第七十七話「江戸の下調べ」
今回のお話は約2万文字と…かなり長くなっていしまいました(;^_^A。話を2つに分割しようかな?とも考えましたが、めんどくさいので止めました(爆)。頑張ってお読みいただければ…とおもいます m(_ _)m
一
万延元年、冬の深まり。
品川宿の甍が、午後の薄日に鈍く光っていた。東海道の終着近く、旅人の足音と馬子の掛け声がまだ途切れぬ時分、宿場のはずれの旅籠の門前に、一行二十三名が辿り着いた。
先頭を行くのは、三十を少し過ぎたばかりと見える細身の男であった。髷は結っているが、髪は乱れ、眼は爛々と輝いている。萩を発つ時から、この男の眼は終始この色であった。
吉田松陰。
松陰の左右に、若き二人の男が並んでいた。
右が高杉晋作。二十一歳。身なりは整っているが、どこか崩した着こなしで、袖口を少しだけまくっている。面立ちは涼やかだが、口元にはいつもかすかな笑みが浮かんでおり、何を考えているのか読みづらい。
左が久坂玄瑞。二十歳。こちらは一点の崩しもない身なりで、髷も襟も、旅の塵を帯びてなお端正であった。眉は濃く、眼光は鋭く、口は固く結ばれている。
その後ろに、二十名。
松門の四天王の一人、入江九一。二十三。兄貴分として年少組を束ねている。
山県有朋、二十二。無口で、道中ずっと景色を観察しているような男だった。
伊藤博文、十九。若い身体に似合わぬ緊張をその眼に湛えている。
吉田稔麿、十九。松門の三秀の一人として高杉・久坂と並ぶ才覚の持ち主だが、道中は二人の影に控えていた。
前原一誠、二十五。一行の中では最年長に近く、年少組の面倒をよく見ていた。
品川弥二郎、十七。
野村靖、十八。入江九一の実弟。
山田顕義、十六。
渡辺蒿蔵、十七。
正木退蔵、十四。
飯田俊徳、十三。一行の最年少。
杉山松助、二十二。
松浦松洞、二十三。絵筆をいつも携えている。
増野徳民、十九。
有吉熊次郎、十八。
河北義次郎、十七。
境二郎、二十三。
飯田吉次郎、十六。
岡部富太郎、十九。
武藤一太郎 十六。
それに名もなき数名。併せて二十三。
その誰もが、一様に埃を帯び、髷を崩し、口は乾き、足は重い。
旅籠の門前に、六人の男が立っていた。
いずれも近衛柿色のだんだら模様の羽織、帯刀。その物腰は武家のそれであったが、並の武家とは違う。佇まいに隙がなく、互いの間合いを無言で保っており、六人で立っているだけで一個の獣のような気配がある。
その先頭の男が、一歩進み出た。
「松下村塾御一行と御見受け申す」
低い声であった。
「それがし、旭狼衛が一番隊、土方歳三と申す。御一行を試衛館ならびに小舟町の長屋までお連れ申し上げる役目を仰せつかっており申す」
松陰が、声を上げた。
「おお! 近衛の姫君様の御手の者か! 苦しうない、苦しうない!」
土方の眉が、ほんのわずかに動いた。
それは、この男が既に百数十を超える賊を斬り、数十の刺客を返り討ちにしてきた眉であったが、今、目の前の男に対しては、困惑以外の何の感情も動かす必要がなかった。
ただ、片眉だけが、ほんの少しだけ、動いた。
(……噂通り、か。これは)
土方の内心には、それだけがあった。
高杉が、その光景を横目に見ていた。
先生の背中。旭狼衛の黙した応対。
そして高杉は、隣の久坂に、声にならぬ声で囁いた。
「玄瑞」
「うむ」
「先生は、完全に向こう側の人じゃねぇ」
「……うむ」
それきり、二人は口を噤んだ。
二
旅籠で一刻ほど休みを取り、改めて江戸市中へと向かった。
品川から江戸への道筋は、海沿いに続く。冬の海は、鉛を溶かしたような色で、沖には幾艘かの弁才船が白い帆を膨らませている。浜辺には漁師の小屋が点在し、網を繕う女たちの姿があった。
道の両側には、武家屋敷の長い塀が続き、所々に町家の屋根が覗く。冬の陽は既に傾きかけ、塀の影が道の上に長く伸びていた。
松陰は、鼻歌まじりに歩いていた。
江戸。
この地に、愛しき姫君様がおわす。
松陰の頭の中は、明日その御姿を再び拝することの期待で、ほぼ満たされていた。残りのわずかな場所で、弟子たちを姫君様に披露し、感涙させる場面を想像していた。
高杉と久坂は、その背中の三歩後ろを歩いていた。
二人とも、無言であった。
道を歩きながら、高杉は、江戸の町の空気を吸っていた。
(……賑やかじゃのう)
そう思った。
確かに、江戸は人が多い。物売りの声、駕籠かきの掛け声、武家の馬の蹄の音、寺の鐘。音の層が萩とは全く違う。
しかし、高杉が感じ取ったのは、賑わいそのものよりも、その底にある何かであった。
何と言うべきか。
町人たちの笑い声の奥に、少しだけ、強張りがある。
すれ違う武家の眼に、時折、妙な油断のなさがある。
茶屋の女が、茶を運びながら、ふと道の両側を見渡す癖がある。
そういう、細かな違和感が、江戸の空気の底に、一粒ずつ沈殿している。
高杉は、それを感じていた。
(……なんかあったんじゃろ、この町で。それも、つい最近のことよ)
萩にいても、江戸の噂は断片で聞いていた。一番新しく、そして最も衝撃が大きかったのは、去年の冬。
大老、井伊直弼。
彦根藩江戸藩邸への、討ち入り。
元水戸脱藩浪人を中心とした百名以上の国士と呼ばれた浪人が、夜陰に乗じて彦根藩邸に斬り込み、大老を討ち取った。
その噂が萩に届いた時、松陰は狂喜した。「天誅じゃ! 天のなさる業じゃ!」と叫び、塾生たちの前で血走った眼で語り続けた。
しかし、高杉は、冷静な方であった。
(……誰が仕組んだん?)
