第七十三話「三つ目の可能性」
一
万延元年、晩秋。
一橋上屋敷の庭では、楓の葉がほとんど散っていた。
先週まで燃えるような赤だった木が、今日は半分以上が枝だけになっていた。残った葉が、朝の光の中でさらに深い赤を見せている。しかしその赤は、最盛期の鮮やかさとは違う。枯れに近い、濃く沈んだ赤だ。落ちる直前の色だ。
石畳の上に、葉が重なっていた。庭師が朝に掃いても、昼には新しい葉が落ちてくる。今の季節は、掃くことに追いつかない。しかしその葉の積もりが、庭に独特の柔らかさを与えていた。硬い石の上に、赤と橙の葉が積もって——秋の庭の床になっていた。
池の水面は、今日は少し波がある。
北からの風が始まっていた。江戸の冬の始まりは、北風だ。その風が池の水面を細かく揺らしていた。楓の赤が映っていた水面が、波紋の中で砕けて、複雑な色の模様を作っていた。
縁側の向こうに見える松だけが、変わらない。
どんな季節にも、松は緑のままだ。楓が散っても、池が揺れても——松だけは揺れない。
奥御殿の一室。
糸子は朝から帳面を読んでいた。
これまでの会議で作り上げた第一巻から第四巻の草稿だ。各章を読み返して、全体の流れを確認していた。
第一巻——序章・万延経済と国際環境。
第二巻——商談実務・交渉術。七つの原則と模擬商談。
第三巻——為替・金融基礎。複式簿記と手形。
第四巻——海運・物流・リスク管理。龍馬の証言が入った章。
四巻は、ほぼ形になっていた。残るは第五巻だ。
(第五巻は——最も慎重に編纂しなければならない)
糸子が帳面を閉じた。
第五巻には、第一巻から第四巻とは違う性格の知識が入る。
情報戦。
知識を武器として使うための、最も高度な章だ。この章だけは——全員には渡さない。天朝物産会所の上級者だけに教える内容だ。
しかしその内容を教科書として作る作業は、村田と二人でやらなければならない。
(村田殿に内容を書いてもらいながら——村田殿に全体像を渡さない。そのバランスが難しい)
糸子が少し考えた。
書く者と使う者は違う——その原則は、今日も適用される。
二
「第五巻が——最も重要な巻でございます」
巳の刻。
村田が座敷に通された。
今日の村田は、帳面を二冊持ってきていた。一冊は会議用の新しい帳面。もう一冊は——前の会議のまとめが書かれた、使い込んだ帳面だ。
座って、礼をして、帳面を机に置いた。
「第五巻……情報戦、ですか」
「はい。ただし——」
糸子が少し間を置いた。
「この巻の内容は、外部に出してはなりませぬ。生徒にも、全員には教えませぬ」
村田が少し表情を変えた。
普段の村田は、感情をほとんど表情に出さない。しかし今日は、何かが変わった。真剣な顔になった、というより——集中した顔になった。この話が他の章と性格が違うと、体全体で理解した時の顔だった。
「どういうことですか」
「第一巻から第四巻は知識でございます。知っていれば良い、という性格のものでございます」
「はい」
「なれど第五巻は戦略でごさいます。戦略が相手に知られた瞬間、戦略でなくなりまする」
「……」
「この巻は、天朝物産会所の上級者だけに教える内容に設定致しまする。全体像を知る者は、わたくしを含めて五人以内としまする」
「承知しました」
「ただし——」
「なんでしょう」
「作る者と、使う者は違いましょう。村田殿は作る側にいてください。内容を書いても、使う側には入らない形に致しまする」
村田が少し考えた。
「……つまり、わたくしはこの章の内容を知ることになるが、実際にその戦略を動かす立場にはない、ということですか」
「そうでございます」
「……それで構いません。わたくしの仕事は書くことですから」
「かたじけなく存じます 」
「ただし——一つだけ聞かせてください」
「なんでございましょう」
「この章の内容を知った後で——わたくしが誰かに話した場合、どうなりますか」
(正直な問いだ。村田殿は常に、制約の範囲を先に確認する)
「村田殿が誰かに話さないと——わたくしは信頼しておりまする」
「……なぜそう思われるのですか」
「この三月余で——村田殿が不必要な情報を外に持ち出した形跡が一度もなかったからでございます」
村田が少し間を置いた。
「……承知しました。では始めましょう」
三
「第五巻の第一章です。情報の価値を理解する、という章です」
糸子が話し始めた。
村田が筆を構えた。
「情報は商品である」
