第七十二話「勘を言語化する者たち」
一
万延元年、秋。
一橋上屋敷の庭は、毎朝その顔を変えていた。
楓の赤が、先週より確実に深くなっていた。葉の一枚一枚が、朝の光の中で燃えるような色を持ち始めていた。
先端から始まった赤が今や葉全体に広がって、緑と赤が混ざり合った複雑な色はほとんど消えていた。純粋な赤だった。鮮やかで、しかし派手すぎない——秋の盛りの色だ。
石畳に落ちた葉が、朝露に濡れて石の上に貼り付いていた。庭師が朝早くから掃いているのに、次々と落ちてくる。
一枚掃けば一枚落ちる。自然の仕事と人の仕事が、静かに競い合っていた。
池の水面には、鏡のような静けさがあった。楓の赤が映って、水の中にも秋の色が広がっていた。その水面を、赤い葉が一枚、ゆっくりと漂っていた。どこから来たのか分からない。
風もないのに動いている。水の流れなのか、葉の重さなのか——静かに、しかし確実に動き続けていた。
縁側の向こうに見える松の緑は、変わらなかった。
松だけが、秋になっても変わらない。その緑の色が、楓の赤に囲まれることで、一段と深みを増しているように見えた。
奥御殿の一室。
糸子は今日も早くから文机に向かっていた。
今日の課題は決まっていた。第三巻——為替・金融——の次の山、複式簿記だ。
昨日の会議で為替の基礎構造が固まった。次は帳面の付け方——複式簿記——を教科書に入れる段階だ。
しかし糸子には、一つ気がかりなことがあった。
(村田殿は蘭学者だ。数字の論理は得意だ。しかし——実務経験がない可能性がある)
糸子が帳面を開いた。
複式簿記の概念を、今の日本の言葉に翻訳するための下書きを始めた。
「入方と出方を分けて記録する」——これが基本だ。
貸方・借方という概念を、この時代の言葉に置き換える。しかし概念だけでは教えられない。実際の帳面を見せる必要がある。
(実際の帳面を——誰に持ってきてもらうか)
答えはすでに決まっていた。
善次郎だ。
二
「複式簿記は存じています」
その日の巳の刻。
村田が部屋に通された。今日の村田は、昨日より少し早く来た。前の会議で次の話題が決まっていたからだろう。準備をしてきた様子が、帳面の持ち方に出ていた。
「オランダの商業書に出てきます」
「そうでございますね。では——」
糸子が続けようとした時、村田が言った。
「ただ…」
「ただ?」
村田が少し間を置いた。
その間が、普段と少し違った。考えている間ではなく、何かを認める準備をしている間のように見えた。
「わたくしには、実務の経験がありません」
「……はい」
「蘭書で読んだことはある。しかし実際に帳面をつけた経験が——ないのです」
(正直に言った。これは村田殿らしい。蘭学者として——事実を事実として言える人間だ)
「正直に言ってくださってかたじけなく存じます」
「……恥ずかしいことですが」
「恥ずかしくはございません」
糸子が言った。
「知らないことを知らないと言える人は——実は稀でございます。多くの場合、人は知らないことを知っているように振る舞いまする。それは自分を守るための本能でございます。なれど村田殿はそうしない。それがこの教科書作りにおいて、最も大切な姿勢だと思いまする」
「しかし——教科書を作るのに、実務経験がないのは問題では?」
「だから一緒に作るのでございます」
糸子が続けた。
「わたくしには実務の概念がありまする。村田殿には数字を論理的に整理する力がありましょう。二つを合わせれば——どちら一人より、良いものができまする」
「……なるほど」
「複式簿記の実務については——善次郎に協力してもらいましょう」
「善次郎殿、というのは?」
「天朝物産会所の実務を担っている方です。実際に毎日帳面をつけております。この教科書の実務確認者として、今日参加してもらいまする」
村田が頷いた。
「承知しました」
三
善次郎が呼ばれた。
廊下から善次郎の足音が近づいてきた。静かで、整然とした足音だ。
障子が開いた。
善次郎が入ってきた。手に、一冊の帳面を持っていた。普段から使っている、実際の業務帳面だ。表紙が少し使い込まれている。使い込まれているが、よれてはいない。大事に使われてきた帳面だ。
善次郎が部屋に入って、村田を見た。
村田が善次郎を見た。
「善次郎と申します。天朝物産会所の実務を担っております」
