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【100万PV突破‼︎】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第七十九話「機、一歩も引かず——晋作、姫君様を揺さぶる」

今回のお話も…かなり長くなっていしまいました(・∀・; )。頑張ってお読みいただければ…幸いです。


ご迷惑をおかけ致します m(_ _)m

 時は、止まったままであった。

 部屋のどこからも、音が、消えていた。

 冬の光が障子を透して畳の上に差し込み、沈香の煙が格天井の高みで薄く流れていく。違い棚の冬梅の蕾は、先ほどから一つも形を変えていない。

 御簾の奥で、糸子は、微動だにしなかった。

 周囲の眼には、それが「初めて言葉を失った姫君様」に見えていた。


 しかし、御簾の奥の真実は、まったく違っていた。

(……早く、これ終わらせてくれないかなぁ)

(京に帰りたい。なんか疲れた…甘味、食べたい。父上の顔、見たい)

(……高杉氏、さっきから、ずっと答え待ちの顔しとるけど?)

(うーん、もう、正直に言っちゃおうかな)

 糸子は、しばし、目を閉じた。そして、ゆっくりと、口を開いた。


二 ——第一段:幸せへの問い

「……高杉殿」

 声は、先ほどまでの戦略を語る時の張りを失っていた。どこか疲れの混じった、しかし、妙に素直な声であった。

「姫様!、なんちゃろか?」

 高杉、姿勢を崩さず、答えを待った。

「お主は、先ほど、わたくしが、幸せかと問うたな?」

「ほうじゃ」

 糸子、一呼吸置いてから、答えた。

「——京に帰れば、一番幸せじゃ」

 部屋の、誰もが、呆気にとられた。

 高杉、思わず、声を漏らした。

「——えっ?」


 水無瀬の扇が、膝の上で、ぴたりと止まった。松陰は、顔を上げて、口を半開きにしたまま、姫君様の答えを、理解しようとしていた。

 塾生たちは、顔を見合わせた。「京に帰れば一番幸せ」——その、あまりにも飾り気のない答えに、どう反応してよいか、分からなかった。


 葵だけが、口元を押さえていた。

(……やっとお答えになられた。よかった、いつもの姫君様だ)

(京に帰りたい。姫君様はやはりお寂しかったのですね…)


 糸子の内心。

(だって、ほんとのことだもん。京に帰れば、父上もいる、お梅もおる、御門様もいらっしゃる。——幸せに決まってる!)

 そしてしょんぼりする糸子。

(…江戸は、正直、めんどくさいことばかり。特に、今、この瞬間が一番めんどくさいんですよ。ほんとに)

 高杉、気を取り直した。そして、軽く、咳払いをした。

「……姫君様」

「うむ?」

「——その、『京に帰れば幸せ』というお答え、ぶち、想定外であります」

「想定外とは、何じゃ」

「わしは、姫君様が、『幸せ、という問いに、答えを持たぬ』と、仰られると思うちょったんです」

 糸子、少し、首を傾げた(ように、葵には見えた)。

「……なぜ、そう思うた?」

「なぜ、っちゅうて——」

 高杉、ここで、苦笑した。

「御簾の奥で、沈黙がぶち長うござったけぇ」

「わしら、全員、姫君様が、お答えを、お持ちでないと、思い込みおった」

 糸子の内心。

(……あ、そうか。さっき黙っていたから、そう見えたんだ)

(いや、違うんだ。途中で、本当にあほらしくなったのと、心を無にしておったのと、あと、父上のこと思い出しとったのと、いろいろ考えておっただけで……)

(…っていうか、その言い草は何?…わたくしは幸せになってはいけないのか?)

(なんか段々腹が立ってきた…)

 糸子、答えた。

「——沈黙は、答えを持たぬ時にする、とは、限らぬ」

「答えが、多すぎる時も、する」

「今日のわたくしは、後者じゃ」

 高杉、眼を、細めた。

(――このお方、そう返してきんさったか)

(黙っとるのを、逆手に取ってきた。見事なもんだね)

 高杉、姿勢を改めて、もう一度、口を開いた。

「では、問いを、変えまする」

「姫君様は、今、笑うちょられまするか?」

 糸子、即答した。

「——『今は』楽しくないから、笑えぬ」

 部屋が、また、凍った。

 高杉、一瞬、詰まった。

(——ぶち、直球で来おった)

(このお方、今、わし相手に、めんどくさがっちょられる)

(…信じられん)

 しかし、高杉、引かなかった。

「では、姫君様は、いつ笑われるんかね」

 糸子、しばしの沈黙。

 糸子の内心。

(……ていうか、なんじゃ、この質問は?)

(なんでいちいち、こんな皆の前で、わたくしのいつ笑うかを発表しなきゃならんのよ)

(もう真面目に答えるのやめようかなー)

「……江戸に来てから、笑うたことは、いろいろある」

 高杉、ニヤリと笑った。

「姫君様、その『いろいろ』を、是非、お聞かせしてつかあさい」

 糸子は軽く、嘆息した。そして思った。

(やっぱりそう言うと…、いろいろを聞かせろって…はぁー)


「わたくしは超糸子じゃ!」

「いちいち説明するのもめんどうでございます!!」 

「貴殿で勝手に想像してくださいまし…」


「はっ???」

 糸子の意外な答えに高杉始め、その場にいた全員が時を止めた。

 小夜だけは思った

(やっぱり姫君様は頭おかしいです。なぜそのような答えに?)


