第六十七話「原石と企劃者」
一
万延元年、秋の始まり。
江戸の暑さは、まだ盛りを保っていた。
一橋上屋敷の表御殿に、朝から準備が整えられていた。庭師が夜明け前から動いていた。石畳を丁寧に掃き、松の根元の落ち葉を集め、縁石の苔に水を打つ。水が石畳の上に広がって、朝の光を受けてきらきらと輝く。その光が、縁側の軒先に細かく反射して揺れる模様を作っていた。
表御殿の廊下も、隅々まで掃き清められていた。磨き抜かれた板張りの廊下が、朝の光の中で薄く輝いている。床の間には、端正な掛け軸が一幅。松と鶴を描いた格調のある絵だ。その前に、香炉が置かれている。今日は沈香が焚かれていた。甘く、深い香りが、座敷の空気に静かに溶け込んでいた。
広い座敷に、御簾が立てられていた。
近衛家の御簾だ。細かく編まれた葦に、近衛家の紋——五つの藤——が金糸で縁取られている。その向こうに、糸子と葵と小夜が座っている。
近藤勇が廊下の端に立っていた。今日は土方歳三も庭の一角に控えている。
来客があることは、昨日からわかっていた。
龍馬が、岩崎弥太郎と中岡慎太郎を連れてくる。
二
廊下に足音がした。
複数の人間の足音だ。最初の一人は軽い。軽くて、どこか弾んでいる。龍馬だ。
二人目は少し重い。しっかりと、しかし慎重に歩く足音だ。
三人目は静かだ。音が小さい。しかし確実に床を踏んでいる。
三人が座敷に入ってきた。
坂本龍馬が先頭だ。
「姫様、帰ってきたちや!」
元気な声が座敷に響いた。
龍馬の後ろに、岩崎弥太郎が続いた。
弥太郎は座敷に入った瞬間に、動きが止まった。
御簾を見た。近衛家の紋を見た。沈香の香りを感じた。
床の間の掛け軸を見た。——全てが、自分がこれまで生きてきた世界とは、格の違う空間だ。
土佐の下士出身の弥太郎には、このような場所に入ること自体が、経験のないことだった。
中岡慎太郎が最後に入った。
弥太郎とは違う反応だった。座敷の格式を確認して、御簾の位置を確認して——それで終わりだった。 感情的な動揺が、表に出ない。
三人が座って、深く礼をした。
「ははあ——」
「大義である」
御簾の向こうから、声がした。
その声は若い。しかし質がある。重みのある声だ。
弥太郎が少し震えた。龍馬の話は聞いていた。「御簾の向こうにすごい方がいる」という言葉を聞いていた。
しかし実際にその声を聞いた瞬間——「これは本物だ」という直感が、体の中を走った。
中岡は静かに聞いていた。声の質を測るように。
「わたくしは近衛糸子でございます。此度の天朝御用商務惣会所設立は御門様から直接綸旨を賜った事業でございます。坂本殿からは日頃より多大なるご助力をいただいております」
「……」
弥太郎が息を飲んだ。
近衛家。五摂家の筆頭。
龍馬の書状には「大事な方」としか書かれていなかった。「面白い仕事がある」としか言わなかった。しかしまさか——朝廷の筆頭公家の姫君が、この御簾の向こうにいるとは。
中岡も少し動揺した。表には出なかったが、目が微かに動いた。
「龍馬殿の後ろ盾が近衛家であることは……ご存知でございましたか」
「知らんかったちや」
弥太郎が率直に言った。
「知らんかったです」
中岡が静かに言った。
「さようでございますか」
糸子が静かに言った。
「では改めて。この場に来ていただいたことを、かたじけなく存じ上げ、いともありがたき幸せに存じます」
三
「岩崎殿に、まずお話がありまする」
糸子が言った。
弥太郎が少し前に出た。緊張が背中に出ていた。
「わたくしは今、三つの事業を動かしております」
糸子が続けた。
「一つ目、商家連合体の設立——天朝御用商務惣会所でございます。御門様の綸旨を賜り、御所御用達・天朝物産会所を後ろ盾として、日本の商家を一つにまとめる組織を作っております。異国商人に個別に対応されて食い物にされないため、組織として対抗するためでございます」
弥太郎の目が光った。