「……情報が、商品?」
「はい。良い商品を安く買って高く売る——これが商売の基本です。情報も同じでございます」
「どういう意味ですか?」
「誰も知らない情報を先に知る。その情報を使って行動する。これが——情報を商品にする、ということでございます」
村田が書いた。
「情報は商品である——誰も知らない情報を先に知り、それを活用して利益を得ることが、情報の商品化の本質である」
「はい。情報の価値を決める三つの要素を説明致しましょう」
「なんですか」
「速さ、正確さ、独占性——この三つでございます」
村田が書いた。
「速さから始めましょう」
「誰より早く知るほど価値が高い。同じ情報でも、一週間前に知っているのと、一日後に知るのとでは——価値が全く違いまする」
「……例えば」
「フランスで蚕が病気になった、という情報を例に取りましょう。この情報を日本で最初に知った者は——価格が上がる前に生糸を仕入れられます。一方、この情報が広まってから動こうとした者は——すでに価格が上がっていて、利益を得られない」
「……なるほど。情報の速さが——利益の大きさを決める」
「そうでございます。正確さについては——間違った情報で動くと損を致します。情報の出所と信頼性を常に確認する必要がありましょう」
村田が書いた。
「独占性についても説明致しましょう。多くの者が知っている情報は価値が低い。自分だけが知っている情報が最も価値が高い」
村田が書きながら、少し止まった。
「……姫様、この概念は」
「なんでございましょう」
「これを体系化できるということは——姫様は実際に情報を独占して使った経験が」
「ありまする」
「……ハリスとの交渉で?」
「そうでございます。イギリスカードを使った場面を覚えておられましょうや?」
「……はい。イギリスが早期に動く用意があるという情報を——ハリスに伝えた場面ですね」
「あの情報は、完全に正確なものではございませんでした。なれど——ハリスにとっては独占的な情報だった。あの情報を持っているのが、その場でわたくしだけだったから」
「……なるほど」
村田が今回は追及しなかった。
(今日は追及しない。「ハリスとの交渉での経験」という説明で、村田殿は納得した。これは説明できる範囲の経験だ)
「天朝物産会所の情報収集体制についてご説明致します」
「はい」
「メリケンからは中浜万次郎殿が情報を送ってくださいます。江戸では旭狼衛が市中の動向を把握しておりまする。長崎では通詞の伝達網が異国船の動向を掴んでおりましょう。京都では御所の動きが入りまする」
「……これが揃うと」
「日本で最も早く、広く情報を持つ組織になりまする。この優位を維持することが——天朝物産会所の最も重要な機能の一つでございます」
村田が書き続けた。
庭の外で、北風が松の葉を揺らした。
四
「次に——情報を使った価格戦略について」
糸子が続けた。
「これは——重要な前提を最初に言っておきまする」
「なんでしょう」
「これは騙すことではありませぬ。知っている者が有利になるだけでございます」
「……それは重要な前提ですね」
「嘘の情報で相手を騙すことは、長期的には信用を失いましょう。だから——本当の情報を先に知ることに注力する。それがこの戦略の倫理的な限界でございます」
村田が書いた。
「手法は三つです。需要情報の先取り。供給情報の先取り。時期の操作——この三つでございます」
「需要情報の先取りは——異国の需要が増える前に在庫を確保することでございます。需要が増えた後に価格を上げて売るのでございます」
「供給情報の先取りは——日本の生産量が増える前に売ることでございます。生産量が増えると価格が下がるからでございます」
「時期の操作は——今月で在庫がなくなる、来月から価格が上がる、という情報を取引相手に伝えることで、早期購入を促しまする」
「……最後の手法は」
村田が少し考えた。
「これは——情報を戦略的に使う、ということですね。嘘ではなく、本当のことを——相手に有利な時期で伝える…」
「正確にはその通りでございます。これが難しいのは——相手に伝える情報の選び方です。全部伝えてはいけない。しかし全部隠してもいけないのでございます」
「……なぜ全部隠すのもいけないのですか」
「信頼が失われるからです。情報を全く渡さない者とは、誰も取引致しませね。適切な情報を適切な時期で渡しながら——自分に有利な情報だけを手元に残す。これが情報管理の技術でございます」
