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【祝!PV累計80万突破】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第七十話「白紙の帳面・十冊」

 時間は少し遡って……

 村田蔵六が商務語学所の設立に力を貸してくれることになって数日。


 万延元年、夏の終わり。

 江戸の夏は、一日ごとに少しずつ暑さが和らいでいく。

 一橋上屋敷の庭では、楓の葉がまだ青々としていた。夏の盛りの深い緑が、朝の光の中で光っている。しかし葉の縁だけが、ほんの少し橙色を帯び始めていた。秋の最初の色が、葉の先端に宿り始めていた。気づかなければ気づかない程度の変化だ。しかし確かに変わっていた。夏の終わりというのは、そういう変わり方をする。大きな変化ではなく、細部から少しずつ変わっていく。

 池の水面は、今日は鏡のようだった。

 波紋一つない。風もない。その静けさの中に、楓の色が映っていた。橙と緑が混ざった、まだ定まりきっていない色が、水の中に静かに宿っていた。空の青も映っていた。水の中に空があり、楓があり、松の緑がある。

 庭師が朝早くから動いていた。

 石畳を竹箒で掃いていた。松の根元に水を打っていた。池の縁の苔を丁寧に整えていた。その作業が音もなく進んでいた。庭師の動きは、毎日同じだった。同じ順番で、同じように動く。その繰り返しが——庭の美しさを保っていた。

 縁側の向こうに松が立っていた。

 四季を通じて変わらない松の緑が、今日は特に鮮やかに見えた。楓の橙色が始まる中で、松だけが変わらない緑を保っている。その対比が、今朝の庭の色彩を作っていた。


 奥御殿の一室。

 行灯の火が、朝の光の中でもまだ揺れていた。

 消えていなかった。昨夜からずっと、消えていなかった。

 近藤勇が廊下の端で夜番をしながら、その光を見ていた。夜が深まっても消えなかった。夜明けが来ても消えなかった。朝の光が庭に差し込んで、庭師が動き始めても——行灯の火は窓の向こうに揺れていた。

 (また徹夜だ)

 近藤は思ったが、何も言わなかった。

 廊下に立って、庭を見た。

 庭師が松の根元に水を打つ音が、静かな朝に小さく響いていた。


 机の上に、白紙の帳面が十冊、並んでいた。

 昨日の昼に葵が用意しておいてくれた帳面だ。糸子が「十冊用意してください」と言って、葵が「十冊でございますか」と少し目を丸くしながら用意した帳面だ。

 全部が真っ新だった。表紙が白い。一字も書かれていない。

 しかし糸子は、その十冊の帳面を前にして、ずいぶんと長い間、動かなかった。

 白紙の帳面を見ていた。

 白紙には、何でも書ける。何でも書けるということは——何から書くかを決めなければならない、ということでもある。

 その選択が、今夜の糸子の仕事だった。

 廊下から、静かな足音が近づいてきた。

 「……姫様」

 葵の声だった。

 「なんでしょう」

 「昨夜は何時まで起きておられましたか」

 「覚えておりませぬ」

 「お顔の色が」

 「村田殿はいつ来られる予定でございますか」

 葵が少し間を置いた。

 「……巳の刻には」

 「では今のうちに整理しましょう」

 「何かお持ちしますか」

 「宇治の濃いめのお茶を」

 「はい、ただいま」

 葵が廊下を遠ざかった。

 糸子が帳面の一冊を手に取った。

 重さを確かめるように、少し持ち上げた。表紙を開いた。最初の頁が、白紙のまま広がった。

 墨を磨り始めた。

 夜の残りの静けさの中で、墨を磨る音だけが聞こえた。

 筆を取った。

 最初の頁の上に、一行書いた。

 「知識の棚卸し——橘咲として大学院で学んだこと、全部出す」

 書き始めた。


 糸子が書いているのは、誰かに見せるためではなかった。

 自分の頭の中にあるものを全部出す作業だ。整理する作業だ。

 橘咲として生きた二十八年間に学んだことの一部を、書き出す。そしてそれを分類する。今の日本で使えるものと、使えないものと、絶対に教えてはいけないものに。

 筆が動いた。


    【使える——今すぐ】

 ⚫︎需要と供給の概念。欲しい人が多く、量が少ないと価格が上がる。この単純な論理を、幕末の商人はまだ言語化できていない。言語化できていないから予測ができない。予測できないから常に後手に回る。これを教えれば——市場の動きが見えるようになる。


