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【100万PV突破‼︎】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第七十八話「弁、一歩も引かず——玄瑞、姫君様を問う」

 一

 辰の刻。

 試衛館を出た一行は、市ヶ谷から外堀沿いに歩を進めた。冬の朝の光は薄く、武家屋敷の塀は霜で白い。水を汲む女の声、薪売りの呼び声、どこかの寺の鐘が折り重なって響いていた。

 先頭を土方歳三が黙って歩き、その後ろに松陰。松陰は呼吸が荒く、歩きながら「姫君様……姫君様……」と呟き続けている。松陰の左右を、高杉と久坂が固めていた。

 その後ろに二十名の塾生。伊藤博文は顔色が悪い。昨夜、襖越しに二人の会話を聞いて以来、一睡もしていなかった。隣を歩く山県有朋は、いつも通り無言で前方を見据えていた。

 一橋門が近づいた時、松陰は足を止め、手拭いで目頭を押さえた。

「あれが、姫君様のおわす、一橋の御屋敷じゃ……」

 その背後で、高杉が久坂に小声で言った。

「玄瑞」

「うむ」

「——始まるっちゃ」

「分かっちょる」

 二人は、それ以上口を利かなかった。

 一橋門は冠木門の上に櫓を載せた重厚な造りで、門番の足軽が土方の顔を認めて一礼した。一行は一人ずつ、静かに門をくぐった。

 玉砂利を敷いた前庭。左右に松、奥に玄関書院。冬の朝日が白壁に当たり、淡く反射していた。車寄せの前で一行は整列した。

 土方が振り返った。

「御一行——刀を、お預けいただく」


 玄関書院の土間で、二十三名が一人ずつ刀を預けた。土方と斉藤が応対し、受け取った刀を台に重ねていく。

 松陰は即座に差し出した。「当然のこと! 姫君様の御前にて、刀を帯びるなど——」

 高杉は一瞬だけ刀の柄を撫でて、土方に差し出した。

(——丸腰。ぶち、言葉で斬るけぇ)

 久坂はさらにゆっくりと、襟を正してから、両手で寸分の崩れもなく差し出した。

(——刀を預けたけぇっちゅうて、覚悟は変わらん)

 二十三名、全員の刀が台に重ねられた。帯刀しているのは、旭狼衛のみとなった。

 斉藤が先導し、一行は奥へと進んだ。


 一橋上屋敷の廊下は、長く、静かであった。

 板張りは拭き込まれて黒光りし、歩くたびに微かに軋む。廊下の両側の襖は、固く閉じられていた。襖の向こうに家臣や女中の気配はあるが、誰一人顔を出さない。

 玄関書院から表御殿を経て、中奥に入り、さらに奥へ。中奥と奥御殿の境目に、近藤勇が立っていた。

「——御一行、御目通りの時刻にござる」

 近藤、低く告げた。松陰、深く一礼。

 近藤に導かれ、廊下の奥の一室へ。襖の前には、さらに二名の旭狼衛。襖が、静かに、内側から開かれた。

 松陰が、最初に踏み込んだ。そして、息を呑んだ。


 十畳の座敷であった。

 格天井、白木の檜柱。四方の襖には金箔の下に淡い墨で竹林が描かれ、筆致は繊細で、風に揺れる竹の葉の一枚一枚まで描き分けられている。

 北の壁には床の間。黒柿の床柱、白木の床框、漆塗りの違い棚。中央に白磁の花瓶、冬梅の枝が一本。枝にはまだ固い蕾が幾つか。違い棚の上には香炉があり、沈香の白い煙が細く立ち昇り、藺草の新しい香りと溶け合って、独特の空気を作っていた。

 部屋の中央に、御簾が下ろされていた。萌黄色の縁取り、淡い紫の御簾紐。京の御所から下げ渡されたものだった。その奥に、黒い影が一つ、微動だにせず座している。

 御簾の外側、上座に水無瀬実光。薄紫の狩衣、白い袴、膝の前に扇。柔らかな笑みを湛えているが、眼は全く笑っていない。

 部屋の四隅に、旭狼衛。近藤、土方、沖田、斉藤。誰も刀に手をかけてはいない。しかしその佇まいだけで、部屋の空気の密度が重い。

 御簾の脇、畳の上に葵。その隣、少し下がって小夜。葵の手は膝の上で微動だにしない。小夜は緊張していたが、それを表に出さぬよう努めていた。

 松陰が、御簾の前、定められた位置まで進み、深々と平伏した。塾生二十二名が、松陰の後ろに縦横整然と並び、同じく平伏した。

 先頭から三列目、左端に高杉。右端に久坂。


 松陰が顔を上げた。

「——姫君様! お久しゅう、ござりまする!」

 声は既に震え、両眼に涙が滲んでいた。

 御簾の向こうから、糸子の声が静かに届いた。

「吉田殿、遠路、ようこそ参られた」

 その声は澄んでいた。若さを感じさせる響きを持ちながら、同時に、どこか老成した何かを含んでいた。聞く者によって年齢の印象が変わる声であった。

 久坂は、その声を聞いた瞬間、平伏したまま眉を動かした。

(——年齢が、分からん)

 高杉は眉を動かさなかった。ただ、口の端に微かな笑みを浮かべた。

(——分からん。これ、ぶちおもろい)