「村田蔵六です。姫様に英語を教えていた者です」
「存じております。お名前はかねがね」
二人が礼をした。初対面の礼だが、すでに互いを知っていた二人の礼だった。
「……私が教科書に?」
善次郎が糸子に確認した。
「実務確認だけ。書くのは村田殿、内容はわたくし、正しいかどうかを確認するのがあなた」
「……承知しました」
善次郎が村田の前に座って、帳面を置いた。
「これが実際の帳面です」
村田が帳面を手に取った。
開いた。
ゆっくりと、一頁ずつ見ていった。
(村田殿の目が変わった。概念として知っていたものが、実物として目の前に現れた時の目だ)
「……これが複式簿記の実際の形ですか」
「はい」
善次郎が答えた。
「姫君様に教わりました」
「姫様に」
「はい。入方と出方を分けて記録する、と」
村田がゆっくりと帳面をめくっていった。日付。品目。入方——金額が右に、出方——金額が左に。二列が並んでいる。一見すると単純に見えるが、その単純さの中に複雑な構造が見えていた。
村田が止まった。
帳面の途中で、何かに気づいた表情をした。
「……姫様、一つ聞いてもよろしいですか」
「なんでございましょう」
「この記録の形式——唐書にはありませんでした。オランダの商業書の形式に似ていますが——少し簡略化されています。誰がこの形式を……」
「わたくしが使いやすい形に整理致しました」
「……なぜオランダの形式を知っておられるのですか」
(また来た。三日目の問いと同じ種類の問いだ。今度は複式簿記の出所について)
「村田殿から英語を教わる前に——蘭学の書物も少し読みましたのでございます」
「……どの書物ですか」
「タイトルは失念しました。概念だけ覚えておりまする」
沈黙があった。
(今日は危なかった。複式簿記の出所は——オランダの商業書ではなく、二十一世紀の会計学の教科書だ。しかし村田殿が辿り着ける場所に「オランダの書物」という正解が存在した。それが救いだった)
(善次郎がわたくしを見た。あの目は——分かっているという目だ。善次郎はわたくしが何者かを、完全には知らない。しかし何かがあることは知っている。それで十分だ)
村田が帳面を閉じた。
「……承知しました。続けましょう」
「はい」
糸子が続けた。
「複式簿記を教えるために——まず実際の帳面を生徒に見せまする。理屈を先に教えるより、実物を先に見せる。失敗例から入る、という村田殿の提案と同じ方向でございます」
「はい」
「善次郎、今の帳面を例として使ってよいでしょうか」
「もちろんです。ただし商売の相手の名前は隠します」
「それで構いません。善次郎が実際の帳面をもとに、典型的な取引例を一つ作ってくださいませ。それを教科書の事例として使いましょう」
「分かりました」
善次郎が新しい紙を取り出した。
村田が筆を構えた。
糸子が全体を見ながら、指示を出した。
三人の作業が始まった。
四
「では——典型的な取引を一つ想定致しましょう」
糸子が言った。
「どんな取引ですか」
善次郎が聞いた。
「生糸の売買を使いましょう。一番分かりやすい事例でございます」
「分かりました」
「上州産の生糸百斤を、銀五百匁で仕入れる。それを横浜で異国商人に銀七百匁で売る。この取引を複式簿記で記録する場面を作りまする」
善次郎が紙に書き始めた。実際の帳面の形式で。
「まず仕入れの場面です」
善次郎が書いた。
入方:生糸百斤 銀五百匁
出方:現銀 銀五百匁
村田が読んだ。
「……入方に商品が入って、出方に現銀が出る。つまり——お金を払って、商品を受け取った、という意味ですね」
「そうでございます」
糸子が言った。
「入方は『手に入ったもの』、出方は『手放したもの』として考えると分かりやすいでありましょう」
「なるほど」
「次に、売りの場面です」
善次郎が続けた。
入方:現銀 銀七百匁
出方:売上 銀七百匁
入方:売上原価 銀五百匁
出方:生糸百斤 銀五百匁
「今度は逆になります。現銀が入って、商品が出た」
村田が少し考えた。
「……しかし、出方に書かれた生糸の価格は五百匁です。入方の現銀は七百匁です。この二百匁の差は——」
「利益です」
「……利益が、二つの行の差として自然に現れる、ということですね」