村田が書きながら言った。
「……これは——高度な判断が必要ですね。何を渡して、何を残すか」
「そうでございます。だから上級者だけに教えるのでございます。基礎知識なしに使えば、逆効果になりましょう」
「承知しました」
五
「優位を守る戦略について——これが最後の章でございます」
「はい」
「知識の独占を維持する三つの方法がございます」
村田が筆を構えた。
「一つ目。分割して教える。全体像を一人の人間に渡さない」
「……それはこの教科書でも同じことをしていますね」
「はい。村田殿には教科書の内容を全部書いていただいております。しかし——実際にどう使うかは、別の人間が知ってます」
村田が少し止まった。
「……わたしは全体を書いているが、全体像を把握していない、ということですか」
「そうでございます」
「……なるほど」
「二つ目。経験が必要な設計にする。教科書を読んだだけでは使えない。実際の商談経験と組み合わせて初めて機能する内容にする」
「……だから実地研修が必要なのですね」
「はい。模擬商談の演習も同じ理由でございます。経験なしには使えない設計にしておくことで——教科書を盗んでも、すぐには使われない」
「三つ目。常に更新する。毎年新しい知見を加える。古い版は旧版として価値を下げる」
「……流出した教科書は、すぐに時代遅れになる、ということですね」
「そうでございます」
村田が三つを書き終えた。
「……この三つは——蘭学の世界でも似たことが言えますね」
「どういう意味でございましょうか」
「蘭学の書物は——すぐに新しい版が出ます。古い版だけ読んでいると、最新の知識に追いつけない。だから蘭学者は常に新しい書物を読む必要がある」
「その構造と同じでございます」
「……姫様は、様々なことを同じ構造として見ておられますね」
「体系化とは——構造を見つけることでございます。別々に見えるものの中に、同じ構造を見つけた時——知識が繋がりまする」
村田が深く頷いた。
六
会議が終わりに近づいていた。
村田が帳面を閉じた。
「今日で——第五巻の骨格が完成しましたね」
「はい」
「全五巻、ひとまず形になりました」
「村田殿のおかげでございます」
「いいえ。わたくしは書いただけです」
村田が立ち上がりかけた。
そして——止まった。
「姫様」
「はい」
「今日でいく日になるか、数えていらっしゃいますか」
(来た)
「……正確には」
「三月余です」
村田が言った。
「この三月余で——わたしは一つのことに気づきました」
糸子が御簾の向こうで、わずかに緊張した。それは読者にだけ分かる緊張だった。
「姫様の知識の量と深さは——御所の蔵書と長崎の聞き取りで得られるものでは、ないかもしれません」
「……」
「為替の概念、市場分析の手法、交渉術の体系化——これらが同じ方向を向いています。まるで一人の人間が全体を作り上げた知識体系のようです」
長い沈黙があった。
庭の外で、北風がまた吹いた。松の葉が揺れた。落ちかけた楓の葉が、その風で池の水面に落ちた。水面が揺れた。その波紋が広がって、池の縁まで届いた。
「それは——」
糸子が言った。
「わたくしが体系化したからでございます。バラバラな知識を一つの方向に整理しました」
「……なるほど」
「変でごさいますか?」
「いいえ。むしろ——」
村田が少し考えた。
「わたしにはできないことです。わたしは知識を積み上げることができます。しかし——最初から全体像を描いてから知識を選ぶことは、できません」
「それは——」
糸子が少し間を置いた。
「どこで身についたのか、わたくしにも説明できませぬ」
村田が帳面に何かを書いた。
糸子は見えなかった。村田の手が動いていた。何かを書いた。しかし何を書いたかは、御簾の向こうからは分からない。
(村田殿が帳面に何を書いたかが気になる。しかし聞けない。聞いたら——それを知りたいという反応が、答えを与えることになる)
「……そうですか。承知しました」
村田が帳面を閉じた。
「では、また明日」
「はい。明日は模擬商談の演習問題を作りましょう」
「承知しました」
村田が礼をして、退室した。
七
村田が廊下を歩いた。
廊下の板張りが、静かに軋んだ。