 ⚫︎価格交渉の心理学。相手の「本当の限界価格」と「見せている価格」の差を読む技術。沈黙の使い方。反応を返す前に考える時間を作ること。これらはバイヤー時代に体で覚えた技術だ。言語化できる。


 ⚫︎BATNA——Best Alternative To a Negotiated Agreement——代替案を持つ者が交渉を制するという原則。「あなたから買えなければ、別の方から買います」と本当に言える状態を作ること。これが最強の交渉力だ。惣会所と組み合わせれば——日本の商人が初めて異国商人に対して「まとめて引き上げる選択肢」を持てる。


 ⚫︎複式簿記の基礎。「貸方・借方」を「入方・出方」と呼び変えれば、この時代に教えられる。算術ができれば理解できる内容だ。これを知っているかどうかで、商家の経営管理の精度が全く変わる。


 ⚫︎マーケティングの基本。「市場の読み方と商品の見せ方の術」と言えばいい。商品の品質だけでは売れない。どう見せるか、どの価格帯に置くか、誰に向けて売るか——これを考えることが「売れる」と「売れない」を分ける。


 ⚫︎サプライチェーン管理。「産地から店頭までの品物の流れを管理する仕組み」と言えばいい。どの経路で運ぶか、どこで在庫を持つか、どのタイミングで動かすか——これを設計できればコストと品質が同時に改善する。


 ⚫︎情報の非対称性。「知っている者と知らない者の間に生まれる有利不利」——これが全ての商売の根本だ。異国商人が日本の商人より強いのは、力があるからではなく、情報を持っているからだ。


    【使えない・まだ早い】

 ⚫︎株式市場。まだ発達していない。概念を教えても、実際に動かせる市場がない。概念だけが浮いて、混乱しか生まない。


 ⚫︎デリバティブ。概念が存在しない。先物取引の原型はあるが、現代のデリバティブとは全く違う。今教えることは危険だ。


 ⚫︎IT前提の効率化。通信が遅すぎる。飛脚と船便が情報の主要経路だ。電報もない。どれほど効率的な仕組みを設計しても、情報が届くまでに日数がかかるなら意味がない。


    【絶対に教えてはいけない】

 筆が少し止まった。

 書き始めた。

 ⚫︎近代兵器の製造に転用できる知識。これは決して出さない。どれほど「日本のため」という名目があっても、兵器の知識を出すことはわたくしの役目ではない。その知識が誤った方向に使われた時——取り返しがつかない。

 ⚫︎国家転覆に直結する金融操作。特定の時点で通貨の信用を意図的に操作する方法。これも出さない。知識は道具だが、この道具は扱いを誤れば国を壊す。

 書き終えた。

 (問題は「使える」知識をどう説明するかだ)

 糸子が帳面から顔を上げた。

 窓の外の庭で、朝の光が少し強くなっていた。庭師の動く影が、池の水面に映っていた。

 (なぜ知っているかを聞かれる。御所の蔵書と長崎の商人の話——そこまでしか言えない。残りは「説明できないことがある」で押し切る。村田殿は賢い。どこかで気づく。しかし気づいても追及しない人物だと——わたくしは読んでいる)


 (証拠はある。先日の打ち合わせで、村田殿は「なぜそこまで知っているのか」と聞きかけて、途中で止めた。止めたのは「追及することが失礼だ」と判断したからだ。蘭学者は「知識の出所」より「知識の内容」を重視する。シーボルト先生がどこから知識を得たかより、その知識が正しいかどうかを問う。村田殿も同じはずだ)