「御門様より賜りし綸旨を背負い、わたくしも、日々、励んでおる」

「吉田殿の御弟子衆、一人一人、紹介されよ」

 松陰は両手で涙を拭い、姿勢を正した。

「ははっ」

「——塾頭格、久坂玄瑞」

 久坂は平伏の姿勢を深くした。

「——同じく、高杉晋作」

 高杉は平伏の姿勢を、久坂よりも僅かに浅くした。

「——入江九一」

「——吉田稔麿」

「——山県有朋」

「——伊藤俊輔(博文)」

 松陰は、一人一人、名を呼んでいった。二十三名、全員の名を呼び終えるのに、一刻の半ばほどの時を要した。

「姫君様、何卒、我が弟子たちを、御視あれくださりますよう——」

 御簾の向こうで、糸子が小さく息を吸う気配があった。

 労いの言葉をかけようとした、その瞬間であった。


 久坂が、顔を上げた。

 部屋の空気が、一瞬で変わった。冷ややかな、鋭い気配。

 それを最初に感知したのは、四隅の旭狼衛であった。近藤と土方の眼が、ほぼ同時に久坂の方へ向いた。

「——畏れながら」

 低い、しかし明瞭な声であった。久坂、両手を膝の前に置いたまま、真っ直ぐに御簾を見た。

「——御挨拶の前に、一つ、お伺い申し上げたいことがござります」

 部屋の温度が、下がった。松陰の顔から、血の気が引いた。

「玄瑞! なんたる無礼を——!」

 久坂、松陰の方を見なかった。ただ深々と一礼した。その一礼が、松陰の叱責を静かに制した。

「先生、お許しを。これは、わたくし久坂玄瑞、一人の責任でござります」

「姫君様に、じかに、お伺い致しとうござります」

 松陰は言葉を失った。

 久坂は顔を上げ、再び、御簾を見据えた。

「姫君様」

「我が師は、姫君様の御計画を、生涯を賭けて支えると言われちょりまする」

「されど、玄瑞——」

「一つだけ、どうしても確かめたきことがござります」

 部屋の四隅の旭狼衛が、ほんの僅かに、身体を傾けた。

 塾生たちの間に、息を呑む音が走った。伊藤博文は畳を見つめたまま、身体を硬くした。山県有朋は眼を伏せた。前原一誠は唇を噛んだ。年少組——山田顕義、飯田俊徳、正木退蔵——は、顔を上げることすらできなかった。

 近藤と土方が、半歩、前へ。沖田が、壁から背を離す。斉藤が、足の位置を変えた。

 水無瀬の顔から、柔らかな笑みが消えた。

 しかし、最初に動いたのは糸子であった。

「近藤、控えよ」

 低く、鋭い声。近藤、半歩下がった。

そして、糸子の声は、続いた。

「久坂、と言うたな」

「面白い問いじゃ」

「——続けよ」


七 ——第一段:正当性への問い

 久坂は深く呼吸を整えてから、口を開いた。声は、重く、冷静で、重厚な響きを持っていた。

「姫君様の御計画とやらは、真に、日本のためのものにござりますか?」

「あるいは——近衛家の御威勢を、朝廷の権威を、さらに高めるための、方便にござりますか?」

 部屋が凍った。

 松陰は畳に両手をつき、「玄瑞……玄瑞……」と呻いた。水無瀬は扇を膝の前で握り直した。葵は御簾越しに糸子を見たが、糸子の影は微動だにしない。

 御簾の奥から、糸子の声が届いた。

「久坂」

「はい」

「——良き問いじゃ」

 糸子の声は、冷静であった。

「近衛家は、五摂家筆頭。朝廷における最高の家格。わたくしは、その次代を担う姫。——これは、事実じゃ」

「わたくしの御計画が成就すれば、近衛家の御威勢は、当然、増す。——これも、事実じゃ」

 糸子は一呼吸置いた。

「お主が問うておるのは、——それが『副産物』か、『真の目的』か、ということじゃな」

「——副産物じゃ」

「即答されるか」

 久坂は顔を上げた。糸子の即答は、既に一段、久坂の予想を超えていた。並の相手ならば、言葉を選び、婉曲な答えを返す場面である。しかし、糸子は一瞬の間も置かずに答えた。

