第八十二話「原石を見抜く者」
今回もまたお話が2万文字と…長くなってしまいました(^▽^;)
ぜひ頑張ってお読みくだされば幸いです。ご迷惑をお掛けします<(_ _*)>
一
時は少し遡り……
万延元年、秋の始まり。
江戸を出立した日の朝、糸子の御座所での打ち合わせが終わった直後だった。
坂本龍馬は一橋上屋敷の表門を出て、長く息を吐いた。秋の朝の空気は乾いて、肺の奥まで澄んだ冷たさが届いた。
懐に、一枚の小さな紙が入っていた。
(——渋沢栄一)
(武蔵国榛沢郡血洗島村出身。二十歳ほどの若者。算術と経済に明るい)
(姫様の御指示は、それだけながぜよ)
(しかし——名指しは、こいつ一人だけや)
龍馬の足が、自然に止まった。
(「面白い人間を探してきてくれ」と、姫様は確かにわしに仰せられた。日本中を旅して、原石を見つけてくれと)
(じゃけど——その口で、たった一人だけ、名指しでこの男を「連れてこい」と言うた)
(それも「強制的に拉致してでも」と、——あの落ち着いた声で言うたがや)
(……姫様は、何かを見ちょられる)
(わしには見えん何かを、見ちょる)
龍馬の思考は、いつもの軽やかな調子を帯びながらも、その奥に妙な真剣さを宿していた。
(姫様の見立ては、これまで一度も外れちょらん)
(村田蔵六先生の使い方も、岩崎弥太郎を商売人にしたのも、勝先生を犬にしたんも、全部、姫様の眼力ぜよ)
(その姫様が、二十歳の名もなき若者の名前を、どっから知って、なぜ「必ず必要になる」と言い切られたんか)
(——その答えを、わしは旅の終わりに掴むことになるがか?)
(よし)
龍馬は懐の紙をぽんぽんと叩いた。
(行くぜよ。原石を確かめに)
その隣に、控えめに立つ男がいた。
高田陽三郎。旭狼衛二番隊の隊員で、年は二十五。中肉中背、目立つところのない顔立ちだが、眼の奥には常に冷静な観察力が宿っていた。剣の腕は隊内では並程度だが、地理の把握と書記の能力に長けていて、こうした遠征に必ず一人付けられる。
糸子の指示で、二人一組で動くことが旭狼衛の運用上、義務付けられていた。一人で動けば、何かが起きた時に証言する者がいない。何かが起きた時、後で姫様に正確に報告できる目が、必要だった。
高田は静かに言った。
「坂本殿、参りましょう」
「行くがぜよ」
二人は、江戸日本橋から中山道へ向けて足を踏み出した。武蔵国榛沢郡血洗島村まで、健脚で三日の道のりだった。
二
血洗島村に近づいたのは、出発から三日目の昼下がりだった。
中山道を深谷宿の手前で外れ、北の血洗島村へと向かう。利根川の湿潤な風が吹き抜ける武蔵国北端の地である。そこからしばらく歩くと、田圃と畑の広がる集落が現れた。
龍馬は集落の入り口で、足を止めた。
「……ここ、おかしいぜよ」
高田陽三郎が、少し首を傾けた。
「何がでございますか」
「百姓の村やない」
龍馬は集落を見渡した。
稲穂は確かに垂れている。畑の畝も、丁寧に整えられている。しかし——目に入ってくるものが、明らかに普通の農村と違っていた。
まず、家々の規模が大きい。土壁は厚く、屋根は瓦葺きが多い。普通の百姓の家にはない、立派な土蔵が、ほとんどの家に併設されている。その土蔵の数も、一軒や二軒ではない。三つ四つと並んでいる家もある。
道を歩く人々の様子も違う。鍬を担いだ農夫は確かにいる。しかしそれと同じくらい、帳面を抱えた者が歩いている。算盤を腰に下げた中年の男が、馬に乗って通り過ぎていった。
集落の中心では、莚を敷いた市が立っていた。藍玉を入れた俵が、山と積まれている。商人と思われる男たちが、藍玉を一つ一つ手に取って、色味を確かめながら、値を交渉していた。
「これは——」
龍馬が呟いた。
「百姓の村ではのうて、——商人の村ぜよ」
高田が頷いた。
「はい。藍玉の生産で知られる土地です。原料の買い入れから製造、販売までを家ごとに担う形が、ここでは普通のようです」
「百姓が、商売の全工程をやっちょるんか」
「江戸や大坂に売り歩くため、自然と算盤の腕も上がる。普通の農家とは、求められる才覚が違う、と聞いております」
龍馬が小さく口笛を吹いた。
「——なるほど。姫様が、ここの男を欲しがる訳が、なんとのう見えてきたがぜよ」
(百姓のくせに商売を覚えちょる土地。その土地で、二十歳で名を上げる男ちゅうのは、既に並の男やないっちゅうことか)
二人は集落の中を進んだ。
道行く者に「渋沢栄一」の名を尋ねると、すぐに教えてくれた。
「ああ、市郎右衛門さんの倅な。中の家じゃ。あそこの大きな屋敷だよ」
指差された方向には、集落の中でも一段と大きな構えの屋敷があった。広い門構えに、立派な板塀。母屋の屋根には鬼瓦。土蔵は四つ。藍葉を干すための広い庭。
「中の家」と呼ばれるそれは、明らかに、ただの百姓の家ではなかった。
三
屋敷の門前に立った時、龍馬と高田はいったん足を止めた。
ちょうどその時、屋敷から一人の若者が、藍玉の俵を抱えて出てきた。
二十歳前後。背は中背、痩せ気味。木綿の縞の着物に、短く結った髷。額に汗が薄く浮いている。しかしその顔つきには、若者にしては落ち着きがあった。眼が鋭い。商家の出ではあるが、武士の素養も備えていることが、立ち姿の張りから分かった。
(——こいつか)
龍馬の直感が、一瞬で動いた。
その若者は、屋敷の前に立つ二人を見て、軽く会釈した。
「お客人で?」
「うむ。渋沢栄一殿はおられるかえ?」
若者がにっこり笑った。
「俺が、栄一でございますよ」
龍馬は内心、少し笑った。
(やっぱりそうやと思うちょった)
(眼が違うがぜよ、この男)
しかしその時、栄一の後ろから、もう一人の声がした。
「栄一兄ぃ、その俵を急ぎでつけるんなら、大宮の野口屋に寄ったほうがいいんべぇ。今の時期、あっちは藍玉が薄くて、買い値が高いかんな」
屋敷の中から、もう一人の若者が出てきた。
今度はもっと若い。十七、八に見えた。背は栄一より頭一つ高い。色白で、涼やかな顔立ち。眼が真っすぐで、誠実そうな印象がある。
(——こっちは……何ぜよ?)
(顔が、ぶち綺麗やが——同時に、剣の素養があるがか)
高田が低く呟いた。
「坂本殿。あの若者、立ち姿が——」
「……武芸者やな」
「はい。腰の据わり方が違います。剣を相当やっておられる」
栄一が、後ろを振り返って、その若者を紹介した。
「あぁ、こいつは俺の従弟で、平九郎っていうんだ。剣術と読み書きを、一緒にやってる仲だんべ」
平九郎が龍馬と高田に、丁寧にお辞儀した。
(——平九郎、ねぇ)
(栄一が「原石」なら、こいつは——「副産物」か?)
