第七十一話「失敗例から学ぶ」
一
万延元年、秋の始まり。
江戸の秋は、一日ごとに色を深め初めていく。
一橋上屋敷の庭では、楓の葉が先端から確実に赤く染まっていた。先週までは縁だけが橙色を帯びていたのに、今朝は葉の半分近くが赤くなっていた。池の水面に映る楓も、昨日より赤みが増していた。
石畳の上に、昨夜の雨の跡が残っていた。水が石の隙間に入り込んで、石の色を深くしている。そこに朝の光が当たって、石畳の一枚一枚が薄く輝いていた。その輝きの中に、落ちた楓の葉が一枚、静かに濡れていた。まだ完全に赤くなりきっていない、橙と緑が混ざった葉だった。
縁側の向こうに見える松の緑は変わらない。松は秋でも緑のままだ。しかしその緑の色が、楓の赤と並ぶことで、より深く見えた。二つの色が互いを際立たせている。
奥御殿の一室。
糸子は朝から文机に向かっていた。
机の上には、二冊の帳面が開かれていた。一冊は昨日の編纂会議で使った第一巻の草稿。もう一冊は、今日から始める第三巻——為替と金融——の白紙の帳面だ。
第一巻は、ほぼ形になっていた。商談の七原則、需要と供給の概念、失敗例の構成——これらが整理されていた。後は村田と一緒に文章を磨く段階だ。
第三巻は、今日が本格的な始まりだ。
(為替は難しい)
糸子は内心で呟いた。
難しいのは内容ではない。内容は知っている。問題は伝え方だ。為替の概念は、前提知識のない人間に説明するのが最も難しい経済の概念の一つだ。
なぜ同じ金が、場所によって価値が違うのか。なぜ比率が問題になるのか。これを、二十一世紀の経済教育を受けていない人間に分かるように伝える方法を——糸子は昨夜から考えていた。
そしてある考えが浮かんだ。
(村田殿が言った方法が使えるかもしれない)
「失敗例から入る」という村田の提案だ。難しい概念を説明する前に、まず失敗した事例を見せる。 人間は抽象的な説明よりも、具体的な話の方が理解しやすい。そして——損を避けようとする力の方が、得を求める力より強い。
(それを村田殿は「蘭学でも同じ」と言った。プロスペクト理論を、村田殿は直感で理解していた)
糸子が第三巻の白紙を開いた。
冒頭に何を書くか、決まった気がした。
二
「昨夜、気になったことを書き込みました」
巳の刻。
村田蔵六が部屋に通された。
今日の村田は、帳面を手に持っていた。前回の編纂会議で使った帳面だ。その余白に、びっしりと注釈が書かれているのが、遠くからでも分かった。
村田が座った。帳面を開いた。
糸子が「……何を書き加えましたか」と聞いた。
「いくつか確認させてください」
「なんでございましょう?」
村田が帳面の余白を指で辿った。
「原則三の——『代替案を持つ者が強い』というところです」
「はい」
「これはオランダの商人の手法書にも似た記述があります。ただし用語が違う。原書では『交渉において退路を確保することが、前進の条件になる』という表現で書かれていました」
「似ておりますね」
「はい。そしてここからが昨夜考えたことなのですが——惣会所を使った統合販売と組み合わせると、この原則はさらに強力になると思うのです」
(村田殿は前日の内容を自分で発展させてくる。これは想定以上だ。良い意味で)
「村田殿の注釈を見せていただけますか」
村田が帳面を開いて、糸子の方に向けた。御簾越しに、糸子が帳面の注釈を読んだ。
丁寧で、論理的な字だ。余白に小さく書かれているのに、一字一字が正確だ。読みながら、糸子の動きが少し止まった。
「……この部分——」
糸子が言った。
「『売り手が統合されている時、代替案は売り手側にも生まれる』という考えは——わたくしが言語化できていなかった部分でございます」
「そうですか」
「そうでございます。個別の商人が代替案を持つ、という発想は七原則に含まれておりました。なれど——組織として統合された時に、代替案の性質が変わる、という点は整理できておりませんでした」
村田が少し頷いた。
「つまり、個人の代替案と組織の代替案は、質が違う、ということですね」
「はい。個人が『別の方から買います』と言っても、相手に『どうぞ』と言われればそれで終わりでございます。なれど惣会所という組織が『まとめて引き上げます』と言えば——相手は全員の生糸を失うことになりましょう。これは全く別の圧力でございます」