「二つ目、語学並びに商業学校の設立——天朝物産会所附属・商務語学所でございます。英語・簿記・商品知識・交渉術を教える学校です。身分を問わず、能力と志がある者を集めます」
弥太郎の体が少し前に傾いた。
「三つ目、国産品の異国輸出でございます。日本の生糸・陶磁器・茶は、品質では世界に引けを取らない。しかし売り方を知らないから安く買い叩かれている。その仕組みを変えます。またその他商品開発等も予定しておりまする」
弥太郎が少し口を開きかけた。
糸子が続けた。
「長崎でお話しになったことがございましょう。『誰かが全体をまとめてくれれば商売が変わる』と。品質を揃えれば高く売れると」
弥太郎が固まった。
「……龍馬が……」
「坂本殿が書状でお伝えくださいました。その言葉を聞いて、岩崎殿が必要だと判断しました」
弥太郎が龍馬を見た。
龍馬がにやりと笑っていた。
「なぜ自分なのでしょうか」
弥太郎が御簾に向かって聞いた。
「坂本殿が勧めてくださったからでございます」
糸子が答えた。
「……それだけながですか?」
弥太郎が少し拍子抜けした顔をした。
「何か問題がありましょうや?」
「いや……そりゃ。もっと複雑な理由があるがやないろうか」
「坂本殿は見る目がありまする。坂本殿が勧めた人材に、わたくしが二重に理由を求める必要はございませぬ」
弥太郎が唖然とした。
「そんやな、たやすく……」
「何か問題がありましょうや?」
「……いえ。何も問題はございません」
弥太郎が深く頭を下げた。
「まことの心で、一生懸命やるちや」
糸子が続けた。
「なお、この事業への参加は強制でございます」
弥太郎が顔を上げた。
「これは御門様より綸旨を賜った事業でございます。不参加は一切認めませぬ」
弥太郎が息を飲んだ。
(御門様の……綸旨……)
天皇の命令だ。拒否できるものではない。
「……承知したちや」
「おおきに。それでは、岩崎殿に動いていただくことをお伝えしまする」
四
糸子が話し始めた。
「まず——松屋善兵衛殿のもとへ参ってくださいまし」
「松屋……っちゅうことやろか?」
「天朝御用商務惣会所・江戸惣会所の総差配役でございます。今日、書状をお渡しします。それを持って善兵衛殿のところへ行き、そこで商売の基礎を学んでいただきまする」
弥太郎が少し首を傾けた。
「基礎………ちゅうことは?」
「天朝御用商務惣会所の実務を通じて、日本の商人交流網の実態を学んでいただきます。どの商家が信用できるか、どの問屋が信頼できるか、江戸の商売と京の商売の違いはどこか——これは教科書では学べないことでございます」
「……どれっぱぁの期間なが?」
「半年から一年です」
弥太郎が少し沈黙した。
「商売の勘はすでにお持ちでございましょう」
糸子が続けた。
「…なれど、日本全体の商売の仕組みを知らなければ、将来の異国向け商品戦略を担うことはできませぬ。善兵衛殿は生糸・陶磁器の目利きができる方です。品質の見分け方を体で知っているかどうかは、将来において決定的な差になりましょう」
弥太郎が頷いた。
(このお方は……わしの先を見据えて話しちゅうがぜよ)
「善兵衛殿への書状には、こう書きます」
糸子が少し間を置いた。
「『この者をしばらく預かってください。商売の基本を全部見せてやってください。手を抜かずに、きついところも全部』と」
弥太郎が少し苦笑した。
「そりゃあ……えろう厳しゅうなりそうぜよ」
「岩崎殿は才能がある分、楽をしようとするかもしれません。楽をさせないでください、とも書きます」
弥太郎が口を開けた。
「……バレちゃあいますかえ?」
龍馬がこらえきれずに笑った。
「さらに——一つ仕事を出します」
糸子が続けた。
「善兵衛殿のもとで修行しながら、並行してやっていただきたいことです」
「なんながでしょうか?」
「土佐の生糸と横浜の異国商人を繋ぐ経路の模索をしてください。どんな問題があるか、どう解決するか。一ヶ月後に報告書を持ってきてください」
弥太郎の目が変わった。
「期限は一ヶ月」
「はい」
弥太郎が少し黙った。
この依頼の意味を、弥太郎の頭は素早く処理していた。
