第八十話「最後の一撃——姫君様の、本気」
一
御簾の奥で、糸子のすすり泣きが、続いていた。
「……ぐすん……ぐすん…ぐすん…」
冬の光は、奥御殿の障子を透して、畳の上に淡く差し込んでいた。沈香の煙は、香炉から細く立ち昇り、格天井の高みで、薄く流れていく。
違い棚の冬梅の蕾は、相変わらず、固いままであった。
部屋の十畳は、完全に凍結していた。
松陰は両手で顔を覆って、震えている。水無瀬は膝の上で、扇を握りしめたまま動けない。
葵は御簾のすぐ外で無表情のまま、しかし眼だけは笑っている。小夜はその隣で、ようやく事態を理解し、息を整えていた。
部屋の四隅では、近藤、土方、沖田、斉藤の四名が、それぞれの位置を保っていた。土方は、壁にもたれて天井を仰ぎ、近藤は真顔で正面を見つめ、沖田はにこにこと笑い、斉藤は無表情のまま、何もなかったように立っていた。
塾生二十一名は、誰も、動けない。
久坂玄瑞が平伏の姿勢のまま、震える声で何度目かの懇願を漏らした。
「姫君様、——玄瑞、決していじめ奉る意は——」
高杉晋作が、平伏したまま冷や汗を流しながら、
「姫君様、これは、ちとずるうござらぬか——」
御簾の奥で、糸子は、すすり泣きを続けていた。
しかし、御簾の奥の、糸子の内心は——。
まったく、違う方向に飛んでいた。
(——大の男が、二人がかりで寄って集って、幼気な少女のわたくしを、ネチネチといやらしい質問で追い詰めていじめ倒してからに……)
(ほんとに可哀そうな、わたくし……ぐすん)
(——でもさすがに、このままじゃ腹の虫が収まらん!)
(こいつらに、現実というものを見せつけてやろう!!)
(確かにこいつらは後世では幕末を飾った、偉人ではあるけれども…今はまだ単なる若者。口ばっかりで、未だ何も成しておらん)
(理想ばかりが高い、夢見がちの口先野郎でしかないのでこざいます)
(——ぺしゃんこにしてくれる!!)
糸子の内心の決意は、しかし、外には漏れなかった。
糸子は、深く息を吸った。
そして——。
ぴたりと、すすり泣きを止めた。
二
部屋に、奇妙な静寂が、訪れた。
先ほどまで、糸子のすすり泣きが、響き続けていた部屋。それが、ふと止まった。
松陰が、顔を上げた。
水無瀬が、扇を握り直した。
久坂と高杉が平伏の姿勢のまま、ほんの少し顔を上げた。
糸子の声が、御簾の奥から届いた。
「——ご愛敬でございます」
部屋の全員が、一瞬止まった。
「——え?」
高杉は思わず、声を漏らした。
「——は?」
久坂、平伏したまま固まった。
松陰は口を、半開きにしたまま、
「姫、姫君様……?」
糸子は御簾の奥で、淡々と続けた。
「ご愛嬌でございます。先ほど、わたくしは申し上げたであろう」
「——わたくしは、嘘はつかぬ。全てはご愛嬌じゃと」
「これは、わたくしらしいご愛嬌でございます」
部屋の空気が、完全にひっくり返った。
高杉はガクッ、と肩を落とした。そして思わず、小さく笑った。
「——いや、姫君様、それは明らかに嘘でしょう」
糸子は御簾の奥で、即答。
「嘘ではない。ご愛嬌でこざいまする」
久坂は笑えなかった。
久坂の顔は、青ざめていた。
「姫君様……それはあまりに——」
糸子、淡々と、続けた。
「そもそも、己らが悪い」
部屋の空気が、再び変わった。先ほどまでの糸子の幼い泣き声は、跡形もなく消えていた。代わりに、——鋼のように、冷たい声が御簾の奥から流れ出てきた。
「大の男が寄って集って、わたくしを、ネチネチと…執拗にいじめるのが悪うございます……」
高杉、慌てて、
「姫君様、我らは決していじめてなど——」
久坂、
「二人がかりで寄って集ってなどは、決して——」
糸子、続けた。
「実に見苦しい」
「いじめている感覚が、己らにないとはのう……」
「——余計に始末が悪うございます」
「己を正当化する気か?」
久坂と高杉、同時に、
「いや、我らは決してけっしてそのような——!」
二人の声が、重なった。
部屋の塾生たちが、一斉に身を硬くした。伊藤博文は、両手を膝の前で握りしめた。
山県有朋は、初めて視線を御簾の方へ向けた。
前原一誠は、唇を噛み直した。
松陰は両手で顔を覆ったまま、何も言えなかった。
三 ——本気モードへの切り替え
糸子は御簾の奥で声のトーンを、もう一段変えた。
それは先ほどまでの「冷たい声」から、——完全な、戦闘モードへ切り替わる声であった。
「——よく聞け」
「先ほどのわたくしの愛嬌は、一つの教えでございます」
部屋が、また凍った。
「——わたくしが、御門様に泣きついて、言い方ひとつで長州を終わらせることもできるのだぞ」
「お主ら——分かっておるのか?」
部屋の空気が、一瞬で極寒に変わった。
松陰の手が、顔からずるりと落ちた。
松陰の顔は、真っ白であった。
「姫、姫君様……それは……」
糸子、構わず、続けた。
「わたくしは、御門様に大層可愛がられておる」
「第二の、お父上とお呼びしてもよいくらいでございます」
「そのわたくしを斬れば——あるいは泣かせれば、御門様の感傷ひとつで、長州は間違いなく朝敵にもなりうるのだぞ」
(まぁ、現実問題としてそんなことにはならんだろうが……)
久坂は平伏の姿勢のまま、息を呑んだ。
高杉は眼を、見開いた。
「その後の長州の運命は、——どうなることやら……はてさて…」
(こやつらには…このくらい言うてもバチは当たらんだろう。ご愛敬じゃ、ご愛敬…)
糸子は御簾の奥で小さく、
「うけけっ」
葵だけが、その笑い声を聞き取れた。
葵の内心。
(——姫様、出ました)
(たまにその笑いをされる時の姫様は、本気でございます)
(しかも、これはご機嫌なときの笑いではありません)
(——お怒りの…にございます)
(高杉殿、久坂殿、——ご愁傷様にございます)
糸子は続けた。