(いや、副産物にしては……眼の真っ直ぐさがちと過ぎちょる)
(こいつにも、何かある)
龍馬は静かに、心の中で計算を始めていた。
四
栄一は二人を、屋敷の客間に通してくれた。
客間は十畳ほどの広さで、床の間には掛け軸が一幅。床柱は黒柿。畳は新しく、藺草の香りが漂っていた。商家の客間としては、十分すぎる格式があった。
千代…栄一の妻が、お茶と干菓子を運んできた。
千代は若いが、所作が静かで、よく整っていた。栄一とは、二年前に祝言を挙げたばかり——尾高家から嫁いできた、栄一の従妹である。
お茶を淹れながら、千代が栄一にそっと尋ねた。
「お客さんは、土佐から来たって言いましたかね?」
「あぁ。坂本龍馬殿と、連れの高田殿だんべ」
千代は二人に丁寧に頭を下げて、退室していった。
栄一は二人の前に座った。
「土佐の方が、俺みてぇなもんを訪ねて、何のご用だいね?」
その口調には、警戒が滲んでいた。
(当たり前じゃ)
(見ず知らずの土佐者が、この武蔵の田舎に二人連れだって現れたら、誰かて警戒するきに)
龍馬は懐から、自分の名刺代わりに使う一枚の紙を取り出した。「土佐脱藩浪士・坂本龍馬」と書かれている。
しかし渡す前に、口で先に語った。
「渋沢殿——わしは、ある御方の使いで、ここに来たがぜよ」
「ある御方?」
「うむ。名前を出すんは、まだ早いがやけんど——一つだけ言うちょこう」
龍馬は栄一の眼を、真っすぐに見た。
「そのお人は、渋沢栄一いう名を、はっきりと指名されたがよ。『連れてきてくれ』とね」
栄一の表情が、わずかに動いた。
「指名……だんべぇか」
「ほうじゃ」
「おれぁ、土佐の衆とも、そのお方とも——会ったこともねぇんだが」
「それを、わしも、まっこと不思議がっちょる」
龍馬は思わず、笑った。
「その御方は、若いお方じゃ。なれど——眼力が、化け物じみちょる」
(姫様、こんな表現で勘弁してつかぁせ)
(しかし、これ以外のどう表現していいか、わしにも分からんがぜよ)
栄一は黙って、龍馬の言葉を聞いていた。
その眼は、警戒を保ちながら、しかし——同時に、何か別の感情も含んでいた。
好奇心。あるいは、運命への予感。
龍馬はそれを、見逃さなかった。
(こいつ、——脈はあるがぜよ)
(まだ動かんやろうけど、確実に、心の奥に何か火種を持っちゅう)
五
龍馬は本格的に試しにかかった。
茶を一口含んでから、にやりと笑って言った。
「渋沢殿、ちと、商売の話でもしようかえ」
「商売……だんべぇか」
「ほうじゃ。わしのつれが、信州の藍玉を扱うちゅう商人の知り合いがおる。今、信州の市で、藍玉が一斤あたり銀三匁五分で売られちょる。武蔵の藍玉は、信州の藍玉より色が濃ゆうて、品質が一段上じゃ。これを、信州に持ち込んだら、いくらで売れる?」
高田が思わず、龍馬の方を見た。
高田は商売の話には疎い。今、龍馬が出した数字が、本当に信州の市場の価格なのか——高田には判断が付かなかった。
しかし、栄一は——即座に、答えた。
「一斤あたり、銀四匁から四匁二分」
「ほう」
「ただ、運賃と保管費を引きゃあ、手元に残るあ、いっきんあたり銀三匁三分から三匁五分)。武蔵の市の今の買い値とほぼ変わんねぇ。儲けになんねぇよ」
龍馬は思わず、ぱっと笑った。
(——即答じゃ)
(しかも——運賃と保管費まで瞬時に引いて、手取りまで弾き出しよった)
(こりゃあ、化け物ぜよ)
龍馬は次の試しを投げた。
「では——信州の市場ではのうて、上州の藤岡まで運んだら、どうかえ」
「藤岡なら、いっきんあたり銀四匁五分は付きやす」
「運賃と保管費は」
「藤岡なら、信州より近いからよ、運賃は半分で済む。手取りでいっきんあたり銀四匁。これあ、儲けが出るぜ」
「では、なぜ武蔵の藍玉を信州ではのうて、藤岡に持っていく百姓が、この村におらんがか」
栄一は少し考えてから、答えた。
「藤岡の市あ、藍玉の扱きが信州より少ねぇからよ、いっぺんに持ち込めば、相場そのものが下がっちまう。一回の商売で十俵が限度だ。それ以上あ、相場を崩して、おしめぇにゃあ損になりやす」
(——なんだ、こいつ)
(数字だけやのうて、市場の規模まで読みよる) (こりゃあ、ただの算術好きやないきに)
龍馬は、隣の高田を、ちらりと見た。
高田は、無表情に近かった。しかしその眼の奥に、——驚きが、確かに浮かんでいた。
高田はその瞬間、心の中で記録を始めていた。
(坂本殿が即興で出した複数の商売の質問に、相手は迷わず答えた)
(数字、運賃、保管費、市場規模——全て即座に統合した)
(これは……姫様への報告で、特筆すべき才能だ)
六
龍馬は、さらに深く試しに行った。
「渋沢殿、ではな、こんな話はどうかえ」
茶碗を置いて、身を乗り出した。
「あんたが信州の松本まで、藍玉百俵を運んだとする。途中で、上州の倉賀野を通るがよ。そこで倉賀野の藍商人が、『百俵全部、わしが買う。値はそちらの言うとおりでええ』と言うてきたとしたら、どうするぜよ」
「ふむ」
「相場は信州の松本の方が一割高い。じゃが、倉賀野で売れば、運賃と日数を半分に減らせるがよ。さらに、倉賀野の藍商人は、来年も買うと約束しちゅうときた」
「——どうするがな?」
栄一は、湯呑を口に運びかけた手を、止めた。
(——これは、計算の問題やのうて、判断の問題ぜよ)
(数字だけなら、信州の方が儲けが多い。じゃが、来年の取引まで考えたら、倉賀野の方が、長い目で見れば利が大きいきに)
(こいつが、どっちを選ぶかで、——人物の幅が分かるぜよ)
栄一は、しばらく沈黙してから、答えた。
「俺なら――倉賀野で半分、信州で半分、売りやす」
龍馬の眉が、少し動いた。
「半分、半分か」
「そうだいね」
「なぜや」
栄一は静かに答えた。
「倉賀野の藍商人に残らず売っちまえば、確かに今年の利あいいし、来年の約束もとりつけられる。だども、倉賀野の商売人あ、俺らに『藍玉の卸先を一つに絞らせる』つもりだ。来年、倉賀野が値を下げてきやがったら、俺らあ断れねぇ立場になっちまう」
「——なるほど」
「反対に、信州で残らず売っちまえば、利あ一番でけぇ。だども、倉賀野との仲あ壊れちまう。来年、信州の相場が下がっちまった時、頼れる先がなくなっちまうんだ」
「だから、半分ずつ、ということかえ」
「全くだ。倉賀野にゃあ、『来年も商売してぇ』って気概を見せ、信州にゃあ、『俺たちゃあんた方の市場も大事にしてるぜ』って面構えを見せる。両方の仲あ保ちながら、目の前の利もきっちり手に入れやす」
(——こいつ……)
(数字だけやのうて、関係性まで計算しちょる)
(しかも、目先の利と、長期の関係を——天秤にかけて、両方を取りに行きよる)
(こりゃあ、ぶち、姫様が言われちょったとおりじゃ)
(化け物ぜよ)
龍馬は身を乗り出したまま、栄一の顔を、まじまじと見た。
栄一は、少し戸惑ったように、目を伏せた。
「俺の言い草、何かおかしかったかい?」
「いや」
龍馬は静かに言った。
「ぶち、立派ながぜよ」
高田陽三郎は、その瞬間、心の中で固く決めた。