 葵がお茶を持ってきた。

 宇治の濃い緑の香りが、部屋に広がった。

 「姫様、今日は何をお始めになりますか」

 「教科書の骨格を作りましょう」

 「十冊の帳面は」

 「各章の原稿になりまする。五巻の教科書に対して、各章ごとに下書きを作りましょう。一冊の帳面が一章の原稿でございます」

 葵が帳面の束を見た。

 「……それでも」

 「下書きだけでございます。本書きは村田殿と一緒にやりましょう」

 葵が頷いて、静かに退室した。

 糸子が二冊目の帳面を手に取った。

 第一章の原稿を書き始めた。

 窓の外で、庭師が松の根元の水を打つ音が聞こえた。秋の始まりの、静かな朝だった。


 巳の刻——午前十時。

 廊下に足音がした。

 いつもと同じ歩幅で、いつもと同じ速さだ。格式でもなく、急ぎでもない。蘭学者として長年鍛えてきた、実用的な歩き方だ。

 障子の外から声がした。

 「村田でございます」

 「どうぞお入り下さいまし」

 障子が開いた。


 村田蔵六が入ってきた。

 今日の村田は手ぶらだった。帳面も筆も、今日は持ってきていない。何から始まるかを——先に見てから判断するつもりだったのだろう。

 部屋に入って——机の上を見た。

 止まった。

 白紙の帳面が十冊、机の上に並んでいた。縦に重ねて積んであるのではなく、横に一列に並べられていた。第一冊から第十冊まで、順番に。それが——これから全部を埋めるという意志の表れのように見えた。

 何か大きな作業が始まろうとしているという気配が、その光景から滲み出ていた。

 「……姫様、これは」

 「今日から一緒に作っていただくものの、原稿になりましょう」

 「英語の教科書の続きでございますか」

 「いいえ。もっと大きなものでございます」

 糸子が少し間を置いた。

 庭の外で、秋の最初の風が松の葉を揺らした。その音が、静かな部屋の中に細く入り込んだ。

 「商いで異国に負けないための、全ての術を——言語化したいのです」


 村田が白紙の帳面を一冊、手に取った。

 重さを確かめるように、少し持ち上げた。表紙をめくった。白紙が広がった。その白紙の空白に、村田の目が少し吸い込まれた。まだ何も書かれていない。しかし——この白紙に何かが書かれた後、日本がどう変わるかを、村田はおそらく想像できなかった。

 「……全ての術、とは」

 「交渉・価格・為替・物流・情報。この五つを体系化して、誰でも再現できる形にしたいのでございます」

 「交渉はともかく——為替や物流まで」

 「はい」

 「……姫様、それはどこで学ばれましたか」

 (第一の問いが来た。想定通りだ)

 糸子が少し笑った。

 「御所の蔵書に、唐・明の商取引の記録が多数ございます。また長崎の商人から直接お話を伺いましてございます」

 「……それだけで、ここまで」

 「村田殿」

 「はい」

 「わたくしには、説明できないことがいくつかございます。ただ——」

 糸子が村田を正面から見た。御簾越しに、しかし真っすぐに。

 「わたくしが知っていることが、この国の役に立つなら——それで十分ではないでしょうか」


 村田がしばらく黙った。

 (これは拒否する沈黙ではない。整理している沈黙だ。「なぜ知っているか」という問いと、「知識が本物かどうか」という問いを、頭の中で分けている。村田殿は常にそうだ。感情より事実を重視する)

 「……承知しました。一緒に作りましょう」

 村田が帳面を机に置いた。

 「何から始めますか」

 「まず、全体の骨格をお見せ致しましょう」

 糸子が最初の帳面を開いた。


 今朝のうちに書いた全体構成が、そこに書かれていた。

 五巻構成——序章・商談実務・為替金融・海運物流・情報戦。それぞれの章立てと、各章で扱う内容の概要が書かれていた。


 村田が受け取った。読み始めた。

 読んでいる間、声が出なかった。ただ静かに読んでいた。

 読み終わって、顔を上げた。

 「……姫様は昨夜、これを書いたのですか」

 「下書きだけでございます。詳しい内容は今日から一緒に作りましょう」

 「下書きと仰いますが——」

 村田が帳面を閉じた。

 「この骨格だけで、一冊の書物として成立します」

 (村田殿は褒める時、正確に褒める。おせじで褒めない。それが却って困る)