土佐産の生糸——品質は悪うないはずや。けんど、産地から横浜まで届ける経路が安定しちょらん。運送費、保管費、損耗——これらを計算して、どこに問題があるがかを洗い出す。そして解決策を提案する。
(問題を調べるだけやない。解決策も同時に持ってこんといかん)
「承知したぜよ」
弥太郎が答えた。
「その報告書を楽しみにしています」
御簾の向こうから、静かな声が言った。
「葵、岩崎殿を別の部屋にご案内してください。書状を用意する間、少しお待ちいただきます」
「はい、姫君様」
葵が立ち上がった。
弥太郎が礼をして、立ち上がった。退室する直前に、龍馬の方を見た。
(あの野郎、全部知っちょって、なんも教えちゃあせんかったがか)
龍馬が肩をすくめた。
五
弥太郎が退室した後、座敷の空気が少し変わった。
残ったのは龍馬と中岡だ。
「坂本殿」
糸子が言った。
「はいきに!」
龍馬が元気よく答えた。
「大事なお話があります」
「なんですかえ?」
糸子が、葵にもう一冊の帳面を持ってくるよう合図した。
葵が静かに立って、帳面を龍馬の前に置いた。
龍馬が帳面を取った。
開いた。
最初の頁を読んだ。
「……内戦なき日本」
龍馬が呟いた。
「はい」
糸子が答えた。
龍馬がしばらく、その文字を見ていた。
「わしの想像ながぜよ」
龍馬が静かに言った。
「このまま行きゃあ——大きな内戦が起きそうながよ」
「正確でございます」
「え?」
龍馬が顔を上げた。
「このまま行けば——大変なことになりましょう。だからこの企てにございます」
「……」
龍馬がまた帳面を見た。読んだ。ページをめくった。また読んだ。
その読み方は、村田蔵六の読み方とも、勝海舟の読み方とも違った。
龍馬は——感じながら読んでいた。
「三つの事業——商売と学校から始めるんですねえ」
「はい」
「なぜですか」
龍馬が聞いた。
「龍馬殿——日本が変わるためには、何が必要だと思いますか」
龍馬が少し考えた。
庭から風が入ってきた。松の葉が微かに揺れる音がした。池の水面が、その風を受けて細かく光りながら揺れた。
「……刀より金ながですかえ」
「正解でございます」
「金より人ながですかえ」
「さらに正解です」
「人より——」
龍馬が少し間を置いた。
「夢ながですかえ」
糸子が少し笑った。
「坂本殿らしいお答えですね。わたくしは夢より企てと申しますが——本質は同じかもしれません」
「企てがあれば夢が叶う、と」
「はい」
龍馬がしばらく帳面を見た。
「姫様」
「なんでしょう」
「これは——姫様がお一人で考えたがですかえ?」
「はい、一ヶ月篭って、もの凄く頑張りました」
「……こじゃんとすごいですのう」
龍馬が言った。声に、本当の驚きがあった。
「わしゃも使うてくれますかえ??」
「はい。一つお願いがあります」
「なんですかえ?」
「面白い人間を探してきてください。日本中を旅して——原石を見つけてきてください」
「原石?」
「まだ誰も気づいていない、しかし必ず必要になる人間です」
「どんな人物ながですかえ?」
「龍馬殿が『この人は面白い』と思った人間です。それだけでいいです」
龍馬が笑った。
「……姫様の言いようは、まっこと気持ちがええのう」
「なぜですか」
「難しいことを言わんきに」
「難しいことを言っても、龍馬殿は動きません」
「……当たっちゅうきに」
「面白い人間を連れてきてください。それが坂本殿の最初のお仕事でございます」
糸子が葵に目で合図した。葵が小さな紙を持ってきた。
龍馬の前に置いた。
そこに一行書かれていた。
龍馬が読んだ。
「……渋沢栄一?」
「はい」
「誰ですかえ?」
「武蔵国榛沢郡血洗島村出身の、二十歳ほどの若者です」
「どのような?」
「算術と経済に明るい若者です。必ず必要になります。連れてきてください」
「えらい限定的な人物選択ですなー」
龍馬が少し首を傾けた。
「もし——どうしても参りたくないとごねた場合は……」
糸子が少し間を置いた。