「……なるほど。量の違いではなく、質の違いですね」
「正確にその通りでございます」
「では教科書に加えますか」
「加えましょう。村田殿の言葉で…」
村田が新しい帳面を開いた。
「『代替案の質的変容——個人の代替案と組織の代替案』という小見出しを加えます」
「それで行きましょう」
二人が作業を再開した。
庭の楓が、朝の光の中で静かに揺れていた。その赤が、池の水面に映って揺れていた。
三
「次に——以前お話した市場についてでございます」
帳面の整理が終わった後、糸子が次の章に移った。
「市場が動く力は二つあることは、前にお話致しました」
「はい」
「本日、追加のお話として、需要と供給を具体的な例に当てはめてお話致しましょう」
糸子が続けた。
「フランスで蚕が病気になった場合を考えてくださいませ」
「……蚕が病気に」
「はい。蚕が病気になれば、フランスで生糸の量が減りましょう。量が減れば、価格が上がる——これが供給側の変化でございます。そして、日本の生糸を求める声が高まる——これが需要側の変化でございます」
「……その二つが重なれば」
「日本の生糸の価格が上がりまする」
村田が書きながら言った。
「情報が先に来た者が、その価格変動を予測できる、ということですね」
「そうでございます。価格が上がる前に仕入れて、価格が上がった後に売る。これが情報を持つ者の優位でございます」
「……これは情報の章に繋がりますね」
「はい。需要と供給の概念は、後の情報戦の章の土台になります。体系が繋がっているのはそのためです」
村田が帳面に「需要と供給→情報戦との連動」という矢印を書き込んだ。
(村田殿は常に全体の構造を意識して読む。各章をバラバラに捉えず、繋がりを探す。それが蘭学者の読み方だ)
「村田殿、一つ聞かせてくださいませ」
「なんでしょう」
「この需要と供給の概念——蘭書にはどのような形で書かれておりましたか」
「散在して、という言い方をしました。具体的には——貿易の章、農産物の章、それぞれの文脈で出てきます。しかし一つの原則として定義された形では見たことがない」
「なぜだとお思いですか」
村田が少し考えた。
「……書いた人間が、それを原則として認識していなかったからだと思います。感覚で知っていたが、言葉にしていなかった」
「そうでございます。知っていることと、言語化できることは違いまする。言語化できなければ——人に教えられないのでございます」
「……これがこの教科書の最も重要な仕事ですね」
「はい。知っていることを、言語化しまする」
村田が帳面に書いた。そして少し間を置いて、余白に小さく一文を書き加えた。
「知識の価値は、それを伝えられるかどうかで決まる」
「村田殿、それは教科書の序文に入れましょう」
「……そうしましょうか」
「はい」
四
その日の終わり。
会議が終わりに近づいていた。
庭の外の楓の赤が、夕方の光を受けてさらに深くなっていた。夕日の橙色が楓の赤に混ざって、池の水面に複雑な色を作っていた。石畳の上の影が長く伸びていた。秋の夕方は、光の角度が急激に変わる。
村田が帰り支度を始めた。帳面を閉じて、帯に挟んだ。
立ち上がりかけた。
そして止まった。
「姫様、今日で三日目になります」
「はい」
「率直に聞かせてください」
(第三の問いが来た。今度は最も核心に近い)
糸子が、御簾の向こうで少し緊張した。それは読者にだけ分かる緊張だった。表面には出さなかった。
「この三日間でお聞きした知識——御所の蔵書と長崎の聞き取りだけでは、量も方向性も説明がつかないと感じています」
沈黙があった。
庭の楓が、夕風に一度揺れた。赤い葉が揺れて、その影が縁側の上を動いた。
「七つの原則は商談経験から抽出できます。需要と供給は蘭書にも断片があります。しかし——」
村田が言葉を選んだ。
蘭学者として長年、書物の論理を追ってきた人間の言葉の選び方だった。感情ではなく、観察から言葉を作っている。
「これだけ一つの方向に向いた知識体系を、御所の蔵書から作るのは——」
また少し止まった。