「そうでございます。複式簿記の最大の利点はここでありましょう。記録するだけで——利益と損失が自動的に見えてくるのでございます」
村田が深く頷いた。
「……これは」
少し間を置いた。
「蘭書で読んだ時は、なぜこの形式を使うのか理解できていませんでした。しかし——実物を見て、事例で試したら分かりました」
「理解致しましたか」
「はい。入方と出方を両方記録することで——片側だけ記録する方法では見えない、全体の流れが見えてくる」
「正確にその通りです」
善次郎が少し頷いた。
(この方は、見たことのない概念を、一度の実例で理解した。村田殿は本当に優秀な人だ)
「村田殿、教科書の文章にしましょう」
「はい」
村田が筆を取った。
「第三巻・第四章——帳面の付け方・複式記録法」
書き始めた。丁寧な字で、しかし速く。
五
「次に——この方法の限界と補足を入れます」
糸子が言った。
「限界、ですか」
村田が筆を止めた。
「はい。教科書は良いことだけを書いてはいけませぬ。使う上での注意点も書く必要がありましょう」
「どんな限界がありますか」
「この方法は——記録する人間が正直でなければ意味がありませぬ」
「……なるほど」
「入方と出方を両方記録することで、不正が見えやすくなりまする。なれど——記録する人間が意図的に間違えれば、不正を隠すこともできまする」
善次郎が少し苦笑した。
「……それは実際にある問題です」
「善次郎、詳しく話してくださいまし」
「はい。帳面を一冊しかつけない場合——誰も確認できません。しかし複式にすると、入方と出方が一致しなければ誰かが気づきます。だから複式の帳面は、複数の人間が確認する体制と合わせて使うべきです」
「それを教科書に入れます」
「承知しました」
村田が書いた。
「複式記録法の注意——帳面の正確性は、記録者の誠実さに依存する。そのため、複数の者が帳面を定期的に確認する体制を設けることが望ましい」
「良い文章です」
「一つ追加してよいですか」
「どうぞ」
「この体制が機能するためには——確認する者の独立性が必要です。記録者と確認者が同一人物では意味がない」
(内部監査の概念だ。村田殿は現代の会計論が辿り着いた結論を、論理から導いた)
「村田殿の追加は正確でございます。加えましょう」
村田が書いた。
「また、確認者は記録者と利害関係を持たない者が望ましい」
善次郎がその文章を読んだ。
「……実は、この上屋敷の帳面も、わたくし一人でつけています。確認者がおりませぬ」
「善次郎」
「なんでしょう、姫君様」
「それを改めましょう。この会議が終わったら、確認体制を作りましょう」
「……はい」
善次郎が少し頭を下げた。
(教科書を作りながら——現実の問題が見えてくる。この作業は単なる知識の整理ではなく、実務の改善にも繋がる)
六
「第四巻の作製に移りましょう」
複式簿記の章が形になった後、糸子が言った。
村田が新しい帳面を出した。
「村田殿、第四巻は少し性格が違いまする」
「どのような」
「物を動かす話でございます。どの船で、どの経路で、どのタイミングで運ぶかという…」
村田が少し首を傾けた。
「それは——商人が経験で学ぶものでは?」
「そうでございます。だから体系化されていないのでありまする」
「だから——教える価値がある、ということですね」
「正確にはその通りでございます。勘は伝えられませぬ。なれど言語化された手順は誰でも学べましょう」
村田が少し考えた。
「……前にもお話しましたが、それは医学でも同じだと思います」
「はい」
「昔の医者は勘で診ていた。しかしシーボルト先生の医学は手順が書かれていた。だから伝えられた。各地に広まった」
「村田殿が一番よく分かっておられますね」
「……わたし自身が、勘ではなく手順で蘭学を学んだからかもしれません」
糸子が少し興味を持った。
「もう少し詳しくお願いします」
「蘭学は書物から学ぶ学問です。師匠の直感を見て盗む、という形ではありません。書かれたものを読んで、論理を追う。だから——言語化されているかどうかが、伝わるかどうかを決めます」
「なるほど。蘭学の方法論そのものが——体系化の価値を証明している、ということでございますね」
「そう言えるかもしれません」
「では第四巻は——商売における蘭学を作る作業でございます」
村田が少し笑った。
「……そういう言い方もできますね」