(姫様の見立ては、——間違いない)
(この男は、必ず姫様の元に届けねばならぬ)
七
しかし——龍馬は、ここからが難しいことを知っていた。
(こいつの「能力」は分かった。じゃが、こいつの「思想」は——まだ、確かめちょらんきに)
(能力だけあって、思想が合わなんだら、姫様の元に連れて行っても、長続きせんぜよ)
龍馬は試しの方向を変えた。
「渋沢殿、ちと別の話をしようかえ」
「はい」
「こないだ、討ち入り事件の起きたねぇ」
栄一の表情が、わずかに引き締まった。
「井伊大老の件で」
「ほうじゃ。……あんた、あれ、どう見ちょる?」
栄一は、しばらく沈黙した。
そして、——慎重に、口を開いた。
「天誅なんて抜かす奴もいやす。だども――俺あ、それだけで済むたぁ思っちゃいねぇ」
「ほう、なぜや」
「井伊の大老ひとりが死んだところで、幕府の道筋が変わるとあ思えやしねぇ。かえって、血気盛んな攘夷の連中と、それを抑えつける幕府のぶつかり合いあ――もっと激しくなりやす」
(——おお、案外まともなことを言いよるやんか)
龍馬は内心で頷いた。
「ほんで、あんたは、攘夷派かえ? 開国派かえ?」
栄一は、しばらく考えた。
そして、——意外に静かな声で、答えた。
「俺あ……攘夷の側にいやんす」
(来た)
「ただし——」
栄一は続けた。
「火を付けて回るような、物騒な攘夷じゃありやせん。落ち着いて、日本が異国と対等に渡り合えるようになるための、攘夷でございやす」
(——おっ)
(こいつ、頭がええだけやのうて、判断もまっとうな)
(いきなり「夷狄を斬り殺す!」とか言わんがぜよ)
(これなら、姫様の計画にも嵌る)
(姫様の言われちょった「冷静な攘夷」と、ぴたりと合うちゅうがよ)
龍馬は心の中で、深く息を吐いた。
(よし——能力よし、思想よし。あとは、こいつをどうやって、口説くかや)
(じゃが、この男、家業も家族もある。簡単に動かんやろう)
八
龍馬は、ここで、本格的な勧誘の段階に入った。
「渋沢殿——」
「はい」
「あんた、この村で一生を終えるつもりかえ?」
栄一は、少し驚いた顔をした。
「と、言いやすと」
「あんたの能力は、この村に閉じ込めるには、勿体ないがぜよ」
「いえ、俺あ――」
「分かっちょる」
龍馬は遮った。
「家業がある。家族がおる。父上も母上もおる。妻子もおる。——軽々しく、家を出るような身分ではないことは、分かっちょるがぜよ」
「左様でございやす」
「じゃが——あんたは、この村で藍玉を売り続けて、満足するんかえ?」
栄一は黙った。
その沈黙は、答えになっていなかった。
(やっぱり、こいつ、心の奥に何かを抱えちょる)
(村で藍玉を売り続けるだけでは、満足しちょらん)
(自分の力をもっと大きな所で使いたい——そう、思うちょる)
(じゃが、そう思いながらも、家業のため、家族のため、村のために、その気持ちを、心の奥に封じ込めちょる)
(——叩け)
(叩いて、火をつけろ)
龍馬は声を、低くした。
「渋沢殿——日本は、変わるがぜよ」
「変わる、と」
「ほうじゃ。あんたが、この村で藍玉を売り続けちょる間にも——大きく、根本から、変わるがぜよ」
「異国の船は、もう日本の海に入っちゅう」
「異国商人は、横浜と長崎で、日本の富をかすめ取りよる」
「武家の財政は、内側から崩れちゅう」
「百姓も、武家も、商人も、みなが、自分の食いぶちのことしか考えん。じゃが、この国全体を、誰が考えちゅう?」
栄一は、息を呑んだ。
龍馬は続けた。
「あんたの算術と、あんたの判断は——この村のためだけに使うんは、勿体ないがぜよ」
「あんたの力は、——この国全体のために、使うべきや」
(うわっ……)
(坂本殿、姫様の口調に近づいてきとるな……)
高田陽三郎は、内心でそう思いながら、しかし黙って聞いていた。
しかし、——栄一は、首を振った。
「坂本様」
「うむ」
「ありがてぇお言葉だんべぇ。じゃが——わしは、今、ここで十分役に立てておるわい。父も、母も、妻も——わしを必要としてくれてんのさ」
「家業をほっぽり出して、見知らぬ人の元へ行くなんてぇこたぁ、できねぇなぁ」
龍馬は、内心で苦笑した。
(——やっぱりや)
(こいつ、ほんに根が真面目すぎる)
(家族と村への責任から、動こうとせん)
(このままじゃ、口で言うだけでは動かんがぜよ)
(さて、次の手や)
九
龍馬は、いったん引き下がった。
「分かった。今日のところは、これで終わるがぜよ」
栄一は、少しほっとした顔をした。
「すまねぇ、堪忍してくんろ」
「いや、別にええがぜよ。じゃが——」
龍馬は立ち上がりかけて、止まった。
「しばらくは、この村におらしてつかぁせ。また、お話しさしてもらうがぜよ」
「——そうでごいすか」
栄一は少し戸惑ったが、断るほどの理由もなかった。
(しばらく、考える時間をやろう)
(その間に、別の角度から攻めるぜよ)
(——平九郎や)
その夜、龍馬と高田は、村の小さな宿に泊まった。
宿は粗末だったが、清潔だった。湯漬けと味噌汁の夕餉を取りながら、龍馬は高田に語った。
「——今日のあいつ、どう見た」
「素晴らしい才能と、確かな思想を持っております」
「ほんでも、動かんがぜよ」
「家業と家族への責任が、強すぎる」
「ほうじゃ。じゃがな——」
龍馬は箸を置いた。
「あの平九郎、ちゅう若いの、見たかえ?」
「はい。剣の腕がかなり立つと見ました」
「うむ。あいつにも、何かありそうじゃ」
「と、申しますと」
「——数日後、平九郎に会うてみるがぜよ。栄一には別の角度から攻める手がいる」
十
数日後、龍馬と高田はもう一度、中の家を訪れた。
今度は栄一に直接会うのではなく、平九郎に会いたいと申し入れた。栄一は不思議な顔をしたが、平九郎を呼んでくれた。
屋敷の帳場で、龍馬と高田と平九郎の三人だけになった。
帳場は十畳の板の間で、隅に大きな算盤台があり、その横に分厚い帳面の山が積まれていた。藍玉の取引記録、仕入れ記録、売掛金の控え——商家としての運営の全てが、ここに集約されているような場所だった。
平九郎は、緊張した顔をしていた。
「土佐の坂本様が、俺に何のご用だい?」
龍馬は笑顔で言った。
「平九郎殿、ちと、算盤を弾いてもらえんかえ」
「算盤、だんべぇか?」
「うむ。この帳面の山から、適当に一冊取って、その日の取引の数字を、ぱっぱっと弾いてみてつかぁせ」
平九郎は不思議な顔をしたが、言われたとおりに帳面を一冊取った。
そして、——算盤を構えた。
その瞬間、龍馬と高田は息を呑んだ。
平九郎の指が、ぱぱぱっと動いた。
帳面の数字を見た瞬間、平九郎の指は既に動いている。読み終わる前に、計算が終わっている。
「これが、九月十三日分の藍玉売り上げ。総額、銀三十二貫五百匁」
「九月十四日分、仕入れ。銀十八貫七百二十匁。差し引き、純益、銀十三貫七百八十匁」
「九月十五日分は——」
平九郎の指は、止まらなかった。
