!」


坂本は相好を崩し、その包みを懐にねじ込んだ。

「これなら、高田殿を誘って江戸の街へ繰り出すのも悪うない。――そいじゃあ! またな、栄一、平九郎。おんしら、本当に話のわかる主を持ったぜよ! わははははは!」


嵐のような笑い声を残し、坂本は足早に去っていった。その背中が見えなくなるまで、栄一は呆気にとられたように見送っていた。


「……おままで、騒がしい人だんべぇ」

「全くだ。んでも、本当に坂本さんらしい別れ方だいねぇ」


二人の苦笑いが重なる中、小夜が凛とした声で一歩前に出た。

「それでは渋沢殿。ご案内いたしますので、ついて参りくださいませ」


「はい、よろしくお願いするんべぇ」

栄一と平九郎は顔を見合わせ、決意も新たに、江戸の街の喧騒へと足を踏み入れた。

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― 新着の感想 ―
薩英戦争がないと薩摩が開国に転じないし、それには生麦事件が起きないといけないが、それは阻止したいところだよね。 坂本龍馬が早くから接触しているし、流れは変わるかな?
ヤバい。好色で名を馳せた渋沢栄一がロリコンに走ってしまう。
休めないフラグか?
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