 糸子が少し頭を下げた。

 「では——始めましょうか」

 「はい」

 帳面が開かれた。

 窓の外の庭で、池の水面が朝の光を受けて輝いていた。


 「今日は商談の話から始めましょう」

 翌日——二日目の編纂会議が始まった。

 朝の光が、座敷の障子を通して室内に入り込んでいた。前日より少し明るい朝だった。昨夜、秋の最初の本格的な雨が降ったからだろう。空気が洗われて、今朝の光は特に清潔だった。


 縁側の外の庭では、松の葉が昨夜の雨に濡れて、深い緑を見せていた。池の縁の石が濡れて黒くなっていた。楓の葉の縁が、また少し赤みを増していた。秋が一晩で一段進んだ。

 座敷の中は乾いていた。

 文机の上に、帳面が一冊置かれていた。昨日開いた全体構成の帳面だ。そこに、今日から内容を書き込んでいく。

 村田が昨日とは違う格好で来た。袖が動かしやすい着物に変えていた。長い時間書く作業のための格好だ。準備してきたことが、その格好から分かった。

 「はい」

 「商談には——七つの原則がありまする」


 村田が筆を構えた。

 「一つ目。最初に言った価格は仮の価格でございます」

 「……どういう意味ですか」

 「異国商人が最初に提示する価格は、交渉の余地を含んでおりまする。だから最初の価格を鵜呑みにしないことが寛容でございます」

 「なるほど。しかし——それはどうやって見分けるのですか」

 「見分ける必要はございませぬ。全ての最初の価格を仮だと思えばいいのでございます」

 村田が書きながら言った。

 「……それは乱暴な原則では」

 「乱暴でありましょうや」

 「例外があります。本当に最安値を提示してくる商人もいるでしょう。その場合、仮だと思って時間をかけていると——機会を逃します」

 (正確な反論だ)

 「正しい指摘です。修正しまする」

 糸子が少し間を置いた。

 「最初に言った価格は——反応を見るための価格でございます。だから反応を返す前に考える時間を作るのでございます」

 村田が書いた後、少し読み返した。

 「……それは確かに例外を含みます。訂正した原則の方が正確ですね」

 「村田殿が反論してくださるおかげで、より正確になりまする」

 「いいえ。わたくしは知識を正確にする仕事をしているだけです」

 村田が原則を書き直した。丁寧な字で。

 (村田殿は対等に反論する。そしてわたくしはその反論を受け入れて修正する。これが二人の編纂スタイルだ)


 「二つ目。沈黙は最強の返答でございます」

 村田の筆が止まった。

 「……沈黙が、返答に?」

 「相手が価格を言った後、すぐに返事をしない。三秒から五秒、黙る。この間に相手が不安になりましょう」

 「……それは実際に有効なのですか」

 「わたくしはハリスとの交渉で何度も使いましてございます」

 村田が少し懐かしそうな顔をした。

 「……確かに。姫様が沈黙した後、ハリスが先に言葉を出していた場面がありました」

 「お気づきでございましたか」

 「今、言われて気づきました」

 二人が少し笑った。

 (「今言われて気づいた」という反応が——教科書の価値を示している。専門家でも言語化されていなかった技術が、ここで初めて文字になる。言語化された瞬間に、技術は伝えられるものになる)

 「これを言葉に致しましょう。村田殿の力を借りて」

 「承知しました」

 村田が書いた。

 「原則二・沈黙は最強の返答なり。相手の言葉に即座に応じるのではなく、三秒から五秒の間を置くことで、相手に不安を生じさせる」

 「なぜ三秒から五秒なのですか」

 糸子が少し考えた。

 (なぜか。体で覚えた感覚だが——説明できるか)