奥御殿を出て、表御殿の廊下を通り、玄関に向かった。庭師が庭に水を打っていた。楓の落ち葉の上に水が落ちて、葉がさらに暗い赤になった。濡れた石畳が、夕方の光を受けて薄く輝いていた。
村田が上屋敷を出た。
江戸の秋の夕暮れが、通りに広がっていた。橙色と薄い青が混ざった空だ。遠くに、江戸の町並みが見えた。屋根の連なり。遠くにある川の光。
村田が宿に向かって歩き始めた。
一人で歩きながら、考えていた。
(姫様の知識の出所が分からない)
それが三月余で至った結論だ。分からない。答えが出ない。
しかし——間違っていない。
三月余、一度も矛盾した知識が出てこなかった。 需要と供給の話は、実際の相場の動きと一致していた。複式簿記の形式は、実際に善次郎が使って機能していた。為替の失敗例は、村田が実際に聞いたことのある話と符合していた。
蘭学者として、それが答えだ。
知識の出所が不明であっても——内容が正しければ、その知識は使える。シーボルト先生の医学書も、出所は西洋だ。しかし日本の患者に使えば機能する。出所がどこであれ、機能するものは本物だ。
村田が宿に着いた。
小さな宿だ。江戸に滞在する時、村田はいつもこの宿を使う。格式はないが清潔で、部屋が静かだ。隣の音が入ってこない。
部屋に入った。
行灯に火を入れた。
帳面を出した。
今日の会議で書いた帳面ではなく——もう一冊の帳面だ。
個人用の帳面だ。
開いた。
今日書いた、糸子が見えなかった一文が、そこにあった。
「知識に国境はない。そして——本物の知識は、その出所より、その内容で評価される」
村田がその一文を読んだ。
書き加えた。
「姫様の知識は本物だ。出所がどうであれ」
行灯の火が揺れた。
村田が帳面を閉じなかった。
もう少し、書くことがあった。
八
村田が筆を取った。
個人の帳面に、自分の思考を書き始めた。
これは誰かに見せるものではない。自分のために書く。蘭学者として、論理を整理する習慣だった。
「姫様の知識の出所——考えられる可能性は三つだ」
書いた。
「一つ目。御所の蔵書に、本当に体系的な商業書が存在する」
「可能性は低い。御所の蔵書は主に歴史書・詩文・礼法書だ。商業論が含まれている可能性は否定できないが——ここまで体系化された内容が含まれているとは考えにくい。仮にあったとしても、姫様が幼少から読んでいなければ三月余では出てこない量だ」
村田が書き続けた。
「二つ目。唐・明の商業書を相当数読み込んだ」
「可能性は中程度。唐書・明書には商業の記録が含まれている。ただし——ここまで一つの方向に整理された形では書かれていない。散在した知識を姫様が体系化した、という説明は成立しうる。しかし体系化の能力が、あの年齢で、あの水準に達しているとすれば——それ自体が説明を要する」
村田が筆を止めた。
三つ目を書こうとした。
書けなかった。
(三つ目の可能性は——書けない)
書いても誰も信じない。わたくし自身も信じていない。
しかし——
「この三つの中で最も辻褄が合うのが」
村田が少しの間、筆を持ったまま動かなかった。
「——三つ目だということを、わたくしは認識している」
そこで筆が止まった。
書けない。書いてしまえば——それが現実の可能性として思考の中に入り込んでくる。それを避けたかった。
蘭学者は答えが出ない問いに時間を使わない——それは村田が長年学んできた習慣だ。答えが出ない問いは、一旦保留にする。証拠が増えるまで結論を出さない。
村田が帳面を閉じた。
個人の帳面だ。これは鍵のかかる箱に入れる。誰も読まない。
行灯の前で、村田はしばらく動かなかった。
(三つ目の可能性は——書けない。書けないが)
村田が目を閉じた。
(もし三つ目が正解なら——この教科書は何のために書かれているのか)
(未来から来た者が、その知識を使って——今の日本を変えようとしている)
村田は目を開いた。
(それが正解だとしても——今のわたくしがやるべきことは変わらない)
「本物の知識は、その出所より、その内容で評価される」
自分が書いた一文を、村田は思い出した。
(出所がどこであれ——この教科書の内容は本物だ。日本の商人がこれで強くなれるなら、それで十分だ)
村田が行灯の火を見た。
細く、しかし確かな火だった。
(明日も続けよう)
それだけ決めた。
答えは出ない。しかし仕事は続けられる。
蘭学者として、それで十分だ。
九
翌朝。
江戸の朝は、今日は晴れていた。