 それは、既にこの問いを、幾度も自問していた者の即答であった。

「——根拠は、何にござりますか」

 久坂は姿勢を崩さぬまま、さらに問いを重ねた。


「第一に、近衛家の御威勢など、既に五摂家筆頭。これ以上増したとて、得るものは、極めて少ない」

「第二に、わたくしの計画は、公家の特権をも、削る方向に動く。近衛家の長期的な利益として見れば、わたくしの計画は、むしろ害じゃ」


 久坂は息を呑んだ。そこまで、糸子は踏み込んできた。

——公家の特権を、自分らぁで削る覚悟があるっちゅうことかね」

「ある」

 糸子の声は、揺るがなかった。

「——公家の特権を、自分らぁで削る覚悟があるっちゅうて、言い切れまするんかね」

「左様」

 久坂はしばらく沈黙した。


 塾生の後列で、吉田稔麿が、横の入江九一に、無言のまま視線を送った。

 入江も、稔麿を見返した。二人の眼に、驚愕の色があった。

 「五摂家筆頭の姫君様が、自らの家を差し出すと明言された」——この一事だけで、既にこの場が、尋常ならざる論戦の場であることが、塾生全員に伝わっていた。


 久坂は姿勢を改めた。深く一礼してから、顔を上げた時、その眼はさらに鋭さを増していた。


八 ——第二段:命の賭け方への問い

「じゃけど、姫君様」

 久坂の声は、低かった。

「玄瑞、続けて、お伺いしちょきたいことがあり申す」

「失礼を承知で、申し上げまする」

「——命を賭ける、っちゅうて口にするんは、容易なことです」

「わしも、昔に、口にしたことがあります。同志も、口にする。多くの者が、口にするんよ」

「じゃけど、本当に命を賭ける者は——命の賭け方を、具体的に、言うもんにござります」

「たとえば、自害の作法」

「たとえば、毒を仰ぐ覚悟」

「たとえば、刃を向けられた時の、受け方」

「——そこまで、考えちょられるんかね」

 部屋に、張り詰めた沈黙が落ちた。


 沖田が、静かに笑った。その笑みを、土方が横目で見た。土方は、沖田に眼だけで「動くな」と伝えた。

 松陰は、畳に額をつけて震えていた。「玄瑞、お主……なんと、無礼な……」しかし、その声には、叱る力が残っていなかった。


 糸子は沈黙を続けた。一秒。二秒。五秒。

 葵は御簾越しに糸子を見た。糸子の右手が、袖の内側で微かに動いた。それは、葵しか知らぬ癖——糸子が、本気で考えている時の、動きであった。

 十秒。誰も身動きしなかった。

 そして、糸子の声が届いた。

「……考えて、おる」

 その声には、先ほどまでの冷静さに、一つだけ、異なる色が加わっていた。

「自害の作法は、短刀じゃ」

「毒は、用意しておらぬ。——痕が残るゆえ」

「刃を向けられた時は——近藤か、土方が、斬り返す。わたくしは逃げぬ」

 久坂は顔を上げていた。


「——だが、一つ」

 糸子、続けた。

「お主の問いに、答えきれぬものが、ある」

「——答えきれんかね?」

「『もし、計画が失敗し、わたくしの死が無駄になった時』じゃ」

 糸子の声は、低くなった。

「その時、わたくしはただの死人じゃ。無駄死にじゃ。——その覚悟は、まだ、わたくしの中で完全には固まっておらぬ」

 久坂は、息を呑んだ。

 それは、予想外の答えであった。並の相手ならば、ここで「全ての覚悟、固まっておる」と返す。しかし、糸子は——自分の未熟を、正直に、認めた。


 久坂の内心に、初めて、小さな揺らぎが生じた。

(——正直に、答えられた)

(このお方、誤魔化しをなさって)

 高杉は、左端で平伏したまま、眼だけを僅かに動かしていた。

(——玄瑞が、早うも、このお方の正直さを引き出しおったのぉ)

(玄瑞、ええ仕事じゃ)

 しかし、久坂は、止まらなかった。止まれば、自分の中の何かが崩れる。そう、分かっていた。


九 ——第三段:気合の摩耗への問い

「——姫君様の真っ直ぐなお答え、ぶち痛み入りまする」

 久坂は一礼。

「——じゃけど、玄瑞、続けてお伺いしちょきたいことが、あり申す」

 糸子の御簾は、動かない。

「姫君様の、『背負うまで背負う』っちゅう御覚悟は、つまるところ——気合にござりまする」

「論理じゃありゃあせん。情でもありゃあせん。——気合にござる」

「気合は、論理よりも強い時があります。そのことを、玄瑞、否定はいたしませぬ」

「じゃけど——」

 久坂はここで声を、一段、低くした。

「気合は、疲労ですり減っていくもんにござります」

「一年、二年なら、保つでしょう。三年、四年でも、なんとか保つかもしれん」

「じゃけど、姫君様の御計画は、五年、十年、二十年——ぶち長い間にわたる」

「人の気合っちゅうんは、それほど、持ちはせんのです」

「姫君様は、どこかで、必ず、すり減ってしまわれまする」

「——その時、どうされるおつもりかね」


 糸子、沈黙。

 塾生の列で、品川弥二郎が、思わず拳を握った。久坂の弁舌の鋭さに、自分まで息が詰まった。隣の野村靖も、顔を上げられずにいた。

 葵、御簾越しに糸子を見た。糸子の指の動きが止まっていた。本気で考える動きから、疲労の停止へと、変わっていた。

(……姫様、お疲れにございまするか)


 糸子は深く息を吸った。声を整えてから、答えた。

「久坂」

「はい」

「——お主の問い、正鵠を、射ておる」

「気合が摩耗せぬ保証は、ない。わたくしが、途中で倒れる可能性は、常にある」

「されど——今日、わたくしは、背負うておる」

「それが、わたくしに言える、全てじゃ」

 久坂、平伏したまま、動かなかった。

(——答えきれん、と認めるわけでものう)

(——摩耗せん、と言い張るわけでものう)

(——ただ、『今日は背負うちょる』と、それだけ仰られた)

(こりゃあ、逃げの答えじゃありゃあせん)

(腹を括った者の、答えじゃ)

 久坂、しばし沈黙した。しかし、引かなかった。


十 ——第四段:三者を動かす戦略への問い

「姫君様」

 久坂は顔を上げた。

「玄瑞、問いを、変えさせていただきまする」

「うむ」

「松陰先生が、萩で、幾度か、お話しになられました」

「——姫君様の御計画は、雄藩と、幕府と、朝廷を、同時に動かすもんじゃ、と」

「具体的な手筋は、先生も、わしらぁには明かされんかった。じゃけど、この一事だけは、何度も何度も、繰り返されちょったんです」

 糸子は微かに御簾の奥で姿勢を動かした。

(——中二病め。口は重いくせに、この一事だけは、繰り返して語っておるか)