「…とそのような反応をみながする時、可笑しくなりまする。あとは」

「葵と甘味を食べる時」

「小夜が、何か妙なことで慌てる時」

「沖田が、楽しそうにしている時」

「吉田殿を……」

 糸子、ここで、言いかけて、止めた。

(危ない。つい、本音が漏れそうになった)

 しかし、部屋の中で、それに気づいた者は、誰もいなかった。

 糸子、続けた。

「吉田殿が、わたくしを褒め上げてくださる時」

 松陰、両手で顔を覆って、嗚咽した。「姫君様、そこまで、わしを——!」

 高杉、口の端を上げた。

「——なるほど。姫君様は、毎日、ぶち笑うちょって、いうことじゃな」

 糸子、無言。

「さっきの、『今は楽しくない』っちゅうお答えは、わしの問いが、姫君様を笑わせちょらん、いう意味かの」

 糸子の内心。

(そうです)

(まぁ、普通は分かるよねー)

 糸子、沈黙で、肯定した。

 塾生の列で、伊藤博文が、思わず口元を緩めそうになった。山県有朋が、眼の端でそれに気づき、伊藤の方を、一瞥した。伊藤、慌てて、口を引き締めた。


三 ——第二段:嘘の問い

 高杉、軽く、咳払いをした。

「姫君様」

「うむ」

「ちと、沖田殿から、伺うたんじゃが」

 水無瀬、ぴくり、と動いた。

「姫君様は、時々泣き真似をして、相手をたぶらかしちょるちゅうことですか」

 部屋が、ざわり、と揺れた。

「高杉!」

 水無瀬は思わず、声を上げた。「なんたる——!」

 土方の眼が、ほんの一瞬、沖田を睨んだ。沖田はにこりと笑って、軽く首を傾げた。「あれぇ?」とでも言いたげな顔で、土方を見返した。

 糸子の内心。

(……沖田、お主、高杉にそんなことを話したの?)

(まあ、いいや。高杉に知られて、困ることでもない)

(…というか、いつわたくしは泣き真似をしたのだろうか?。はてっ???)

 高杉、止まらない。

「いやいや、水無瀬様、待ちんさい」

「わし、これは、悪口で言いよるんじゃありゃあせんのです」

「泣き真似で、外夷を追い払えるんなら、そりゃあ、天与の才能にござる」

「わしは、その才能を、ぶち高う評価しとるんです」

 糸子の内心。

(こいつ、本当に口が回るなー)

(ただし、悪口で言うとらんのは、本当じゃな)

(……わたくし、嘘泣きで外夷を追い払ったことなんかないんじゃが)

(ハリスは、論理で追い詰めただけじゃ。沖田、物凄く適当に高杉に伝えおったな。あいつも相手にするのが面倒くさくなったんだな…)

 糸子、応じた。

「高杉殿。お主は、嘘つきを褒めるのか?」

「はい、褒めちょるんです」

 即答であった。

「わしは、嘘をつける人間を、信頼しちょります」

「嘘一つ、つけん人間は大義のために、小義を折ることができん。大事を成せん」

「姫君様が、泣き真似で外夷を騙されたと聞いた時、わしは、こう思うたんですよ——『ああ、このお方は、使える嘘をつけるお方じゃ』とのう」


 糸子、御簾の奥で、遠くを見つめた。

(なんかこやつの話を聞いているとわたくしが、碌でもない人間に思えてくる。…というか何故?わたくしが嘘つきだと決め付けられて、話をされているのだろうか?。わたくしはたまにちょっと間違えるだけで、あとは愛敬でございます…)


(久坂は、正義を見ておる。高杉は、使える嘘を見ておるのか…全然、違うな)

 糸子は応じた。

「——褒め言葉と、受け取っておく」

(まぁ、わたくしは大人だからな。無難に返してやろう)

「有り難いことですのう」

 高杉は軽く、頭を下げた。そして、にやりと笑って、次の一撃を放った。

「では、問うてみますが」

「姫君様は、嘘を、どこまでつきなさるんですか?」

 糸子、即答。

「わたくしは基本的に嘘は言いませぬ。全てはご愛嬌にございます」

「ご、ご愛嬌?。それは…我が師に対しても?」

 糸子、少し、間を置いた。

「……吉田殿は、嘘を見抜かぬゆえ、嘘はつかぬ」

 高杉、ピクリ、と、眉を動かした。

(——見抜かぬ?)

(先生は嘘を見抜けぬ、と仰られたか?)

 松陰は顔を上げて、「姫君様、わしを信じてくださって——!」と嗚咽しかけた。

 しかし、高杉は松陰に構わず、切り込んだ。

「姫君様」

「先生は、——嘘を見抜けんから、嘘をつかんと仰るんか?」

 糸子は一瞬、詰まった。

(——あっ! 言い間違えた!)

(「見抜かぬ」じゃなくて「見抜かれる」じゃった!)

(こやつ、細かいところを、聞き逃さぬ!)

 葵、御簾越しに、糸子を見た。糸子の指が、袖の中で、焦ったように、動いた。

 糸子、声を、整えた。

「——言い間違えた」

「『見抜かれるから、嘘はつかぬ』じゃ」

 高杉、眼を、見開いた。

「……姫君様が、言い間違えをなさるとは」

 糸子の内心。

(このやろう、聞き逃さない!。なんじゃわたくしだって人間だぞ!。言い間違いだってするんたぞー。完璧超人じゃないんだぞーー)

(くそー、普通は流すところを。それを指摘してくるか)

(こいつもネチネチと…久坂と言い長州の男は、みなこういういやらしい連中しかおらんのか?)

(実に小さい、器が小さすぎるぞ)


 部屋の中で、葵だけが、御簾越しに、糸子の指の焦りの動きを、見ていた。

(……姫様、珍しゅうございます。姫様が言葉尻で慌てるなど、めったにないこと)

(高杉殿、ひょっとしてなかなかのお方なのでは?)


四 ——第三段:嘘の対象への問い

「——では、姫君様」

 高杉、ここで、さらに踏み込んだ。

「わしに対しては、どうじゃ」

「お主は——」

 糸子、即答しようとした。しかし、今度は、慎重に、言葉を選んだ。

「お主は、嘘を見抜くゆえ、嘘はつかぬ」

 高杉、眼を、細めた。

「……姫君様」

「うむ」

「わしが嘘を見抜けると、——なぜご存じに?」

 糸子、一瞬の沈黙の後、答えた。

「お主自身が、嘘をつける人間じゃから」

「嘘をつける者は、嘘を、見抜く」

 高杉、黙った。

(——あ、これはいね)

(このお方は、わしのことを見抜いちょってか)

(わしが嘘を見抜くっちゅうことを、見抜かれた上で、わしにゃあ嘘をつかんと、宣言されちょる……)

(……ぶち、おそろしい)

(いや、逆におもしろいのう)

 高杉、初めて、揺さぶり返された形となった。先ほどまで、揺さぶる側であった高杉が、今、揺さぶられる側に、回っていた。

 しかし、高杉は、焦らなかった。むしろ、口の端を、上げた。

「——姫君様。お見事でありますのう」

 糸子、内心。

(こやつ、笑って受ける)

(……これは、久坂とは、全く違う相手じゃな)

(高杉はひょっとしてマゾなのか?)