「——お主らに、一つ教えてやろう」
「以前わたくしが、御所からの帰りに、——刺客に、狙われたことがあった」
部屋の空気が、ぴくり、と動いた。
「その時、——御門様が、その事実をお知りになって、大層激怒されたそうじゃ」
「そして大層ご自身をお責めになられたそうにございます。『朕が糸子を呼んだからじゃ、呼ばなければ襲われることもなかった』と…」
「御門様が、——自ら、そう仰せになられたそうにございます」
「その時に刺客を撃退してくれた近藤殿たちは御門様に名前を覚えられ、『かかる忠義の者ども、軽んずることなかれ。相応の沙汰あるべし』とのお言葉を残していただいたのじゃ」
久坂と高杉、松陰の弟子たちが全員近藤や土方、沖田などを見た。
近藤始め…旭狼衛のみなが頷いていた。
部屋の空気が、完全に凍結した。
久坂と高杉以外の、松陰の弟子たちの全身から、一斉に血の気が引いた。
伊藤博文は、両手で口を押さえた。山県有朋は、眼を伏せた。前原一誠は、震える唇を必死に噛んだ。入江九一は、隣の弟・野村靖を無意識に抱き寄せた。
年少組——山田顕義、飯田俊徳、正木退蔵——は、もはや涙すら流れなくなった。恐怖が涙を、上回っていた。
松陰は、両手で顔を覆い震えていた。
「ああ……姫君様……主上様が、そこまで……」
久坂は手の震えが止まらなかった。
「話は水無瀬様から聞きよったが……」
高杉はただ驚いていた。
「姫君様はそれほどまでに主上様とご縁が深うございましたか……」
糸子は淡々と続けた。
「心得おかれたか?」
「わたくしの命は、わたくし一人のものではない」
「また、決して安くはないのでございます」
久坂、震える声で、
「……姫君様は、主上様にお会いになられたことは……?」
糸子、即答。
「何度でもありまする」
「——たまにお呼ばれもされたりしまする」
部屋全体が、言葉を失った。
近藤、土方、沖田、斉藤——旭狼衛の四人が無言で、また頷いた。それは、糸子の発言が事実であることを保証する頷きであった。
葵は御簾の奥で、キラキラした目で糸子を見ていた。
(——やはり姫君様は、並みの姫君様ではございませんでした)
(さすがに——凄すぎます!!)
(葵は姫君様にお仕えできて、本当に幸せでございます!)
小夜だけは、普段、糸子のことを「頭おかしい」と思っていただけに——今の話を聞いて、愕然としていた。
(——うそでしょ?)
(姫君様は御門様と、そんなに近しい御方だったの?)
(わたしは、そんな御方をずっと「頭おかしい」と…思っていたの?)
小夜は震える手で、口を押さえた。
四 ——世界を語る
糸子は御簾の奥で声を整えた。
「葵、地図を……」
「はい、姫君様」
葵は立ち上がり、次の間から巻物を、一本持ってきた。御簾の前にそれを広げた。
大判の世界地図であった。
その地図は、当時の日本において、ほとんど誰も目にしたことがない、精緻なものであった。各国の輪郭は鮮やかに描かれ、海洋の青、大陸の薄茶、山脈の濃緑が、丁寧に、塗り分けられていた。各国の名は漢字と片仮名と欧文とで併記されていた。
糸子は御簾の奥から声を放った。
「——本来は、おぬしらに、見せる気はなかったのでございますがー」
久坂、高杉、松陰、塾生たちが一斉に地図を見た。
高杉、思わず、
「——この地図は……?」
糸子、淡々と、
「以前、異国から手に入れたものに、わたくしが手を加えて、作らせたものにございます」
「異国の物よりも地図の精度はかなり高いものと考えまする」
「——その地図を見てみよ」
糸子は御簾の奥で、扇を軽く振った。その指示を受けて葵が、地図の上を指さした。
「そこが、日本」
「そこが、清国」
「そこが、イギリス。メリケン。フランス。オランダ。ロシア」
「イギリスは、海の上に国を築いた。海の国でございます」
「清国は、大陸に国ではあるが、その海の国に今、食い荒らされておる」
糸子、声を、低くした。
「阿片戦争は、今も続いておる」
「印度は、イギリスの手に落ちた」
「安南は、フランスが狙うておる」
「朝鮮半島は、——次の獲物じゃ」
塾生たち、息を呑んだ。
糸子、続けた。
「日本も、——既に同じ船に乗せられかけた」
「ハリスとの条約を見よ」
「あれは、——『日本が、清国の二の舞になる』ための、第一段にすぎぬ」
「わたくしがハリスに、三条項を認めさせた」
「——相互合意による、将来見直し規定」
「——金銀交換比率の、適正化・協議条項」
「——対米公使駐在権」
「以上、三条項じゃ」
糸子、一呼吸、置いた。
「例の、朝廷の使者——あれがわたくしでございます」
部屋の塾生たちの、誰もが息を呑んだ。
高杉は思わず、
「——例の朝廷の使者か……!」
久坂、平伏のまま、
「噂は、——真にござったか……」
高杉の内心。
(——やはり、そうじゃったか)
(沖田殿が匂わせた、井伊大老討ち入りの夜の「見学」の、その背景がここにあった)
(ハリス殿との交渉も、このお方の御差配じゃった)
(……このお方は、もう…わしらの想像の遥か外におられる)
糸子は淡々と続けた。
「——されどわたくしが削ったのは、階段の一段にすぎぬ」
「残り段は、まだまだありまする」
「これからもわたくしは、一段ずつ削っていく」
「異国に、日本を呑ませぬために」
五 ——代理戦争論
糸子は声を、さらに、低くした。
「——さて、ここからが本題でございます」
部屋の空気が、また変わった。
糸子の声が、これまでにない、暗い色を帯びていた。それは警告でもあり、預言でもあり——幻視でもあった。
「仮に日本国内が諸藩連合と幕府に分かれて、戦うたとしよう」
「諸藩の後ろ盾にはイギリス」
「幕府の後ろ盾にはメリケン」
「勝った方が、日本の未来を決められる」
糸子は扇で、床をトンと叩いた。その動きを見て、葵が地図を指で叩いた。御簾の奥からなので、その動作は影だけが見えた。