 久坂、続けた。

「そこで、玄瑞は考えまする」


「雄藩は、自分の藩の得を、一番に考えます」

「幕府は、権威を守ることを、一番にいたします」

「朝廷は、今までの決まりを、一番にいたしまする」

「——この三者の利害は、根本的に、合いはせんのです」


「一つを立てりゃあ、残りの二つが、倒れる。どれか一つを犠牲にすりゃあ、その犠牲になった方が、必ず、反撃してくるけぇ」

「こりゃあ、構造の問題にござりまする」

 久坂、御簾を真っ直ぐに見た。

「姫君様は、この、合いはせん三者を、どうやって同じ方向へ動かされるおつもりかね」


 部屋に、新しい種類の沈黙が落ちた。それまでの沈黙は、「答えを拒む沈黙」であった。しかし、今度の沈黙は、——答えを待つ沈黙であった。

 水無瀬が、微かに身を乗り出した。水無瀬自身、糸子の計画の全貌は知らない。この問いへの糸子の答えは、水無瀬にとっても、初めて聞くものになる。

 松陰が、顔を上げた。松陰すら、この問いの答えを、具体的には聞いていなかった。

 塾生たちも、息を詰めた。高杉は、左端で耳を澄ませていた。

(——玄瑞の、この問いは、わしが一番、聞きとうあった問いじゃ)

 糸子、しばしの沈黙の後、口を開いた。

「——久坂」

「はい」

「お主の問い、良い」

「三者を、同時に動かそうとは、思うておらぬ」

「——同時じゃあ、ない、っちゅうことかね」

「左様」

 糸子、続けた。

「三者は、合わぬ。お主が申した通り、根本的に、合わぬ。ならば、合わせようとせぬ」

「それぞれに、異なる餌を、与える」

 部屋の空気が、変わった。久坂、黙って、続きを待った。

「幕府には——朝廷の権威の再構築という、餌を与える」

「今の幕府は、朝廷を軽んじておるようでいて、その実、朝廷の存在なしには、己の権威を保てぬ。その幕府に、『朝廷の権威を、もう一度、立て直す。ただし、幕府を廃するためではなく、幕府と朝廷の、新しい関係を築くため』という餌を、差し出す」

「雄藩には——貿易による、富の獲得という、餌を与える」

「薩摩、長州、土佐、肥前。これらの雄藩は、既に、貿易の利を知っておる。その藩に、『天朝御用商務惣会所を通せば、異国との貿易が、幕府の妨害なく、朝廷の公認のもとで、可能になる』という餌を、差し出す」

「朝廷には——失われし祭祀の復興、そして異国の接近に対する御心の安んじという、ことをお与えになる」

「御門様を含め、朝廷の方々は、異国の接近を深く嘆いておられる。その方々に、『異国に対等に渡り合える日本を、朝廷の名のもとに、作る。神事は、失われた古式を、一つ一つ、復活させる』ということを、差し出す」

 糸子、一呼吸置いた。

「三者それぞれに、異なる餌を与えれば——三者は、別々の動機で、同じ方向に、動く」

「動く方向は、一つ。されど、動機は、三つ。——合わぬ三者を、合わせようとせず、別々のまま、動かすのじゃ」

 久坂、息を呑んだ。


 塾生の列で、伊藤博文が、初めて顔を上げた。その眼に、驚愕の色があった。山県有朋も、眼を見開いていた。この二人は、後年、政の駆け引きを生業とする男たちである。

 今、眼前で展開されている戦略論の深さを、塾生の中で最もよく感じ取っていたのが、この二人であった。

 水無瀬は、扇を握る手に、力を込めていた。

(——姫君様、そこまで、深く考えておられたか)

 しかし、久坂、止まらない。

「姫君様」

 声を、絞り出した。

「じゃけど——餌が尽きた時は、どうされるんかね」

「餌は永遠には続きゃあせん。一度やった餌は、やがて消化される。消化された後、三者は、また自分の得に戻るんよ」

「その時、三者は、また合わんようになる」

「——どう、されるんか」

 糸子、即答した。

「餌が尽きるまでに——構造そのものを、変える」

 久坂、眼を見開いた。

「——構造を、変える、っちゅうことかね」

「左様」

「十年、二十年の時をかけて、三者の餌が尽きるまでに、三者の関係の、構造の底を、変える」

「具体的には——情報の流れ、富の流れ、人の流れ。この三つの流れの、川底の石を、一つずつ、入れ替える」

「川の水は、変わらぬ。されど、川底が変われば、十年の後には、川そのものが、別の川になっておる」

「——気づかれぬうちに、変える」

「これが、わたくしの無血の意味じゃ」

 久坂、しばし、絶句した。


十一 ——第五段:身の使い方への問い

 久坂、深く呼吸を整えてから、再び口を開いた。

「——姫君様の御戦略、しかと拝見いたしました。」

「玄瑞、頭を下げまする。」

 しかし、久坂、顔を上げる時、眼は、再び鋭さを取り戻していた。

「——じゃけど、姫君様。」

「もう一つ、お伺いしちょきたいことが、あり申す。」

 糸子、内心。

(……こいつ、いつまで、やるんだろ?)