高杉は、そう思った。
百名以上の浪士が、示し合わせて江戸の大老屋敷に夜討ちをかける。これは、偶発の所業ではない。
誰かが、金を出し、誰かが段取りを組み、誰かが情報を流した。
その誰かは、誰か。
萩では、それを確かめる術がなかった。
しかし今、自分は、江戸にいる。
そして——先生がお仕えしようとする「近衛の姫君様」とやらが、江戸の中枢にある。
(あのお方が、もし、関わっちょるとしたら——)
高杉は、そこまで考えて、口元に、微かな笑みを浮かべた。
(こりゃ、ぶち恐ろしいお方じゃねぇ)
隣で、久坂が歩いていた。
久坂は、高杉とは全く違うものを見ていた。
久坂の眼は、道を歩く人々よりも、道そのものを見ていた。
この道筋。大名行列の通る道。荷駄の通る道。江戸城の位置。武家屋敷の配置。
それらを、頭の中で地図に起こしていた。
(——江戸の構造)
久坂は、既に、明日の対面のための情報収集を始めていた。
近衛の姫君様が、江戸のどこに拠点を置いておられるか。それが、姫君様の性格を読む手掛かりとなる。
松屋善兵衛の日本橋小舟町。そこがいずれ本拠地になる、と先生から聞いていた。
小舟町、といえば、日本橋川に近く、商人の町である。大名屋敷の立ち並ぶ外桜田あたりでも、寺社奉行の周辺でもない。
(——公家の姫君様が、商人の町に拠点を置かれるんじゃと)
その一事だけで、久坂は、姫君様の性格の一端を読み取った。
(権威じゃのうて、実を重んじられるお方じゃ)
ただし、それは表面の判断にすぎない。
商人の町に拠点を置かれるのは、身軽に動くためかもしれぬ。あるいは、朝廷の監視から外れるためかもしれぬ。あるいは、商人の力を自らの計画に組み込むためかもしれぬ。
そのどれが本当か。
久坂は、明日、自分の眼で、確かめる。
いや——。
明日では、遅い。
今夜のうちに、可能な限りの情報を集める。
久坂の眼は、既に、そう決めていた。
三
試衛館。
市ヶ谷、甲良屋敷の一角にある、天然理心流の剣術道場である。
母屋の前に立った時、松陰は、一瞬、息を止めた。
「……ここが……」
松陰の声が、震えた。
「ここが、剣客どもの聖地……」
その言葉を聞いた土方は、表情を微塵も動かさなかったが、内心で一つだけ呟いた。
(……姫様、これは、想像を超えておられるぞ)
母屋の玄関から、一人の男が出てきた。
体格は中背、肩幅は広く、顔は丸みを帯びて鷹揚な印象。しかしその眼は鷹のように鋭い。
近藤勇。
旭狼衛の頭領であり、試衛館の主である。
「松下村塾御一行、ようこそお出でなされた。近藤勇にござる」
一礼した近藤に、松陰は涙ぐんで進み出た。
「近藤殿……! 貴殿が近藤勇殿か! 姫君様をお守りされておる、あの近藤勇殿か!」
「左様にござる」
「おお、おお……!」
松陰、近藤の手を取りかねない勢いであったが、さすがに直接触れることは慎んだ。しかし、その眼は既に潤んでいた。
近藤、困惑。
高杉、久坂、その他の塾生、この光景を黙って見ていた。
(……先生、落ち着いてつかーさい)
久坂が、腹の中でそう呟いた。
試衛館の母屋は、木造二階建てで、玄関を入ると広い土間があり、奥に道場がある。道場は板張りで、床は長年の稽古で黒光りしていた。正面には神棚があり、注連縄が掛かり、奥には天然理心流の開祖・近藤内蔵之助長裕の名を記した位牌が祀られていた。
道場の左右には、木剣が並べられ、壁には稽古着が掛かっている。
松陰は、道場に足を踏み入れた瞬間、また震えた。
「……ここで……」
「ここで、近藤殿、土方殿、沖田殿、斉藤殿らが、日々、剣を鍛えておられるのか……」
松陰、神棚に向かって深々と一礼。
近藤、ちらと土方を見る。土方、小さく首を振る。「姫様案件じゃ」という意味を込めて。
試衛館の奥には、客間が幾つかあり、今回、松陰一行のうち七名がここに宿泊することになっていた。松陰、高杉、久坂、山県有朋、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一の七名である。
残る十六名は、小舟町近辺の、松屋善兵衛が用意した長屋に分宿。統率役として、年長の前原一誠を置いた。
試衛館の客間は、六畳二間と四畳半一間の、合わせて三部屋であった。松陰が一人で四畳半を使い、六畳の一間に高杉・久坂・山県の三人、もう一間に伊藤・吉田稔麿・入江九一の三人という割り当てとなった。
夕刻、近藤が、試衛館の女房・つねに命じて、夕餉の支度を整えさせた。
四
試衛館の台所は、母屋の東側にあった。
大きな土間に、竈が二つ。棚には味噌甕、醤油甕、味醂の徳利、米櫃、粉挽きの臼。壁には大根、牛蒡、里芋が藁で縛られて吊り下げられている。天井からは鮭の切り身が、燻して乾かされていた。
夕餉は、冷飯と、大根と油揚げの味噌汁と、鮭の塩焼きと、漬物。簡素であったが、旅疲れの一行には、十分に温かい食事であった。
松陰は、食欲がなかった。
箸は持っているが、ほとんど動かしていない。眼は、天井のあたりを彷徨い、時折、小さな声で「明日……明日……姫君様……」と呟いていた。
高杉は、黙々と食べていた。鮭の塩焼きを骨まで綺麗に食べ、味噌汁を二杯おかわりした。
久坂も、黙々と食べていた。ただし食べる速度は高杉よりも遅く、一口ごとに箸を置き、姿勢を正してから次の一口に進むという、作法の教科書のような食べ方であった。
山県は、何も言わず、淡々と食べていた。
伊藤博文は、高杉と久坂の顔を盗み見ながら食べていた。二人が何も話さぬことが、伊藤には、かえって気がかりであった。
食事が終わると、つねが、手際よく器を下げ始めた。
その時、廊下の向こうから、一人の若者が現れた。
歳は二十を過ぎたくらい。痩せて、背は高く、色は白く、顔立ちは愛らしいといってよいほどであった。しかし、廊下を歩くその足音は、地面に吸い付くように静かで、そこにはこの若者のもう一つの素顔があった。
沖田総司。