「——そのとき、最も得をするのは、誰じゃ?」
部屋の、誰も答えられなかった。
松陰が、口を開きかけて止めた。高杉が眉を寄せた。久坂が考え込む顔をした。塾生たちは皆、糸子の問いの意図を掴みかねていた。
久坂が、ゆっくりと顔を上げた。
「……勝った側、にございましょう」
糸子、即答。
「——違う」
高杉が、眉を寄せた。
「では、どこじゃ」
糸子は扇を、床に叩き、葵の指が地図の上で止めた。
「——異国じゃ」
部屋の空気が、わずかに軋んだ。
久坂、平伏のまま、
「——異国にござりますか?」
糸子は淡々と話す。
「うむ」
「考えてみよ。日本人同士が、戦をすれば何が起こる?」
糸子は扇で、床をもう一度軽く叩いた。
「第一に、武器」
「諸藩は、イギリスから、武器を買う」
「幕府は、メリケンから、武器を買う」
「両者が、戦の長きにわたって、武器を買い続ければ——」
「日本の富は、毎日毎月毎年、異国に流れ続ける」
「戦が、長引けば長引くほど、——日本は痩せていく」
「異国は、肥えていく」
松陰、両手で顔を覆った。
糸子は続けた。
「第二に、恩」
「後ろ盾についた異国は、勝った側の新政府に——恩を売れる」
「『お主たちが、勝てたのは、我が国の支援があってこそである』」
「『その恩を、忘れるなよ』、と」
「新政府は、断れぬ。建国の恩義じゃ」
「すると——新政府の外交は、その異国に縛られる」
「条約も、貿易も、軍備も——全て、その異国の都合に、合わせざるを得なくなる」
「これは、新政府が、生まれた瞬間から、半ば属国のようなものじゃ」
高杉は顔を上げた。その目にはこれまでにない、暗い光が宿っていた。
(——このお方の言うこと、一つも外れてはおらん。しかし……)
(わしらが、「攘夷」と叫んでおる間に、——既にこういう罠が張られておるのか?)
糸子、続けた。
「第三に、人」
「戦で—数多くの才能ある者たちが、死ぬ」
「侍だけではない。学者、商人、職人、農民——」
「日本の未来を作るはずだった者たちが、戦場で命を落とす」
「その分、当然、日本の近代化は遅れる」
「その遅れた分、異国はさらに発展する。日本との差は広がる」
「——その差は、取り戻せぬ差となるであろう」
伊藤博文の手が、震えていた。袂を強く握りしめていたが、その震えは止まらなかった。
糸子は続けた。
「第四に、混乱」
「戦の後の日本は—混乱しておる」
「政の仕組みが変わる。法が変わる。藩が廃止されるかもしれぬ。武士の身分が消えるかもしれぬ」
「その混乱の隙を——異国は見逃さぬ」
「商人、宣教師、技師、教師——あらゆる名目で異国の人間が、日本に入り込む」
「彼らが、日本の隅々に根を張る」
「気づいた時には、——日本の中心に、異国の影響力が、深く食い込んでおる」
松陰、両手で顔を覆ったまま、震えた。
糸子は声を、低くした。
「——よく聞け」
「諸藩対幕府の戦は——日本人のための、戦ではない」
「異国同士が、日本人を使って戦わせる、あやつり合戦でございます」
「日本人同士が、殺し合う中で、——最も高笑いをして得をするのが、異国の連中になりましょう」
部屋全体が、完全に凍結した。
だが——。
高杉が、顔を上げた。
「……それでもじゃ」
全員が高杉を見る。
「そいでも、戦わにゃならん時はある。異国に食われるくらいなら、先に斬るんじゃ」
その声には、まだ熱があった。
久坂が、震える声で続いた。
「……攘夷は、ただの理屈じゃありゃあせん」
糸子は、しばし黙った。
そして、静かに言った。
「——分かっておる」
その一言で、空気が変わった。
「お主らが命を懸けておるものが、軽いものではないことくらい」
久坂の肩が、震えた。
糸子は続けた。
「じゃがな——、その志のまま動けば」
扇が、再び床を打つ。
「——異国の手の内で、踊ることになる」
高杉の眉が、わずかに歪んだ。
「証は、あるんか?」
高杉の鋭い問いだった。
糸子は即答しなかった。
「——清国じゃ」
空気が、止まった。
「阿片戦争を見よ」
「戦うた。戦うて敗れた。そして不平等な条約を結ばされた」
「——その後、清国はどうなったでありましょうや?」
誰も答えない。
「商も、関税も、港も——異国に握られました」
「戦うた結果、戦う前より縛られたのでございます」
高杉の目の奥で、何かが揺れた。
まだ、折れてはいないかった。認めたくはなかった。
「……それでも、日本は違うっちゃ」
高杉は食い下がってみせる。
良い抵抗だった。糸子は、素直にそう思った。だからわずかに笑った。
「——その通りでございます、日本は違いまする」
高杉が一瞬、目を見開く。
「違う。だからこそ——選び方を誤れば、清国よりもっと酷くもなりましょう」
山県が、低く呟いた。
「……内で削り、外で縛られる、ちゅうことでしょうか?」
糸子は何も言わなかった。
…沈黙の肯定だった。
今度の沈黙は、先ほどとは違う。
伊藤が、震える手で口を押さえながら必死に質問した。
「……ほいじゃあ、どうするんですか?。姫君様」
初めての“問い”だった。聞かずにはいられなかった。
糸子は、すぐには答えなかった。
「それは——」
一瞬、言葉を切る。
「——今、全てを言うつもりはございませぬ」
部屋が、わずかにざわめいた。
高杉が、低く笑う。
「……全部は見せん、ちゅうわけですか?。姫君様」
「そのとおりでございます。すべてを言わないことは…商いの基本でございますから」
糸子はさらりと返す。
高杉の口元が、わずかに上がった。
伊藤博文の手の震えが、止まらない。伊藤は生まれて初めて、——国家の構造というものを肌で、感じていた。
(——わしらが、攘夷、攘夷と叫んでおったのは、——異国の手のひらで、踊っていたということなのか?)