 久坂、問うた。

「姫君様の御計画は、今伺うた通り、十年、二十年っちゅう気が遠うなるような時が要りまする」

「その間、姫君様は、——どう、生きられるおつもりかね」

「どう生きる、とは?」

「姫君様は、姫君様にござります。姫君様には、姫君様の道があるけぇ」

「家を継ぐため、他家に嫁ぐため、京で公家の務めを果たすため——いろんな道が、あるはずです」

「御計画を進めながら、その道を、同時に歩まれるおつもりかね」

「——婚姻は、いかがあそばすんかね。」

 部屋に、新しい種類の空気が走った。それまでの「政の問い」から、「私の問い」へ。

 松陰が顔を上げた。「玄瑞、それは——!」

 久坂、構わず続けた。

「失礼を承知で、申し上げまする」

「姫君様は、姫君様であることから、逃げられはせんのです」

「御計画と姫君様としての道が、ぶつかる日が、必ず参りまする」

「その時、姫君様は、どちらを、取られるおつもりかね」

 糸子、長い沈黙。葵、御簾越しに糸子を見た。糸子の指が、袖の中で、微かに動いた。

 糸子、答えた。

「——婚姻は、計画の駒として使う」

 部屋の、誰もが、動きを止めた。

「——ご自身を、駒として、使われるっちゅうことかね。」


 久坂、眼を見開いた。

「左様」

「他に、使える駒は、少ない。わたくしの身分は、朝廷と雄藩を繋ぐ、数少ない経路の一つじゃ。この身を、計画の中で、最も効率よく動ける場所に、置く」

「婚姻の相手は、わたくしが選ぶ。時期も、わたくしが選ぶ。姫君様として、受け身に選ばれることは、せぬ」

「——駒として、能動的に、動く」

 松陰、嗚咽した。「姫君様が、そこまで——」

 水無瀬、眼を伏せた。公家として、この覚悟の重さは、痛いほど分かる。

 塾生の列で、年少の正木退蔵が、静かに涙を流していた。十四の少年の眼に、姫君様の身の決意が、刺さったのであった。

 久坂、しばし、沈黙した。そして、もう一度、低く問うた。

「姫君様」

「——その御覚悟、本当に、お辛うはありゃあせんですか」


 糸子、即答。

「…辛い」

 久坂、眉を動かした。糸子の即答は、先ほどまでの戦略論の即答とは、質が違った。

「辛くない、と言えば、嘘じゃ。わたくしは、辛い」

「されど、辛さと、覚悟は別物じゃ」

「辛いから、やらぬ——それでは、何も進まぬ」

「辛いまま、やる。それが覚悟じゃ」


 ……そう答えながら糸子は思った。

(なんで、ここまで個人的なことをこいつに聞かれにゃならんのよ。まだ十二歳の少女に、そんな覚悟とか婚姻とか…正直考えられんわ!)


 久坂、深く一礼した。今度の一礼は、これまでの礼とは、少し、違う質を持っていた。


十二 ——第六段:人を使う覚悟への問い

 久坂、一度、大きく呼吸した。

「姫君様」

「玄瑞、最期の、わしの問いを、お許しくださいませ」


 糸子、内心。

(……「最後の手前」とは、まだあるんかい)


 しかし、表面上は、応じた。

「うむ」

「「姫君様は、もう、ぎょうさんの者を、御計画に組み込んじょられます」

「松屋善次郎殿、善兵衛殿。村田蔵六殿。旭狼衛の皆様。わが師。そして——今日から、わしら、松下村塾の二十三名…」

「全員、姫君様の御計画のために——命を落とすかもしれんっちゅうことが、あるんです」

 部屋の空気が、重くなった。塾生たち、身を硬くした。年少組——山田顕義、飯田俊徳、正木退蔵——は、息を呑んだ。

「その者たちの死を、姫君様は、引き受けられまするか」

 糸子、しばしの沈黙。そして、答えた。

「……引き受ける」

「具体的には、どう、引き受けられるっちゅうんかね」

 久坂は眼を細めた。糸子は少し、詰まった。

 これは糸子が、まだ完全には言語化していない領域であった。しかし、ここで逃げなかった。

「——その者の家族を、終生養う」

「その者の名を、歴史に残す」

「その者の志を、計画の中に、組み込み続ける」

「わたくしが生きておる限り、忘れぬ」

「——それ、だけにござるか」

 糸子、一瞬、詰まった。そして、答えた。

「——それが、わたくしにできる、全てじゃ」

「命を奪うておきながら、何でもできるとは、言えぬ。言えば嘘じゃ」

「わたくしにできるのは、家族を養い、名を残し、志を継ぐ。——この三つ、だけじゃ」

「それを重いと見るか、軽いと見るか——それは、命を落とした者の家族が、判じることじゃ」

 久坂、頭を下げた。今度の頭の下げ方は、これまでで、最も深かった。

 松陰が、ひくり、と嗚咽を漏らした。

「姫君様……玄瑞の問いに、そこまで、正直に、お答え召されて……」


 そして糸子は思った。

(重い、重すぎる…もう勘弁してほしい。なんなの?、この久坂なにがしという奴は…)


十三 ——第七段:究極の問い

 久坂、顔を上げた。その顔には、それまでの鋭さとは違う色があった。疲労と、敬意と、それでもなお引かぬという意志とが、混じっていた。

「姫君様」

「——これが、玄瑞の、最後の問いにござりまする」


 糸子の内心。

(……えぇー、まだあるの?。もう本当に勘弁してください)


 久坂、ゆっくりと、語り始めた。

「これまでの問いの中で、姫君様は、幾たんか、『保証はない』『答えきれん』と、正直に、仰られました」

「玄瑞、それを責めるつもりは、ありゃあせんのです。むしろ、姫君様の御覚悟の深さに、頭を下げるばかりで……」

「——じゃけど、一つだけ」

 久坂、一呼吸置いた。

「——どうしても、聞いちょきたいことが、あるんです」

 糸子、沈黙して、待った。

「姫君様が、たった独りで泣きたい時は、どこで泣かれるんかね」

 部屋の空気が、止まった。


 それは、それまでのどの問いとも、違う質の問いであった。政でも、戦略でもない。——人の、弱さを、問う問いであった。

「お一人で背負うちょられる重荷は、あまりにも大きすぎまする」

「松屋善次郎殿、善兵衛殿は、商いの、同志にござります」

「村田蔵六殿は、知識の、翻訳者にござります」

「旭狼衛の皆様は、武の、護り手にござります」

「我が師、松陰先生は、信仰の、信徒にござります」

「——じゃけど」

「姫君様が、一人の人として、泣きたい時…その時、姫君様は、どこで泣かれるんかね」

「その重荷を下ろせる場所を……持っちょられるんかね」

 部屋全体が、凍結した。


 糸子の内心。

(そんなんしらんわ!。なんでこいつにそんな心配されにゃいかんのよ。どこで泣こうがわたくしの勝手だわ!!)