「では、行きましょう」
七
そこへ——廊下から声がした。
「姫様ー!龍馬ですぜよ!!帰ってきたちや!」
善次郎が扉の前に立った。
「……先約があります」
「少しでいいがです!大事な報告があるがぜよ!」
(今は村田殿との時間なのだが——)
糸子が少し考えた。
(ただし龍馬の海運情報は第四巻に必要だ。いつ来るか分からない龍馬が、今日この場に来たのは——計画外だが、むしろ都合が良い)
「村田殿、少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「坂本を入れてくださいな」
「はい」
善次郎が扉を開けた。
坂本龍馬が入ってきた。
旅の格好だ。着物が少し埃っぽい。江戸に帰ってきたばかりだということが、その格好から分かった。
部屋に入って——村田を見た。
「お、先生みたいな人がおるきに」
村田が龍馬を見た。
「……坂本龍馬殿ですか。長州でお噂は…」
龍馬が少し目を丸くした。
「おっ!村田先生じゃなかですか!松下村塾で名前聞きましたぜよ!確か蘭学者の……」
「はい。村田蔵六です」
「先生の名前は聞いちょりました。高杉や久坂たちが話しちょりましたき」
二人が「知っている」という顔で向き合った。
(この二人は面識があったのか。計算外だが——便利かもしれない。村田殿が龍馬を知っていれば、龍馬の話を書き取る時に信頼関係がある)
「坂本」
糸子が言った。
「はいきに!」
「第四巻の海運の部分を作っておりまする。主要航路と費用を教えていただけますか」
「ほんならね!」
龍馬が前に出た。部屋の空気が少し変わった。龍馬が入ると、いつも空気が動く。エネルギーがある。
「江戸から大坂まで……お話しするき」
「はい」
村田が筆を構えた。
「太平洋沿いを通るき、順風なら十日、逆風やったら二十日以上はかかってしまうがよ」
「……その差はなぜですか」
村田が聞いた。
「風と潮の向きぜよ。秋から冬は北風が強うてしけるき。夏は南風が吹いて帆走が楽ながよ」
「季節によって変わるのですね」
「そうながです。船乗りはみんな知っちゅうがですが——知らん商人は損をするがです」
「具体的には?」
「秋に大きな荷を出すと、嵐に遭う危険が高いがよ。けんど、知らん商人は、秋は大豊作やきと言うて、すぐに荷を出そうとするがです。それで船が沈んで、全部のうなってしまう」
「それを教科書に入れましょう。季節ごとの航路リスクとして」
龍馬が少し首を傾けた。
「リスク?」
「危険度、と言い換えましょうか」
「ああ、そういうことながか。姫様は難しい言葉を使うがです」
村田が書きながら「……興味深い用語ですね。リスク。出所は…英語ですか?」
「はい、そうでございます」
「risk……」
村田が少し考えた。
「船舶保険の文書で見たことがあります。リスクは——危険に対する備え、という意味で使われていました」
「村田殿、英語の原語から来ていると把握してくださいますか」
「はい」
「では表記は——危険という日本語を使いながら、必要な場面ではリスクという概念として説明致しましょう」
「承知しました」
龍馬が「先に進めてええですか」と割り込んだ。
「はい」
「続きを話すき。大坂から長崎まで、瀬戸内海経路は安定しちゅうがよ。けんど、狭い水道が多うて、潮がわや速い場所がある。知らん船頭は迷うて、えらい時間がかかるき。」
「それも入れましょう。航路ごとの特性として」
三人が作業を進めた。
龍馬が話す。村田が書く。糸子が整理する。
八
航路の話が一通り終わった後、糸子が言った。
「次に——保険の話を入れましょう」
村田が「……保険?」と聞いた。
龍馬がすかさず言った。
「それはわかるがです!船が沈んだ時の備えですろう!」
糸子が少し止まった。
「……坂本、あなたがそれを知っているというのは?」
「異国の船乗りから聞いたがぜよ。長崎でよう話しちょりましたき。まっこと面白い仕組みながです。」
「では坂本に説明してもらいましょう。村田殿が書いて、わたくしが整理致しましょう」
「まかせるぜよ!」
龍馬が乗り出した。
「十人の商人がおるとするき。みんな船で荷を運ぼうとしちゅうがぜよ。それぞれ、一万両もの荷を持っちゅうとせんか」
「はい」
「過去の記録から、十回に一回は嵐で船が沈むがです」