 「それ以下だと考えていないように見える。それ以上だと聞いていなかったように見える。ちょうどいい間が、三秒から五秒になります」

 「……体で覚えた間合いを、数字にしたわけですね」

 「そうでございます」

 「それは——医術に似ておりますな」

 村田が言った。

 「医師は患者の脈を取る時、その長さを体で覚えています。その感覚を数字に置き換えたのがシーボルト先生の医学です。姫様がやっていることは——商売の分野での同じ作業です」

 (この人は本当に、物事の本質を掴む力がある。だから一緒に作れる)


 「三つ目。代替案を持つ者が強い」

 「代替案?」

 「あなたから買えなければ、別の方から買います——と本当に言える状態を作ることでございます。これが最強の交渉力でありましょう」

 「……これは適用できますか。生糸を例にすると——どうなりますか」

 「生糸を一つの商人が独占して売るより、惣会所が束ねて売る方が強い。惣会所が『まとめて引き上げる』という選択肢を持てば——異国商人は一商人だけを交渉相手にしていた時より、はるかに難しい相手と向き合うことになりましょう」

 「……組織が代替案を作る、ということですね」

 「正確にその通りでございます」

 村田が書いた。書き終えて、少し考えた。

 「姫様」

 「なんでしょう」

 「個人の代替案と組織の代替案は——性質が違いますね」

 「どういう意味でございますか」

 「個人が『別の方から買います』と言っても、相手に『どうぞ』と言われればそれで終わります。しかし惣会所という組織が『まとめて引き上げます』と言えば——相手は全員の生糸を失うことになる。量の違いではなく、質の違いがある」

 (村田殿は自分で発展させた。昨日の内容を、一晩考えてより深い観察を持ってきた。これは想定以上だ。良い意味で)

 「村田殿のその提案——教科書に加えましょう」

 「わたしの提案を?」

 「はい。村田殿の言葉で。『個人の代替案と組織の代替案は質が変わる』——この一文は、わたくしが言語化できていなかった部分でございます」

 村田が少し止まった。

 「……承知しました」

 書き加えた。


 「四つ目」

 糸子が続けた。

 「数字で話す。高いとか安いという言葉では交渉はできませぬ。フランスでこの価格で売れると数字で示すと、相手は反論しにくくなりましょう」

 「その数字はどこから持ってきますか」

 「情報です。万次郎殿がメリケンから送ってくれる情報に相場が含まれています。また横浜で異国商人と話せば、彼らの取引価格が見えてきましょう」

 「情報を集めた者が、この原則を使えるわけですね」


 「はい。五つ目。時間を使う者が勝つ」

 「時間?」

 「急いでいる方が負けまする。相手に急がせるか、自分が急がないかを常に意識するのでございます」

 「急かされた時は?」

 「断れるだけの代替案を持っていれば、急かされても動じませぬ。三つ目の原則と繋がりまする」

 村田が書き止めて、余白に「原則三と五は連動している」という矢印を書き込んだ。

 (村田殿は常に構造を確認する。それが蘭学者のやり方だ)


 「六つ目。感情を表に出さない。怒りを見せると相手に弱点を教えまする。喜びを見せると、もっと値切られましょう。常に穏やかで動じない顔を保つのでございます」

 「……これは難しい。訓練が必要ですね」

 「そうでございます。模擬商談で繰り返し練習すれば、感情が出にくくなりまする」

 「模擬商談とは」

 「先生が異国商人を演じて、生徒が交渉する訓練でございます。村田殿がわたくしに行ってくださったのと同じ形になりましょう」

 村田が少し止まった。

 「……あの模擬交渉を、学校でやる、ということですか」

 「はい。それが最も実践的な訓練になりまする」

 「……それは効果があると思います」

 村田の声に確信があった。あの模擬交渉がどれほど糸子の実力を上げたかを——身をもって知っているから。


 「七つ目。最後に相手が良い取引をしたと思えるようにする。今日の取引だけでなく、次の取引も続けることが重要でございます。だから相手の面子を守ることも必要なのでございます」

 「……慈悲ではなく、計算ですね」

 「はい。長い商いでは、一回の最大利益より、継続する中程度の利益の方が大きくなりましょう。そのための七つ目でございます」

 村田が七つの原則を書き終えた。帳面を閉じた。

 少し読み直した。

 「……姫様」

 「なんでございましょう」


 「この七つの原則——これはどこで体系化されたのですか。御所の蔵書に、このような形で商談論が書かれているとは……」

 (第二の問いが来た。少し角度が変わった)