「強制的に拉致してでも連れてきてくださいまし」
龍馬が固まった。
「えっ!?」
「いいですね」
糸子の声に、穏やかでありながら一切の退路を塞ぐような圧があった。
「は、はい……絶対に姫様の元に連れてきます……」
龍馬が少し引いた顔で答えた。
「よろしくお頼み申します」
糸子が静かに言った。
六
「それから——中岡殿」
糸子が中岡に向いた。
中岡慎太郎が少し前に出た。
この男は最初から、ほとんど動いていなかった。龍馬が「姫様すごいがでしょう!」と盛り上がっている横で、中岡はずっと静かに観察していた。
御簾の位置、葵と小夜の動き方、近藤が廊下の端に立っている配置——全部を確認していた。
(観察している)
糸子は感じていた。
この男は感情で動かない。論理で動く。だから感情に訴えるのではなく、論理で説明しなければならない。
「中岡殿は——帳面をお読みいただけましたか」
「読みましたちや」
中岡が短く答えた。
「何か疑問はありましたか」
「一つあるがです」
「なんでしょう」
「……なんで内戦なしで実現できるがですかえ?」
中岡が静かに聞いた。
龍馬がちらりと中岡を見た。
糸子が少し間を置いた。
「できるとは言っておりません。そうなるように企劃すると言っておりまする」
中岡が少し目を細めた。
「……企劃実現は違うがです」
「そうです。だから中岡殿のような方が必要なのです」
「……」
中岡が少し考えた。
座敷の外で、蝉が一声鳴いた。夏の終わりに近い蝉の声だ。
「……分かっちょります」
中岡が言った。
それだけだった。
しかし——それだけで十分だった。糸子には分かった。この男は「分かりました」と言った時には、本当に動く覚悟ができている。
「中岡殿にお願いしたいことがあります。詳しい内容は坂本殿からお聞きいただければよいのですが、今日は大枠だけお伝えします」
「はい」
「三つのお役目をお願いします」
糸子が静かに言った。
「一つ目——全国志士交流網の地図を作ってください。今、計画①に使える人間と、計画①の邪魔になる人間を、全国で洗い出してください。名前・藩・考え方・誰と繋がっているか。地図に落としてください。期限は三ヶ月です」
中岡が少し頷いた。
「二つ目——薩摩と長州の論理的な説得工作をお願いします。坂本殿が感情で人を動かす役なら、中岡殿はなぜ計画①が正しいかを論理で説明する役でございます。内戦をしなくても近代化できる理由を、順序立てて説明できる人物が必要です」
「三つ目——坂本殿が引っ張ってきた人間が、翌日になって『本当に大丈夫か』と悩み始めた時、その人間のところへ行って話してください。坂本殿は説得の後処理が苦手ですから」
龍馬が「うっ」という顔をした。
「……当たっちゅうきに。あれは苦手ながぜよ」
龍馬が正直に認めた。
「以上の三つです。詳細は坂本殿からお聞きください。中岡殿と坂本殿は今後、二段構えで動いていただくことになりましょう。坂本殿が扉を開け、中岡殿が中に入って丁寧に説明する——その形が最も力を発揮できると考えております」
中岡が少し間を置いた。
「……一つだけ確認させてつかあさい」
「なんでしょう」
「計画の全体を——わたくしは知ることができるがですかえ?」
糸子が少し間を置いた。
「今日お伝えしたことが、今のところ中岡殿に必要な情報でございます。それ以外については——時が来れば」
中岡が少し目を細めた。
「……情報の非対称性を維持する、ということながですかえ?」
「そうでございます」
「……分かりましたき」
中岡が静かに言った。不満そうではなかった。ただ、確認した。それだけだった。
「旭狼衛との連携については——近藤殿とご相談ください」
糸子が続けた。
「情報の共有については土方殿が窓口になります。中岡殿が集めた情報を旭狼衛が守備に活かす経路を作っていただければ」
「承知しましたき」
中岡が深く頭を下げた。
「御門様より綸旨を賜った事業への参加、誠にありがたく思います」
その言葉は短かったが、質があった。