(このお方の話を聞かなんだら、——わしらは本当に、異国のあやつり人形になっていたかもしれぬ…いや、しかし)
山県有朋は、眼を伏せていた。しかしその内心では、——冷静な思考が走っていた。
(——このお方の仰る通りじゃ)
(萩におった時、わしらは、攘夷、攘夷と口にしておった)
(じゃが攘夷を実行するために、藩がどう動くべきか——そこまでは考えちょらんかった)
(このお方は、その先の先まで、見ておられる)
(このお方の頭の中には、——わしらの戦いの、終わった後の世界まで、見えておるんじゃ)
前原一誠は、唇を噛みしめた。入江九一は、弟の野村靖を抱き寄せたまま動けない。年少組はただ、呆然と、糸子の声を聞いていた。
糸子の言葉は、塾生たちのこれまで信じてきた「攘夷の正義」を、根底から揺るがしていた。攘夷という思想は間違いとは言い切れない。しかし、その攘夷の進め方を誤れば、攘夷の名のもとに、日本そのものを、異国に献上する結果になる。
その逆説を糸子は、わずか数分の言葉で、塾生たちに叩き込んでいた。
六 ——勝者の自己正当化
糸子は声を強めた。
「——あとは」
「勝った側の、新政府の中枢に座った連中じゃ」
「『日本のため』」
「『近代化のため』」
「『異国に、追いつくため』」
「——と嘯いて、自らの行いを正当化する連中…」
「『あの戦は、必要だった』」
「『犠牲は、止められなんだ』」
「——そう、言い続ける連中だけが、得をするのでございます」
「そして自分たちの都合の良い様に、歴史を書き換える…」
高杉は初めて、顔を上げた。
その目は、血走っていた。
高杉の内心は…
(——このお方は、何を見ておられるんじゃ?)
(戦の前、戦の最中、戦の後——その全てをまるで、既に見てきたかのように語られる)
(……ぶち怖い)
(こんなお人がおったのか…)
(こんなに、怖いと感じたお方は初めてじゃ)
糸子は続けた。
「——わたくしは、それを止める」
「日本人同士が殺し合い、異国に良いようにされ、勝者が自己正当化する歴史を——」
「——止めたいのです」
「これが、わたくしの計画の…本当の意味でございまする」
七 ——海洋国家論
糸子は声を整えた。
「そして—日本は海の国となる」
「海洋国家でございます。イギリスと同じ……」
「地理的にも大陸国家にはなりえませぬ」
「海の上に、商いの網を広げる、それが理想…」
「——大陸に手を出せば、泥沼の地獄しか待っておらぬでしょう」
「大陸は——あくまで、商いの相手であり、支配の対象ではございませぬ」
糸子は扇で、床を叩いた。葵は地図にある清国の部分を、軽く叩いた。
「大陸に、手を出した瞬間、日本は、国として崩壊することになりましょう」
「日本の国力ではどう足掻いても大陸は支配できませぬ」
「そもそも海洋国家と、大陸国家は共存しえませぬ」
「両方に手を出せばどっちつかずになり、異国に、削られる側に回ることになるであろう」
「——それは、絶対にさせてはならなぬのじゃ」
八 ——皇統二千五百年ブランド戦略
糸子は続けた。
「異国の王朝の歴史は——長くとも千年程度でございます」
「されど、日本の皇統は——二千五百年以上…」
「それが正しく異国に伝われば、日本は、『未開の小国』ではなく——『世界最古たりえる文明国』として認識されましょう」
「外交上の評価が、大きく変わることになりまする」
糸子は扇を、軽く振った。
「浮世絵、生糸、茶、陶磁器を——御所御用達の朱印と共に、異国に送り出しまする」
「日本を紹介する書物も、併せて輸出いたしまする」
「——その企ては既に動いておる」
水無瀬は御簾の外で、扇を握りしめたまま動かなかった。
水無瀬の内心。
(——姫君様はここまで、深くお考えだったとは……)
(朝廷の権威を、外交の道具としてお使いになる)
(普通の公家には、思いつけぬ発想です)
(このお方は、やはり並みの御方ではありませぬ)
九 ——「そなたたちは何をしたのか」
糸子は声を強めた。
それは本日、最も鋭い声であった。
「——さて」
「貴殿たちの志の高さ、死をも辞さぬ覚悟は——立派であり認めましょう」
「そこで、わたくしから問う」
「そのような貴殿たちは、今何をしておる?」
「具体的にその実績を、みなにわかるように言うてみよ!」
部屋が完全に静まった。
松陰、口を開きかけて止めた。
高杉は答えられなかった。
久坂も答えられなかった。
他の塾生たちも、誰一人答えられなかった。
糸子は淡々と、
「——ちなみにわたくしは、以下のことを成し遂げた」
「今、取り組んでおる最中のもの、これから、動き出す計画などもあるぞ」
糸子は扇を、軽く開いた。
「ハリス殿との条約交渉にて、——三条項を認めさせた」
「中浜万次郎殿を、——メリケン国駐在総領事として派遣させた」
「天朝御用商務惣会所を設立し、御門様の綸旨を賜った」
「商務語学所も開いた」
「その学舎で使用する教科書、五巻を編纂した」
「浮世絵の海外輸出も、既に企ては動いておる」
「全国の志士の地図も作らせておる」
糸子は扇を、ぴしゃり、と閉じた。
「——もう一度、問うぞ」
「おぬしたちは、今、具体的に何をしておる?」
「何を、成し遂げた?」
部屋の空気が、絶望的に張り詰めた。
糸子は声を強めた。
「——志や覚悟の話では、ないぞ」