「まるで、すでに完成した体系を知っている方が——そこから教科書を作っているようです」
長い沈黙があった。
部屋の中が静かだった。行灯の火が、夕方の光の中で存在感を増していた。池の水面から、水が微かに揺れる音が聞こえた。
「……村田殿」
「はい」
「わたくしには——どうしても説明できないことがあります」
(転生者とは言えない。言えない理由は、信じないからではない。信じた場合の影響が計算できないからだ)
「ただ——」
糸子が少し間を置いた。
「わたくしが知っていることが、間違っているかどうかは——村田殿が一番よく分かるはずでございます。三日間、矛盾した知識がありましたか」
村田が長い間、考えた。
その沈黙が長かった。
村田は何かを検証していた。三日間で聞いた知識の一つ一つを、頭の中で確認していた。矛盾はあったか。内部的な論理の破綻はあったか。実際に使えない内容はあったか——
「……ありませんでした」
村田が言った。
「では——それで十分ではないですか?」
また長い沈黙があった。
「……はい。失礼しました」
(村田殿は今日、もう少しで核心に触れた。「すでに完成した体系を知っている」——正解だ。正解だが、その先に辿り着けない。辿り着けない理由は、答えが「二十一世紀の日本から来た転生者」だからだ。村田殿の論理の中に、その選択肢は存在しない)
(わたくしは今日、嘘をついていない。全部本当のことを言った。説明できないことがある——これも本当だ。説明できないのは、信じないからではない。信じた場合の影響が計算できないからだ。この時代に「未来から過去へ来た人間」という概念が広まれば——計画の全体が崩れる可能性がある)
村田が礼をして退室した。
廊下に足音が遠ざかった。
糸子が一人になった。
行灯の火が、部屋の中で静かに揺れていた。
五
翌週。
第一巻の草稿がほぼ形になっていた。
今日から第三巻——為替と金融——の本格的な作業が始まる予定だった。
部屋には今日も、秋の光が差し込んでいた。先週より光の角度が低い。秋が深まるにつれて、太陽の高度が低くなっていく。縁側の外の石畳に、先週より長い影が落ちていた。松の影が、池の水面まで届いていた。
村田が来た。
座敷に通されて、正座した。礼をした。
「今日から第三巻を始めましょうか」と糸子が言いかけた時——村田が先に口を開いた。
「姫様、一つ提案があります」
「なんでしょう」
「難しい概念を教える前に——必ず失敗例を見せてはどうでしょう」
(来た。昨夜から考えていたことと同じ方向だ)
「……それは良い案です。なぜそう思いましたか」
糸子が聞いた。
村田が少し考えた。考える時の村田の顔は、感情をほとんど見せない。しかし目が動く。論理を整理している時の目の動き方がある。
「蘭学でも同じです。成功した手術より、失敗した手術から学ぶことが多い」
「はい」
「人間は損を避けようとする力の方が、得を求める力より強い。失敗例を見せることで——『これを知らなければ損をする』という動機が生まれます。その動機の方が、『これを知れば得をする』という動機より、学びへの意欲を強くします」
(プロスペクト理論。村田殿は行動経済学の一部を、直感で理解している。二十一世紀にリチャード・セイラーとダニエル・カーネマンが体系化した考え方を——村田殿は経験から掴んでいる)
「……村田殿は、その考えをどこで」
「蘭学の塾での経験です。生徒に教える時——成功した実験を見せるより、失敗した実験を見せた方が、次に注意して取り組む生徒が増えました。感覚として気づいたことです」
「感覚を言語化すると——原則になりましょう」
「はい。姫様がやっていることと、同じですね」
糸子が少し笑った。
「村田殿も同じことをやっておられたのですね。わたくしだけではなかった」
「……そうかもしれません」
「では各章の冒頭に——必ず失敗例を入れましょう。村田殿の提案として」
村田が少し頭を下げた。
「では——第三巻の冒頭に使う失敗例を設計しましょう」
六
「為替の失敗例を設計しましょう」
糸子が言った。
「どのような失敗例ですか」
「ある商人の話を作りまする」
村田が少し首を傾けた。
「……作る?」