七
「では——皆様に最後に申し上げまする」
糸子が御簾の向こうから言った。
その声に、改まった調子があった。龍馬も中岡も、自然に姿勢を正した。
「この計画が成功するかどうかは——皆様一人一人が、それぞれの持ち場で動けるかどうかにかかっておりましょう」
「わたくしは全体の企てをしまする。なれど企てだけでは何も動かない。実際に動く者がいなければ、計画は帳面の中だけのものでございます」
龍馬が真剣な顔で聞いていた。
中岡が静かに聞いていた。
「この国の百年先——そのために動いていただいておりまする。誠にありがたく存じます」
それだけだった。
しかしその言葉が、座敷の空気の中で確かに残った。
龍馬と中岡が礼をした。
「ははあ——」
二人が退室した。
廊下に出た瞬間、龍馬が息を吐いた。
「……こじゃんとすごいお方ぜよ、やっぱり」
中岡が少し頷いた。
「ああ」
「感想はそれだけかえ!」
「それだけで十分やき」
「中岡はまっこと……」
「龍馬」
中岡が短く呼んだ。
「なんぜよ」
「わしはこの計画に賛成ながよ」
龍馬が少し止まった。
「……ほんとかえ?」
「ああ、論理が通っちゅう。飛躍がないぜよ」
「……そうかえ」
「ただし」
「なんぜよ」
「成功するとは言っていない。企てが正しいと言っている」
龍馬が笑った。
「それでも十分ながぜよ。よし、行くき!」
八
その後、別の部屋で。
岩崎弥太郎が一人で座っていた。
葵に案内された小さな座敷だ。格式はある。床の間に花が生けられていた。白い百合だった。その清潔な白が、弥太郎の乱れた気持ちを少し落ち着かせた。
書状が届いた。葵が持ってきた。
「松屋善兵衛殿へ」と表書きのある書状だ。それ以外に、もう一枚の紙が一緒に入っていた。
弥太郎が二枚目を開いた。
そこには短い文章が書かれていた。
「土佐の生糸と横浜の異国商人を繋ぐ経路を開拓してください。問題と解決策を、一ヶ月後に報告書として持参してください」
弥太郎がその文字を読んだ。
読み終えて、少し笑った。
(問題だけ調べてこいとは言うちょらん。解決策も持ってこんといかんがよ)
御簾の向こうの姫様の意図が、この短い文章から見えた。
(わたくしの頭の深さを測ろうとしちゅうがぜよ?)
弥太郎は不快ではなかった。むしろ——面白いと思った。
長崎で異国商人と渡り合いながら、ずっと感じていたことがあった。「誰かが全体をまとめてくれればえいがよ」——その誰かが、ここにいる。
(やってみせるかえ)
弥太郎が立ち上がった。
書状を懐に入れた。
もう一枚の指示書も、丁寧に折りたたんで入れた。
廊下に出た時、龍馬が向こうから歩いてきた。
「弥太郎!」
「龍馬」
弥太郎が静かに言った。
「……全部知っとったがやないかえ」
「なにをやきに?」
「御簾の向こうのお方のことながかえ?」
龍馬がにやりと笑った。
「少しだけ知っちょったがよ」
「少し……ねえ」
弥太郎が少し呆れた顔をした。しかし怒った顔ではなかった。
「あの方は——本物ながかえ?」
龍馬が少し真顔になった。
「本物ながぜよ」
「……そうか」
弥太郎が少し頷いた。
「善兵衛いうお方のところへ行く前に、一つ調べることがあるきに。地図が要るがよ」
「土佐から横浜の道筋?」
「よう分かったちや」
「顔に書いちゅうきに」
弥太郎が「うるさい」という顔をしたが、少し笑っていた。
「……あのお方の期待に応えてみせるがよ」
「応えられるがやろか?」
「決まっちゅうろ」
弥太郎が廊下を歩き始めた。
その背中には、長崎の宿にいた時とは違う、何かが宿っていた。
九
夕方。
龍馬と中岡が一橋上屋敷を出た時、江戸の空は橙色に染まっていた。
夏の終わりの夕空は、独特の色をしている。まだ暑さを残した橙色と、秋の気配を含んだ薄い青が混ざって——言葉にしにくい複雑な色だ。
二人が並んで歩いた。
しばらく無言だった。
「……中岡」
龍馬が言った。
「なんながよ」
「どう思うたがかえ?」
中岡がしばらく歩いた後、言った。