帳面の数字を見ながら、見ている間に既に計算しており、声に出した時にはもう次の計算に入っている。それは、計算の速度ではなかった。——計算と読み取りが、同時に行われている、と言うべきだった。
(——なんやこれ)
(こいつ、計算しちょらんがぜよ)
(数字を「感じちょる」がぜよ)
(数字を見た瞬間に、答えが視えちょる)
(栄一の「速さ」とは、——根本的に違う種類の速さや)
龍馬は思わず、笑った。
「平九郎殿、——あんた、算盤、やっちょる時、何を考えちゅう?」
平九郎はきょとんとした。
「考える、だんべぇか? 別に、特別なこたぁ……」
「数字を見た時、どう感じてるんだい?」
「うーん、ただ……数字が、合うか合わねぇかが、見えるだけでさぁ。 合わねぇ時は、なんだか気持ち悪うて」
(こいつ、感覚で計算しちょる……)
(こいつ、鍛えりゃあ、武器になるぜよ)
(栄一の「考える」算術と、平九郎の「感じる」算術)
(この二人、一組にして使うべきやき)
龍馬は思わず、ぽんと膝を打った。
「平九郎殿——あんた、剣はどれくらいやっちょる?」
「神道無念流を、十の時から学んでるんでございます。 今じゃあ、近辺の若けぇ衆に教えるくれぇの腕にはなってるだんべ。」
「身長も、五尺八寸はあるかえ?」
「はい、六尺豊か(180cm) にあるだんべ。」」
(——化け物ぜよ)
(剣の腕、ええ体格、算盤の天才、誠実な気立て——)
(こいつは、——栄一以上に、武器として使えるき)
(栄一が「頭」なら、平九郎は「体」ぜよ)
(この二人、絶対に二人一組で連れて行くがぜよ)
十一
龍馬は平九郎に、ゆっくりと言った。
「平九郎殿、——あんた、栄一殿のことを、どう思うちょる?」
平九郎は即答した。
「栄一の兄ィは、あっしの師匠だんべ。剣も学問も、人間としての生き方もよ、みんな栄一の兄ィから教わってるんでぇ」
「ほな、もし——栄一殿が、村を出て、別の場所に行くと言うたら、あんたはどうするぜよ?」
平九郎は、しばらく考えた。
「栄一の兄ィが行く所にゃあ、俺もついていくんべぇ」
「即答かえ?」
「あぁ。栄一の兄ィが決めたんなら、そいつは正しい道だんべぇ」
(——よし)
(こいつは栄一に、絶対の信頼を置きちゅう)
(栄一が動けば、平九郎は勝手についてくるき)
(つまり、栄一一人を口説き落とせば、——平九郎も付いてくるということぜよ)
(けんど、栄一は動かん)
(さて、どう動かしたもんかのう)
龍馬は、しばらく考えてから、口を開いた。
「平九郎殿——あんた、自分の力の使い道、決めちょるかえ?」
平九郎は、少し戸惑った。
「使い道、ですかい?」
「ほうじゃ。あんたの算盤、剣、誠実な性格——それを、この村で使うか、それとも、もっと大きな所で使うか」
平九郎は、しばらく黙った。
「俺ぁ……正直に言っちまえば、この村じゃあ物足りねぇことがあんだ。」
「ほう」
「藍玉の数字を弾くだけなら、誰だってできらぁ。 剣だって、ここで教える相手は村の若けぇ衆だけ。……俺の剣は、本当のところ、正しく学べてるんだんべぇか、ってな。」
(——出たぜよ)
(こいつも心の奥じゃあ、もっと広い場所で力を試したいちゅう気持ちを抱いちゅう)
(栄一と同じや。けんど、栄一は責任で抑えちゅう。平九郎は、——独身で身軽なきに)
龍馬は、言葉を選んだ。
「平九郎殿、あんたは、『速い』だけやないがぜよ」
「てぇと、どういうこったい?」
「あんたの剣、あんたの算術——どっちも、本物の戦場で、本当の役に立つ才能ぜよ」
「商売でも、戦でも——あんたの力は必ず、誰かの道を開く力になる」
「試したくないかえ?」
平九郎の眼が、真っすぐに龍馬を見た。
その眼の中に——確かに、火種が燃え始めていた。
十二
龍馬は、平九郎を残して、もう一度、栄一の前に立った。
屋敷の客間に通されて、栄一と二人になった。
龍馬は、昨日とは少し違う調子で、話し始めた。
「渋沢殿——」
「はい」
「昨日のお答え、わし、ぶち納得したがぜよ」
「そうなんけ」
「家業を捨ててまで、——簡単に動くわけにはいかんちゅう、その通りじゃ」
「そうなんさ」
「じゃが、——一つだけ、聞かしてつかぁせ」
「なんつったい」
龍馬は、栄一の眼を真っすぐに見た。
「あんた、自分の才の使い道、——決めちょるかえ?」
栄一の表情が、わずかに動いた。
「俺の……才の使い道だんべ」
「ほうじゃ」
「あんたが今やっちょる藍玉の商売は——それは、それで、立派な仕事や。じゃが、それは、あんたの父上が築いた商売を、引き継いじゅうだけやないかえ?」
「……」
「あんた自身の道は、——どこにあるがか」
栄一は、しばらく黙った。
その沈黙は、長かった。
龍馬は次の一言を、慎重に放った。
「あんたの能力——その力、百姓のままで終わらすがか?」
その瞬間、栄一の中で、何かが、はっきりと動いた。
(――なにかを、突かれた)
(俺ぁは……自分が、ここで一生を終えることに、本当にてえしたしてんのか?)
(百姓として、藍玉を売り、子を成し、孫を見て――そんで俺ぁは、満足しちまうのか?)
(いや――俺ぁはどこかで、自分の力をもっとでっかく試してえと、思っちまっておる)
(それを俺ぁは、――抑え込んでただけなんだい)
栄一の表情が、明らかに変わった。
龍馬はそれを見て、心の中で頷いた。
(——動いた)
(こいつ、——揺れちょる)
(あと一押しや)
十三
龍馬は、ここで、最後の切り札を出した。
「渋沢殿——」
「はい」
「あの御方はな……人を見た瞬間に、『未来の使い道』を決めるがぜよ」
「未来の、使い道……だんべか?」
「ほうじゃ。あの御方は、わしを、犬として使いこなしちゅう」
「……犬」
「ほうじゃ。わしみたいな、ちっと頭の足らん土佐の浪人を——犬として育て、犬として走らせ、犬として帰らせる。じゃが、その犬の力で、——既に大きなことが動き始めちゅう」
「あの御方は、わしの力の使い道を——わしより先に、知っちょるがぜよ」
「あんたの名前が、わしに渡された時——あの御方は既に、あんたの『未来の使い道』を決めちょったがぜよ」
栄一の眼が、大きく動いた。
「俺ぁの……使い道だんべぇか」
「ほうじゃ。あの御方は、——あんたの力を、何に使うかを知っちょる」
「そりゃあ……なんだんべぇ?」
龍馬は、首を振った。
「それは——わしには分からん」
「あの御方は、わしには教えてくれん。じゃが——あんたが会えば、必ず、教えてくれるはずや」
「怖いか? ああ、怖いぜよ。あの御方の前に立つと、わしも、未だに足が震えるがぜよ」
「じゃが——」
龍馬は、声を、深くした。
「あの御方の後ろにおったら、この国は変わる」
「あんたの算盤も、あんたの判断も、——この国を変えるための、立派な道具になる」
「藍玉を一生、売り続けるか?」
「それとも、この国を、——変える側に回るか?」
栄一は——目を閉じた。
(――俺ぁは、何のために、ここにいんんだい)
(家業を継ぐためか? 家族を食わせるためか? 村を守るためか?)
(そりゃあ、立派な道だんべぇ)
(だけんど、――俺ぁの中の、本当の声は何て言っておる?)