(久坂は、論理で…、こやつは、追い込んでも、するりとかわすか…)


五 ——第四段:身分制への問い

 高杉、軽く、姿勢を変えた。

「姫君様」

「では、ちと、世間話をさせてもらいますけえ」

「——わしは、身分制いうんを、好かんのです」

 糸子、御簾の奥で、眉を動かした。

「武士も、百姓も、町人も——役に立つ者が、役に立つ場で働きゃあええ、と思うちょるんです」

「これは、姫君様にとって、邪魔な思想に、ござりましょうかのう?」

 糸子、内心。

(——こやつ!)

(奇兵隊の構想を、既に持っておるな)

(そして、それを今、わたくしの計画と、擦り合わせるために問うておる)

(いや——自分のために利用できるかどうか?試しておるな…)

 糸子、応じた。

「——邪魔ではない」

「むしろ——そなたのような者を、わたくしは求めておる」

「なれど、その構想はまだ数十年は早い。今は考えるだけにとどめよ!」

 高杉、即座に、反応した。

 ニヤリ、と笑った。

「おや」

「——『お主』ではのうて、『そなた』ですかのぉ」

 糸子、一瞬、詰まった。

(……あ)

(『お主』と『そなた』、微妙に、意味が違う)

(『お主』は、目下への呼び方。『そなた』は、もう少し、親しみと比較的丁寧さが混じる)

(わたくし、無意識に、格を上げて呼んだか)

 糸子、小さく、息を吐いてから、

「……違う、言い間違いじゃ。おぬしじゃお主!」

 高杉、声を出して、笑った。

「ははは——」

「姫君様、お若うござりますのう」

 部屋の緊張が、一瞬、崩れた。

 水無瀬が、思わず、扇を、取り落としかけた。葵が、口元を押さえた。

 しかし、御簾の奥の糸子の内心は——

(なにをこやつは当たり前のことを言っておるのだ?。わたくしはまだ十二歳でございますよ)

(ひょっとしてわたくしを、挑発しているのかな?)

(久坂とは違う種類の、クセが強すぎるやつだなー)

(マゾのくせに…)

 糸子の内心。

(……まあ、いいわ)

(こやつが軽く来るなら、わたくしも、軽く返してやろう)

「高杉」

「はい」

「——お若いとは、失礼じゃな」

「わたくしは、近衛家の姫じゃぞ」

「はっ——これは、失言にござりました」

 高杉、軽く頭を下げた。しかし、その動作には、全く、反省の色がなかった。

 糸子の内心。

(……だめじゃ、こやつには、何言うても、軽く返してくる)

(……そういう部分では久坂よりは幾分マシか。ちょっと、楽しくなってきたし)

(……ん? 楽しい?)

(いや、楽しくない!。面倒くさいだけだ。絶対に認めないもん!!)


(…まあ、どうでもいいか)


六 ——第五段:計画の先への問い

 高杉、ここで、突然、真顔に戻った。

 表情の切り替えが、あまりに鮮やかで、部屋の誰もが、身を硬くした。先ほどまで爆笑しかけていた伊藤博文でさえ、息を呑んだ。山県有朋が、眼を、伏せた。前原一誠が、身を、正した。

「姫君様」

「うむ」

「——わしは、姫君様の計画の、その先が気になりまする」

 糸子、眉を動かした。

(——来たか)

(こやつ、ここに、踏み込んできたな)

「先ほど、玄瑞に対して、姫君様は、その戦略の一部を、お話しなされた」

「雄藩、幕府、朝廷、三者に、異なる餌を与え、別々のまま動かす。気づかれぬうちに、構造を変える」

「——それが姫君様の計画の一部だと」

「……」

「されど、姫君様」

「わしは、姫君様の御計画の、中身を、詳しゅうは存じ上げませぬ」

「先生が萩で語られたのは、『姫君様は、日本を、異国に呑まれぬ国にされる』っちゅう、一事のみ」

「——じゃけど、わしは、今日の玄瑞との問答と、先ほどからの、わしとの問答で、一つ、見えたもんがあります」

 糸子、内心、警戒した。

(……何を、見た?)

(多分気のせいだと思うのよ)

 高杉、続けた。

「姫君様は、『日本が、異国に呑まれぬ国になる』ことを、御計画の終着点とは、されちょらんのぉ」

「その、さらに先がござりまする」


 糸子、御簾の奥で、息を呑んだ。

(…なかなか鋭いな、こいつ)

(具体は知らんのに、少しの情報だけで核心部分を、掴んできおった)

(どうやって見抜いた?、いや感じ取ったのか?)

 高杉、続けた。

「並の御方であれば、異国に呑まれん国を作る——それだけで、一生を費やしまする」

「じゃけど、姫君様は、そうじゃなさそうです」

「問答の端々に、『その先の日本を、どう動かすか』の気配が、漂うとるんです」

 高杉はここで、一呼吸、置いた。

「たとえば、先ほど、玄瑞に、『餌が尽きた時、どうする』と問われた時、姫君様は、『構造そのものを変える』と、答えられた」

「これは、姫様の計画の直接の答えじゃありゃあせん」

「その先を、見据えた、お答えでござる」

「変えた構造の上で、日本をどう動かすか——それを、既に考えておられる証拠にござりまする」

 糸子の内心。

(——完全に、読まれとる)

(こやつ、わたくしの言葉尻から、核心を、炙り出してきおった)

(頭の使い方が、久坂と、全然、違う)

(久坂は、言葉の中身を、論理で詰めた)

(高杉は、言葉の端々を、感覚で、掴んでくる)

(単なるマゾかと思っていたら…想像以上に頭の良いマゾだった…)

(……こいつら、二人組になったら、本当に厄介だ)


 高杉、問うた。

「——その先、姫君様は、何をされるおつもりかね」


 糸子、長い沈黙。

 葵、御簾越しに、糸子を見た。糸子の指が、袖の中で、本気で考える動きを、始めていた。

 葵の内心。

(姫君様が本気の動きをされるようになった?)