「実際に似たことは起きています。ただ——教科書に特定の商人の名前を出すと問題になりましょう。それから、一人の商人がこれほど明確な形で一つの失敗をしたとは限らない。実際には複数の小さな失敗が積み重なっておりまする」
「……なるほど」
「だから——典型的な失敗を一つのお話に致します。実際に起きたことの本質を、分かりやすい形にまとめるのでございます」
「事例研究として、ということですね」
「そうです。蘭学の書物にも、架空の症例を使って概念を説明する方法がありましたか」
「あります。シーボルト先生の教え方にもそういう手法がありました」
「それと同じでございます」
二人が向かい合って、事例を設計し始めた。
「まず——どんな商人に致しましょうか」
糸子が聞いた。
「……誠実で、勤勉な商人がいいですね」
村田が言った。
(面白い選択だ。悪い商人の失敗例なら、読んだ者は『自分は違う』と思って油断する。誠実で勤勉な商人の失敗例なら、読んだ者は『自分も同じ立場かもしれない』と思う)
「なぜ誠実で勤勉な商人なのでございましょうか」
村田が少し考えた。
「悪意のある商人が失敗しても、教訓は『悪いことをするな』になります。しかし誠実な商人が失敗すれば、教訓は『善意だけでは不十分だ。知識が必要だ』になります」
「……それは」
糸子が少し止まった。
(村田殿は教育のことを、よく理解している。蘭学者として長年教えてきた経験が、こういう形で出る)
「村田殿はやはり、教師の視点をお持ちでございますね」
「……そうでしょうか」
「善意だけでは不十分だ、という教訓は——最も重要な教訓の一つになりましょう。この教科書全体を貫くテーマでもありまする」
「では、その誠実で勤勉な商人が——どんな状況で失敗するか」
「異国商人から、親切に見えるアドバイスをもらいまする」
「なるほど」
「その商人は親切だと思って従いまする。なれど——結果として損をするのでございます」
「相手が悪意を持っていたわけではない、ということですか」
「そうでございます。異国商人は自分に有利な取引をしただけでございます。法律上も問題ありませぬ。なれど日本の商人は損をしたのでございます」
村田が帳面に書き始めた。
事例の骨格が、少しずつ形を持ち始めた。
「……書いてみます」
村田が筆を動かした。
「ある商人が異国商人から——」
七
村田が書き始めた文章を、糸子が御簾越しに確認していった。
「ある商人が異国商人から『銀で受け取るより金で受け取った方が良い』と言われた」
「はい、続けてくださいまし」
「商人は金の方が高いから良いと思い、金で受け取った」
「……そこまで」
糸子が少し間を置いた。
「ここで一度、読んだ生徒に問いを立てましょう」
「どんな問いですか」
「『あなたならどうしましたか』と聞くのでございます。失敗例を読んだ時点では、まだ何も教えていないでしょう。だから生徒は自分の直感で答えるありませぬ。その直感が——多くの場合、商人と同じ選択を致しましょう」
「……金の方が高いから金を選ぶ、と」
「はい。そこで初めて——続きを読むのでございます」
村田が書いた。
「しかし異国に持ち出した瞬間、その金の価値は三分の一になった——」
「はい」
「この商人は実在しますか」
「似たことは何度も起きておりまする」
村田が少し間を置いた。
「……日本橋の商家でも聞きました」
静かな声だった。
「信じられない話ですが——これが現実だと。金を大量に受け取って帰ってきたのに、翌日には価値が下がっていた。何が起きたか分からなかった、と」
「知らなければ——善意の取引でも搾取される。それがこの章で伝えたいことでございます」
村田が書きながら言った。
「『知らないことは悪意より怖い』——この一文を章の教訓にしてよいですか」
「完璧な一文でございます」
「姫様が言えばよかったのに」
「村田殿が言ったから完璧なのでございます。わたくしが言うより、村田殿が言う言葉の方が——読んだ者に届きます」
「……なぜですか」
「蘭学者の言葉だからです。感情や気分ではなく、観察から来た言葉だと伝わりましょう」
村田が少し止まった。
「……そういう計算をされているのですか」
「常に」
村田が小さく笑った。
