第六十六話「動かぬ炎と動かす者」
一
万延元年、夏の終わり
一橋上屋敷の奥御殿は、昼下がりの静けさの中にあった。
縁側の外の庭では、夏の日差しが松の葉を白く照らしていた。池の水面が、光を受けてきらきらと揺れている。今日は風が少ない。
夏の終わりに近づくにつれ、風の質が少しずつ変わってきていた。朝は涼しく、昼は暑く、夕方になると時々、秋の気配がほんの少しだけ混じった風が来る。
縁側の向こうに見える池の水は動かなかった。水面が鏡のようになって、空の青を映していた。その 青の中を、雲が一つゆっくりと流れていった。どこへ行くのか分からない形のない雲が、その青い水の中を泳ぐように動いて、やがて見えなくなった。
奥御殿の一室に、糸子が一人でいた。
文机の前に座って、帳面ではなく、一通の書状を持っていた。
坂本龍馬からの書状だ。
正確には、先日受け取った書状の一部だった。全文はすでに読んでいる。しかし糸子は今日も、その最後の一節だけを、もう一度手に取って読み直していた。
『姫様——。
この先生が生きちゅううちに、何とかならんもんでしょうか。先生の持っちょる知識と志を、もっと真っ当な道で使うことはできんがでしょうか。
これは、わしの勝手な願いながです。姫様から頂いたお役目の範疇を超えちゅうことは、百も承知の上ながぜよ。けんど、どうしても書かずにおれんかったがです。』
糸子が書状を膝の上に置いた。
しばらく動かなかった。
窓の外の庭を見た。朝霞の中の池が、白く静まっている。
龍馬が書いた「この先生」——松陰……
小さく呟いた。
吉田松陰。
伝馬町牢屋敷に収監中。まだ最終的な判決が出ていない。
(この世界線では、松陰はまだ生きている。史実では安政六年に処刑されたはずが——井伊直弼が別の形で消えたこの世界では、安政の大獄がなく、規模が小さいもので終わった)
その名前を思い出した瞬間、前世の記憶が動き始めた。大学院で幕末経済史を専攻していた頃に学んだことの、断片が。
二
糸子は記憶の中に沈んだ。
転生前の知識の引き出しを開ける。
幕末史において、吉田松陰という人物の位置づけを、糸子は大学院でかなり詳しく学んでいた。主に経済史の文脈ではなく、思想史の授業で——教授が「この男を理解しないと、長州の動きが全く分からない」と言って、一週間かけて解説した人物だ。
(一言で言えば——)
糸子は思い出そうとした。
教授が最後の授業でまとめた言葉が、記憶の底にあった。
(「中二病が命懸けで実行して、本当に歴史を動かした男」——だったか)
そうだ。そう言っていた。
しかし、糸子の頭の中に松陰という人物の像が浮かんでこなかった。
(もっと具体的に思い出せ。どういう人間だったのか)
糸子が記憶を掘り起こした。
記憶が広がっていった。
吉田松陰。長州藩出身の思想家・教育者。二十九歳という短い生涯で、後の明治維新の精神的支柱となった人物。その門下から、伊藤博文、山縣有朋、高杉晋作、久坂玄瑞——後に新しい日本を作る人間たちが生まれた。
しかしその人物像を思い出すにつれ、糸子の顔が徐々に歪んでいった。
(最初の性格から確認しよう)
「至誠」を貫く純粋な性格。嘘や妥協を嫌い、自分の信念にどこまでも正直で、私利私欲が一切ない。相手が誰であっても誠実に向き合えば心は通じると信じ、牢獄の囚人にまで講義を始める。
(……純粋すぎる)
(それだけ聞くと立派な人物だが……)
糸子が眉を寄せた。
「二十一回猛士」という自称。「諸君、狂いたまえ」という名言。黒船来航の時、「黒船に乗せてもらって海外を見てきたい」と思い立ち、実際に小舟を漕いで黒船に漕ぎ寄った。英語も話せないのに。事前計画もほぼなしに。当然断られた。捕まった。しかし後悔しなかった。
(……いや待て。黒船に密航しようとしたのか、このおっさんは)
脱藩の件もそうだ。友人との約束の日に出発の手形が届かなかったからといって、手形なしで出発した。当時の脱藩は死罪もありうる重罪だ。それでも「約束を守ることの方が大事だ」と出発した。
(ブレーキが壊れている……)
糸子が少し遠い目になった。
牢獄に入れられた時、囚人たちに孟子を教え始めた。看守まで巻き込んで、牢獄を私塾に変えた。松下村塾では弟子たちの長所を見つけて伸ばした。「君にはこんな才能がある」と言い続けた。弟子たちが松陰を信じた理由は——松陰が弟子たちを信じ続けたからだ。
(それは分かる。分かるが……)
糸子の表情が、さらに歪んだ。
しかし記憶はまだ続く。
日米修好通商条約が朝廷の勅許なしに調印されると、
「幕府の要人・間部詮勝の暗殺計画を弟子たちに語り、取調べで「言わなくていいのに」と役人が驚くほど詳しく自供する。その結果、幕府が「そこまで言うなら死罪にするしかない……」となって、自ら死への道を切り開いた。
(自分から言ったのか!?)