(高杉殿、どこまで姫様を、揺さぶる気なのですか…)


 塾生の列で、伊藤博文が、思わず身を乗り出した。伊藤にはまだ、「計画の先」が何を意味するか、分からなかった。しかし、姫君様がそこに踏み込まれるかどうか、という緊張が、伊藤の身体を突き動かしていた。

 糸子、内心。

(……計画②、帝国主義参戦計画のことは、絶対に、ここで、口にしては、ならん)

(今の松下村塾の者たちに、聞かせる内容じゃない)

(言えば、話が先走る。まだ、時期じゃない)

(……こやつ、そこを、暴きに来たか)

(じゃが、ここは、引かん)

 糸子、声を、整えた。

「——高杉」

「なんですか?、姫様」

「お主の問いに、今は答えぬ」

 高杉、眼を、細めた。

「——なぜ答えん、ですか」

「理由は、二つ」

「一つ。わたくしが、今、ここでそれを口にすれば、言葉が先走る」

「二つ。お主らが、まだ、聞く器に至っておらぬ」

 高杉、眼を、見開いた。

「——器に、至っておらん、と」

「左様」

「お主らは、今日、わたくしの器を問うた」

「わたくしも、お主らの器を見ておった」

「お主ら、良い器じゃ。これまで、わたくしが出会うた中でも、将来良き器になるじゃろう」

(マゾだけどね!。それもネチネチしたいやらしい…)

 部屋の中で、久坂が、平伏したまま、微かに、眉を、動かした。

(——姫様が良き器、と仰せになられた)

(姫君様、そこまで我らを……)


 糸子、続けた。

「されど——まだまだ足りぬ」

「今、お主らに話せば、話が大きすぎて扱い切れぬ」

「扱い切れぬ話を、早う聞いた者は、必ず、どこかで話を漏らす。意図せずとも漏れる」

「それは、わたくしの計画の邪魔になる」

「故に——足りるまで預けておく」


 高杉、しばし、沈黙した。

(言えぬ、という答えは、答えにござりますな)

(このお方は、計画の先に、さらに深い絵を描いちょられる)

(……それが、何であるか、今のわしにゃあ見えん)

(じゃけど、姫君様は、わしらが扱い切れる器になりゃあ、話してくださると仰られた)

(つまり、育てば、話してもらえるっちゅうことじゃ)

(これは——約束にござりまする)

(……ええ、受け取ったぞ)


 高杉、深く、微笑んだ。

「……承知、仕りました」

「姫君様、——いつか必ず器を作って、問い返しに参ります」

 糸子、内心。

(もう二度と来なくていいですよ。マゾとはこれ以上関わり合いになりたくありません)

(というか、こやつ放っておくと、十年後くらいに本当に問い返しに来そうじゃ)

(やはり『沖さん、やっておしまいなさい!』と言うべきか…)

(……まあ、十年後に来たら、その時は忘れたふりをしてやろう。言い間違いをするくらいだから、すっかり忘れていても不思議に思わんでしょう)

(それまでに、この高杉が、どこまで育つか少し興味もある。明らかに怖いもの見たさだけど…)

 糸子、御簾の奥で、小さく、笑った。

 高杉には、その笑いが、伝わった。

 高杉、一礼。


七 ——第六段:姫君様の望みへの問い

 高杉、声を、変えた。

 先ほどまでの、核心を突く声から、少し、柔らかい声へ。

「姫君様」

「玄瑞が、理詰めで問うたことを、わしは、逆に問いまする」

「——姫君様が、一番、望んでおられることは何にござるか」

 糸子、御簾の奥で、眉を、動かした。

「日本のためでも、朝廷のためでも、近衛家のためでも、ござらぬ」

「それらは、大義にござる。大義は、先ほどたっぷりと伺うた」

「わしが、今、問いたいのは——」

 高杉、ここで、一呼吸置いた。

「姫君様、ご自身が心から望んでおられること一つだけお教えくだされ」

「大義ではのうて、——姫君様の、個人の望みにござる」


 糸子、長い沈黙。

 葵、御簾越しに、糸子を見た。糸子の指が、袖の中で、微かに動いた。

 糸子、内心。

(……一番、望んでおること?)

(これで何度目だろうか?。なぜわたくし個人のことをみなの前で、発表せにゃならんのよ)

(それじゃなんですか?。わたくしは個人的な望みをひっそりと心の内に持ってはいけないのですか?)

(……本当のこと、もう一つの…は言えん。それは善次郎にしか話していないし…)

(まぁ、先ほどのやり取りで高杉も軽いカンジでやっていたし——)

(嘘は言わないが、わたくしも軽いカンジで返しておこう)

(むしろ、これは、この場を、引っ掻き回す効果があるかもしれんし…)

(今の流れを、ぶち壊すには、しょうもない答えが一番効く)

(……よし、言ってやろう)

(こいつらの、真面目な顔をぶち破ってやろう)


 糸子、ゆっくりと、答えた。

「——父上とお梅と…」

「将来の旦那様とこれから先のわたくしの可愛いお子のために」

「京でのんびりと平和に暮らすことために、でございます」

 部屋が、静止した。

 松陰、口を、半開きにしたまま、固まった。

 水無瀬、扇を、持ち上げかけた手を、止めた。

 塾生たち、誰も、動けなかった。

 高杉、眼を、丸くした。

「——は?」

 糸子、澄まして、続けた。

「聞き間違いでは、ない」

「それがわたくしの、(いくつかある)望んでおることでございます」

 高杉、呆然。

「……姫君様、もう一度、仰せになってくださらんかのぉ」

 糸子、繰り返した。

「なんでじゃ?」

「人の話はきちんと聞かなければだめじゃろ?」

「あとはお主が勝手に想像せい!!」

 部屋の、空気が、完全に、ひっくり返った。


 そして——。

 高杉が、爆笑した。

「——ははっ!」

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ!」

「姫君様、——それは、最高にござる!」

 高杉は腹を抱えた。笑いが止まらない。格天井にその笑い声が反響した。

 久坂は平伏したまま、眉を動かした。

(——晋作と姫君様は同じ、笑いをしておる)