「おぬしたちは、わたくしに大層な口を聞き、随分と…無礼な態度をとっていたからのう」
「さぞや——わたくしがしたことより、もっと凄いことを成し遂げているのであろうな!」
「さぁ、自慢する気で、わたくしに語って聞かせよ」
「何ら遠慮は、いらぬぞ!」
「——さぁさぁさぁさぁ!!」
松陰とその弟子たち——みな、絶句。
葵は御簾の外で、——うんうんと頷いていた。
(姫君様は、普段から頑張られておりますからね)
(こうしてお一人で、すべての計画を回しておられる)
(口先だけの方々とは、全く違うのです)
葵・小夜・近藤・土方・沖田・斉藤——糸子の周辺の者たちが、全員無言で頷いた。
その頷きが、糸子の発言の全てを保証していた。
十 ——「ちなみに」
糸子は一拍。
そして、声を整えた。
「——ちなみに」
「わたくしはこれを、十二歳という年でやっておるぞ?」
部屋の時間が止まった。
「おぬしたちは今、——何歳でございましょうや?」
糸子は扇を、ゆっくりと開いた。
その動作だけが、止まった時の中で唯一、動いているものであった。
久坂玄瑞——気絶。
久坂は平伏の姿勢のまま、すうっと前のめりに倒れた。
山県有朋が、反射的に久坂の身体を支えた。山県の顔も、青ざめていた。
高杉晋作は——全身から力が抜けた。
高杉は両手を、畳について上半身を辛うじて支えていた。しかし、その肩は震えていた。
松陰は、——爆笑しながら号泣していた。
「ああ、ああ、ああ——!」
「姫君様、十二歳! 十二歳でござる! わしが、最初に、萩で、申し上げた時——誰も信じなんだ!」
「玄瑞、晋作! 今こそ皆、理解したであろう!?」
松陰は両手を天に差し出した。
「——天じゃ! 天がお降りになられたのじゃ!」
しかし、誰も松陰の言葉を、聞いていなかった。
部屋の誰もが、——ただ、十二歳という事実に打ちのめされていた。
伊藤博文は手で、口を押さえていた。十九歳の伊藤が、十二歳の御方の足元にも及ばない。その事実が、伊藤を打ちのめしていた。
伊藤の内心。
(——わ、わしは、何をしておった……?)
(萩で塾に通い、本を読み議論をして……)
(それで何を成し遂げた? ——何もしちゃあ、おらん)
(一方、御簾の向こうのお方は、十二歳で、ハリスを抑え、商務惣会所を立て、語学所を開き、地図を作っておられた)
(……わしは、七年も無駄に生きてきたのか)
山県有朋は、眼を閉じていた。二十二歳の山県が——同じく足元にも、及ばない。
山県の内心。
(——いや、これは、年齢の問題ではない)
(このお方は、五十の年寄りでも、八十の翁でも追いつけぬ御方じゃ)
(年齢はただの数字。要は何を見ておられるかじゃ)
(このお方は、わしらが見えぬものを、見ておられる)
(わしの役目は——このお方の見ておるものを、形にすることじゃ)
(それが、わしのこれからの生きる道じゃ)
前原一誠(二十五歳)は、唇を噛みしめていた。前原は、塾生の中でも年長の方である。その自分が、十二歳の姫君様に、完全に及ばない。その事実が、前原のプライドを砕いていた。
しかし——砕かれたプライドの、跡地に新しいものが、立ち上がりつつあった。
(——わしは、年齢に寄りかかっていた)
(年齢を、誇りにしておった)
(それが、いかに愚かなことか、——今、分かった)
(年齢ではなく、実績じゃ)
(実績を積み上げる。それがわしの、これからの道じゃ)
入江九一(二十三歳)は、弟・野村靖(十九歳)の肩を抱き寄せたまま動けないでいた。
吉田稔麿(十九歳)は、呆然としたまま、御簾の方を見つめていた。稔麿の眼に初めて——畏怖の色が宿った。
年少組——山田顕義(十六歳)、飯田俊徳(十三歳)、正木退蔵(十四歳)——は、自分たちより年下の御方が、これほどのことを、成し遂げていると知って、ただ、頭を下げるしかなかった。
最年少の飯田俊徳、十三歳…姫君様より、一つだけ、年上——震えていた。
(——わ、わしは姫君様より、一つ年上じゃ)
(じゃが、わしは何もしちゃあ、おらん)
(姫君様は十二歳で、こんなにすごい)
(わしは、一体何をしておったんじゃ)
飯田、両手を畳について、深く頭を下げた。年少組の他の二人も、それに続いた。
部屋の、塾生二十一名のうち——気絶した久坂、力の抜けた高杉を除く、全員が一斉に深く平伏した。
その平伏は、これまでのどの平伏とも違っていた。
完全な忠誠の平伏であった。
十一 ——高杉の意地
高杉は、しばし呆然としていた。
しかし——。
肩が震え始めた。
そして——笑い出した。
「——はっ」
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」
高杉の笑い声が、格天井に響いた。
しかし、それは先ほどまでの勝ち誇った笑いではなかった。
その目は、先ほどまでとは違っていた。
「——理は分かったっちゃ」
その一言に、空気が動く。
「ぶち気に食わんがな」
誰も、口を挟まない。
「異国に踊らされるんも、内で削り合うんも——どっちも面白うない」
高杉は、畳に手をついたまま、続けた。
「……じゃが」
「十二のお姫様に、日本をひっくり返すような計りごとを立てられ——まだ、その先があると言われるんじゃ」
「もう、動いちょられて、その上で、——『お前は、何をしたんか』と問われたんじゃ」