「それは現実的な数字ですか」
「異国の船乗りが言いよったがぜよ。長崎の航路は比較的安全ながやけんど、遠洋になるとそればあの危険はあるらしいがです」
「続けてください」
「全員が事前に千両ずつ出し合います。合計一万両です。そして——事故が起きた一人に、その一万両を払います」
村田が書きながら言った。
「……つまり、全員の負担は千両で——最悪の場合に失うはずだった一万両が、戻ってくる、ということですね」
「そうながです!面白いですろう!」
「面白い」
村田が筆を止めた。
「これは——損失の確率と金額から計算できますね」
「はい」
糸子が続けた。
「十人の商人が千両ずつ出す。合計一万両。十回に一回の確率で一人が損失する。一人の損失額は一万両。この仕組みが公正に機能するためには——全員の確率が同じである必要がありましょう」
「……確率が同じでない場合は?」
「危険度の高い荷物を持つ商人は、より多く出すべきでございます。それが——公正な保険の制度になりましょう」
「なるほど」
村田が書いた。
「リスクに応じた負担額の設定——これが保険制度の核心でありまする」
龍馬が「なんか難しくなってきたがです」と言った。
「龍馬、難しいですか」
「いや、意味は分かるがですが——姫様と村田先生が話すと、難しそうに聞こえるき」
「難しくない言葉に致しましょう」
糸子が村田を見た。
「村田殿、この概念を——普通の商人が理解できる言葉にしてみてくださいませ」
「……一つの損失を、皆で少しずつ分かち合う仕組み、という表現はどうですか」
「それで大丈夫だと思いまする」
「それが保険の基本原則、ということですね」
「はい」
龍馬が「分かりやすくなったがです!」と言って、少し笑った。
九
(龍馬が感動しているのは良いが、この発想は二十一世紀の保険の教科書から来ている。オランダの海上保険から来ていることにしておかなければ)
「これはオランダの商船の慣習を参考にしました」
糸子が自然な形で付け加えた。
「……オランダで実際にあるのですか」
村田が聞いた。
「はい、海上保険として」
「どのような形で」
「オランダの商船は、航海に出る前に保険契約を結ぶ慣習がありまする。村田殿はオランダの書物でご覧になったことはありませぬか?」
「……あります。verzekeringsという言葉で出てきました。保険という意味だと」
「そうでございます。その仕組みをこの教科書に入れまする」
村田が納得した顔をした。
オランダに実例がある——それで村田の疑問は解消した。
(また乗り越えた。村田殿は毎回、出所を確認する。毎回、オランダか唐書か、説明できる範囲に着地できている。しかし——いつか、どちらにも該当しない知識が出てくる日が来るかもしれない。その日に、どう答えるか。まだ準備ができていない)
龍馬が「海上保険、土佐にも広まればいいがですな」と言った。
「そうですね」
「漁師さんたちが助かるき。嵐で船を失ったら、全財産なくなるがです」
「そうですね」
糸子が静かに言った。
「だから——教科書に入れましょう。商人だけでなく、将来は漁師たちにも広まるように…」
龍馬が「姫様は遠いことを考えちゅうがですな」と言った。
「そうです。教科書は今使うためだけではありませぬ。十年後、二十年後に使う人のためにも作っておりまする」
「……二十年後」
龍馬が少し止まった。
「二十年後の日本が——どうなっちゅうか、姫様には見えちゅうがですか」
「少しは…」
「わしには見えんがです」
「それでいいのでございます」
糸子が言った。
「見える人間と見えない人間がおりまする。坂本には——坂本にしか見えないものがありましょう。全てが見えなくていいのでございます」
「……そうながですかえ」
「そうでございます」
龍馬が少し考えた後、「分かったがや」と言った。
「では——続きを話しますきに」
航路の話がまた動き始めた。
十
「横浜から上海までは、異国船を使うことが多いがぜよ」
龍馬が続けた。
「日数は三日から五日。けんど、えろう費用が高いぜよ!」
「なぜ異国船が多いですか」
「まっこと速いき。蒸気船は風に左右されんきね。帆船と違て、思うた通りに進めるがぜよ」
「しかし費用が高い」
「そうながですよ。費用は荷物の量と距離で決まるき。横浜から上海なら……荷物百斤あたり銀が何匁になるか、合点のいくまで確かめてから契約するがちや」