(というか、姫君様のご答は予想外にすぎる)

(……姫君様、先ほどまでの、覚悟と戦略のお話は何じゃったんじゃ)


 松陰は涙を拭くのを忘れて、口をぽかんと開けていた。

「姫、姫君様……将来の旦那様とこれから先のわたくしの可愛いお子のため……」

 水無瀬は眼を細めた。そして、ふと思った。

(——姫君様は常日頃からそのようなことも考えておられたのか)

(やはり姫様もおなご…なのだろう)

(……普段の姫様からはそのようなことはあまり感じられなかった)

(このお話を聞けて正直安堵致しました)

 水無瀬の、公家としての感覚が、告げていた。

(姫君様は、嘘は、仰られぬ)

(つまり、本当のことだ)

(無血近代化計画を立て、異国と渡り合い、雄藩と幕府と朝廷を動かす——その先で、姫君様が個人として望んでおられるのは、ご家族の幸せ…)

(……なんと、愛すべき御方よ)

 水無瀬、膝の上で、微かに、笑った。


 葵、御簾の中で、口元を押さえていた。

(姫様がそのようなことをお考えになられていたとは…)

(葵はいつまでも姫君様とそのご家族のお世話をしとうございます)

 高杉が笑いを、なんとか収めた。

「姫君様、——晋作、完敗にござりまする」

「どのような計画かは具体的には知りませぬ、しかし異国と渡り合い、雄藩と幕府と朝廷を動かし——その先の姫君様の個人の望みが、ご家族の幸せでござりまするか」


 糸子、内心で、ほくそ笑んだ。

(まぁ、これはわたくしの望のひとつではある。けれど、一番の目的じゃない。嘘は言っていない)

(わたくしは欲張りなおなごなのでございます。おほほほほーーーーー)

(大義の裏に、こういうささやかな望みをひとつ、持っておるのが、わたくしなのでございます)

(しかし高杉は…この答えを、妙に気に入ったらしい)


 高杉、深く、微笑んだ。

(——このお方、やはり、わしとは……多少違うが同類と見てよさそうじゃのう。そこは男と女の違いかのう)

(大義を背負いながら、自分の楽しみを、しっかり持っちょられる)

(これは——ぶち、おもしろい!!)

(こういう御方こそ、本当についていける御方じゃ)

(大義ばっかりで、自分の楽しみを持たん者は、どこかで必ず壊れるけぇ)

(姫君様は、壊れん)

(壊れる前に、京に帰って家族と平和に暮らせる御方じゃ)

 高杉、軽く、一礼した。

「——姫君様、晋作、しかと受け止めましてござりまする」


八 ——第七段:姫君様の底への問い

 高杉、笑いを、収めた。そして、顔を、真剣なものに、戻した。

「姫君様」

「晋作、揺さぶりに、揺さぶって参りました」

「——されど、姫君様は揺さぶっても、揺さぶっても、底が見えませぬ!」

 糸子は御簾の奥で、少し姿勢を変えた。

「姫君様は、先ほどわしに仰せになられた」

「——『わたくしの底は、お主の底と同じ場所にある』と」

 糸子、眉を動かした。

(……あれ? そんなこと言ったっけ?)

(いや一言もそんなことをわたくしは言っておらんぞ)

(この高杉…引っ掛けに来たか?。嘘もつくと自ら言っておったし)

「それは、本当にござるか?」

 糸子、一瞬の沈黙。そして答えた。

「——しらんがな」


「…ちっ」

 高杉は静かに小さく舌打ちをした。

(…今舌打ちをしたぞ、こやつ…信じられん。舌打ちしたいのはこっちじゃ!)

(なんちゅー図太い神経をしておるのだ)

 舌を巻く糸子。


「よい、高杉…答えてやろう。一つだけその方とは違う」

「お主の底よりも、わたくしの底にはもう一つ別のものがある」

「お主の底には、『面白さ』があるのだろう」

「わたくしの底には、『面白さ』ともう一つ…」

 糸子、一呼吸、置いた。

「——恐怖がある」

 部屋の空気が、変わった。

「わたくしは日本が、清国の二の舞になる未来を、現実に想像できる」

「イギリスに、土地を切り取られ阿片で民を蝕まれ、富を吸い上げられ、最後は首都まで焼かれる」

「——そんな先の世が、わたくしには容易に想像できるのじゃ」

「その恐怖が、わたくしを動かしておりまする」


 高杉、息を、呑んだ。

 部屋の、誰もが、動かなかった。

 塾生の列で伊藤博文が、手を強く握りしめた。山県有朋が、初めて顔を上げた。前原一誠が、唇を噛み直した。

 水無瀬は、眼を伏せた。

 松陰は、顔を真っ青にした。

 高杉の内心で、一つの声が響いた。

(——このお方、何かを見ておられるのか?)

(何を見ておられるか、わしには分からぬ)

(じゃが、見ておられる、ということだけは、本当じゃ)

(このお方の目には、わしらには見えぬ先の世が映っとる)

(……これは、ぶち怖い御方じゃ)

(同類ではのうて、——わしでは辿り着けぬ場所におられる…御方なのかもしれぬ)

 糸子、続けた。

「高杉」

「なんでしょう」

「これが、わたくしの底じゃ」

「お主と、同じ場所に似たものを持ちながら、一つだけ違う色を持っておる」

「——分かったか」

 高杉、深く、頷いた。

「……分かりましてござりまする」

 高杉、軽く、手を突いて、頭を、下げた。


 部屋の空気が、ゆっくりと、変わっていった。

 それは、「高杉戦が終わりに向かう」という空気であった。

 糸子は内心で、小さく息を吐いた。

(……もう解放してください)

(今度こそ、終わってください)

(……もう疲れた。本当に疲れた)

(お腹すいた、甘いもの食べたい——)

 糸子は葵に、目配せを送ろうとした。

 その瞬間であった。

 部屋の右端。

 一つの影が、再び動いた。


十 ——久坂、まさかの参戦

 久坂玄瑞が平伏の姿勢から、ゆっくりと顔を上げた。

 糸子は内心で、悲鳴を上げた。

(——嘘じゃろ?)