「——答えようが、のうございます」
「わしらは姫様に、語って聞かせられるようなことなんざ、…悔しいが何一つしちゃあおりませぬ」
「申し訳ない、っちゃ」
高杉、——床に頭をこすりつけて、深々と平伏した。
そうするしかなかった。
「姫君様の言うことは、決して外れちょらん」
完全な肯定ではない。だが、否定でもなかった。
糸子は、何も言わない。
高杉は、ふっと息を吐いた。
「——謝罪はしたが、姫君様には参った、とは言わんっちゃ!」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「じゃが、このままじゃ、日本は異国に…わしらは負けることになるんじゃ」
高杉は静かに、言い切った。
そして——。
ゆっくりと、顔を上げて御簾をしっかりと見た。
「……ほんなら、勝ち筋に乗るまでよ」
それは降伏ではなかった。
高杉なりの選択だった。
「姫君様、晋作は以降、姫君様の駒としてお使いください」
「姫様、こん服なことを言える立場にないことは、重々分かっちょるが、一つだけお願いがなうございます」
糸子の内心。
(——こやつ、わたくしに注文をつける気か)
(このタイミングで注文を…)
(……随分と図太いなぁ)
高杉は続けた。
「おもしろい仕事を、わしに回してつかあさい」
「退屈な仕事は、玄瑞に回してつかあさい」
「——わしら全員、お姫様の手足になって、これから、動こうじゃありませんか!!」
「ただし——退屈なことをさせるなら、逃げますがな」
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
久坂、気絶から、覚めかけた。
「……晋作……」
うわ言のように、呻いた。
糸子は答えた。
「随分とぬるいことを抜かす、逃がすわけがなかろう」
高杉の口元が、わずかに歪んだ。
「……やれやれ、じゃっちゃ」
高杉はそのまま深く頭を下げた。
糸子、御簾の奥で応じた。
「——相分かった」
「面白い仕事は、高杉、お主の言う通りに回してやろう」
「泣いて懇願しながら、早く次の仕事をさせてくれと言わせるから安心いたせ」
高杉は、ぱっ…と顔を上げた。
「ありがたき——」
しかし、糸子の言葉は、まだ続いた。
「ただし——」
糸子は声を、低くした。
「——わたくしに、あれだけのネチネチとした、いじめをしたのだからな」
「休みなく死んでしまうくらいに、使い倒してやるから覚悟しなされ」
高杉はそう聞いて、——思いっきり引き攣った。
「——え!?」
高杉は笑顔のまま、固まった。
糸子は御簾の奥で、
「おほほほほーーーー」
葵の眼が、御簾越しに、ますます笑った。
(——姫様は容赦、ありません)
(高杉殿、——ご愁傷様にございます)
十二 ——久坂の陥落
久坂は気絶から、完全に覚めた。
手が、震えている。
「……正しい」
ぽつりと、落ちた。
「姫君様の仰ることは、正しい……」
その声は、苦しげだった。
「じゃが……」
言葉が続かない。拳を強く握る。
「それでは——」
顔を上げた。
その目は、揺れていた。
「それでは、我らが信じてきたものは……何になる?」
誰も答えない。
その問いは、誰に向けたものでもなかった。
糸子は、静かに言った。
「——無駄ではない」
久坂の目が、揺れる。
「その志があったからこそ、ここまでそなたらは来たのだ」
「じゃが——、その志のままでは、これから先には進めぬであろう」
久坂は、歯を食いしばった。
涙が、畳に落ちた。
「……至誠は」
震える声。
「至誠は、天に通ずると……教わりました」
松陰が、わずかに動いた。
糸子は、静かに返した。
「ならば……天が、道を示した時はいかがいたす?」
久坂の呼吸が、止まった。
長い沈黙。
やがて——。
山県有朋に支えられながら、久坂は身を起こした。そして、改めて御簾の前に進み深々と平伏した。
久坂の、平伏の姿勢は、深く長かった。
「……承知、仕りました」
久坂の声は、震えていた。
「玄瑞、これから先は——お姫様の駒として、お使いつかあさいませ」
一度、言葉を切る。そして、絞り出す。
「身命を賭して——お姫様の計りごとに、お仕え申し上げまする」
久坂の頬を、涙が流れていた。
久坂の内心。
(——至誠は天に通ずると、確かに先生は教えられた)
(……じゃが天そのものが、御簾の向こうにおられたんじゃ)
(わしの至誠は、このお方のために使う)
(それで間違いない)
(命を賭ける。摩耗するまで賭ける。摩耗しても、なお、賭け続ける)
(——それだけが、今日からのわしの…生きる道にござる)
松陰が、両手で顔を覆った。
「……ああ」
小さく、笑った。
「ようやくじゃ……」
涙が、指の隙間から落ちた。
しかし——それ以上は、何も言わなかった。
十三 ——糸子の内心
御簾の奥で糸子は、深く息を吐いた。
糸子の内心。
(……なんだかなー)
(新しい信者が二人。しかも、全く違う種類の重ーい信者ができてしまったではないか…)
(高杉は、軽くて重い…)
(久坂は、重くて更に重い…)
(ハリスを論破した時の清々しさは——どこにもない)
(あるのは—胃の腑の重さだけだわ…)
(どーすんだろ?これ…)
(…未来のわたくしにもう任せてしまおう。未来のわたくし、負けるな!頑張れっ!!)