そういう種類の笑いをするのは珍しかった。蘭学者として鍛えた表情の固さが、少し解けた笑いだった。
「……承知しました。では『知らないことは悪意より怖い』、書きます」
筆が動いた。
八
「次に——演習問題を作りましょう」
糸子が言った。
「どんな問題ですか」
「生徒が自分で計算する形で、失敗の仕組みを理解させまする」
「計算問題、ということですね」
「はい。四つの問いを作ります」
糸子が話し始めた。村田が書き取った。
「問い一。異国商人が銀百枚を持ってきた。日本の交換比率は一対五——つまり金一枚に対して銀五枚です。この異国商人が銀百枚を全て金に換えると、金は何枚になりますか」
村田が書きながら計算した。
「……銀百枚を金に換えると、金二十枚になります」
「そうです。問い二。その金二十枚を、海外の比率で銀に換えます。世界標準の比率は一対十五です。金二十枚が銀何枚になりますか」
「……金一枚が銀十五枚なので、金二十枚は銀三百枚になります」
「はい。問い三。最初の銀百枚と比べて、何倍になりましたか」
「……三倍です」
「そうです。問い四。この利益を生んだのは何ですか」
村田が少し考えた。
「……生産をしたわけでもない。労働をしたわけでもない」
「はい」
「ただ——銀を持って日本に来て、交換して、持ち帰っただけです」
「そうでございます。この利益を生んだのは——日本と世界の比率の差になりまする」
「……差を知っていた者が利益を得て、知らなかった者が損をした」
「正確にはその通りでございます」
村田が四つの問いを書き終えた。
「……単純な計算ですが」
「単純な計算が一番怖いのでございます」
糸子が言った。
「複雑な仕組みで搾取されるより——単純な仕組みを知らないことで搾取される方が、何倍も多いのでございます。複雑なものは、複雑に見えるから警戒が生まれましょう。なれど単純なものは——単純に見えるから油断しまする」
「……なるほど」
「この四つの問いを生徒に解かせると——最初は全員が正解しましょう。簡単な計算だからでございます。なれど答えを出した瞬間に、生徒は気づきまする。自分はこの計算ができていたのに——この計算が現実に行われていることを、知らなかった。知らなかったから、防げなかったと…」
「……その気づきが——学びになる」
「はい。知識が感情を伴って入る瞬間が、最も深く定着致しまする」
村田が少し間を置いた。
「……それは教え方の原則としても重要ですね」
「はい。教え方の章を別に作ることも考えていまする。学校の教師のための教科書を、教科書の中に入れるのでござい」
「……それは」
村田が少し驚いた顔をした。
「教科書の中に、教え方まで書くのですか」
「この学校は最初、教え慣れていない人間も教壇に立つことになりましょう。だから——教え方そのものも教える必要がありましょう」
「……なるほど」
村田が帳面に「教授法の付録」という覚え書きを書いた。
九
「では——解説の部分を作りましょう」
糸子が続けた。
「四つの問いの後に、なぜこうなるかを説明しまする」
「どのように」
「まず——金銀比率の構造から」
糸子が話し始めた。
「日本は長年、異国との取引がほとんどありませんでした。だから——日本国内の金銀比率と、世界の金銀比率が大きく違っていた。これに誰も気づかなかった」
「……正確には、気づいた者がいなかった、ということですね」
「そうでございます。気づく機会がなかった。異国商人と取引する機会がほとんどなかったから。しかし開港で、その機会が突然訪れた」
「突然、世界の比率と日本の比率が、同じ場所で機能し始めた」
「そうでございます。そしてその差を、知っていた異国商人が使った」
村田が書いた。
「解説一——日本と世界の金銀比率の差について。日本国内の比率は一対五。世界標準の比率は一対十五。この差が生まれた理由は、長年の鎖国により日本が世界の相場と切り離されていたためである」
「はい。次に——なぜこの差が修正されなかったかを説明致しまする」
「理由は何ですか」
「幕府が問題の深刻さを把握するのが遅かった。そして問題を把握しても、対応策が難しかった。万延の改鋳——金の含有量を三分の一に減らすという対応——は、問題を解決しようとしましたが、別の問題を生みました」