(こいつとはもう終わったはずでしょう?)

(平伏しとったよね?)

(……まだ、やるの!!?)

 久坂、静かに、口を開いた。

「——姫君様」

「畏れながら玄瑞、一つ思い出したことがござります」

 糸子、内心。

(嘘だな。思い出しとらん。絶対ずーっと狙っていた)

(こやつも根性曲がっとる)

 久坂、続けた。

「先ほど玄瑞、気合の摩耗について問い申しました」

「姫君様は、『摩耗するまで背負う』とお答えになられた」

「——じゃけど玄瑞、あれからずっと考えちょりました」


 糸子の内心。

(考えとらんで、高杉の戦を見とっただけだろ)

(もうそのまま一生ずーっと考えておけばいいのに)

(この嘘つきが…)

 久坂、真顔で、問うた。

「——姫君様が摩耗された時、姫君様を支える者は誰にござりまするか」

 部屋の空気が、また、凍った。


 糸子は脳内で思わず現実逃避した…

(わたくしはもう疲れ果てて動けなくなってしまいましたー、誰か支えておくんなましー)

(それでは私が支えます)

(某が姫様を支えましょう!)

(いや俺が…、自分が…、僕が…、)


(では、わたしが支えます。姫様を支えさせてください)

(((どうぞ、どうぞ…)))


(もう、某お笑い芸人のコントしか思い浮かばない…)

 ものすごく遠い目をした糸子しかいなかった。


十一 ——両側からの挟み撃ち

 そして、左端。

 高杉が、再び、口を開いた。

「姫君様」

「——わしも、気になりまする」

 糸子の内心。

(——やめろーーーー!)

(こいつら二人がかりで、わたくしを追い込む気か!)

(久坂と高杉、戦の最中に、目配せで連携しおったな!)

(……久坂は「独りで背負う重さを下ろす場所」の話を、さらに深く問う気じゃ)

(……高杉は、「幸せ」の話を、もっと突っ込む気じゃ)

(二人とも、違う方向から、同じ穴を突いてくる)

(なんていやらしい男連中なのじゃ。おなごなのに、幼気な少女なのに…わたくしが可哀そうすぎる)

 高杉、問うた。

「姫君様、ご自身の幸せは、どこにありまするか?」

「先ほど、『京に帰れば幸せ』とお答え召されました」

「——では、京に、いつお帰りになられるつもりにござるか」

「それまでの間、姫君様は、幸せでござるのか」

「幸せでないまま、五年、十年、二十年——長きにわたって、計画を進められるおつもりかね」

「その間、姫君様の身はどうなるか」


 糸子の内心でしょんぼりする。

(なぜこうもやる気が削がれるのか?。もう答えるのも馬鹿らしくなってきた)

(そんな心配はおのれにしてもらう必要は一切ありません。いつ京に帰るか?などわたくしの勝手でございます…)

(……なんでこの高杉はこうも憎たらしい質問をしてくるのだ?)

(はっ!!。まさかわたくしが可愛いから、可愛さ余って憎さ百倍…というやつなのだろうか?)

(そもそも御簾越しでわたくしを見ることは出来んかった。それじゃ揺さぶるためだけか…)

(はぁー…)


 久坂も、同時に、畳み掛けた。

「姫君様、——玄瑞も続けて、問い申し上げまする」

「先ほど、『独りで泣く場所』を、お伺い申し上げました」

「姫君様は、『答えられぬ』と仰られた」

「——今、もう一度問い申し上げまする」

「姫君様、独りで背負う重さを、下ろせる場所は、本当にどこにござりますのか」

「御門様のお傍も、近衛家の御屋敷も、——姫君様が、姫君様であることから逃れられる場所ではござりませぬ」

「姫君様が、姫君様であることを、一瞬でも忘れられる場所は、この世にござりますのか」


 部屋の空気が、完全に、張り詰めた。

 塾生たちが、一斉に身を硬くした。松陰が顔を両手で覆った。水無瀬が扇を膝の前で、握り直した。

 葵は御簾越しに糸子を見た。糸子の指が袖の中で、完全に握りしめられていた。

(……姫様、ついに、お怒りに?)

(この挟み撃ちは、許せない)

 しかし、葵の予想は、外れていた。


 糸子の内心は、怒りではなく、諦めと、ある決意で満たされつつあった。

(久坂も高杉も随分調子に乗っておるなー)

(だが、これだけは絶対に言える。おのれらにこのわたくしがそこまで言われる筋合いは…一切、これっぽっちも、微塵もありませぬ!!)

(……もう、いいや)

(こいつら、二人ともめんどくさいの塊すぎる。さすがは中二病の弟子だなぁ)

(真面目に答える気力が、もうありませーん)

(……こいつら、気力がある限り、いつまでも続けるぞ)

(一日、二日、三日と、ずっと…それこそエンドレスで問い続けるぞ)

(……そもそも、なんでこんな仕打ちをわたくしがされなければいかんのか?。一体わたくしが何をしたと言うのか???)

 糸子は内心で、深く嘆息した。

(……やっぱり沖田殿に斬ってもっちゃおうかなぁ)

(「沖さん、やっておしまいなさい!」って、言ってみようかなぁ)

(……というか、本当に言ったら、沖田は間違いなく喜んで、笑いながら斬ってしまうだろうなー)

(まあ、試しに御簾越しに、沖田を見るだけ見てみよう!)

(本当に頼んだら、止めれば…止められないな、多分…)

 糸子、御簾越しに、そっと、沖田の方を見た。


 そして——。

 驚くべきことが、起こった。

 沖田総司が、糸子の視線に気づいた。

 沖田と目と目があって、にこりと笑った。


 そして…

 沖田の手が、刀の鞘にかかった。

 鞘と柄頭の間に、静かに指が滑り込んだ。

 糸子は思わず、声を上げそうになった。

(——ファ!??)