 松陰、顔を上げた。松陰の顔から、涙の跡以外の色が消えていた。

 初めて、松陰は——姫君様が、本当に、一人で背負うておられるのではないか、という思いに、到達した。

 水無瀬、扇を膝の上で止めた。

 葵、御簾越しに糸子を見た。糸子は、微動だに、しなかった。


 糸子、沈黙を続けた。一秒。二秒。五秒。十秒。十五秒。

 葵は、御簾越しに、糸子の袖の内側の指を、見ていた。その指が——動かなかった。それまでの沈黙では、糸子の指は、微かに動いていた。本気で考えている、という動きであった。しかし、今は、動かない。それは、葵にとって、初めて見る動きの止まり方であった。

(……姫様、答えがない)

(姫様が、答えをお持ちでない?)

 葵の胸の奥が、締め付けられた。

 塾生たちの誰もが、息を止めていた。入江九一は、弟の野村靖の肩に、無意識に手を置いていた。前原一誠は、畳を見つめたまま、動けない。伊藤博文の眼に、初めて、涙が浮かんだ。


 糸子の内心。

(まともに答えるのも馬鹿らしい。もう答えんでおこう…)


 糸子、長い沈黙の末に、声を漏らした。

「……久坂」

「はい」

「——お主の問い」

「……答えられぬ」

 それだけだった。

 久坂、深く、深く、一礼した。

「——姫君様」

「玄瑞、これ以上、問うことはありゃあせんです」

「姫君様の御器量、御覚悟——玄瑞、十二分に、拝見いたしました」

「玄瑞、己の未熟を、恥じ入り、奉りまする」

 久坂は平伏した。その平伏は、深く長かった。


十四

 松陰が、平伏の姿勢から、顔を上げた。その顔は、涙で濡れていた。

「玄瑞——!」

 松陰は声を震わせた。

「お主、理解したか! 姫君様の御器量を! ああ、玄瑞、わしの愛しき玄瑞が、ついに——!」

 松陰、両手で顔を覆って嗚咽した。

 水無瀬が、小さく息を吐いた。扇を膝の前に戻し、再び柔らかな笑みを顔に取り戻した。葵が、御簾の奥で、微かに安堵の色を見せた。小夜は、初めて肩の力を抜いた。


 塾生たちも、一斉に長い息を吐いた。入江九一が、野村靖の肩に置いた手を、そっと引いた。前原一誠が、唇の噛み締めを解いた。山県有朋が、伊藤博文の方を、ちらと見た。伊藤も、山県を見返した。二人の眼に、「玄瑞さん、すごかった」という、共通の言葉が浮かんでいた。


 御簾の奥で糸子は、小さく息を吐いてしょんぼりしていた。

(……なんでネチネチと個人的なことまで答えなきゃならないのよ)

(ハリスは論争したって感じがしたけれども、こいつは聞き方がいやらしい…)

(沖田殿に斬って貰っちゃおうかしら)


(とにかくなんでこんな疲弊しなきゃならんのよ……)


 その瞬間であった。

 左端、三列目。一つの影が、動いた。


十五

 高杉晋作が、平伏の姿勢から、ゆっくりと身を起こした。

 そして、軽く、咳払いをした。その咳払いは、静寂の中に、異物のように鮮明に響いた。

 松陰は顔を覆っていた手を、思わず下ろした。そして、高杉の姿を見て絶句した。

「……晋作?」

 高杉、松陰を一瞥して軽く笑った。

「先生、お待ちを」

 声は柔らかかった。しかし、眼は笑っていなかった。

「玄瑞は、確かに平伏いたしました」

「されど——玄瑞の最後の問い」

「姫君様は、……何ひとつ、お答えになっちょられません」

 部屋の空気が、再び、凍った。

 水無瀬の柔らかな笑みが、また消えた。葵、御簾の中を見た。糸子の影が、微かに傾いた。

 塾生たちの顔色が、一瞬で変わった。ようやく緩んだ張り詰めが、再び、倍の強さで戻ってきた。伊藤博文は思わず息を呑み、前原一誠は拳を握り直した。

 松陰、呻いた。

「晋作……お主、まで……」

 高杉、松陰の方を向いて、真っすぐに笑った。

「先生、ご安心を」

「わしは、玄瑞と違うて、真面目な問いはせんけぇ」

「——ちと世間話を、しとうござるだけじゃ」


 松陰、言葉を失った。

 高杉、松陰をそれ以上見ず、御簾の方へ向き直った。その動作には、緊張も気負いもなかった。むしろ、どこかの酒席で、隣の客に話しかけるような、気楽な動きであった。

 しかし、その気楽さの中に、玄瑞が突いた傷口を、さらに抉る刃が、隠されていた。


十六

「姫君様」

 高杉、口を開いた。声は涼やかであった。

「玄瑞の問いは、立派なもんにござった」

「筋は通っちょり、礼は尽くされ、そして、姫君様も、それに正直にお答えになられた」

「——見事な問答で、ござったのぉ」

 高杉、ここで、口の端を僅かに上げた。

「じゃけど——最後の問いに、姫君様は、『答えられん』と、仰られた」

「そのことが、わし、晋作は気になって、仕方がありませんのぉ」

 糸子、御簾の奥で、微かに身を硬くした。

 葵、それを感じ取った。

(——まだ、続くのですか?)