旭狼衛一番隊の、実質的な剣の使い手であり、近藤・土方に並ぶ試衛館の三本柱の一人である。
沖田は、にこりと笑って、松陰に一礼した。
「吉田殿、本日はお疲れでしたでしょう。夕餉の後、ゆっくりとお休みくださいませ」
松陰、既に魂が抜けている。
「……お……沖田殿……」
「はい」
「沖田殿が、……姫君様の……」
「はい、ご警護の一員にござります」
「……おお……」
松陰、両手で顔を覆って涙を拭った。
沖田、にこにこしながら、さりげなく高杉の方に視線を向けた。そして伊藤に、
「伊藤殿、お茶のおかわり、お持ちしましょうかぁ?」
と、極めて朗らかな調子で声をかけた。
伊藤、緊張しながら、
「は、はい、よろしくお願いつかーさい」
沖田、にこにこと台所へ戻っていった。
その背中を、高杉が、じっと見つめていた。
五
夕餉の後、松陰は、自室に籠もった。
「明日のために、精神を整える」とのことであった。松陰の「精神の整え方」は、要するに、姫君様の御姿を想像しながら日記を書くことであり、その間は誰の声もほぼ耳に入らなかった。
高杉は、立ち上がった。
「ちと、厠へ」
そう言って、部屋を出た。
久坂、その背中を見て、何も言わなかった。
久坂は久坂で、既に、自分の情報収集を始める段取りをつけていた。
高杉は、廊下を、少しだけ遠回りに歩いた。厠は北側にあったが、高杉はまず東側の廊下に出て、台所の気配を探った。
台所の土間で、沖田総司が、一人で茶碗を洗っていた。つねは既に奥に引っ込んでいるらしく、沖田一人の姿があった。
高杉は、廊下の角から、にこりと笑って声をかけた。
「沖田殿」
沖田、顔を上げた。
「おや、高杉殿」
「ちーと、一杯、付きおうてくれんかね」
高杉は、懐から、一本の小さな徳利を取り出した。品川宿で買い置いておいた、上等の酒であった。
沖田、にこにこして、
「高杉殿、お酒はちょっとぉ……。私、弱いものでぇ」
「水でええ。わしが飲む。お主は話すだけでええんじゃ」
高杉、ひょいと台所の土間に入り、竈のそばの薪にどっかりと腰を下ろした。沖田、少し迷ったが、洗い物を中断して、高杉の向かいに座った。
台所の灯りは、竈の残り火と、天井から吊るされた行灯一つ。壁際には、先ほど下げた膳が重ねてあり、味噌汁の残り香が、まだ僅かに漂っている。
高杉は、徳利の栓を抜き、ぐいと一口、冷や酒を飲んだ。
そして、何気ない調子で、口を開いた。
「沖田殿」
「はい」
「近衛の姫君様ちゅうのは、どがーなお人なんね」
沖田、にこりと笑ったまま、少し考えるように首を傾げた。
「姫君様ですかぁ……うーん」
「うむ」
「——怖い方ですよ」
高杉、徳利を傾けかけた手を止めた。
「ほう、恐ろしいこと。そがーなお方なんね?」
「はい」
「どがい、おそろしいん」
沖田、少し間を置いて、
「御簾の向こうにいらっしゃるだけなのに、部屋の空気が変わるんです」
「ふむ」
「私、人を斬る時、相手の呼吸を見るんですけどね」
高杉、眉を上げた。
「……ほう」
「姫君様は、御簾の向こうで呼吸を止めておられる時が、一番怖いんですよ」
「……」
「あの、間というんですかねぇ。御簾の向こうで、何秒か、何も聞こえない時があるんです。その何秒かで、もう、相手が斬られておるんですね。言葉で、ですけど」
高杉、含み笑いを浮かべた。
「言葉で、斬る姫君様じゃちゅうんか。そりゃあ、えらいことよ」
「はいぃ」
「ふむ」
高杉、もう一口、酒を飲んだ。
「沖田殿」
「はい」
「言葉で斬られたちゅう者が、これまで何名ほどおられたんかいね」
沖田、天井を見上げて、指を折り始めた。
「えーと、去年の春頃から……幕閣の、姓は忘れましたけどお一方。それから勘定方の方がお二方。あと、阿蘭陀屋敷の方が一名……」
「ほう」
「それから、つい最近では、ええと」
沖田、そこで、にこりと笑って口を止めた。
「ちょっと、最近のは、姫様のご用事で見学していただけなんで、詳しくは言えないんですけどねー」
高杉、眉がかすかに動いた。
(——出たな)
高杉は、それを顔に出さず、悠然と酒を飲み続けた。
「見学、じゃと……。そりゃあ、えらい見学もあったもんじゃのう」
「はい」
「姫君様のご用を、沖田殿が見学しちゃる、と。そりゃあまた、えらいことになったのう…」
「はい、そういうこともあるんですよぉ」
「ふむ」
高杉は、話題を変えた。
「ところで、沖田殿」
「はい」
「江戸に入って町を歩いちょると、なんや、空気の底にぴりぴりしたもんを感じるんじゃが…」
沖田、にこりと笑った。
「あぁ、それはぁ、去年の冬の——」
「井伊大老の件じゃろうね。そりゃあ、町がぴりぴりするわけよ」
「はい」
沖田、あっさりと頷いた。
「あれ以来、江戸の町は、まだ落ち着いていないんですねぇ。幕府のお膝元で大老が討たれましたから」
「ふむ」
「当日の夜は、私たちも、かなり駆け回りましたよ」
高杉、ぴくりとした。
「——駆け回ったん」
「はい」
「旭狼衛が、か」
「はい」
「……討ち入りの夜に、旭狼衛が、江戸の町を駆け回った、ちゅうんか……?」
沖田、少し困ったように笑った。
「あぁ、すみません、これもちょっと、詳しくは言えないんですけどねー。姫様のご用事で、ちょっと見学というか、様子を見てきたというか」
高杉、徳利を傾けたまま、動かなかった。
(——見学)
(井伊大老討ち入りの夜の、見学)
高杉の頭の中で、幾つかの断片が、音もなく繋がった。
百名以上の元水戸脱藩浪人を中心とした国士による、組織的な討ち入り。
誰かが段取りを組み、誰かが情報を流し、誰かが金を出した。
その夜、旭狼衛が、江戸の町を駆け回っていた。
理由は、「姫様の用事で、見学」。
そして、旭狼衛は——近衛の姫君様の、直属と言ってもいい武士集団。
高杉、口元で、ほんの僅かに笑った。
それを見た沖田、首を傾げた。
「高杉殿、何かぁ?」
「いや」
高杉、首を振った。