 糸子は慌てて、両手で口を押さえた。

(沖田はなぜ、わたくしの心境が御簾越しに分かる!?)

(何一つ言っとらん! 目で合図もしとらん! ただ見ただけ!)


(……恐るべし天才、沖田総司。いや、さすがというべきであろう)

(というか、沖田もいつもこうやって、わたくしの合図を待っとったのか?)

(……なんと頼もしいことか。やはりわたくしは旭狼衛のみなに守られておる!)


 葵は御簾越しに、糸子の異常な安堵感を感じ取った。

(……姫様? 急にどうなされました?)

 糸子は慌てて、沖田に向かって、全力で首、横に振った。御簾の奥からなので外からは、糸子の影が、微かに揺れただけに見えた。

 しかし、沖田はそれに気づいた。

 沖田、にこりと笑って、鞘から手を離した。

 その動作は、あまりに自然で誰も気づかなかった。

 ただ一人、土方を除いて。

 土方が、沖田を横目で睨んだ。小声で、

「……何をしておる」

 沖田、小声で、

「えーっと、姫様が何か合図を送られたのかと、思ったんですけど、気のせいだったみたいで」

 土方、溜息。

「……お前は黙ってろ」

 沖田にっこり。「はい…」

 葵は御簾越しに、今の一連の動きを、全て感じ取っていた。

(……姫様は沖田殿に、危ないところをお願いしかけた?)

(そして慌てて、取り消された)

(……姫様は相当、追い詰められておられる?)

(無理もありません。久坂殿も、高杉殿も、本気で、姫様を追い詰める気です)


 糸子は内心で、しょんぼりしていた。

(……ダメだ、あのまま合図したら沖田が、本当に斬ってしまう)

(沖田は御簾越しでも、わたくしの心境が分かるのは、天才ゆえなのか?、きっとそうなんだろうなー)

(ああ、もうどうしたらいいんだろう…)

(久坂も高杉も、ネチネチしつこすぎて…もうかわせん。…というかそんな気力も湧きません)

(とてつもなくめんどくさいなー。もうーー)

(……仕方ない)

(特大爆弾、落とそう)

(これで終わりにしてやろう)

 糸子はなぜか、御簾の奥で姿勢を正した。

 その影の動きを、葵が見ていた。

(……姫様は何か、やる気でございますね)

(何を、なさる気か、葵には分かりませんが——)

(姫様がなさることに、間違いはないはずです!)

(……頑張ってくださいね、姫様!!)


 十二 ——特大爆弾投下

 糸子、御簾の奥で、深く息を吸った。

 そして、——。

 その息が震えた音になって漏れた。

「……ぐすん……」

 部屋の誰もが、一瞬動きを止めた。

「……ぐすん、ぐす、ぐすん……」

 松陰が顔を上げた。

「——姫君様?」

 糸子は声を震わせた。

「……お、おぬしら……」

 それは、先ほどまでの、冷静な姫君様の声とは、全く違う声であった。

 張りを失い、若く、震え、——幼い声。

「そんなに、わたくしをいじめて楽しいんか……?」

 部屋の空気が、一瞬で、凍結した。

 久坂、顔を上げた。

「——え?」

 高杉、眼を見開いた。

「——は?」

 糸子、さらに声を震わせた。

「……あんまり、わたくしを、いじめるでない……」

「……ぐすん……」

「おぬしら、大の男が寄って集って寄って集って寄って集って寄って集って寄って集って——」

「わたくしの、弱いところを突いて……」

「幸せか、どこで泣くか、誰が支えるか……」

「そんなこと…わたくしの、勝手にございます……」

「それを、おぬしらに聞かれて——」

「……答えられるわけがありませぬ、わたくしはまだ未婚の…おなごでございますよ。」

「……ぐすん…ぐすん…ぐすん」

 御簾の奥から、すすり泣くような声が漏れてきた。

 部屋の誰もが、動けなくなった。

 松陰は口を、開けたまま固まった。水無瀬は扇を、畳の上に取り落とした。塾生たちは全員、凍結した。

 久坂は平伏の姿勢のまま、震える声で、

「姫、姫君様——! 玄瑞、決してそのような——!」

 高杉、は焦った。

「お、お待ちを、姫君様! それは——!」

 糸子はさらに、声を震わせた。

「……ぐすん……」

「もう……おぬしら、あんまりじゃ……」

「わたくしは、一生懸命、答えたのに……」

「おぬしらの質問には頑張って、一生懸命に全部、正直に答えたのに……」

「それをおぬしらはまだ、もっともっとと…深いところを突いてくる……」

「わたくしの心は傷つきました……」

「……ぐすん…ぐすん…ぐすん」

「御門様に、言いつけてやる……」

「わたくしをいじめて楽しむ、むごい輩がいると…絶対に、言いつけてやる……」

「……ぐすん…ぐすん…」

「おぬしらが、わたくしを、——いじめたと…言うてやる…」

「御門様は、わたくしのお味方じゃ……」

「きっと、わたくしのお話を…真剣に最後まで聞いてくださる……」

「……ぐすん…ぐすん…ぐすん」

 部屋全体が、完全に、凍結した。


 伊藤博文、声に出さず、口だけで「えっ!?」と動かした。

 山県有朋、初めて、表情が、崩れた。

 前原一誠、硬直。

 入江九一、呆然。

 吉田稔麿、固まった。

 年少組——山田顕義、飯田俊徳、正木退蔵——は、涙目。

 松陰は、両手で顔を覆い震えた。

「姫君様が……我が弟子らに、いじめられて……ああ……わしはなんと情けない師——!」

「晋作! 玄瑞! お主らなんたることをしでかしてくれた——!」


 十三 ——土方の溜息

 部屋の、反対側の隅。

 土方歳三が、壁に、もたれた。

 そして、深く、溜息を、ついた。

 土方の内心で、声が、響いた。

(……出た)

(また、始まった)

(多分、姫様の嘘だ)

(絶対、泣いてなんかおらん…)