「お前の言うた通りやった」
「そうろうが?」
「ああ、本物やったがよ」
龍馬が少し笑った。
「こじゃんとすごいがぜよ」
「龍馬」
「なんぜよ」
「俺らが任される仕事の意味、分かるか」
龍馬が少し考えた。
「……全体の絵図の一部ながよな」
「そうやき。しかし、その絵図の全体は俺らには見せてもらえんがよ」
「……悔しいか?」
中岡が少し間を置いた。
「いや」
「いや?」
「あの方が全体を持っちゅう。俺らが全体を知る必要はない。各部隊が自分の任務を知っちょれば十分だ——軍事の原則と同じや」
龍馬が「ほほう」という顔をした。
「中岡はそう思うがか」
「ああ。だから——信頼できる」
「全体を見せてくれんから、信頼できると?」
「全体を見せん設計に、理由がある。その理由が正しい。だから信頼できる」
龍馬がしばらく黙った。
「……中岡は難しいことを言うぜよ」
「お前が単純すぎるがや」
「うるさいき!」
龍馬が笑った。
中岡も、少し笑った。
夕空の下を、二人が歩いていった。
龍馬が空を見上げた。
橙色と青が混ざった空が、広がっていた。
(この国の百年先——か)
龍馬は思った。
御簾の向こうの姫様が言った言葉が、まだ耳に残っていた。
(わしには全部は見えんがよ。でも——この方の後ろをついていけば、何かが変わる気がするがよ)
「中岡」
「なんだ」
「わしゃあ、渋沢栄一いう人間を探しに行かんといかんがぜよ」
「誰だ」
「武蔵国榛沢郡の若者ながよ。算術と経済に明るいらしい」
「……なぜその人物を」
「姫様が必要やとおっしゃったきに」
中岡が少し考えた。
「姫様が必要だと言うたなら——おそらく必要やろう」
「そうながぜよ!さすが中岡!」
「ただし」
「なんぜよ」
「強制的に拉致するのは最後の手段にしちょけ」
龍馬が笑いをこらえた。
「……聞こえとったかえ?」
「聞こえた」
「……うん」
「龍馬」
「なんぜよ」
「なぜか知らんが——俺はこの仕事がしたいと思うちゅう」
龍馬が少し止まった。
「……中岡がそういうことを言うがは珍しいぜよ」
「そうやな」
中岡が少し空を見た。
「感情やのうて——論理的にそう思うがよ」
「なんじゃそれ」
龍馬が笑った。
中岡も、また少し笑った。
江戸の夕暮れの中を、二人が歩いていった。
十
夕暮れの庭を眺めながら、糸子は帳面を開いたまま少し考えた。
今日だけで、岩崎弥太郎・中岡慎太郎・坂本龍馬——三人が動き始めた。それぞれの役割が決まった。それぞれが、明日から別の方向に向かって歩き始める。
しかし糸子の頭の中では、すでに次の手が動き始めていた。
(善次郎を呼ばなければならない)
松屋善次郎。
今は京にいる。御所との連絡窓口として、京都側の実務を全て担っている男だ。天朝物産会所が京都で動けているのは、善次郎がいるからだ、と糸子は思っていた。
御門様側近への定期報告書の取りまとめと届け。惣会所の京都準備における商人交流網への根回し。西陣の織元・宇治の茶商・丹波の陶器商との仕入れ経路の確保——これら全てを、善次郎は黙々と、正確にこなしていた。
(あの男は仕事を選ばない。しかし手を抜くことも絶対にしない)
糸子が縁側から部屋に戻った。
文机の前に正座して、硯を引き寄せた。墨を磨り始めた。夕暮れの光が窓から斜めに差し込んで、硯の表面に細かく反射した。
「葵」
「はい」
「善次郎への書状を書きます。松屋善兵衛殿への経路で送れますか」
「はい、できます。明朝の便に間に合わせます」
「よろしくお願いします」
糸子が筆を取った。
書きながら、糸子は善次郎を呼ぶ理由を頭の中で整理していた。
表向きの理由は一つだ。岩崎弥太郎が松屋善兵衛のもとで修行を始める。その弥太郎を善兵衛が受け入れるにあたって、善次郎が江戸にいれば、京と江戸の情報の流れが格段にスムーズになる。
惣会所の江戸拠点が動き始めたのに合わせて、天朝物産会所の実務機能も一部を江戸に移す必要がある。善兵衛が惣会所の総差配役として商家を束ねる役を担うとすれば、物産会所の実務側は別の人間が支えなければならない。それが善次郎の役割だ。