「……万延の改鋳は物価高騰を引き起こしましたね」
「はい。一つの問題を解こうとして、別の問題を作ってしまいました。これも失敗例として後の章に入れまする」
「……本当に失敗例には事欠きませぬな」
村田が少し苦いような顔をした。
「この国は——知識がなければ、何度でも同じ失敗を繰り返すということでございますね」
「そうです。だから教科書が必要なのでございます」
村田が頷いた。深く、重く頷いた。
「……承知しました」
十
「次に——この問題に対して何ができたかを説明しましょう」
糸子が続けた。
「知識があれば何ができたか、ということですか」
「はい。失敗例を見せた後は——失敗を防ぐ方法を示す必要がありましょう。でなければ、ただ暗い話を読んで終わりになりまする」
「なるほど。構成として——問題・原因・対策、という流れですね」
「そうでございます」
「対策は何ですか」
糸子が少し間を置いた。
「まず——取引の際に、どの通貨で受け取るかを事前に確認する。金か銀か。そしてどちらが有利かを、その時点の比率で計算するのでございます」
「その計算を、商人が自分でできるようになる必要がありますね」
「はい。だから演習問題がありまする。計算に慣れてしまえば——取引の場でも素早く判断できましょう」
「……それは実践的ですね」
「次に——天朝物産会所が提供する情報として、その時点の金銀比率を定期的に示し致しまする。商人が個別に調べなくても、最新の情報が届く仕組みを作りましょう」
「それが商務通報、ですね」
「はい。月に一度の情報提供の中に、相場情報を含めまする。この情報を持っている商人と持っていない商人では——同じ取引でも結果が全く変わりましょう」
村田が書いた。
「対策一——取引通貨の確認と比率計算。対策二——天朝物産会所からの定期情報の活用。対策三——」
村田が村田ができ止まった。
「三つ目の対策は何ですか」
「惣会所を通じた統合取引」
「……どういう意味ですか」
「一商人が個別に交渉するより、惣会所という組織として交渉する方が——取引の条件を有利に設定できましょう。複数の商人がまとまれば、『まとめて引き上げる』という選択肢が生まれまする。これは昨日の代替案の話と繋がりまする」
「……原則三と、対策三が同じ根を持つわけですね」
「はい。教科書の各章が——互いを支え合う構造になっておりまする」
村田が書き終えた。
「……これで為替の章の基礎構造ができましたね」
「はい。後は——手形の話と、相場の読み方を加えましょう」
「それは次回の会議で」
「はい」
村田が帳面を閉じた。今日の会議が終わりに近づいていた。
窓の外の庭で、秋の風が吹いた。楓の葉が一枚、風に揺られて池の水面に落ちた。その葉が水面にゆっくりと漂い始めた。赤い葉が、青い空を映した水の上を動いていく。
それを二人とも、少しの間見ていた。
静かだった。
十一
「村田殿」
糸子が言った。
「はい」
「今日の会議で、一つ感じたことがあります」
「なんでしょう」
「村田殿の提案——失敗例から入る、という考え方は——わたくしが最初の考えで見落としていた部分でございました」
「……そうですか」
「わたくしは知識を持っておりまする。体系化する力もありましょう。なれど——教え方については、村田殿の方が深く考えておられまする」
「……蘭学を教えてきた時間が長いからでしょう」
「そうでございます。だから——この教科書は、わたくし一人では作れなかったのです。村田殿との共同作業だからこそ、良くなっておりまする」
村田が少し間を置いた。
「……姫様、一つだけ言ってもよろしいですか」
「なんでしょう」
「わたくしは今日まで——姫様の知識の量と質に、何度も驚かされました」
「はい」
「しかし今、改めて思うことがあります」
「なんでございますか」
「姫様の最も優れた能力は——知識ではないかもしれません」
糸子が少し止まった。
「どういう意味ありましょう?」
「他の人間の言葉を——その人間が言うよりも正確に、意味を理解する、という能力です」
「……それは」
「村田殿が言えばよかったのに、と申しましたら——『村田殿が言ったから完璧なのです』とおっしゃいました。それは正確な分析です。わたくし自身が気づいていなかったことを、姫様は先に見抜いておられた」