(ハリスのときのあの笑いと全く同じだ)

(姫様はそんな、たまじゃない)

(——あの二人に今頃、御簾の向こうでほくそ笑んでる姫様の顔を、見てほしいもんだ)

(……しかし、よくもまあ、あそこまで涙混じりの声を出せるもんだ)

(説得力があるだけに余計に始末が悪すぎる…)


 近藤が、土方を、ちらりと、見た。

 近藤、小声で…

「……ハリスのときと同じか?」

 土方は無言で頷いた。

 沖田はにこりと、笑った。そして小声で、

「あはは、姫様、本気状態ですねぇ」

 土方、

「……黙ってろ」

 沖田、

「でも、土方さん。姫様のご愛敬は、いつ見ても本当に見えますよねぇ」

 土方、溜息。

「……黙ってろ」

 斉藤は無表情のまま、正面を見ていた。この状況は理解していた。斉藤は姫様のご愛敬に、一切反応しなかった。見なかったことにする男であった。


 十四

 葵は御簾越しに、糸子を見ていた。

 葵の顔は、無表情であった。

 しかし、眼だけ、笑っていた。

 葵は、知っていた。

 これは、ハリスの時と同じだと、始まったと。

 小夜は葵の隣で、息を止めていた。

 小夜はまだ、よく分かっていなかった。

 姫様が、本当に泣いているのか?。

 それとも……


 葵は小夜に、小さく目配せを送った。

 小夜は、はっと気づいた。

(——姫様のいつもの頭おかしい…じゃない?)

 小夜は微かに、安堵した。

(……姫様、見事にございます)

(本当に泣いておられるかと、思いそうになりました)


 しかし、塾生たちは、それを知らない。

 久坂は平伏したまま、動けな。

 高杉は冷や汗を、かきながら、考えていた。

(——待て、待て)

(このお方さっきまで、ぶち普通に話しておったそ)

(『底』の話を、普通に答えらておられた)

(それが、なぜ?急に泣かれる???)

(……何か、おかしい)

(じゃが、もし本気で泣いておられるなら、これは長州が、朝敵に…なってしまうのか?)

(いや、いくら主上様でもそのような理由では…)

(しかし、主上様にわしら長州者が、姫君様をいじめたと言いつけられる事実はかわらん)

(どうする……動けん…)

(動けば、墓穴を掘る)

 高杉は冷静さを、失わなかった。しかし、対応もできなかった。


 高杉の内心。

(……もしや、これは嘘?なのじゃろうか)

(先ほど姫君様は、「嘘を、大義のためならつく」とお認めになった)

(そして、わしは、それを褒めた)

(わしが、「嘘をつける人間を、信頼する」と言うた)

(……まさか、今、その褒め言葉を姫君様が使うて、わしらを翻弄しておられる?)

(……いや、まさか「わたくしは基本的に嘘は言いませぬ。全てはご愛嬌です」とも即答しておった)

(……これが……このお方のご愛敬っちゅうんか?)

(まったくご愛敬になっちょらん!!)

 高杉は内心で、苦笑しかけた。


 しかし、それを表に出すわけには、いかなかった。

 もし姫君様が、本当に泣いておられたら高杉のその苦笑は、命取りになる。

 高杉は平伏の姿勢で、固まった。


 十五

 御簾の奥で、糸子は、すすり泣きを、続けていた。

「ぐすっ……ぐすっ……」

「おぬしら、ひどい……」

「もう、やめて……」

「ぐすん……」

 しかし——。

 御簾の向こうで。


 糸子の内心は、全く、違う方向に、飛んでいた。

(……早う、終わらんかなー)

(解放されたい……)

(お腹空いた、甘いもの食いたい……)

(京に、帰りたい……)

(……というか、これ、いつまで続けたらよいのだろうか?)

(あと一応、小半刻くらいは続ければいいかぁ…)

(その間にこいつらが、全員平伏してくれたら、本日はおしまいにできる。いやしよう)

(今日のわたくしは、もう本当に限界だわ…)

(——これ以上問われたら、脳が溶ける)

(だから、こいつらには完全に、黙ってもらう必要がある)

(それにこれは嘘泣きではなく、ご愛敬でございます。本当に何度泣きたいとおもったことか…)

(男はおなごの涙に弱い。特に、長州の若造は初心だからな)

(よし、もうちょっと頑張るかなー)


 糸子、さらに、声を、震わせた。

「……ぐすん……ぐすん、ぐすん……」

「もう、やめて……」

「おぬしら、本当にひどい……」

「わたくしは、日本のために、一生懸命考えておるのに……」

「それを、いじめるなんて……」

「……ひどい……」

「……ぐすん……」

 葵の眼が御簾越しに、ますます笑った。

 葵の内心。

(——姫様、冴えておられます)

(これは今年、一番の「姫泣き」にございますよ)

(本当にさすがでございます。素晴らしいお方です)


十六

 久坂と高杉、塾生二十一名、松陰、水無瀬——全員が絶句して動けない。

 土方一人だけが、壁にもたれて肩を落としている。

 沖田は、にこにこしていた。

 近藤は真顔で、天井を仰いでいた。

 斉藤は変わらずの無表情。


 御簾の奥で糸子は、すすり泣きを続けている。

 冬の光は、障子を透して、畳の上に淡く差し込んでいた。沈香の煙は静かに、立ち昇り続けていた。冬梅の蕾は、相変わらず固いままであった。

 時は止まったように、感じられた。

 しかし、この「止まった時」の中で、ただ一つ確かなことがあった。

 ——誰も、もう姫君様に、問いを放てないでいた。


 そして——。

 御簾の向こうで。

 糸子は——。

 戦場を一瞬で、自分の庭に変えた。

 それは土方歳三と、葵だけが知っている真実であった。


 第七十九話 了

葵さんから出ましたよ!パワーワード「姫泣き」(^◇^;)

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― 新着の感想 ―
何だこりゃ いくら小説だとはいえ、突然あまりにもリアリティの欠片もない展開になって唖然。
もうこれは、幕・官連合軍が長州を討伐するしかない
これが長州征伐の発端になった?w
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