(姫様、本当の攻めはこっからじゃ)

 高杉、続けた。

「玄瑞が聞いたんは、姫君様が、独りで泣く場所のことじゃった」

「わしは問いを、ちーとばかし変えさせてもらいまする」


 高杉、一呼吸、置いた。そして、御簾の向こうに、真っ直ぐ、言葉を、放った。

「姫君様」

「——姫君様は、今、幸せに、ござりまするか?」


 部屋の空気が、一瞬で、止まった。

 松陰、絶句。水無瀬、扇を握り直した。塾生たち、固まった。

 久坂、平伏したまま、眼だけを高杉の方へ向けた。

(——晋作、お主)

(わしの問いの、そのさらに、奥を突きにいったんか)


 御簾の奥で、糸子は、息を呑んだ。

(…高杉氏、それは何処かの宗教勧誘の質問か、なにかかなっ?)

(今、幸せだと?…幸せに決まっとるわ、ボケー!)

(いろんな人に助けてもらっているし、ついこの間父上から愛情たっぷりの書状をいただいたわー!!)


 糸子、答えようとして、口を開いた。しかし、言葉が出てこなかった。

(もうだんだんあほらしくなってきた…)

(…というかなぜか?急に空しくなってきました)

(…心を『無』にすれば、何かこの状況が変わるのかしら?)

(…無念無想…無我夢中…雲心月性…無礙自在)


 葵は御簾越しに、糸子を見た。糸子の指が、袖の中で動かなかった。先ほど、久坂の最後の問いで止まった指が、まだ止まったままだった。

 部屋の、誰もが動かなかった。高杉は、答えを待っていた。しかし、焦らなかった。笑みさえ浮かべていた。

 松陰が、震える声で何か言いかけた。しかし、声にならなかった。塾生の列では、伊藤博文が両手で袂を握りしめ、前原一誠が目を見開き、山県有朋がついに顔を上げた。

 近藤と土方が、互いの眼を一瞬だけ見交わした。

 二人の眼には、——これは、今日、片付かぬかもしれぬ、という思いが、同時に浮かんでいた。


 冬の光が、障子を透して、畳の上に淡く差していた。沈香の煙が、静かに立ち昇っていた。

 御簾の奥で、糸子は、動かなかった。動けなかった。

 時が、止まったように、感じられた。

 そして——。


十七

 時は、止まったままであった。

 部屋のどこからも、音が、消えていた。

 沈香の煙が、細く立ち昇り、格天井の高みで、薄く流れていく。違い棚の冬梅の蕾は、先ほどから一つも形を変えていない。しかし、この部屋にいる全員の胸の内側では、何かが、確実に、変わりつつあった。

 松陰が、顔を上げた。その顔は、涙で濡れていたが、先ほどまでの歓喜の涙とは、もはや違っていた。松陰は、姫君様が言葉を失っているという事実を、生まれて初めて、目の当たりにしていた。

 松陰の中の、信仰の姫君様像——白く、光り、微笑んでいる姫君様——が、今、わずかに、揺らいでいた。

 それは、信仰の崩壊ではなかった。

 むしろ——信仰の、次の段階であった。

 松陰は、ようやく、気づいた。

(——姫君様は、完全ではない)

(完全ではないからこそ、本物なのじゃ)

(完全な者に、重荷は背負えぬ。不完全なお方が、不完全なまま、背負おうとしておられる)

(……わしは、そのお方を信じる)

 松陰、静かに、もう一度、畳に額をつけた。しかし、涙を流すことは、しなかった。代わりに、ただ、姫君様の沈黙を、共に、担おうとしていた。

 水無瀬は、扇を、膝の上に置いたまま、眼を伏せていた。

 公家として、長年、様々な沈黙を見てきた。しかし、今、御簾の向こうで沈黙しているこの沈黙は、水無瀬の知る、どの沈黙とも、違っていた。

(——姫君様、お答えをお持ちでない?)

(いや、それは違う。持っておられるが、それを、今は出せぬのじゃ)

(出せば、——壊れる)


 水無瀬の内心で、一つの決意が生まれた。後日、近衛忠房様に、この日のことを、どう書き送るか。水無瀬は、既に、その文面の草案を、頭の中で、組み立て始めていた。「姫君様は、松陰殿の弟子二名より、生涯最も深き問いを受けられ、お答えの用意を、お持ちでなかった」——そう書くほかはない。


 葵は、御簾のすぐ外側で、体を、動かすことができなかった。

 葵は、糸子に仕えて、既に数年になる。糸子の、ありとあらゆる表情、沈黙、指の動きを、葵は知り尽くしているつもりだった。しかし、今、御簾の向こうで、糸子が見せている停止は、葵にとって、初めて見るものであった。

 糸子の指は、動いていない。

 糸子の呼吸も、ほとんど、聞こえない。

 糸子は、そこにいて、そこにいないかのように、座していた。

 葵の胸の奥が、きゅうと締め付けられた。

(……姫様)

(姫様、お願いでございます。お答えは、いつか、ゆっくりお考えくださいませ)

(今、この場で、お一人で、お答えを捻り出そうとなさらぬよう)

 葵は、念じた。しかし、御簾の奥の糸子は、依然として、動かなかった。

 小夜は、葵の隣で肩を震わせていた。

 小夜は、葵ほど、糸子の癖を読み切れていない。しかし、小夜にも、この場の重みが、尋常ではないことは、分かっていた。御簾の向こうで、姫様が、答えを持たない。この事実だけで、小夜の若い心は、打ちのめされていた。