(しかし本当の理由はもう一つある)
糸子は筆を動かしながら思った。
渋沢栄一が来る。
龍馬が連れてくる——いつになるかは分からないが、来る。その時に備えて、江戸の体制を整えておく必要がある。渋沢を「経済調査方」として迎えるためには、その仕事の中身を実際に動かせる環境が必要だ。
経済調査の仕事とは、日本と西洋の経済制度を比較研究し、朝廷のための経済政策を立案することだ。しかしそれを支える実務基盤——情報の整理、書状の管理、各方面との連絡の調整——がなければ、どんなに優秀な人材も動けない。
善次郎はその実務基盤を作るのが得意な人間だ。
(善次郎がいれば、渋沢が来た時に即座に動ける環境が整う)
それから——もう一つ。
中岡が三ヶ月で人材地図を作る。その地図の情報を適切に整理して、糸子の手元に届ける経路が必要だ。龍馬が各地から情報を集める。その情報を一元管理する仕組みが必要だ。
善次郎はまさにそういう仕事が得意だ。
(情報を整理する男だ。感情を入れずに、正確に。それが善次郎の一番の強みだ)
糸子が書状を書き終えた。
読み直した。
松屋善次郎殿へ
急ぎお伝えしたいことがあります。できるだけ早く江戸に来てください。一週間以内を目処にお願いします。
理由を申し上げます。
まず岩崎弥太郎という人物を松屋善兵衛殿のもとに預けました。書状は別途善兵衛殿に送りました。この者が善兵衛殿のもとで修行する間、京と江戸の情報の流れを整理する役割が必要になります。善兵衛殿は惣会所の総差配役として商家を束ねる仕事で手が一杯になりましょう。物産会所の実務側を善次郎殿に江戸で担っていただきたいのでございます。
次に、近く江戸に新しい人材が来ます。その者の仕事の環境を整える準備が必要です。詳しくは江戸で直接お伝えします。
京の仕事については、御所への定期報告は書状の形にまとめておいていただければ、こちらで対応します。惣会所の京都準備については、松屋善兵衛殿への引継ぎ書を一通作っておいてください。仕入れ経路の管理については、担当の各商家への連絡先と約定の写しを持参してください。
急なお願いになりましたが、善次郎殿でなければならない理由があります。
この国の仕事が、いよいよ本格的に動き始めております。
御門様のために、日本のために。
近衛糸子
糸子が書状を折りたたんだ。
葵に渡した。
「明朝の便でお願いします」
「承知しました」
葵が書状を受け取って、退室した。
糸子が文机の前でしばらく動かなかった。
窓の外は、もう夜になっていた。池の水面に月が映っていた。今夜は半月だ。その光が、庭の石畳を薄く照らしていた。
(善次郎が来れば、江戸の体制が一段整う)
岩崎弥太郎が善兵衛のもとで修行する。その弥太郎の動きを善次郎が把握して、必要な情報を糸子に届ける。中岡が三ヶ月で人材地図を作る。その地図が届いた時に整理できる体制がある。龍馬が渋沢を連れてくる。その時に渋沢を迎える環境が整っている——全てが連動している。
(善次郎は不満を言わないだろう)
糸子は思った。
あの男は「なぜ私が」と言わない。「いつまでに」と聞く。「何が必要か」と確認する。そして動く。
それが善次郎という人間だ。
(だからこそ、無理をさせすぎてはいけない)
糸子が帳面を開いて、一行書き足した。
「善次郎——江戸に呼ぶ。着いたら最初に休息を取らせること。無理をさせない」
それだけ書いて、帳面を閉じた。
夜の江戸の空気が、窓から静かに入り込んでいた。
遠くで蛙が鳴いていた。夏の終わりの声だ。
糸子が行灯の前に座って、次の書状を書き始めた。
やることは、まだある。今夜のうちにやっておかなければならないことが、まだいくつかある。
(動かなければならない)
しかし——糸子の中に、小さな安堵があった。
善次郎が来る。それだけで、江戸がもう少し安定する。一人でやれることの限界を、糸子はよく知っていた。だからこそ——信頼できる人間が一人増えることが、どれほど力になるかも知っていた。