 「体系化はわたくしが致しました。各所から集めた知識を、一つの方向に整理したのでございます」

 「各所とは?」

 「唐書の商習慣の記録。長崎の通詞から聞いた異国商人の行動パターン。そして——ハリスとの交渉での自分の経験でございます」

 「……経験から原則を抽出する。それが姫様のやり方ですか」

 「そうでございます。経験が先にあって、原則は後からついてくるのでありまする」

 「それは——蘭学とは逆の方向ですね。蘭学は原則から始めて、経験で確認する」

 「どちらが正しいとは言えませぬ。ただ——商売は経験から入った方が、実際に使えましょう」

 村田が深く頷いた。

 (この七原則は、二十一世紀の交渉論——ハーバード交渉術・BATNA理論——が幕末の言葉に翻訳されたものだ。しかし誰もそれを知らない。村田殿も、葵も、龍馬も)


 「次に——市場について」

 三日目の編纂会議。

 今日の朝は少し曇っていた。薄い雲が空を覆って、光が柔らかく散っている。庭の松の緑が、直射日光がないぶん、深みのある色に見えた。縁側の外の石畳に、朝露がまだ残っていた。

 村田が今日は前回の帳面を持ってきていた。余白にびっしりと注釈が書かれていた。

 「……昨夜、気になったことを書き込みました」

 「何を書き加えましたか」

 「原則三の——代替案の話です。昨日の話の後で考えたのですが、惣会所を使った統合販売と組み合わせると、さらに強力な形になる気がして」

 (村田殿は前日の内容を自分で発展させてくる。これは想定以上だ。良い意味で)

 「村田殿の注釈を見せていただけますか」

 村田が帳面を開いて、御簾の方に向けた。

 糸子が読んだ。

 丁寧で、論理的な字だ。余白に小さく書かれているのに、一字一字が正確だ。

 「……この部分——『売り手が統合されている時、代替案は売り手側にも生まれる』という考えは——わたくしが言語化できていなかった部分でございます」

 「では教科書に加えますか」

 「はい、加えましょう。村田殿のお言葉で」

 「承知しました」

 「次に——市場について話しましょう」

 「はい」

 「市場が動く力は二つでございます」

 「なんですか」

 「欲しい人の数と、売れる量でございます」

 村田が少し表情を変えた。

 「……需要と供給、ですか」

 「正確にはその通りです。村田殿はもうご存知でしたか」

 「概念としては。ただ——」

 村田が少し考えた。

 「ここまで明確に整理されたものは見たことがありません。蘭書にも散在していますが、一つの文章で定義された形では」

 「整理することが大事なのでございます」

 「なぜですか」

 「整理されていれば——誰でも使えまする。わたくしがいなくても、同じことができましょう」

 村田が少し止まった。

 「……それが教科書の目的ですか」

 「はい。わたくし一人が知っているより、百人が知っている方がこの国は強くなりまする」

 村田が深く頷いた。

 「……承知しました。続けてください」

 (「それだけです」という嘘を、今日はまだついていない。しかしいずれつく。…が……に散らばることは——………に広げることでもある。その部分は村田殿には言わない)


 その日の終わり。

 村田が帰り支度を始めた。

 帳面を閉じて、帯に挟んだ。

 立ち上がりかけた。

 そして止まった。

 「姫様、今日で三日目になります」

 「そうでございますね」

 「率直に聞かせてください」

 (第三の問いが来た。今度は最も核心に近い)

 糸子が御簾の向こうで、わずかに緊張した。それは読者にだけ分かる緊張だった。表面には出さなかった。

 「この三日間でお聞きした知識——御所の蔵書と長崎の聞き取りだけでは、量も方向性も説明がつかないと感じています」

 沈黙があった。


 庭の外で、秋の風が池の水面を揺らした。池の縁に積もった落ち葉が、その風で少し動いた。

 「七つの原則は商談経験から抽出できます。需要と供給は蘭書にも断片があります。しかし——これだけ一つの方向に向いた知識体系を、御所の蔵書から作るのは……」

 村田が言葉を選んだ。

 「まるで、すでに完成した体系を知っている方が——そこから教科書を作っているようです」

 長い沈黙があった。

 (ここだ。正直に、しかし限界まで答える)