 塾生の列では、誰もが、息を止めていた。

 伊藤博文は、両手で袂を、強く握りしめていた。その手の甲に、爪の跡がつくほどに。伊藤は、生まれて初めて、弁舌というものの、怖ろしさを、体感していた。玄瑞の七段の問いと、晋作の一撃の問い。この二つが、御簾の向こうの姫君様を、沈黙に追い込んでいる。言葉が、こんなにも、人を深く抉るものだとは、萩の塾では、感じたことがなかった。

 山県有朋は、眼を伏せたまま、動かなかった。しかし、その内心では、一つの思考が、冷静に、走っていた。

(——玄瑞さんと晋作さんは、姫様の、ぶち深いところに辿り着いた)

(あの二人の弁舌、わしには、真似できん)

(じゃが、わしにも、わしなりの役目がある)

(政の、表に出ん部分を、担う役目が)

(——それを、今日、わしは決めたんじゃ)

 前原一誠は、拳を握ったまま、何度も唾を飲んでいた。

 入江九一は、弟の野村靖の肩を、無意識に、強く掴んでいた。野村はそれに気づいていたが、何も言わなかった。

 吉田稔麿は、松陰の横顔を、じっと見ていた。松陰が、先ほどから、涙を流し続けていることに、稔麿は気づいていた。

 しかし、稔麿は、師の涙の意味が、途中から変わったことにも、気づいていた。


 年少組——品川弥二郎、野村靖、渡辺蒿蔵、山田顕義、飯田俊徳、正木退蔵——は、ただ、息を止めて、前を見ていた。

 特に、最年少の飯田俊徳、十三歳は、この場の空気に、押し潰されそうになっていた。しかし、飯田は、隣の正木退蔵が、静かに涙を流しているのを見て、自分も泣いていいのだと、思った。


 部屋の四隅の旭狼衛は、誰も動かなかった。

 近藤勇は、壁際で、背筋を正したまま、御簾の方を見ていた。

(——姫様、お久しゅう、言葉に詰まっておられる)

(ハリスの時ですら、これほどのことは、なかった)

(……あの長州の二人、やってくれた)


 土方歳三は、眼だけを動かして、久坂と高杉を、交互に見ていた。

(——あの二人)

(……末恐ろしい)

(放っておけば、いずれ、天下を動かす)

(姫様が、あの二人を、どう使うか、——それ次第じゃ)


 沖田総司は、にこりと笑っていた。しかし、その笑みの下で、沖田は、唯一、刀の鞘に、指を触れていた。

 万が一、姫君様が、これ以上、追い詰められるようなことがあれば——という、念のためであった。

 斉藤一は、無表情のまま、部屋全体を、視界に収めていた。斉藤は、何も考えていないように見えて、全てを見ていた。


 そして、御簾の奥で。

 糸子は、動かなかった。

 糸子の内心は、もはや、「勘弁してほしい」でも「めんどくさい」でもなかった。

 それらを通り越した、純粋な、無が、そこにあった。

 一切の妄念を離れ、心が静まり返っている状態。


(……というか)

(そもそも幸せとは…)

(……幸せは人に応えるものではなく、自分で感じとり、決めるものだと思うの)


(最近は計画のことばかり考えてきたけど…)

(自分が幸せに感じなかったことなんてなかった)

(……本当にいろいろな人に協力して助けてもらっているもの)

(——自分一人では決してできないもの)

(感謝…という気持ちしかない。それがわたくしには幸せに感じられたこと)

 糸子の意識の、最も奥の方で、何かが、小さく、震えた。


 幸せ、という言葉。

 この魂が、この時代に来てから、一度も、自分に向けて使ったことのない言葉。

 その言葉を、今、御簾の向こうの、二十一歳の若者が、真正面から放ってきた。


 そして改めて自分が幸せであることに気が付いた。

 けど、今は完全な…幸せではない。


(京に戻って、父上の顔をみたいし、お梅と何気なく過ごしたいし、御門様ともお話もしたい…)

(向こうに残してきた人たちに会えないのは、ちょっとだけ寂しい…)

 糸子は改めて、そう気づかされた。


 糸子の指は、動かなかった。

 糸子の呼吸も、ほとんど、止まっていた。


 そして周りの人たちの考えとは裏腹に、糸子の内心では…

(父上の書状に『辛くなったら、いつでも京に帰っておいで』って書いてあったなぁ…)

(もう京に帰っちゃおうかなぁ)

 …しみじみと違うことを考えていたのであった


十八

 御簾の向こうで、糸子は——初めて言葉を失ったように見られていた。

 冬の光が、障子を透して、部屋の畳の上に、ゆっくりと、差し込んでいた。沈香の煙は、静かに、立ち昇り続けていた。冬梅の蕾は、相変わらず、固いままであった。

 時は、止まったまま、であった。

 しかし、止まった時の中で、ただ一つ、確かなことがあった。


 ——この沈黙は、次の一撃を、待っている。

 そして、高杉晋作は、次の一撃を、既に、懐に、用意していた。


 第七十八話  了

最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m

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― 新着の感想 ―
すごい、身分差で無礼というよりは人として無礼。さすが中二病、自分たちが常に判じて裁いて評価すると思ってる。
先生は中二病の純粋な人なのに弟子はねじくれてるのう。さすが100年以上日本の政界を支配してる長州人だ。
長州勢めんどくさいな 高杉と久坂は明治政府に要らないしな。姫様に消してもらおうか。
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