「沖田殿、姫君様は大老の討ち入りについて、どがーに仰っしゃったん」
沖田、にこにこしたまま、
「えーと、あの日の翌朝、姫様は、『——ふう、一つ、片付いた』と、お茶を召し上がっておられましたねぇ」
「……」
「あ、これもあんまり外では言わない方が——って、もう言っちゃいましたね」
沖田、にこりと笑った。
高杉、真顔で沖田を見た。
そして、一呼吸置いて、笑い出した。
「——はっ。はっはっはっはっはっ」
「何かぁ?」
「いや。——沖田殿、お主、本当は、わしに全部しゃべりに来たんじゃろ?」
沖田、にこにこ。
「えー、そんなことないですよぉ」
「いや、あるのう」
「そうですかぁ?」
「お主、姫君様の命で、わしに話しに来たんじゃろ。『高杉いう男が、必ず聞きに来る。聞きに来たら、この話とあの話だけ、漏らしてやり』と…」
沖田、初めて、ほんの少しだけ、真面目な顔になった。
そして、すぐに、にこりと元の笑みに戻した。
「高杉殿」
「うむ」
「お酒、美味しいですか?」
「美味いのう」
「それは、よかったですぅ」
沖田、茶碗の洗い物に戻った。
高杉、酒をぐいと飲み干し、徳利を逆さに振って、最後の一滴まで喉に流し込んだ。
そして、立ち上がった。
「沖田殿」
「はい」
「また、今度、一杯やろうや」
「はぁい」
高杉、台所を出た。
廊下に出て、一歩、二歩、歩いたところで、高杉は足を止め、天井を見上げた。
(——ぶちおもしろい。……こりゃあ、ええわい)
(身分ぁ嫌うて、商人ぁ使い倒し、志士を動かしては、言葉で幕閣を斬りよる……。そがーな真似、普通の人間にゃあできやあせんのう)
(それから、井伊大老の討ち入りにゃあ、何かしら関わっちょるんじゃろうのう。……間違いのう)
(百名を超える浪士を動かせるお方が、姫君様じゃちゅうんなら…)
(こりゃあ、わしの想像をはるかに超えちょる。ぶち恐ろしい、とんでもないお方じゃねぇ)
高杉、口の端を上げた。
(わしと同じ血が流れちょる。……いや、わしより、もう一つ上の血かもしれん。そがーな気がするんよ)
その内心独白を、行灯の灯りだけが、静かに聞いていた。
六
同じ頃。
試衛館の客間の一つ。
久坂玄瑞は、硯の前に座って、一通の書面を認めていた。
行灯の灯りは、久坂の横顔を照らしていた。その横顔は、固く、端正で、一点の緩みもなかった。
筆を動かす手は、一文字一文字、丁寧に進んでいた。
『松下村塾門下生、久坂玄瑞。水無瀬実光様に拝謁の儀、御取次を願い奉り候』
短い、しかし礼を尽くした文面である。
久坂は、書面を二度読み返し、墨が乾くのを待って、丁寧に折り畳んだ。そして、それを袂に収めた。
同室の山県有朋が、久坂の動きを、寝床から見ていた。
「玄瑞」
「何じゃ」
「——何をしちょるん」
「水無瀬様に書面を」
「水無瀬様、とは」
「お公家様じゃちゅうんか。姫君様の御側に控えちょると聞いておるが」
「ふむ」
山県、それ以上は聞かなかった。
久坂、立ち上がり、襖を開けて廊下に出た。
試衛館の母屋は静まっていた。松陰の自室からは、時折、小さな呟きが漏れてくる。「姫君様……明日……明日……」という、うわごとのような声である。
久坂は、その声を背に、玄関の方へ向かった。
玄関の土間に、近藤勇がいた。
近藤は、上がり框に腰を下ろし、一本の木剣を膝に置いて、刃の反りを指でなぞっていた。これは、稽古の後ではなく、単に武器の手入れと、夜の警戒を兼ねた、日課のようなものであった。
久坂、土間に下り、近藤の前に進み、両手をついて深々と頭を下げた。
「近藤様」
近藤、顔を上げた。
「……久坂殿か」
「夜分にお騒がせし申うす」
「何事にござるか」
久坂、書面を取り出して、両手で近藤に差し出した。
「水無瀬様への書面にございます。誠に恐縮ながら、お取次を願い奉りとう存じ申うす」
近藤、書面を受け取った。表には「水無瀬実光様」とだけ、端正な字で記されていた。
近藤は、書面を開かぬまま、それをじっと見た。
そして、久坂の顔を見た。
久坂の顔は、端正で、一分の崩れもなく、両手は膝の上に置かれ、眼は真っすぐに近藤を見ていた。
近藤、内心で一つだけ、呟いた。
(——真面目じゃな)
近藤は、この男に、不思議な感触を覚えた。
一人の若者が、師の仕える主を、対面の前日に、自分の足で、自分の書面で、調べようとしている。それは当然といえば当然のことであるが、その実行の仕方が、あまりにも筋が通っていた。
御取次役を経由せず、朝廷のお方に直接書面を送ろうとする大胆さ。しかしその書面の文面は、一分の非礼もなく、礼を尽くしている。
近藤は、この男の人となりの一端を、書面一枚で読み取った。
「——承知」
近藤は、書面を懐に収めた。
「今夜のうちに、水無瀬様のもとへ届け申す」
「ありがたき幸せに存じまする。……かたじけのうございます」
久坂、さらに深々と頭を下げた。
「それから、もう一点、お願い申し上げたき儀がございまする」
「何か」
「試衛館の、葵殿とは」
近藤、眉を動かした。
「葵殿は、姫君様の御側に仕える侍女じゃ。試衛館にはおらぬ。小舟町じゃ」
「ほう、左様(うなことでございましたか。」
「何故、葵殿に」
久坂、躊躇なく答えた。
「姫君様の御人柄を、御側にお仕えする侍女の方から伺うことができれば、明日の御目通りに、失礼のない対応ができようかと存じ申うす」
近藤、しばし、久坂を見た。
そして、首を振った。
「葵殿に会うのは、難しい。今夜のうちには無理じゃ。水無瀬様との御取次が叶うたとて、葵殿となると、順を経ねばならぬ」
「左様にござりまするか」
「……御無念にござるが、明日、御目通りの場で、お主自身の眼で、姫君様を拝し、御判断召されい」
久坂、深々と一礼。
「承知仕り申うした」
久坂、立ち上がって、玄関に戻ろうとした。その時、近藤が、呼び止めた。
「久坂殿」
「はい」