(はぁー、疲れた)
(甘味を、食いたい)
(京に、帰りたい)
遠い目をしながら…問題を思いっきり先送りにした糸子であった。
十四 ——松陰の歓喜
松陰は、両手で顔を覆って号泣していた。
しかしその号泣は、これまでのどの号泣とも違っていた。
「見ろー、晋作、玄瑞——!」
「これが姫君様じゃ!」
「わが双璧も——ついにわが世界に来てくれた!」
松陰、爆笑しながら涙する。
しかし、松陰の内心の奥の方に——一つだけ、ほんの一行の声が響いた。
(——晋作と、玄瑞は、もう一段深いところで、姫君様と結びついた)
(……わしとは違う、結びつき方で……)
松陰は、その声をすぐに爆笑で覆い隠した。
しかし、その声は確かに松陰の中に残った。
十五 ——糸子の最後の一撃
部屋の空気が、ゆっくりと解けていった。
松陰の号泣、高杉の引き攣り笑い、久坂の涙——全てが、一つの解放の空気を作り始めていた。
久坂と高杉、塾生たち、皆が陥落した。
全てが終わった——かに見えた。
その瞬間であった。
御簾の奥から、糸子の声が、届いた。
「——あと、最後でございます」
部屋の誰もがはっと、顔を上げた。
(——え?)
(まだ、何かあるのか?)
糸子は淡々と続けた。
「御門様には、書状にて——」
「久坂という者と、高杉という者……大の男二人に、ネチネチといじめられた、と伝えまする」
部屋の空気が、完全に止まった。
高杉は眼を見開いた。
「——ちょっ……」
久坂は平伏の姿勢のまま、
「そっ……それは……!!?」
糸子、淡々と、続けた。
「——安心してくださいまし」
「長州者だとは、書きませぬ…多分」
松陰はじめ他の弟子たち、——顔面蒼白。
松陰、
「姫君様、それは——!」
糸子、御簾の奥で、
「——言うたであろう」
「『御門様に、言いつけてやる……』とな」
「絶対にやる!」
「わたくしはやると決めたら、やる、おなごなのでございます」
「ほんとでございます」
糸子は御簾の奥で高らかに笑った。
「おほほほほほーーーー」
高杉と久坂—完全に気絶。
二人とも、床に倒れこんだ。
山県有朋が慌てて、二人を支えようとしたが、二人とも完全に意識を失っていた。
「姫様——容赦ありませんねー」
沖田が、にっこにこで言った。すごく楽しそうであった。
土方が冷や汗を流しながら、
「……お前は黙ってろ」
しかし、土方の内心は完全に震えていた。
(——姫様は今回、よほど腹に据えかねていたらしい)
(やはり、このお方は——敵に回しては決してならぬお人だ)
(あの長州の二人、本気で御門様への書状に書かれるかもしれぬ)
(書かれたら—長州終わりじゃ、いやあの二人が終わりか…)
(このお方を、敵に回せば……恐ろしい限りだ)
土方、壁にもたれて、深く息を吐いた。
近藤は無言で、土方をちらりと見た。
近藤は小声で、
「……姫様、本気で書かれそうだな」
土方は無言で頷いた。
沖田はにこにこ…
「あはは、姫様、ご機嫌斜めですねぇ」
土方、
「………」
斉藤は無表情のまま、正面を見ていた。
十六
部屋の中央で松陰が、両手を合わせて震えていた。
「姫君様、何卒——!」
「姫君様、何卒——!」
「我が弟子の、晋作と玄瑞は——若さゆえの過ちにござります!」
「何卒、御門様への書状は——お控えくださいませ!」
糸子は御簾の奥で思う。
(はい、出ましたー『若さゆえの過ち…』)
(その台詞が許されるのは、赤い人だけにございますー)
(まさか中二病からその台詞が出るとは思わなかったー)
(はっ!!、ひょっとして…ショウイン・アズナブル?、中二病・アズナブル??って、そのどちらかに名を……萩へ帰っている間にひっそり改名したのかしら?)