北風が止んで、穏やかな朝だった。楓の残り葉が、風のない空気の中で静かに光っていた。石畳の上の落ち葉が、昨日と同じ場所にある。風がないから、動いていない。その静止が、今日の穏やかさを象徴していた。
池の水面が、今日は鏡だった。
空の青が映っていた。楓の赤の影が映っていた。その二つが混ざって——今日の池は、秋らしい複雑な色を持っていた。
奥御殿の一室。
糸子が朝から帳面を確認していた。
昨日の第五巻の草稿だ。読み返しながら、何か見落とした部分がないか確認していた。
(村田殿が昨日、何を書いたのか——)
糸子の頭の中に、その問いがまだ残っていた。
(村田殿の帳面に何を書いたか。聞けない。しかし気になる)
(村田殿は昨日の問いから何を引き出したか。「まるで一人の人間が全体を作り上げた知識体系のようです」——あの言葉は、三つ目の可能性に近づいた言葉だ)
(村田殿はどこまで推測しているのか。わたくしには読めない。村田殿の内心は——読めない時がある)
そこへ、廊下から善次郎の声がした。
「村田殿がお見えです」
「お通しくださいまし」
足音が近づいてきた。
普通の足音だった。昨日と変わらない歩幅で、変わらない速さだ。
障子が開いた。
村田が入ってきた。
普通の顔をしていた。
何かを考えていた顔でも、何かを決めた顔でもない。いつもの村田の顔だった。数字を論理的に整理する時の、実直な顔だ。
礼をした。帳面を出した。
座った。
「では続きをやりましょう、姫様」
(昨日の様子と変わらない。何を考えているのか——分からない。村田殿の内心は読めない時がある)
「はい。今日は模擬商談の演習問題を作りましょう」
「承知しました」
「第二巻の第四章に入れる予定の演習でございます。生糸の価格交渉のシナリオを作りましょう」
「どんな場面になりますか?」
「上州産の生糸百斤を持つ商人が、イギリスの商人と交渉する場面でございます」
「分かりました」
「相手は最初、一斤あたり銀三匁を提示してきまする。生徒は——何をすべきか。それを段階的に考えさせる問題に致しましょう」
「事前情報も必要ですね」
「はい。上海での生糸価格は銀五匁。フランスでの価格は銀七匁。品質は上州産が最高級——という情報を事前に与えまする」
「なるほど」
「問い一——あなたの最低販売価格はいくらか」
「問い二——最初に何と言うか」
「問い三——相手が『三匁が限界だ』と言ったら、どう返すか」
「問い四——最終的にどの価格に着地させるか」
村田が書き取った。四つの問いが、帳面に並んだ。
(村田は昨夜、帳面に「三つ目の可能性」を書きかけて、止めた。封じた。そして今日、仕事を続けている)
(それが村田蔵六という人間だ。答えが出ない問いを封じて——答えが出る仕事を続ける)
十
「解答例も作りましょう」
糸子が続けた。
「問い一の答え——最低価格は銀四・五匁です。上海価格の九割です」
「なぜ九割ですか」
「上海まで届けるコストを考えると、横浜での価格は上海より少し下回る必要があります。しかし——上海価格を完全に下回ってはいけない。そのバランスが九割でございます」
「……現場感覚から来る数字ですね」
「はい。計算だけではなく、経験から来ておりまする」
「問い二の答え」
「『ご提示の価格を確認させてください』と言って、三秒黙る。これが七つの原則の第二番——沈黙の実践です」
「なるほど」
「問い三の答え——『上海での取引価格をご存知ですか』と数字を出して返す。これが原則四——数字で話す、の実践でございます」
「問い四の答え——銀四・五匁から五匁の間で決着させる」
「なぜその幅ですか」
「完全な勝利は目指さない。相手が良い取引をしたと思える範囲で着地させる。これが原則七の実践でございます」
村田が解答例を書き終えた。
「……四つの問いと解答例が、七つの原則の実践になっているのですね」
「はい。理論と実践を繋ぐのが演習の役割でございます」
「うまく作られています」
「村田殿の原則の整理があってこそでございます。原則が明確でなければ、演習問題が作れませね」
村田が少し頷いた。
「……一つだけ追加してよいですか」
「なんでしょう」
「解答例の後に——なぜその行動をとるのかの解説を入れましょう。問題を解いた後に、理由を読む。それが最も深く定着します」
「そう致しましょう」
二人が解説の部分を作り始めた。
庭の外で、穏やかな秋の空気が流れていた。