近藤は、木剣を膝の上で止めたまま、久坂の背に向けて、一つだけ、言葉をかけた。
「——お主、明日、姫君様に、何を尋ねる気じゃ」
久坂、振り返った。
そして、少しだけ、逡巡した。
しかし、逡巡は、すぐに収まった。
「——姫君様が、真に日本のために動いちょられるんか」
「それとも、近衛家のために動いちょられるんか」
「それを、問い申す」
近藤、眉一つ動かさなかった。
ただ、静かに、言った。
「——存分に問うがよい」
久坂、深々と一礼して、玄関に戻った。
近藤、久坂の背を見送り、懐の書面を、もう一度、指で確かめた。
(——水無瀬様に、届けねばならぬな)
近藤、立ち上がった。
七
水無瀬実光は、一橋上屋敷にあった。
一橋上屋敷は、一ツ橋門の内側に広がる場所にあった。一橋徳川家の家格にふさわしく、屋敷の敷地は広く、表門は立派な冠木門で、内には松と竹と梅の植え込みが配されていた。
水無瀬の居室は、離れの奥座敷の一つにあった。八畳ほどの間に、床の間があり、床には山水の掛け軸と、梅の一枝が活けられていた。文机の上には、書きかけの書状と、巻物が数巻、積み上げられていた。
水無瀬は、書状の続きを認めていた。京の近衛忠房への報告書であった。
行灯の灯りが、水無瀬の横顔を照らしていた。水無瀬は、三十を過ぎたばかりの、細面の公家であった。口元には常に柔らかな笑みを湛えているが、眼は極めて鋭い。
襖の外から、近藤の声がした。
「水無瀬様。近藤にござる」
「入られよ」
近藤、襖を開けて入り、書面を水無瀬の前に差し出した。
「松下村塾の久坂玄瑞なる者より、水無瀬様への御取次の願いにござる」
水無瀬、筆を置いた。
書面を開き、文面を読んだ。
そして、水無瀬は、ほんの僅かに、眉を上げた。
「……礼を尽くしておる」
そう呟いた。
「松陰殿の弟子の中に、このような者がおるか」
水無瀬は、書面をもう一度読み、近藤の方を見た。
「近藤殿」
「はい」
「この久坂、どのような男じゃ」
近藤、少し考えてから、答えた。
「——端正な男にござる。一分の崩れもござらぬ。眼が、真っすぐで、逸らしませぬ」
「ふむ」
「それから」
「何じゃ」
「明日、姫君様に、『真に日本のために動いておられるか、それとも近衛家のために動いておられるか』を、問う、と」
水無瀬、一瞬、動きを止めた。
そして、微かに笑った。
「——面白い」
水無瀬は、しばし考えてから、
「近藤殿、久坂にお伝えなされ。今宵、一刻の後、当屋敷にて拝謁を許す、と」
「承知」
近藤、一礼して、退出しようとした。
その背に、水無瀬が声をかけた。
「近藤殿」
「はい」
「——松陰殿の、中二病の弟子にしては、ずいぶんと、ものが違うようじゃな」
水無瀬の口元には、笑みがあった。
近藤、無言で、一礼して退出した。
八
一橋上屋敷の別邸、奥の座敷。
久坂玄瑞は、水無瀬実光の前に、平伏していた。
八畳の間は、行灯の灯りだけで照らされており、床の間の掛け軸の山水画が、灯りの揺らぎに合わせて、微かに表情を変えるように見えた。
久坂は、襟を正し、手は膝の前に置き、眼は畳を見つめていた。
「——久坂玄瑞にござりまする」
声は、震えてはいなかったが、固かった。
「御多忙の折、御拝謁を賜り、まことにありがたき幸せに存じ申うす」
「よい」
水無瀬、手を挙げて遮った。
「早う、本題を申せ」
久坂、一呼吸置いて、顔を上げた。
水無瀬の眼と、久坂の眼が、交わった。
「畏れながら、——明日、御目通りを賜る、近衛の姫君様。どがーなお方か、事前に伺うておきたく、参上仕り申うした」
水無瀬、少し首を傾げた。
「……お主、何を知りたい」
久坂、即座に答えた。
「三点にござい申うす」
「申せ」
「一つ。姫君様が、御門様と、どがーな御関係にあらせられるか。」
「二つ。姫君様の御計画が、朝廷公認のもんにござるか否か。」
「三つ。姫君様の御人柄の、真の御姿にござい申うす。」
水無瀬、しばしの沈黙。
そして、微かに笑った。
(……この若造、要点を外しておらぬ)
水無瀬は、内心で、そう唸った。
三つの問いは、いずれも、公家社会では「直接問うてはならぬ」とされるものであった。皇室との関係、朝廷の公式性、人物評。どれも、婉曲に、暗喩で、周辺から推し量るのが作法である。
それを、この二十歳の長州藩士は、正面から三つ、並べてきた。
無礼ではある。
しかし、水無瀬は、この無礼を「若さ」や「田舎」のせいと見なさなかった。
これは、計算された無礼である。
この男は、婉曲な問いでは時間がかかると見て、正面突破を選んだ。そして、正面突破を選んだ以上、その責は自分で負う、という覚悟がある。
(——松陰殿の弟子に、このような男が……)
水無瀬は、しばし思案した後、
「一つ目」
と、口を開いた。
「姫君様は、御門様より格別の御寵愛を賜っておる。非公式ではあるが、御目通りの機会を、幾度も賜っておられる」
久坂、眼を見開いた。
それは、想像を超えた答えであった。朝廷と姫君様が「近しい」とは聞いていた。しかし「格別の寵愛」「幾度もの非公式の御目通り」となれば、これはもはや、近衛家の筆頭としての立場を遥かに超えた関係である。
「二つ目」
と、水無瀬は続けた。
「姫君様の御三事業——天朝御用商務惣会所、商務語学所、海外輸出事業——これらは全て、御門様の綸旨を賜って推進されておる。朝廷公認である」
久坂、言葉を失った。
綸旨。
天皇の勅命の一種である。これが下されているということは、姫君様の事業は、単なる私的な試みではなく、朝廷の公式事業であるということである。
そして、三つ目。
久坂は、水無瀬の口を、じっと見た。
水無瀬は、微かに笑って、
「三つ目。——お主、明日、自分の眼で確かめよ」
久坂、一瞬、息を呑んだ。
しかし、すぐに、深々と平伏した。
「……承知仕り申うした。」
「かたじけのう存じ奉り申うす。」
久坂、そのまま顔を上げなかった。
水無瀬、扇を軽く畳の上に置き、