(俺ぁはもっと、――でっけぇ所で、自分の力を試してぇんだい)
(それを俺ぁは、――ずっと、抑え込んでただけなんだい)
(坂本様の言う通り、俺ぁは、――自分の道を、まだ選んじゃあいねぇ)
栄一は、目を開けた。
その眼に——覚悟の色が、宿っていた。
十四
栄一は、深く一礼した。
「坂本様——」
「うむ」
「ご縁を、……ぜひ、お繋ぎ願いてぇんでございます」
龍馬は、内心で、深く息を吐いた。
(——よし)
(落ちた)
(姫様、坂本、お役目果たしてきましたぜよ)
しかし、栄一は続けた。
「ただし—」
「うむ」
「妻の千代と、父上、母上に、ちっとばかし、言い訳をしなきゃなんねぇ。ちっとの間、待っててくんろ」
「もちろんじゃ」
「――わしもそう急いじゃあおらん。家族とじっくり話してみたらええき」
栄一は、奥の間に下がっていった。
龍馬は、ふっと肩の力を抜いた。
(こいつ、家族との別れまで、——きちんと、礼を尽くす男や)
(ますます、姫様の元に届けたいと思うがぜよ)
(けんど、焦ったらだめやき。時間をかけるべきところは、かけるべきやき…)
「渋沢殿、わしらは一旦戻るき、ゆっくり家族と過ごしたらええ。江戸へ行ったら、おそらく忙しうなるきにな」
そして龍馬と旭狼衛の高田は、江戸に帰って行った。
数日後の夜、栄一は、家族を集めた。
父・市郎右衛門は、最初は反対した。家業を継ぐべき長男が、見知らぬ土佐者に連れられて、江戸まで行くという。理屈に合わない。
しかし、栄一は、誠実に自分の覚悟を語った。
「おっとう。わしゃぁ、——藍玉売るだけで一生を終えちまいたかねぇんだ」
「お、自分の力がどこまで通用するか、でっかく試してぇんでごいす」
「家業は、誰かが必ず継ぐようにするべぇ。……だから、どうか、俺ぁを行かせてくんろ!」
「もし、行ってみて、とんだ見込み違いだったなら——わしは、必ず、戻ってめぇります」
父は、しばらく黙ってから、やがて頷いた。
「おめぇの覚悟は、しかとわかったわい」
「行ってこい。……じゃが——必ず、生きてけぇってこいよ」
千代は、涙を流したが、止めなかった。
千代は栄一を、よく知っていた。
栄一の中の、もっと大きな所へ向かいたいという気持ちを、千代は、ずっと前から、感じていた。
千代は、ただ、栄一の手を取って、言った。
「あんた、——どうか、達者でいてくんろ」
「この子と一緒に、——無事に戻ってくんのを、待ってるからね」
栄一は、千代の手を握り返した。
涙が、栄一の頬を流れた。
平九郎は、龍馬の予想通り、即座に「俺ぁも一緒に行くわい!」と答えた。
平九郎の家——栄一の従兄・尾高家——も、最初は驚いたが、やがて承諾した。
「平九郎は、お武家様の道に進むべき男だんべぇ。栄一兄ぃと一緒に、見知らぬ土地で力を試してこい!」
平九郎は深く一礼して、出立の準備を始めた。
十五
武蔵国榛沢郡血洗島村へと足を踏み入れた。凍てつく風が茅葺き屋根を撫で、白く霜をまとった畑が静かに広がる。
農家の戸を開けると、囲炉裏の火が赤々と揺れ、煤けた梁に影を落としていた。土間には干された大根が並び、奥では機織りの音が規則正しく響く。
外の寒さとは対照的に、室内には人の営みの温もりが満ちていた。
龍馬と旭狼衛の高田は再び、この地へ訪れた。
今度は渋沢栄一と渋沢平九郎を迎えに……
そして龍馬たちは、しばらく血洗島村へ滞在した後、四人は出立した。
坂本龍馬
高田陽三郎
渋沢栄一
渋沢平九郎
血洗島村の入り口で、見送りに来た家族たちが、深く一礼した。
千代は、母屋の前に立って、静かに頭を下げていた。
栄一は、振り返って、千代の方を見た。
千代も、栄一を見た。
二人の眼が、しばらく合った。
それから、栄一は、ゆっくりと、前を向いて歩き出した。
道中、龍馬は、栄一にぽつりと言った。
「渋沢殿——」
「はい」
「後悔は——させんぜよ」
「けんど、楽な道やないぜよ」
栄一は、深く頷いた。
「分かってるだんべぇ」
「楽してぇなんて思って、家を出るわけじゃねぇんだ」
「俺ぁの力が……どこまでやれんのか、試してぇ。ただ、それだけでごいす」
龍馬は、ふっと笑った。
(——立派や)
(こいつ、絶対、——大化けする)
(姫様の見立ては、——間違いない)
道中、四人は、よく話した。
栄一と平九郎は、最初は緊張していたが、やがて打ち解けて、龍馬の土佐話を笑って聞いた。
平九郎は、若さゆえに、新しい世界への憧れを、隠さずに見せた。
栄一は、もう少し慎重に、しかし、確実に、新しい人生への一歩を、踏み出していた。
龍馬は、二人を見ながら心の中で頷いた。
(——栄一は、理屈)
(平九郎は、直感)
(わしは、——その二人を繋ぐ、橋渡しや)
(こりゃあ、——時代を動かす組み合わせや)
(姫様、まっことの原石を、二つ、お届けしまするきぃ)
(あとは、姫様の御手で、磨いてくだされ)
高田陽三郎は、無言で、四人の最後尾を歩いていた。
しかしその胸の内では、心の中で、姫様への報告書の草案を、既に組み立てていた。
(坂本殿の見立ても、姫様の見立ても、——間違いない)
(この二人は、——必ず、姫様の計画の核心に、組み込まれることになる)
(私は、その瞬間に立ち会った)
(それは、一兵卒として、誇るべき記憶になるだろう)
秋の終わりが近い空の下を、四人は、東に向かって、歩いていった。
遠くに、利根川が見えていた。
十六
万延元年、冬の深まり。
江戸日本橋。糸子の御座所での対面が終わった直後である。
糸子の声が、まだ栄一の耳の奥に残っていた。
「其の方の尽力、このわたくしに預けてはたもれぬか」
あの声が、栄一の胸の奥で、——震え続けていた。
(——俺ぁ、近衛の姫様に、頭を下げられたんだ)
(手を取られて、頭を下げられたんだ)
(あれは、夢なんかじゃねぇ)
(現実に、起きたことなんだ)
(俺の一生は、——あの瞬間に、変わっちまったんだ)
平九郎は、栄一の少し後ろを、ぽかんとした顔で歩いていた。
(栄一兄ぃが、近衛の姫様に、頭を下げられた……)
(夢だ、これは、夢だんべぇ……)
(じゃが、——この感触は、夢なんかじゃねぇ)
(俺ぁ、とんでもねぇ世界に、入り込んじまったんじゃねぇか……)
糸子の侍女・小夜が、先頭を歩いていた。
その後ろを、旭狼衛二名が、左右に分かれて歩いていた。一人は近藤勇配下の山口直助、もう一人は土方歳三配下の藤堂八郎。二人とも、栄一たちを警護しつつ、周囲の様子に常に目を配っていた。
(旭狼衛の方々が、俺たちの警護に……)
(こ、これも、近衛様の指図なのかい)
(俺たちは——もう、ただの百姓じゃなくなっちまってるんだなぁ)
冬の朝の江戸は、活気に満ちていた。
江戸の町並みは、栄一の予想を遥かに超えていた。
武家屋敷の長い塀。商家の連なる町並み。馬の蹄の音、駕籠かきの掛け声、子供の遊ぶ声、寺の鐘——音の層が、血洗島村の比ではない。
日本橋——日本橋川にかかる大きな橋——を渡った時、栄一は思わず立ち止まった。