楓の残り葉が、風もないのに一枚、ゆっくりと落ちた。落ちた先は池の縁だった。波紋もなく、ただ静かに落ちた。
それを見ていた者は、誰もいなかった。
十一
会議が終わる頃、外は午後の光になっていた。
今日は長かった。模擬商談の演習問題だけで、午前から午後まで続いた。
村田が帳面を閉じた。
「今日はここまでにしましょう」
「はい。お疲れ様でございました」
「いいえ」
村田が立ち上がった。
「姫様、一つだけ言ってもよろしいですか」
「なんでございましょう」
「この三月余——姫様と一緒に作業して、思うことがあります」
「なんでございますか」
「この教科書の価値は——内容の正確さだけではないと思います」
「どういう意味ありましょうや」
「一つの姿勢が一貫しています。知識を持つ者が、それを渡せる形にする——という姿勢です」
「そうでございますね」
「その姿勢がなければ、どんなに正確な知識も——一人の人間の頭の中に留まって終わります」
糸子が少し動いた。
「村田殿は——それが大事だと思われまするか」
「はい。蘭学が日本に広まったのも——渡せる形にしたから広まりました。シーボルト先生が医学書を書いたから。言語化したから。それが広まった」
「姫様がやっていることは——同じことです」
「……村田殿」
「なんでしょう」
「その言葉が——今日最も重要な言葉でございます」
村田が少し首を傾けた。
「どういう意味ですか」
「わたくしが一人で知っていても、何も変わりません。渡せる形にしなければ、知識は消えましょう。それを村田殿が言葉にしてくださいました」
「……わたくしは観察したことを言っただけです」
「その観察が——この作業の意味を確認させてくれるのでございます」
村田が少し黙った。
「……承知しました。では——また明日」
「はい。明日は第五巻の演習問題を作りましょう」
「承知しました」
村田が退室した。
廊下に足音が遠ざかった。
十二
糸子が一人になった。
部屋の外の庭では、秋の午後の光が斜めに差し込んでいた。その光の中に、楓の残り葉が揺れていた。風が出てきていた。夕方に近づいて、少し強くなってきた風だ。
糸子が帳面を取り出した。
鍵のかかる引き出しを開けた。黒い帳面だ。
開いた。
「第五巻の骨格完成。村田殿が三月余で、知識体系の異常な整合性に気づいた」
書いた。
「村田殿は帰り際に何かを書いた。何を書いたかは分からない。しかし——村田殿はこれ以上追及しないだろう。答えが出ない問いに時間を使わない人間だから」
書き終えて、少し間を置いた。
「村田殿が今日言った言葉——渡せる形にしなければ、知識は消える。これがこの作業の核心だ」
(橘咲として生きた二十八年間に学んだことが、消えてしまう可能性があった。もしわたくしが天寿を全うした時——全部が消えてしまう。しかし教科書として残せば——百年後にも使える)
(それが——教科書を作ることの、最も深い意味だ)
糸子が帳面を閉じた。
鍵をかけた。引き出しに戻した。
「葵」
「はい」
「お茶を」
「ただいま」
窓の外の庭で、楓の最後の一枚が落ちた。
石畳の上に落ちた、その葉が——夕風に押されて、少しだけ動いた。
移動して、止まった。
秋の庭に、静けさが戻った。
葵がお茶を持ってきた。宇治の香りが広がった。
糸子がお茶を飲んだ。
(村田殿が帳面に書いたことが気になる。しかし——村田殿が答えを封じた。それで良い。わたくしも今日、それ以上追及しなかった)
(お互いに、聞かないことを選んでいる。その選択が——この作業を続けさせている)
「……知識に国境はない」
糸子が小さく呟いた。
その言葉が、どこから来たのか——糸子には分からなかった。しかしその言葉が、今日の頭の中に確かにあった。
村田が帳面に書いた言葉が、御簾を越えて届いたのかもしれない。
あるいは——同じことを、二人が別々に考えていたのかもしれない。
「葵、今日はここまでにします」
「はい」
「明日の準備は朝にします」
「分かりました。早めにお休みください、姫君様」
「そうします」
糸子が立ち上がった。
縁側に出た。
秋の夕方の庭が、最後の光の中に沈んでいた。楓はほとんど散って、枝だけの木が空に向かって伸びていた。その枝の先に、今日の空の青が見えた。
冬が来る前の、最後の秋の空だ。
第七十三話 了
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