「久坂」
「はい」
「お主、明日、姫君様を試そうとしておるな」
久坂、平伏したまま、答えた。
「——左様うにござい申うす」
「隠さぬな」
「隠したところで、水無瀬様には見抜かれまする」
水無瀬、軽く笑った。
「——存分に試すがよい」
「ただし、一つだけ、申し伝えておく」
「はい」
水無瀬、扇を軽く握り直し、
「——姫君様は、試される側であると、同時に、試す側でもあられる」
「お主が姫君様を試しておる間、姫君様もまた、お主を試しておる」
「その覚悟をもって、明日、臨まれよ」
久坂、深々と一礼。
「——承知仕り申うした」
久坂、退出した。
座敷には、水無瀬一人が残った。
水無瀬、扇を取り上げ、軽く胸元に当てて、天井を見上げた。
(……面白き若造じゃ)
そして、小さく呟いた。
「——姫君様、明日は、楽しみにござりまするな」
行灯の炎が、ほんの少しだけ、揺れた。
九
久坂が一橋上屋敷を出て、試衛館に戻ってきた時、既に時は四つ半を過ぎていた。
試衛館の客間は、大半が寝静まっていた。松陰の部屋からは、まだ呟き声が漏れてくる。「姫君様……明日……姫君様……」という、無限ループのような声である。
久坂が自室に戻ると、山県は既に寝ていた。襖の向こう、もう一つの客間からは、伊藤博文の鼾が聞こえてきた。
そして、高杉が——。
高杉は、起きていた。
寝床の上に胡座をかいて、天井を見上げていた。その口元には、まだ、あの微かな笑みが残っていた。
久坂が部屋に入ると、高杉は、ちらと眼を向けた。
「——玄瑞、遅かったのう」
「うむ」
「水無瀬様に、会うて来たんか」
久坂、少し驚いた。
「——よう、分かったのう」
高杉、ニヤリと笑った。
「お主の性格で、情報収集をするとなれば、水無瀬様か、葵殿か、そのどっちかじゃ。今夜のうちに葵殿に会うんぁ無理じゃろうけぇ、水無瀬様となる」
「——晋作、お主、なして行かん」
高杉は笑った。
「行くのぁ、お主の役目じゃ。わしぁわしで、別の情報を拾うちょった」
「……どこで」
「台所じゃ」
久坂、眉をひそめた。
「台所、じゃと」
「うむ。沖田殿と、一杯やった」
久坂、黙った。
高杉の情報収集の手法は、久坂には真似できない。久坂は、必ず、書面を書き、取次を経て、正式の会見を求める。高杉は、ふらりと現れ、ふらりと相手の懐に入り、ふらりと情報を持ち出す。
どちらが正しいとは言えない。しかし、この二人が組めば、上から下まで、一晩で情報を拾える。
久坂、寝床に腰を下ろし、
「晋作」
「うむ」
「お主、どがーな姫君様像を、持ったん。」
高杉、天井を見上げたまま、少しだけ笑った。
「——おもしろいお方じゃ。」
「身分ぁ嫌い、商人ぁ使い、志士を動かしては、言葉で幕閣を斬られる。それから——」
高杉、そこで一呼吸置いた。
「井伊大老の件に、なんらかの形で関わっちょられる。」
久坂、眼を見開いた。
「——なんと」
「沖田殿が、匂わせてきた。『姫様のご用事で、見学』と。その『見学』いうんが、大老討ち入りの夜じゃったらしい。」
「……」
「全部を語ったわけじゃあありゃあせん。わずかに、匂わせただけじゃ。されど、沖田殿は、『話してええ限界』を心得えちょる男じゃ。あの匂わせは、偶然じゃあありゃあせん。——姫君様の指示じゃろうのう。」
久坂、黙って、高杉の言葉を聞いていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「——なるほど」
「わしから見た姫君様ぁ、世をひっくり返す同類じゃ。身分に縛られず、言葉を武器とし、時に泣き真似で人を騙し、時に百人の浪士で大老を討つ。——わしと同じ血が通うちょる。いや、わしより一つ上の血かもしれんのう。」
「つまり——」
高杉、天井から眼を戻し、久坂の顔を見た。
「わしの仲間に、なりうるお方じゃ」
久坂、しばし、高杉を見つめた。
そして、自分の見た姫君様像を、語り始めた。
「……わしは、違う」
「うむ」
「——わしが見た姫君様ぁ、御門様の格別の御寵愛を賜り、綸旨を背負われ、朝廷の事業として御三事業を推進されるお方じゃ。」
「恐ろしいほど緻密で、器の大きな——師が生涯を賭けるに足る御方にござい申うす。」
高杉、面白そうに笑った。
「——二人で、まるっきり違う絵を見ちょるのう。」
「当たり前じゃ。お主とわしぁ、見ちょる場所が違うけぇ。」
「じゃからこそ、二人で組めば、絵の全体が見えるんじゃ。」
「——左様」
二人、しばし黙った。
行灯の炎が、静かに揺れた。
やがて、高杉が、口を開いた。
「玄瑞」
「うむ」
「明日、二人で、噛みつくぞ。」
「分かっちょる。」
「わしが、軽う揺さぶる。お主が、重う詰める。」
「うむ。」
「それで、本物か偽物か、見極められるけぇ。」
「——承知。」
二人、顔を見合わせた。
そして、同時に、小さく頷いた。
十
高杉の内心独白は、闇の中に、静かに広がった。
(——わしぁ、姫君様を、同類として値踏みする。)
(同類でありゃあ、わしの一生を賭ける。)
(俗物でありゃあ、笑うて萩に帰る。)
(——それだけじゃ。)
隣で、久坂は、目を閉じていた。
久坂の内心独白も、闇の中に、広がっていた。
(——わしぁ、姫君様を、主君として値踏みする。)
(師を託すに足る器でありゃあ、至誠を捧げる。)
(器にありゃあせんなら、——斬られる覚悟で諫める。)
(至誠ぁ天に通ずる。斬られても、それがわが道じゃ。)
二人の覚悟は、全く違う色であった。
しかし、その色は、明日、同じ御簾の前で、同時に解き放たれることになる。
十一
襖の、もう一つ向こう側。
伊藤博文の鼾は、実は、演技であった。
伊藤は、途中から、襖の隙間から二人の会話を聞いていた。
——晋作と玄瑞が、明日、噛みつく。
——噛みつくだけでなく、「斬られる覚悟」とまで言っている。
伊藤の心の臓が、鳴った。