(村田殿は——わたくしを観察していた。会議中ずっと、知識の内容だけでなく、わたくし自身を)
「……村田殿は教師でございますね」
「そうですか」
「生徒の長所を見つけるのが得意でしょう。そして——その長所を活かす方向に、授業を致しまする」
村田が少し笑った。
「……そうかもしれません。それが教師の仕事ですから」
「今日、村田殿はわたくしの長所を一つ見つけてくださいました。お礼申し上げます」
「いいえ。ただの観察です」
「その観察が——この教科書をよりよく致しましょう。かたじけなく存じます 」
村田が深く礼をした。
「こちらこそ。蘭学者として——こんなに面白い仕事は、ありませんでした」
退室した。
廊下に足音が遠ざかった。
十二
糸子が一人になった。
部屋の外の庭で、楓の葉が池の水面を漂っていた。先ほど落ちた赤い葉が、風もないのにゆっくりと動いていた。
糸子が帳面を手に取った。
今日の会議の内容を確認した。
失敗例から入るという構成。四つの演習問題。解説の三段階構造——問題・原因・対策。そして村田が言語化した「知らないことは悪意より怖い」という一文。
(村田殿は毎回、何かを持ち帰ってくる。前日の内容を自分で発展させて、翌日に持ってくる。それがこの教科書をより良くしている)
(わたくしが知識を提供して、村田殿がその知識を「この時代の人間が理解できる形」に変換する。そしてその変換の過程で——村田殿独自の観察が加わる。その観察が、わたくしが見落としていた部分を補っている)
糸子が帳面を閉じた。
鍵のかかる引き出しを開けた。
二冊目の黒い帳面を取り出した。
開いた。
「第三巻・為替章の基礎構造完成。村田殿の『失敗例から入る』提案を採用——これが各章の標準設計になる」
書いた後、少し間を置いて書き加えた。
「村田殿は教え方を知っている。わたくしは知識を持っている。この二つが揃うことで——教科書が本物になる」
帳面を閉じた。
鍵をかけた。引き出しに戻した。
「葵」
「はい」
「お茶を」
「はい、ただいま」
糸子が窓の外を見た。
池の水面を漂っていた楓の葉が、今度は池の端にたどり着いて、そこで止まっていた。赤い葉が、秋の夕光の中で輝いていた。
「知らないことは悪意より怖い」
糸子が小さく呟いた。
「知らなければ搾取される。知っていれば対等に戦える」
その二つの言葉が、今日の会議から残った。
村田の言葉と、村田が名付けた言葉。
この教科書を作ることで——糸子一人が知っていたことが、百人の言葉になっていく。
(それが目的だった。最初から)
葵がお茶を持ってきた。
宇治の香りが、秋の夕暮れの部屋に広がった。
糸子がお茶を飲んだ。
濃い緑の味が、舌の上に広がった。
(次の会議では、手形の話と相場の読み方を作る。その次は物流と海運。そして——最後に情報戦)
(情報戦の章は、全員には渡さない。五人以内に限定する。村田殿に「なぜ限定するのか」と聞かれたら——「戦略が漏れた瞬間に、戦略でなくなるから」と答える。それは本当のことだ)
糸子が帳面を開いた。
明日の会議の準備を始めた。
秋の夜が、静かに深まっていった。
十三
廊下の端で、近藤勇が夜番をしていた。
今夜の庭は静かだった。楓の葉が、日中ほど揺れていない。夜の風は穏やかだ。池の水面に月が映っていた。秋の月は白い。夏の月より、明るく鋭い光を持っていた。
奥御殿の一室に、行灯の光が見えていた。
(また遅くまで……)
近藤は思ったが、何も言わなかった。
庭の向こうで、楓の葉が一枚、静かに落ちた。夜の空気の中で、音もなく落ちた。その葉が石畳の上に積もって、他の葉と重なって、秋の夜の庭に溶け込んでいった。
(何を作っておられるのか)
近藤は知らない。教科書を作っているということは知っている。しかしその教科書が何のためのものか——近藤には分からない。
しかしそれで良かった。
自分の仕事は守ることだ。何を作っているかは、姫様が知っていればそれで十分だ。
近藤が庭を見続けた。
月が傾いていた。夜が深まっていた。
奥御殿の行灯の光は、まだ消えなかった。
第七十一話 了