「事前確認が大事でございますね」
「そりゃあ大事なことぜよ!口約束ばぁで動いちゃあいかん。後で知らん顔されたらおしまいじゃき。絶対、書き付けにしてもらうようにせんといかんぜよ!」
村田が書いた。
「契約の文書化——これは第三章の契約書の話と繋がりますね」
「そうでございます。各章が連動しておりまする」
「費用の計算も入れましょう」
糸子が言った。
「総費用の計算式——船賃、港費用、保険費用、損耗見込みの四つを合計致しまする。この計算を省いた商人が——利益が出たと思ったら実は損だった、という失敗をしておりまする」
龍馬が「あるあるながです!」と言った。
「知っていますか」
「長崎でよう聞く話ながですよ。荷物の値段ばっかり計算して、運賃を忘れちゅうがです。売って帰ってきたら、運んだ費用の方が高かった……なんて、笑えんことがようあるきねぇ」
「それを演習問題に致しましょう」
糸子が村田に言った。
「こんな問題はどうでございましょう。生糸百斤を銀五百匁で仕入れた。横浜から上海まで異国船で運ぶ運賃が銀百匁。港での費用が銀三十匁。保険費用が銀二十匁。上海で銀七百匁で売れた。利益はいくらか?」
村田が計算した。
「……収入七百匁、費用が五百(仕入れ)+百(運賃)+三十(港)+二十(保険)=六百五十匁。利益は五十匁」
「そうでございます。この計算をしないと——七百で売れたから二百の利益だと思って喜んでしまうのでございます」
「実際の利益は五十匁だけ、ということですね」
「はい。知識の有無で、同じ取引の見え方が全く変わりましょう」
龍馬が「まっこと、それは肝心な計算ながですな」と真剣な顔で言った。
「坂本、分かりましたか」
「分かりましたき。運賃と費用を計算せんといかん、ということながです」
「それが第四章で最も大切なことでございます」
村田が演習問題を書き終えた。
「……これで第四章の骨格ができましたね」
「はい」
十一
会議が終わりに近づいていた。
龍馬が「わしは報告があったがです」と思い出したように言った。
「そうでした。渋沢殿の件ですね」
「はいきに!帰ってきた報告をしようとしちょったがです。すっかり忘れちょりましたが…」
「どうでしたか?」
「渋沢さんに会うてきましたき。ありゃあ、まっこと算術の化け物ぜよ。 あの人は数字を見る目が、わしらとはまるきり違うがです」
「まだ来ないのですか?」
「もう少しかかりますきに。説得が難しかったがです」
「そうですか…」
「けんど——来ると思うちょります。説得の続きを頼んじゅうき。近いうちに便りが届くはずながですよ」
「分かりました」
「坂本、分かっているとは思いますが、もし…の場合にはあなたの責任で強制的につれてくるのですよ」
もの凄く優し気に微笑む糸子。
「わっ、わかっちょりますよ…姫様」
なぜか?急に大量の汗を流す龍馬がいた。
「そっ、そいから……もう一人、まっこと変わった男を見つけちゅうき。ありゃあ、後々、化けるかもしれんぜよ」
「誰でございますか?」
「農家の出ながですが、算盤が飛び抜けて速い若者がおるがです。渋沢さんと同じ埼玉の辺りで見つけましたき。名前は——」
龍馬が少し考えた。大汗を流しながら…
「……ちょっと待ち寄ってください。帳面に書いちゅうき」
龍馬が懐から小さな帳面を出した。旅の間に書き留めた記録だ。
「……渋沢平九郎、という名ながですか。渋沢さんの縁者らしいき、そりゃあ筋のえい御仁に違いなかろう。類は友を呼ぶ、と言うきねぇ」
「その方にも是非来ていただきましょう」
「はいきに!」
「渋沢殿と一緒に連れてきていただけますよね、坂本殿…」
さらに凄ーく優し気に微笑む糸子。
「わかった、任せちょき!何が何でも、その平九郎殿を連れて帰ってくるき。待っちょってよ、姫様…」
龍馬が帳面を懐に戻した。帳面はなぜか?ものすごく汗で濡れていた。
「それだけでしたので、今日はこれでぜよ!」
龍馬が礼をして、なぜか?逃げるように部屋を出て行った。
廊下を速足で歩く龍馬の足音が遠ざかっていった。
龍馬はこのとき早くこの場を立ち去らなければ…という危険を察知していた。
気のせいなのに…たぶん。
部屋に、少しの静けさが戻った。
村田が帳面を閉じた。