橋の上から見下ろす日本橋川には、無数の小舟が、ひしめき合うように行き交っていた。米俵を積んだ舟。藍玉の俵を積んだ舟。木材を積んだ舟。陶磁器の箱を積んだ舟。
全国から物が集まり、全国へと流れていく。
(——これが、江戸か……)
(商いの中心、——っていうより、もう、ただの中心じゃねぇ)
(ここは、日本そのものの、心臓みてぇな場所だんべぇ)
平九郎も、橋の上で、目を丸くしていた。
「兄ぃ、こりゃあ、たまげたなぁ」
「うむ。俺も、初めてだんべ」
小夜が、振り返って、優しく言った。
「もうすぐ、参りまする。あちらが、小舟町でございます」
十七
日本橋を渡って、東に少し進むと、小舟町に入った。
日本橋本町——薬種問屋の集積地——と、堀留——呉服・京物産の集散地——の間に位置する一帯。
通りには、立派な大店が、ずらりと並んでいた。
三井越後屋の重厚な構え。大丸の長い暖簾。白木屋の白い壁。——名の知れた大店ばかりが、軒を連ねていた。
その一角に、栄一たちが向かっている屋敷があった。
間口十間(約十八メートル)の大店形式。表に「天朝物産会所 江戸取次所」と書かれた看板が、墨痕鮮やかに掲げられていた。
しかし、栄一の眼が捉えたのは、看板ではなかった。
その屋敷の前と、両脇に——立っている男たちだった。
(——ありゃぁ……何だんべぇ)
羽織は近衛柿色のだんだら模様。腰には大小。明らかに武家の格好だが、商家の前に立つにしては、——気配が異様だった。
立ち姿に、隙がない。視線の動きが、——獲物を見るような動きをしている。
栄一は、無意識に、息を呑んだ。
平九郎が、隣で囁いた。
「——兄ぃ、ありゃあ……」
「武芸者だんべ。それも、——並の奴じゃねぇ」
(商家の前に、こったら武芸者が立ってんのか)
(ここは、——ただの店じゃねぇぞ)
小夜が、振り返って言った。
「あの方々は、旭狼衛の二番隊にございます。商家の警護に当たっております」
「——警護、だんべぇか」
「そうでございます。さあ、参りましょう」
屋敷の門をくぐった瞬間、栄一は——空気が変わったことに、気づいた。
(武と、商が、一緒くたになってやがる)
(ここは、——ただの店じゃねぇ)
(もっと、別の何かが、ここで動いてんべぇ)
栄一の中で、警戒と好奇心が、同時に高まった。
十八
屋敷の中も、外と同じくらい、——栄一の予想を超えていた。
一階は、確かに物産展示の場だった。
京都からの生糸、陶磁器、西陣織の見本が、丁寧に並べられていた。商人らしき男たちが、品物を確認しながら、商談を進めている。
しかし——その商談の様子が、栄一の知る商家の商談とは、——少し違っていた。
商人の声が、低い。
数字のやり取りが、極端に速い。
そして、——商談の合間に、必ず、奥に控える誰かに、書状を手渡す動きが入る。
(——情報が、きっちり固められてやがる)
(普通の店じゃねぇ)
(ここは、——情報を売り買いする場所でもあるんだんべ)
栄一は、その瞬間に、ここが何なのかを、——おぼろげに、理解し始めていた。
(ただの商売じゃあねぇ。——もっとでっけぇ規模の何かが、ここで動いてやがる)
(坂本様が言ってた、「あの御方の後ろにいりゃあ、この国は変わる」——ありゃあ、決して、大げさな話じゃなかったんだんべぇ)
小夜が、二人を奥の間に案内した。
奥の間は、二階建ての書院造の部屋だった。床の間には、主上様の菊花紋を模した絵柄の掛け軸が一幅。床柱は黒柿、床板は拭き込まれて鈍く光っている。畳は新しい京間で、藺草の香りがまだ残っていた。
部屋の中央に文机が置かれ、その前に、——一人の男が座っていた。
20歳前と見える青年。中肉中背、目立つ顔立ちではないが、——眼が、鋭かった。
数字を見る目。そして、人を見る目。
その両方を、同時に持つ眼だった。
松屋善次郎。
糸子の商務全般を取り仕切る、——実務担当者である。
十九
善次郎は二人が入ってくると、丁寧に立ち上がって、深く一礼した。
「松屋善次郎と申します。よくお越しくださいました」
その所作は、商人の所作だった。穏やかで礼儀正しく、しかし、どこか商人以上のものを感じさせた。
栄一と平九郎は、慌てて、深く頭を下げた。
「武蔵国血洗島の、渋沢栄一と申しやす!」
「同じく、平九郎でごいす!」
「どうぞ、お座りくださいませ」
二人が、文机の前に座った。
善次郎は二人を——じっと見ていた。
(——この二人が、姫様の言われた「原石」か)
(栄一は、——眼が落ち着いちょる。商家の出やが、武家の素養もある。判断力は、姫様の見立てどおり、確かに高そうだ)
(平九郎は、私より少し年下くらいか?)
(だが、立ち姿が真っすぐで、剣の素養が見える。姫様の言われたとおり、剣で名を上げるかもしれぬ若者だな)
(さて、試させてもらおう)
善次郎は、お茶を二人の前に置いた。
「江戸まで、長旅でお疲れでございましょう。まずはお茶をどうぞ」
「ありがてぇことでごいす」
二人は、お茶を一口飲んだ。
善次郎は、お茶を飲む二人の様子を、観察していた。
栄一の動作は、礼儀正しく、しかし、急ぎすぎず、緩みすぎず——商家の出としての所作が、自然に身についていた。
平九郎の動作は、まだ少し緊張していたが、所作の一つ一つが丁寧だった。
(——気立ても、姫様の言われたとおりだ)
(さて、本題に入ろう)
善次郎は、文机の上の帳面を、二人の前に置いた。
「では、まず——お二人にお願いしたい仕事の内容と、お二人の生活基盤について、お話しいたします」
「はい」
「お二人には、当面、この日本橋小舟町の近くに用意した長屋に、お住まいいただきます。長屋と申しましても、二人で住むには十分な広さの、二間続きの居所でございます」
「は、はい」
「日本橋までは、徒歩で半刻もかかりませぬ。日本橋小舟町は、ご存知のとおり、江戸の経済の中心地でございます。立地としては、破格と申し上げてよろしいでしょう」
栄一の中で、何かが動いた。
(——とんでもねぇ破格だんべぇ)
(江戸のど真ん中、日本橋まで歩いていける距離に、二間続きの長屋なんざ……)
(しがねぇ浪人や百姓にゃあ、天地がひっくり返ったって住める場所じゃねぇべ)
(一体全体、家賃は誰が払ってやがんだぁ)
(——いや、それより、なんでここまでの待遇を、俺らに……?)
善次郎は、続けた。
「家賃は、当方が負担いたします」
栄一が、息を呑んだ。
「——あんだって?」
「お二人の家賃は、天朝物産会所が負担いたします。生活費といたしまして、月々の手当も、お渡しいたします」
善次郎は、文机の上の小さな箱を、二人の前に置いた。
箱を開けると——中に、小判が入っていた。
大量に。
平九郎が、目を見開いた。
「——こ、これは……」
善次郎は、淡々と続けた。
「十五両でございます」
「じ、じ、十五両!?」
平九郎の声が、上ずった。
栄一も、——固まっていた。
(十五両……!!)