伊藤、そっと布団の中で身体を起こした。同室の吉田稔麿と入江九一は、どちらも既に寝入っていた。
伊藤、抜き足で、襖を開けた。
隣の部屋の、山県有朋のところへ行った。
山県は、まだ起きていた。闇の中で、眼を開いたまま、天井を見ていた。
「——山県さん」
伊藤が囁いた。
「うむ」
「……兄ぃたちが、明日、噛みつくと」
山県、顔を横に向けた。
「……そうか」
「ただ噛みつくだけじゃのうて、『斬られる覚悟』とまで……。」
「……。」
「止めんで、ええんんですか。」
山県、しばし沈黙して、
「俊輔」
「はい」
「あの二人は、別格じゃ」
「……」
「わしらが入れる場じゃあありゃあせん。見届けることが、わしらの役目じゃ。」
伊藤、黙った。
山県、再び天井を見上げ、
「もし、あの二人が斬られたなら——」
「はい。」
「……その時ぁ、わしらが、長州に、あの二人の志を持ち帰る」
「それが、わしらの役目じゃ」
伊藤、涙が滲んできた。
布団の中で、声を殺して、泣いた。
山県、それを聞いていたが、何も言わなかった。
十二
一橋上屋敷。
江戸城御曲輪内、一橋門の内側。御三卿が一、一橋家の上屋敷である。
冬の深まる夜、屋敷の甍には、既に一度二度、霜が降りていた。門前に灯された篝火が、堀の水面に映り、ちらちらと揺れている。門番所には足軽が二名、槍を携えて立哨しており、その息が白く、夜気に溶けていた。
表門を入れば、玉砂利を敷いた前庭。その奥に、玄関書院、次に表御殿、表御殿の奥に中奥、中奥のさらに奥に——奥御殿がある。
奥御殿は、本来、一橋家の当主の私的な居室と、奥方衆の居所に充てられる場所である。しかし此度、近衛家の姫君様が江戸に御下りになるに際し、一橋家は奥御殿の一角を、糸子の御滞在所として提供していた。
これは、格別の扱いであった。
御三卿の一つである一橋家が、その奥御殿を五摂家筆頭の姫に開くということは、幕府と朝廷の格式の接点を、一橋家が引き受けるということを意味していた。
ただし、表向きの理由は、もっと別のものである。「朝廷の御使者様が御滞在なさる」という、儀礼上の形を取っている。実際には、糸子の江戸での活動の中心が、この奥御殿の一室に置かれていた。
糸子の御座所は、奥御殿の北の一室、十畳の座敷に設えられていた。
座敷は、高い天井に格天井、柱は檜の白木、襖は金箔の下絵の上に淡く竹林を描いたもの。床の間には、冬梅の枝を一輪、白磁の花瓶に活けてある。床柱は黒柿、床板は拭き込まれて鈍く光っていた。
部屋の中央には、御簾が下ろされていた。
御簾は、萌黄色の縁取りに、淡い紫の御簾紐。京の御所から下げ渡されたものを、江戸に持ち込んで懸けてあった。その向こうに、糸子の御座所がある。
畳は京間、新しい藺草の香りがまだ残っていた。
御座所の左右には、葵と小夜が控えていた。
葵は、糸子の世話係の筆頭であり、既に糸子の性格を熟知している。表情の読み方、沈黙の意味、指の動きの意味、ため息の種類——それらを全て、葵は読み分けることができる。
小夜は、年若い世話係であった。糸子を「頭のおかしいお方」と陰で評しつつ、同時に、糸子のためなら侍女として働く、という矛盾した忠誠を既に抱いていた。
襖の外、次の間には、一橋家の女中が二名、糸子付きとして控えていた。ただしこの二名は、糸子の「表の御世話」——茶の支度や、お香の取り替えなど——を担うのみで、御簾の中に直接立ち入ることはない。御簾の中は、葵と小夜の領分であった。
奥御殿の廊下の端、曲がり角の柱のそばには、近藤勇が立哨していた。一橋家の家臣ではなく、旭狼衛としての位置取りである。近藤がこの位置に立つことを、一橋家は黙認していた。
さらに奥御殿の外側、中奥との境目には、土方歳三と斉藤一が、同様に立っていた。
旭狼衛は、表向き、一橋家の客人警護を請け負う「近衛家家臣」として届け出てあり、一橋家側も、これを正式に受け入れていた。
行灯の灯りが、御簾の奥を、ほんのりと照らしていた。
部屋の隅の火鉢からは、細く炭の煙が立ちのぼり、冬の夜気に、ほんの僅かな温もりを添えていた。遠く、中奥の方から、夜の巡回をする家臣の足音が、微かに聞こえてくる。それ以外は、ただ、静寂だけがあった。
糸子は、御簾の奥で、火鉢に手をかざしていた。
身は近衛家の姫である。しかしその内に、別の存在が一人いる。橘咲。百貨店バイヤー兼大学院で幕末 経済史を専攻していた、二十八歳の女性。
その二つが、一つの十二歳の身体の中で、重なっている。
糸子は、火鉢の炭を、一つ、火箸でつまんで、ころりと動かした。
「——葵」
「はい」
「明日、でございますね」
「はい。松陰殿と、御弟子衆の御目通りにござります」
「二十三名と伺うております」
「——二十三か」
糸子、小さく嘆息した。
(……多い)
そして、呟いた。
「中二病の弟子たちか。どうせ師に似て、皆、頭がお花畑でございましょうや?」
葵、苦笑した。
「姫様……」
「何事もなく、さっさと終えて、甘味でも食べたいものでございます」
糸子は小さく笑った。
「京から取り寄せた、芋羊羹がありましょう」
「ございます」
「明日の御目通りの後、皆でいただきましょう」
「はい」
小夜、葵の横で、くすりと笑った。
「姫様、もう甘味のことしか考えていらっしゃらない」
「——当たり前じゃ。甘味のない人生など、何の意味がありましょうや」
葵、また苦笑した。
糸子、火鉢の炭を、もう一つ、ころりと動かした。
そして、ふと、天井を見上げた。
(……明日、どんな顔ぶれが来るか)
糸子は、松陰から送られてきた塾生名簿を、既に一度、目を通していた。
高杉晋作。久坂玄瑞。伊藤博文。山県有朋。吉田稔麿。入江九一。前原一誠。品川弥二郎。野村靖。山田顕義。渡辺蒿蔵。正木退蔵。飯田俊徳——。
どれも、歴史の教科書で見覚えのある名前ばかりであった。
しかし、糸子は、その名前たちを、「歴史上の偉人」として見てはいなかった。