「……賑やかな方ですね。特に姫様の前では」
「はい。あの方は——どこへ行ってもああでございます」
「なるほど。先ほどの保険の話——坂本殿が長崎の船乗りから直接聞いた、という部分が重要でしたね」
「どういう意味でございますか」
「教科書の説得力、という意味です。概念として説明するより——実際に海に出た人間が『こういう仕組みがある』と言う方が、読んだ者に届きます」
「村田殿のおっしゃる通りでございます」
「この教科書には——そういう証言が必要なのかもしれませんね。村田殿のような蘭学者の論理と、坂本のような実践者の経験が、両方入ることで…」
「より現実的な教科書になる、ということですね」
「そうでございます」
(村田殿は今日の坂本の登場を——計算外の乱入ではなく、教科書の価値を高める要素として評価している。その視点が——わたくしにはなかった)
「村田殿、今日も発見がございました」
「なんでしょう」
「教科書は——論理だけで作ると、論理の教科書になりまする。なれど実践の経験が加わると、使える教科書になりましょう」
「そうですな」
「村田殿の蘭学の論理と、坂本の実践経験と、善次郎の実務管理と——そしてわたくしの知識の体系化が。四つが揃って、初めてこの教科書が形になりまする」
村田が深く頷いた。
「……承知しました」
十二
村田が退室した。
善次郎も帳面を片付けて、退室の準備をした。
「善次郎」
「はい」
「今日、村田殿に複式簿記の帳面を見せてくれてありがたう存じます」
「いいえ、当然のことで」
「一つ聞かせてくださいませ」
「なんでしょう?」
「あの帳面の形式が——普通のオランダ式と少し違う、と村田殿が気づきました」
「……はい」
「あなたはどこまで知っておりましょうか」
善次郎が少し間を置いた。
「……わたくしは、姫様から教わった形式を使っています。どこから来た知識かは——聞かないことにしています」
「なぜでございますか」
「聞かなくても、正しいことは分かります。実際に使って、役に立っています。それで十分です」
糸子が少し黙った。
「……善次郎殿は賢い」
「いいえ」
「賢いです。聞いてはいけないことを、聞かない判断ができる。それが最も難しい知恵の一つだと思いまする」
善次郎が静かに礼をした。
「では、今日はここで失礼します」
「はい。帳面の確認体制——明日、一緒に考えましょう」
「承知しました」
善次郎が退室した。
部屋に糸子一人が残った。
(善次郎はわたくしが何者かを、完全には知らない。しかし何かがあることは知っている。知った上で——聞かないことを選んでいる)
(それが善次郎という人間の本質だ。知識の出所より、その人間への信頼を選ぶ。だからわたくしは善次郎に全てを話したし、話せる)
十三
窓の外の庭で、秋の風が吹いた。
楓の葉が揺れた。一枚、また一枚と、葉が落ちた。石畳の上に積もっていく。赤い葉が、石の灰色の上に重なって、秋の庭を作っていった。
糸子が帳面を取り出した。
鍵のかかる引き出しを開けた。黒い帳面だ。
開いた。
「第四巻・海運物流章の骨格完成。坂本の実践経験が加わることで、論理と実践が両立した章になった」
書き加えた。
「村田殿・善次郎・坂本の三人の役割が明確になった。村田は論理の翻訳者。善次郎は実務の確認者。坂本は実践の証言者。わたくしは全体の設計者」
「知識を持つ者が、それを体系化し、それを伝えるためには——自分以外の人間が必要だった」
書き終えて、帳面を閉じた。
引き出しに戻した。鍵をかけた。
「葵」
「はい」
「お茶を」
「ただいま」
糸子が縁側に出た。
秋の庭が、夕方の光の中で輝いていた。楓の赤が一段と深く見えた。池の水面に、赤と橙と金が混ざった複雑な色が映っていた。
その色の美しさを、糸子は少しの間、黙って見た。
(橘咲として生きた二十八年間に学んだことが——今、四人の力を通じて、形を持ち始めている)
(知識は一人では届かない。人を通じて初めて、届くものになる)
葵がお茶を持ってきた。
宇治の香りが、秋の夕暮れの空気に溶けた。
糸子がお茶を一口飲んだ。
次の会議——第五巻・情報戦——の準備が、頭の中で静かに動き始めていた。
第七十二話 了
もうしばらく教科書作りの地味なお話が続きます。お付き合いくだされば幸いです<(_ _)>