(十五両もありゃあ、長屋でつつましくとも一人立ちして、一年は食っていけるお足だんべぇ?)
(初めて会うた人に、これっ端の大金を……いきなり投げ出すなんてよぉ)
善次郎は、二人の表情を、見ていた。
そして、静かに、しかし、はっきりと言った。
「これはお二人への、返済不要のお手当てでございます」
「学びに、お使いください」
その瞬間——。
栄一の頭の中で、何かが決定的に結ばれた。
(——こいつぁ、お小遣いなんてもんじゃねぇ)
(投資だんべぇ)
(それも、——担保も何もねぇ投資だ)
(俺らぁ、——もう投資の的にされてやがんだ)
(あの御方は、——俺らに、十五両ぶち込む価値があるって、踏んだんだべぇ)
(だけんど、なんでだ……?)
(俺らぁ、まだ、何もやっちゃいねぇってのによぉ……)
善次郎は、栄一の混乱を、——正確に、見抜いていた。
善次郎は、ゆっくりと、続けた。
「ただし、——」
善次郎の声が、わずかに、変わった。
「これは、無償ではございませぬ」
空気が、一気に締まった。
善次郎は、続けた。
「期待に応えていただきます」
「お二人の能力を、最大限に発揮していただき、——姫様の計画の一部として、お働きいただきます」
栄一は、深く頷いた。
「——合点だ。引き受けんべぇ」
声が、震えていた。
しかし、——その震えは、恐怖ではなかった。
覚悟の震えだった。
二十
善次郎は、しばらく沈黙した。
そして、——もう一つの帳面を取り出した。
「では、——わたくしが今、取り組んでいる事業について、簡単にお話しさせていただきます」
「お二人には、まず、わたくしの仕事を手伝いながら、商務語学所で学んでいただきます。最初の半年から一年は、わたくしの下で、実務を覚えていただくことになります」
「はい」
「で、わたくしが今、最も力を入れている事業は、——浮世絵の海外輸出でございます」
栄一が、目を見開いた。
「——浮世絵、だんべぇか」
「はい」
(浮世絵を、お外に売り出す……?)
(絵を、異国に売っ払うってぇことかよ?)
(藍玉や生糸を売るってんなら分かるが、——浮世絵を、あんだってまた?)
栄一は、一瞬、——「絵を売る商売か」と思った。
藍玉の商売をしてきた栄一にとって、浮世絵の売買は、——理解できる範疇のことだった。
しかし——。
善次郎は、淡々と、続けた。
「お二人には、この浮世絵の輸出について、——お話しいたします」
「ただし、これからお話しする内容は、——お二人がこの仕事に就くことの覚悟を、決めていただくための内容でもございます」
「お話しした後で、——お決めいただいて結構でございます」
栄一の眼が、——わずかに、細くなった。
(覚悟を決めるための内容……だべぇか?)
(浮世絵を外に売るくれぇで、なんで覚悟なんざ要るんだ?)
(もしや、——こいつぁ、俺が思ってるような、ただの商売じゃねぇんじゃねぇか?)
善次郎は、文机の上に、一枚の浮世絵を、——置いた。
歌川広重の作だった。
夕暮れの東海道。山と海と、その間を行く旅人たちを、鮮やかな墨と色彩で描いている。
善次郎は、その絵を指して、言った。
「お二人には、——一つ、質問をさせていただきます」
「この浮世絵、いくらで、どこで、売るべきだと思われますか」
栄一が、——少し考えた。
江戸では浮世絵は、一枚、銀三匁から五匁ほどで売られている。
大名の家臣が買えば、もう少し高くなるが、——それでも、十匁前後が限度だろう。
「——江戸じゃあ、銀三匁から五匁くれぇってのが、相場だんべぇな」
善次郎は、にっこりと笑った。
「正解でございます」
「では、——次の質問。この絵は、現在、異国で、どのような扱いを受けていると思われますか」
栄一は、——首を傾げた。
「異国で……?」
「はい」
栄一には、答えが出なかった。
異国で浮世絵がどう扱われているかなど、——そもそも、考えたことがない。
善次郎は、——衝撃の事実を、淡々と告げた。
「異国に渡っている浮世絵のほとんどは——陶磁器を輸送する際の、梱包材として、使われております」
「異国に着いた頃には、ほとんどが、——荷物の緩衝材として、捨てられているのが、実態でございます」
栄一が、息を呑んだ。
「——梱包材!?」
「ええ」
「——歌川広重の絵が、梱包材として……?」
「現実は、そうでございます」
栄一の中で、——何かが、崩れた。
(広重の絵が、放り出されてやがる……)
(江戸じゃあ、立派な絵として売られてるもんが、異国じゃあ、ただの紙っ切れ扱いだべぇか……)
(——あんだって、そんなことに……?)
善次郎は、続けた。
「ですが、——わたくしどもが、姫様より承った見立てでは、数十年ほど後に、これが、——大きく変わると、見ております」
「数十年後……?」
「はい。数十年後、異国の画家たちが、浮世絵に衝撃を受ける時が必ず来る。その影響が、異国の絵画そのものを変えることになると……」
栄一は、絶句した。
(数十年も先の、絵の世直しを、見通してやがんだべぇか……?)
(一体全体、姫様は、——何を見てやがんだぁ?)
善次郎は、続けた。
「ですから、わたくしどもは、——今のうちから、計画的に浮世絵を輸出する準備を始めております」
「歌川広重殿、歌川国芳殿——当代最高の絵師の方々を、御所御用の絵師として抱え入れる準備を進めております」
「異国向けの浮世絵には、天朝物産会所の御朱印を押し、『御所御用達が保証した芸術品』として、異国に売り出します」
「価格設定は、二段構え。最初は低価格で大量流通させ、——日本の美意識を、ヨーロッパに浸透させる。知名度が上がった段階で、限定版・高品質版を高額で販売する」
栄一の頭の中で、——徐々に、絵が組み立てられていった。
(種を撒いて、——刈り取る)
(それも、数十年先の流行りを先読みして、種を撒くってぇのか)
(こいつぁ——商売の道理を、とっくに超えてやがる)
(普通の商人なら、数十年先のことなんざ考えねぇ。今年、来年の儲けを考えるもんさ)
(だけんど、姫様は——数十年先の市場を、もう見通してやがんだ)
善次郎は——まだ続けた。
二十一
「ですが、浮世絵の輸出は、商売そのものが目的ではございません」
栄一が、顔を上げた。
「商売そのものが、目的ではない……?」
「はい」
善次郎の眼が——わずかに強くなった。
「わたくしどもが浮世絵を売る本当の目的は、——日本という国を、異国に売ることでございます」
栄一は、息を呑んだ。
「日本を……売る?」
「はい」
善次郎は、淡々と説明した。
「浮世絵が異国に広まれば、——日本への関心が高まる。日本への関心が高まれば、日本の他の商品も、売れやすくなる」
「日本の文化が高く評価されれば、——日本という国の格が上がる。国の格が上がれば、——条約交渉で対等に話せるようになる」
「条約交渉……」
栄一の頭の中で、更に大きな絵が、組み立てられていった。
(——こいつぁ、商売なんてもんじゃねぇ)
(とんでもねぇ、おっかねぇほどにでっけぇ企てだんべぇ)
(浮世絵を入り口にしやがって、日本そのものを、お外に売り込んでいこうってんだ)
(金勘定も、国のしきたりも、付き合いも、——全部、ひと繋ぎにしちまう企てだぞ、こいつぁ)
善次郎は、続けた。
「そして——もう一つ、計画しております」
「日本を紹介する書物を、作る予定でございます」
「書物……?」
「日本がどういう国か、どういう文化を持つ国か、どういう歴史を持つ国かを、——英語、オランダ語、フランス語の三ヶ国語で書いた本を、作る計画でございます」