「……善次郎殿、よろしくお頼みします」
誰に言うでもなく、糸子が小さく呟いた。
行灯の火が揺れた。
夜の一橋上屋敷は、静かだった。
十一
奥御殿に戻った糸子は、帳面を開いていた。
今日の出来事を整理していた。
縁側の外の庭に、夕暮れの光が差し込んでいた。池の水面が橙色に染まって、松の葉が夕風に揺れている。今日は風が少し涼しかった。夏の終わりに近い風だ。
「葵」
「はい」
「今日の岩崎殿と中岡殿——どう思いましたか」
葵が少し考えた。
「岩崎殿は……目が変わっておられました」
「どう変わりましたか」
「最初は緊張しておられた。しかし仕事の話を聞くにつれて——火が灯ったような目になっておられました」
糸子が少し頷いた。
「中岡殿は?」
「静かな方でございますね。最初から最後まで、ほとんど表情が変わりませんでした。しかし……」
葵が少し間を置いた。
「最後に退室される時——わずかに、何かが変わっておられたような気がいたします」
「何かが、というのは」
「うまく言えませんが……目の中の光が、少し強くなったような」
糸子が帳面に書いた。
「岩崎弥太郎——器を与えれば自分で満たす人物。善兵衛のもとへ。一ヶ月後に報告書」
「中岡慎太郎——論理で動く人物。人材地図の作成を依頼。三ヶ月で」
「龍馬——渋沢栄一を探しに行かせた。どう連れてくるかは……本人の工夫に任せる」
最後の一行を書いた後、糸子が少し笑った。
「渋沢殿が来た時に——どんな顔をされるでしょうね」
葵が少し首を傾けた。
「姫君様は……渋沢殿がどのような方かご存知なのですか?」
「少し」
「少し……でございますか?」
「将来、必ず必要になる人物ということだけ分かっています」
葵が「はあ……」という顔をした。
「姫君様はいつもそういう言い方をされますね」
「そういう言い方というのは?」
「『分かっています』と——最初から知っているように。でも全部は話してくださらない」
糸子が少し笑った。
「葵は鋭いですね」
「長いこと傍におりますので」
「……そうですね」
糸子が帳面を閉じた。
「葵、今夜は早く休んでください。明日からまた動きます」
「はい」
「龍馬が渋沢殿を連れてくるまでに——準備しなければならないことがあります」
「何の準備でしょうか」
糸子が少し間を置いた。
「渋沢殿を説得する言葉の準備です」
葵が少し考えた。
「説得……でございますか。あの方が来ることを、既に確信されているのですか?」
「強制的に拉致してでも来るでしょうから」
葵が「……姫君様」という顔をした。
「よろしゅう、おたの申します」
糸子が立ち上がった。
縁側の外に出た。
夕暮れの庭が、最後の光を受けていた。池の水面が静かに輝いていた。松の幹が、橙色の光の中で赤みを帯びていた。蛙がどこかで鳴き始めた。秋の声だった。
(今日も、種を蒔いた)
糸子は思った。
岩崎弥太郎という器に、最初の仕事を渡した。中岡慎太郎という実務家に、地図作りを依頼した。龍馬という扉開けに、渋沢という原石を探させた。
(全部、繋がっている)
そして今日——新しい人材たちが動き始めた。
「…人材、ゲットだぜ!」
糸子握り拳を作ってが小さく言った。
その言葉は、庭の夕暮れの空気に溶けていった。
しかしその言葉の重みは——確かにそこにあった。
糸子が縁側から部屋に戻った。
帳面を再び開いた。
最後の一行を書いた。
「渋沢栄一——まず経済調査方として迎える。日本と西洋の経済制度を比較研究し、朝廷のための経済政策を立案させる」
それだけ書いて、糸子が筆を置いた。
「日本が異国に食い物にされないために——金の流れを設計できる者が必要だ。その設計ができる者が来る」
糸子が帳面を閉じた。
行灯の火が、部屋の中で静かに揺れていた。
夏の終わりの夜が、江戸の上屋敷に静かに降りてきていた。
第六十七話 了
一部修正致しました。ご迷惑をお掛け致しましたm(_ _)m