(赤いなんちゃらのショウー、赤いなんちゃらのチュウー…)
(そんなわけないかー)
「——ふむ」
「吉田殿が、そこまで仰せになるのであれば『少し』考えてもよい」
松陰、即座に、
「ありがたき幸せに、ござりまする!」
「姫君様何卒——!」
糸子、
「ただし——」
「条件がありまする」
松陰は平伏したまま、
「何なりと—お申し付けくださいませ!」
糸子、御簾の奥で、
「晋作と玄瑞——この二人をこれから、わたくしの手足として寝食を忘れて働かせること」
「吉田殿が責任を持って、二人を管理致して下さいませ」
「もし、二人がわたくしの命に一度でも背けば、その時は……」
松陰、震えながら、
「——承知、仕りました!」
「晋作と玄瑞は、姫君様の御命のままに、寝食を忘れて働きまする!」
「松陰、命に賭けて、二人を管理いたしまする!」
「おおきに」
糸子は笑顔で扇を、ぴしゃりと閉じた。
その音で部屋の緊張が、ようやく解けた。
葵が御簾の奥で、口元を押さえていた。
(——姫様、見事にございます)
(最後の最後で、中ニ病殿に「責任を持って二人を働かせよ」と約束させられた)
(これで晋作殿と玄瑞殿は、寝食を忘れて、姫様のために働くことになりました)
(しかも、中二病殿が責任を持って、二人を追い回すことになりました)
(——二度の労なく、三人を確保された)
(さすがは姫様にございます)
十七
夕刻。
奥御殿の御座所。
塾生たちは、辞した後であった。
高杉と久坂は、気絶から覚めて、最後に深々と平伏してから退出した。退出の際、二人とも目に、覚悟の色を浮かべていた。
松陰は感涙にむせびながら、塾生たちを引き連れて奥御殿を辞した。
部屋には、糸子、葵、小夜、そして旭狼衛の四名が残っていた。
水無瀬は糸子に、深々と一礼してから、
「姫君様、本日の御差配、まことに見事にござりました」
「水無瀬、京の近衛忠房様には、本日のことをつぶさに伝え申し上げまする」
糸子はふむっ…と考え込んで、答えた。
「書状はわたくしの方で書きまする…」
「それとおそらく…ではありますが、水無瀬様にはお父上から書状が届くと思いまする。その時に改めてその様にして下さいまし」
水無瀬は考えたが、直ぐさま…
「仰せの通りに——」と返答した。
(姫君様にはなにか?お考えがあるのだろう。なにせ先を見ているお方だ…)
水無瀬は微かに笑って退出した。
部屋には糸子と、侍女二名、旭狼衛のみが残った。
葵が糸子の前に、芋羊羹と新しい茶を置いた。
糸子は御簾の奥で、羊羹を一つ頬張った。
そして、深く息を吐いた。
糸子の内心。
(——あの日、わたくしは……実にめんどくさいものを、二つ拾ってしまいました)
(高杉と、久坂…)
(……どっちも、めんどくさいの塊だ)
(なれど、めんどくさいものほど、よく働く…)
(いや、わたくしが働かせるのでございます)
糸子、二つ目の羊羹を頬張った。
そして、ふと考えて…思った。
(あの二人にいじめられたことは、父上と御門様に、しっかり報告しておきましょう!)
(『少し』考えました。…で結論は報告です。書かないとは言っていないので、嘘はついておりません)
糸子は早速……
「葵」
「はい、姫君様」
「文机を用意してくださいませ」
「これから京に、書状を書きまする」
葵は慌てて
「えっ?、は…はい、姫君様」
「近衛様への書状にございますか?」
「父上と、御門様、お二方に両方に書きまする」
葵は御簾の奥で、糸子の動きを見ながら、
「——内容は、どの様なものになりますか?」
糸子は御簾の奥で、
「『今日、久坂と高杉という若造たちに会いましたが、二人にネチネチといじめられました』」
「『わたくしなりに質問も一生懸命お答えしていたのに、それでも執拗に二人がかりでわたくしをいじめてきました』」
「『姫は、悲しゅうございました』」
「——と書きましょう」
葵は口元を押さえた。
(——姫君様は本気で書かれます)
(高杉殿、久坂殿、——本当にご愁傷様にございます)
(しかも、姫様の文章は見事に、男二人を悪者にする筆致にございます)
(御門様がお読みになれば、本気でお怒りになられるかもしれませぬ)
糸子は内心で…
(これは必要なことなのでございます。わたくしも書きたくて書く訳ではありませぬ)
(…それに『少し』考えましたし、うんっ)
(なれど、御門様への書状をお出しする時期は、もう少し考えて…様子を見てからに致しましょう)
自分自身を思いっきり正当化していた。
部屋の柱の影から、そっと糸子を見つめる小夜の姿があった。
小夜は震えながら、
(……わ、私は口に出して、「頭おかしい」とは、言ってないから大丈夫よね……)
(ただ心の中で、思っていただけだから、姫様には絶対にばれていないわよね……)
(ああ、でも姫様は御簾越しでも、沖田殿の心境が分かるくらいのお方だし……)
(もしや、わたしの心の中もばれている?……)
(ファ!??)
(もしそうなら…ど、どうしよう……)
小夜は震えながら、糸子の様子を見つめていた。
葵がちらりと小夜を見た。
葵は小夜に、小さく目配せをした(大丈夫よ、姫君様はお忙しい方だから…)という意味の目配せを。
……小夜はほんの少しだけ安堵した。
冬の夕刻の光が、奥御殿の障子を淡く、橙色に染めていた。沈香の煙は相変わらず静かに、立ち昇っていた。冬梅の蕾は、よく見ればほんの少しだけほころび始めていた。
御簾の奥で糸子は——にやりと笑った。
その笑みは葵と、土方歳三は知っていた。
戦場は、完全に糸子の庭となった。
そして、糸子は——書状一枚で、長州の二人の若者を永遠の駒に変えた。
しかし、糸子の考えた先では、それは始まりに過ぎなかった。
——世の中には決して触れてはならぬものがある。それもまた…世の理であるのかもしれない。
第八十話 了
ハリスとは違う変化球な論戦になりました(^_^;)
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
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