あくまでも、明日、二十三人で御目通りに来る、中二病の弟子たちとして見ていた。
偉人になるのは、後の話である。今は、ただ、萩から来る若者二十三名である。
そして、その二十三名を、どう配置するか。
商務語学所。奇兵隊の構想。京への連絡役。関東の情勢調査。製品の海外輸出。
使える場所は、いくらでもある。
しかし、二十三人全員を、一気に使い切ることはできない。まず、一人一人の能力と性格を見極めねばならない。
明日、その見極めの第一歩がある。
糸子、小さく欠伸をした。
「——眠くなってきました」
「お休みなさいませ、姫様」
葵が、布団の準備を始めた。小夜が、行灯を片付けに動いた。
糸子は、御簾の奥で、もう一度、火鉢の炭をころりと動かした。
(……中二病の弟子たち)
(明日は、さっさと済ませよう)
糸子の頭の中には、明日の御目通りが、「儀礼的な、軽い挨拶の場」として、登録されていた。
高杉と久坂が、既に、彼女の「御座所」を、死を覚悟した戦場として認定していることを、糸子は知らない。
情報は、片側にだけ、集まっていた。
読者だけが、その非対称を、眺めていた。
十三
試衛館の別室。
松陰は、日記を書いていた。
行灯の灯りの下、一枚一枚、紙を繰りながら、松陰は、筆を走らせていた。
『明日、わが愛弟子らを、わが主君に引き合わせる。生涯の誉れなり』
そう書いて、筆を置いた。
そして、天井を仰いで、笑った。
「——ようやく、じゃ」
「ようやく、玄瑞と晋作を、姫君様に引き合わせられる」
「あの二人は、わが双璧。わが主君の御計画を、最も深く理解するのは、あの二人であろう」
松陰、筆を取り直して、続きを書こうとした。
しかし、ふと、筆先が止まった。
——玄瑞と晋作の顔が、何やら、いつもと違うような気がする。
そう、脳裏に浮かんだ。
今日、試衛館に着いた時。夕餉の時。二人とも、妙に静かだった。言葉が少なかった。眼の奥に、何か、自分の知らない色があった。
松陰、筆を置いて、少し考えた。
しかし——。
「——いや、気のせいであろう」
松陰は、そう結論づけた。
「あの二人は、わしの弟子じゃ。わしの主君を、疑うはずがない」
松陰、筆を取り、日記の続きを書いた。
『明日は、晴れて、わが愛弟子らと、わが主君との、麗しき邂逅の日となるであろう』
松陰、満足げに、日記を閉じた。
そして、横になった。
布団の中で、松陰は、目を閉じた。眼の裏には、姫君様の御姿が、既に、浮かんでいた。
御簾の奥の、見えないはずの御姿が、松陰には、はっきりと見えていた。
それは、実在する姫君様ではない。
松陰の中に存在する、松陰の姫君様である。
松陰の姫君様は、白く、光り、微笑んでいた。
松陰、深く眠りに落ちた。
その夜、松陰の眠りは、深く、穏やかだった。
一方で——。
試衛館の別の部屋では、高杉が、まだ目を開けていた。
そして、久坂も、まだ、目を開けていた。
二人とも、天井を見ていた。
その二つの眼の奥には、明日の戦場の地図が、それぞれに、広がっていた。
十四
夜明け前。
試衛館の鶏が、最初の声をあげた。
その声を聞いて、高杉は、ふっと目を開けた。
実は、高杉は、一睡もしていなかった。
しかし、疲れてはいなかった。むしろ、頭は冴えていた。
隣を見ると、久坂も、目を開けていた。
「——玄瑞」
「うむ。」
「寝たんか。」
「いや。」
「わしも、寝ちょらん。」
「であろうのう。」
二人、小さく笑った。
その笑いは、仲間の笑いであった。
違う性格、違う戦い方、違う姫君様像を持っていても、この二人は、この瞬間、同じ戦場に立つ仲間であった。
高杉、起き上がって、衣服を整えた。
久坂も、起き上がって、衣服を整えた。
山県は、まだ寝ていた。伊藤は、昨夜泣き疲れて眠っていた。
高杉と久坂は、そっと部屋を出た。
廊下を歩き、玄関に出た。
玄関の土間には、近藤勇が、立っていた。
昨夜と同じ位置である。ただし、木剣は手に持たず、腰には本身の刀があった。
「——お早うござる」
近藤、一礼。
高杉、久坂、一礼を返した。
「一橋上屋敷へは、辰の刻に参る」
「承知」
近藤、それだけ言って、再び動かなくなった。
高杉と久坂、玄関を出て、試衛館の庭に立った。
冬の朝、空は、まだ薄暗かったが、東の空に、ほんの僅かに、青みがかった光が差していた。
庭の柿の木の枝には、霜が降りていた。
そして、その向こうに、江戸の町並みが、朝靄の中に、ゆっくりと、形を整えつつあった。
高杉、久坂、並んで立った。
二人は、何も言わなかった。
ただ、江戸の朝靄を、見ていた。
その朝靄の中に、二人の違う覚悟が、同じ色に見えるように、静かに包まれていた。
十五
一橋上屋敷の奥御殿でも、同じ朝が、静かに明けていた。
糸子は、まだ寝ていた。
葵は、既に起きて、朝の支度を始めていた。
小夜は、竈に火を入れていた。
近藤勇の副官として、一橋上屋敷の警護を担当する斉藤一が、玄関脇の位置に、既に立っていた。
全てが、静かだった。
そして、全てが、平時だった。
糸子にとっては。
水無瀬にとっては、昨夜、久坂との対面で、今日が「楽しみ」になっていた。
葵にとっては、今日は「二十三名の御目通り」という、やや忙しい一日の予定だった。
近藤にとっては、「警護の一日」だった。
誰も——糸子の御座所の誰も——今日が、ハリス以来の山場の第一日目になることを、知らない。
江戸の朝靄の中で、試衛館と小舟町の間を繋ぐ道が、ゆっくりと、目覚めていった。
そして、その道を、辰の刻に、二十三名の一行が、歩いてくることになる。
その先頭に、中二病の松陰がいる。
その左右に、違う覚悟を持った二人が、歩いてくる。
糸子は、まだ、それを知らない。
江戸の朝靄が、二つの違う覚悟を、一つに見せかけて、静かに包んでいた。
第七十七話 了
彦根藩江戸藩邸討ち入り…沖田には祭りに参加はしたけれど「見学した」という認識らしいヾ(*д*)ノ゛