「これは、商務語学所の生徒が、英語で書ける程度になってから、本格的に着手することになりますが」
「内容の核心は——」
善次郎は、ここで、わずかに、声を低くした。
「日本という国が、世界最古の国であることを、世界に知らしめること最終目標としております」
栄一が、——固まった。
「——世界で一番古い、だんべぇか?」
「はい。神武天皇の御即位から続く、男系男子直系の万世一系の皇統。今、万延元年の時点で、——二千五百二十年ということらしいですね」
栄一は、——絶句した。
「——二千五百二十年!?」
「異国で最も古い王朝でも、——千年ほど。ハプスブルク家も、イギリスの王室も。日本の皇統は、その倍以上の歴史を持っているそうです」
「それが異国に正しく知らされれば、——日本は、未開の東洋の小国ではなく、世界最古の文明国として認識されるだろう…とのことです」
「…お恥ずかしいことですが、今のお話は姫様が話されていたことを、そのまま言わせていただいただけですがね」
後頭部を搔きながら少し恥ずかしそうに善次郎は話していた。
「——こいつぁ……お外とのやり取りの立場が、根っこから、ひっくり返るってぇことか?」
「不平等条約なんざの扱いまで、変えられるかもしれねぇってのかい?」
栄一の頭の中で、——巨大な絵が、組み上がった。
(——あんだって……なんてこった……)
(商売——浮世絵を外に売っ払って、富をこしらえる)
(風流——日本の美しさを、異国の連中に染み込ませる)
(歴史——二千五百年も続くこの国の成り立ちを、世界に知らしめる)
(お付き合い——その全部をひっくるめて、あの不公平な条約を叩き直す)
(何もかもが、ひと繋ぎになってやがる)
(一人の御方が、これ全部を、腹の中で計算して動いてやがんだ)
平九郎も、——目を見開いて、固まっていた。
(兄様……こいつぁ、俺らが考えてた話とは、まるっきり別物だんべぇ)
(これは、一つの国を、根っこから作り直すってぇ話だぞ)
善次郎は、続けた。
「お二人には、——浮世絵の輸出の実務に、お入りいただきます」
「絵師との交渉、輸出ルートの構築、異国商人との折衝、価格設定、御朱印の管理——」
「お二人の能力を、——最大限、お使いいただきます」
栄一は、——深く息を吸った。
二十二
善次郎は、最後に、もう一つだけ、付け加えた。
「——お二人にお話ししておきたいことが、あと一つございます」
「は、はい」
「姫様は、——人の使い道を間違えません」
その言葉に、——栄一の心が動いた。
「と、申しますと」
善次郎は、——にっこりと、笑った。
「お二人の能力については、私も、姫様から、事前に伺っております」
「栄一殿の、商売の判断力。平九郎殿の、剣の腕と算盤の感覚」
「全て、——把握しております」
栄一は、——息を呑んだ。
(——俺の力が、すっかり見透かされてやがった)
(剣の腕も、算盤弾きも、この先の見極めも……)
(御簾の向こうのあの御方は——俺らがここへ来る前から、俺らのことを、とっくにご存じだったんだんべぇ)
(だからこそ、俺らに、あんな破格の待遇を、すぐさま用意できたんだ)
(——見抜かれてやがったんだ)
(初めっから、全部見抜かれてやがったんだな)
善次郎は、——優しく、しかし、確実に、言った。
「お二人の力は、——必ず、姫様の計画の核心の部分で、お使いいただくことになります」
「ご活躍を、心より、お待ちしております」
二十三
その夜——。
長屋の二階の小さな部屋で、栄一と平九郎は、二人だけで向き合っていた。
行灯の小さな火が、二人の顔を、ぼんやりと照らしていた。
長屋は、想像していたよりも、ずっと立派だった。床には新しい畳が敷かれ、押入れには新品の布団が二組。壁には小さな掛け軸が一幅かけられていた。
栄一は、しばらく何も言わなかった。
平九郎も、何も言わなかった。
二人の頭の中では今日聞いた話が、まだぐるぐる回っていた。
やがて、栄一が口を開いた。
「——平九郎」
「うむ」
「——とんでもない御方だ」
平九郎は——頷いた。
「うん」
「逃げ場は、もうねえ」
「そうかもしんねえなあ」
平九郎は、——少し考えてから、言った。
「——でも、兄ぃ」
「うん」
「おもしれえって思ったんだ!」
栄一は笑った。
「うん。たしかに、おもしれえな!!」
長い沈黙の後、栄一は、ゆっくりと、自分の覚悟を固めた。
(——おれは学ぶんだ)
(あのお方の計画の、ありったけを学んでやる)
(そんで——応えるんだ)
(あのお方の期待に、必ずや応えてみせる)
(最後にゃ、おれは使われるんじゃねえ、使い切ってやるんだ)
(あのお方の信頼を、おれの全力で生かしきる)
(それが——おれがこれから行く道だんべえ)
栄一は、平九郎を見た。
「——平九郎」
「おう」
「これから数年、お互い精出そうじゃねえか」
「おう」
「——おれは、商務語学所と善次郎様の下で——商売のありったけを学んでくる」
「おめえは、商務語学所と、松下村塾の方々と——剣も学問も両方やってくるんだんべ」
「お互い、別の道で、磨き合うんだ」
「——そんで、いつか、あのお方の計画ん中で、また力を合わせる時が来るべえ」
平九郎は、深く頷いた。
「おう。おれも、その時待ってんべえ」
二人は、固く握手した。
行灯の火が、静かに揺れた。
二十四
翌朝、善次郎は、自分の執務室で、糸子宛の書状を、書いていた。
書状は、簡潔だった。
「姫様、
昨日、渋沢栄一殿、渋沢平九郎殿、お受けいたしました。
お二人とも、姫様のお見立てどおり、——希有の素材でございます。
栄一殿は、商売の判断力が、想像以上でございます。価格、運賃、関係性——全てを統合的に判断する力を、既に身につけております。
平九郎殿は、剣の腕、立派な体格、算盤の感覚——いずれも、若さに似合わず、極めて高い水準にございます。
お二人とも、わたくしどもの計画の核心を、——昨日のうちに、概ね、ご理解されたと、見ております。
今後は、栄一殿には、わたくしの下で実務を学ばせながら、商務語学所に通わせます。平九郎殿には、商務語学所と、松下村塾の方々との交流を通じて、剣と学問の両方を磨いていただきます。
姫様のご期待を、——必ず、お応えいたします。
善次郎拝」
善次郎は、書状を丁寧に折りたたんだ。
そして、——文机の前で、わずかに、笑った。
(——姫様は、本当に見抜く方だ)
(昨日、初めてお会いした栄一殿の能力、平九郎殿の素質——全て、姫様の見立てどおりだった)
(しかも、——姫様は、その上に、未来を見ておられる)
(栄一殿が、数十年後、何になるか)
(平九郎殿が、数十年後、どこで、どんな力を発揮するか)
(その全てを——既に考えておられる)
(——私は、その考えの、一つの実行者にすぎない)
(だけど、私は姫様のために、生涯を捧げる覚悟を、既に決めている)
(このお方の後ろにおったら、この国は変わる)
(坂本殿の言葉が、私の胸にも響いておる)
善次郎は書状を、丁寧に封じた。
冬の朝の光が、障子から静かに差し込んでいた。
その光の中で善次郎の口元には——確かな笑みが、浮かんでいた。
糸子の計画は——着実に、その輪郭を広げ始めていた。
その計画の中に——新たに二人の若者が、加わった。
明治の経済界の父・渋沢栄一。
武の天才・渋沢平九郎。
二人の運命は——糸子の手によって、既に書き直され始めていた。
第八十二話 了
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