 「……村田殿」

 「はい」

 「わたくしには——どうしても説明できないことがありまする」

 (転生者とは言えない。信じないからではない。信じた場合の影響が計算できないからだ)


 「ただ——」

 糸子が少し間を置いた。

 「わたくしが知っていることが、間違っているかどうかは——村田殿が一番よく分かるはずでございます。三日間、矛盾した知識がありましたか」

 村田が長い間、考えた。

 何かを検証していた。三日間で聞いた知識の一つ一つを、頭の中で確認していた。矛盾はあったか。内部的な論理の破綻はあったか。実際に使えない内容はあったか——

 「……ありませんでした」

 「では——それで十分ではないでしょうか」

 村田が長い間考えた。

 「……はい。失礼しました」


 (村田殿は今日、もう少しで核心に触れた。「すでに完成した体系を知っている」——正解だ。正解だが、その先に辿り着けない。辿り着けない理由は、答えが「二十一世紀の日本から来た転生者」だからだ。村田殿の論理の中に、その選択肢は存在しない)


 (わたくしは今日、嘘をついていない。全部本当のことを言った。説明できないことがある——これも本当だ。説明できないのは、信じないからではない。信じた場合の影響が計算できないからだ。この時代に「未来から来た人間」という概念が広まれば——計画の全体が崩れる可能性がある)

 村田が礼をして退室した。

 廊下に足音が遠ざかった。

 糸子が一人になった。

 行灯の火が、夕方の部屋の中で静かに揺れていた。


 「…第一の壁を越えた」

 糸子が独り言を呟いた。

 「村田殿はこの問いを今日だけで三回繰り返してきた。その度に少しずつ答えを変えた。同じ答えを繰り返すより、少しずつ違う角度から答える方が——信憑性が増す。これはバイヤー時代に覚えた技術だ」

 糸子が帳面を取り出した。

 鍵のかかる引き出しを開けた。黒い帳面だ。

 開いた。

 「教科書編纂・第三日目完了。村田殿は知識の出所を追及したが、封じることに成功した。三日間で七原則・需要供給の章の骨格が完成」

 書いた後、少し間を置いて書き加えた。

 「村田殿は良い共同作業者だ。反論する。発展させる。観察する。そして——聞いてはいけないことを聞かないと判断する。この四つが揃っている人間は——実は稀だ」

 帳面を閉じた。鍵をかけた。引き出しに戻した。

 「葵」

 「はい」

 「お茶を」

 「ただいま」

 糸子が縁側に出た。

 夕方の庭が広がっていた。

 今日の夕空は、雲が少なく、青が深かった。その青の中に、秋の最初の星が一つ、出始めていた。

 庭の楓が、今日も少し赤みを増していた。朝より赤い。一日で変わる色だ。

 池の水面が、夕方の光を受けて金色に光っていた。その光の中に、楓の赤が映っていた。

 糸子がしばらく、その色を見ていた。

 (橘咲として生きた二十八年間に学んだことが——今、幕末の言葉に変わり始めている)

 葵がお茶を持ってきた。

 宇治の香りが、夕暮れの空気に溶けた。

 糸子がお茶を飲んだ。

 深い緑の味が、舌の上に広がった。

 (明日も続ける。村田殿と一緒に)

 庭の池に、夕方の最初の星の光が映り始めていた。

 水の中に星がある。

 秋の夜が、静かに始まろうとしていた。


 第七十話 了

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― 新着の感想 ―
絶対教えてはいけない ことはないでしょう やらなければやられるのが国際社会ですから。日本もファンドにやられましたが、日銀砲で迎撃したとか。やられたらどうすか対策を考えるのは重要なことではないでしょうか…
勉強になりまする。
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