糸子の遠い目が、さらに遠くなった。
(つまりこのおっさんは——)
糸子が少し頭を抱えた。
(「中二病が命懸けで実行して本当に歴史を動かした、ブレーキの壊れた天才だ……)
糸子が遠くを見た。庭の池が白い朝霞の中に沈んでいた。
(しかも処刑されることすら「次の世代へのメッセージ」として使ってしまう。弟子たちは松陰の死によって「先生の仇」として過激化した。幕府は「潰した」つもりが、「火をつけた」だけだった……)
ものすごく嫌そうな顔をする糸子がいた。
(このおっさん……わたくしから見たら「どう考えてもめんどくさいの塊にしか思えない」)
糸子は心の中で盛大にぼやいた。
(ひょっとすると、史実の井伊おっさんはこのおっさんを処刑したことだけは、唯一ひょう……いやいやダメだ。そこだけは何が何でも同意したらダメだ。うん……絶対そうだ)
糸子が一人で何かを必死で納得させようとしていた
縁側の外の池が、風もないのに微かに揺れた。
庭の松が、日差しの中で静止したまま立っていた。真夏の静寂だった。
糸子は書状を置いて、腕を組んだ。
(このおっさんの全体像を整理する)
頭の中で、吉田松陰という人物の輪郭が、くっきりと浮かび上がってきた。
三
糸子が思い出した松陰の人物像は、整理すれば整理するほど、一つの言葉に収束していった。
(「始末が悪い」——これに尽きる)
西郷隆盛が後に言った言葉を、教授が授業で紹介していた。「命もいらぬ、名もいらぬ、官位も金もいらぬという人は、始末に困るものだ。だが、こういう人でなければ天下の大事は成し遂げられない」——松陰はその「始末に困る人」の典型だ、という評価だった。
私欲がない。だから買収できない。
死を恐れない。だから脅せない。
信念を曲げない。だから妥協できない。
(これが……今まさに、伝馬町の牢屋敷に入っている人間の全体像か)
糸子がゆっくりと息を吐いた。
その息が、夏の昼の空気に溶けていった。
縁側の外で、蝉が鳴いていた。遠く、そして近く。力強い声だった。
糸子の頭の中で、何かが動き始めた。
(少し……シミュレーションをしてみよう)
糸子は文机の前に正座し直した。
今の自分が、もし伝馬町の牢屋敷で吉田松陰と向き合ったとしたら——どうなるか。
脳内で、状況を設定した。
牢の中。松陰が向かいに座っている。近藤たちは外にいる。二人だけの空間。
糸子が最初の一手を考えた。
(まず「正論」と「データ」で当たってみよう)
脳内の糸子が口を開いた。
「松陰殿。今の軍事力で外国に勝つのは不可能です。計算をお見せします。薩摩の艦隊規模は——」
脳内の松陰が、目を輝かせて言った。
「それは『できない理由』を探しているだけでございます!真心があれば天も動きます。あなた様はなぜ動かないのですか、あなた様の志はどこにおありですか!!」
(…………)
糸子が脳内シミュレーションを一時停止した。
論破しようとしたのに、逆に「お前の志はどこにあるのか」という問いをぶつけられた。これは——話が噛み合っていない。この男は「理屈」ではなく「感情と志」のレイヤーで生きている。
(次の手。「社会的地位」と「評判」で当たってみる)
脳内の糸子が言った。
「松陰殿。このままでは身分も地位も失います。世間から過激な危険人物として見られます。それでよいのですか」
脳内の松陰が、全く動じずに答えた。
「地位も名誉もいりませぬ。死んで魂が残ればそれでよいのです!!」
(……そうか、守るものがない人間には社会的な攻撃が通じないのか)
糸子が脳内で頭を抱えた。
むしろ「迫害されるほど自分の信念が正しいことの証明だ」とさらに燃え上がる構造になっている。これは——完全に逆効果だ。
(では徹底的に無視して孤独にする)
脳内の糸子が沈黙を選んだ。
しかし脳内の松陰は、一人でも本を読み、一人でも書き物をし続けた。そしてその背中を見た看守が「この人は本物だ」と感動して話しかけてきた。次の日には囚人が集まっていた。
「……」
糸子が固まった。
(完全な隔離は不可能……「熱」が感染症のように広がる……)
糸子が思い切って最終手段——物理的な論破——を試みた。
しかし脳内で、松陰が処刑される場面を想像した瞬間、弟子たちが「先生の仇」として覚醒する場面が自動的に続いた。高杉晋作が。久坂玄瑞が。山縣有朋が——。
「どうやっても論破できない……」
その結論に至った時、糸子の表情が、本当に絶望的なものになった。
脳内シミュレーションから帰ってきた糸子が、庭を見た。
朝霞がゆっくりと晴れていた。池の水面が見え始めた。鯉が一匹、水面近くを泳いでいた。
糸子は長い間、その鯉を見ていた。
(つまり……吉田松陰という人物は——論破できない。潰せない。無視できない。処刑しても逆効果になる)
「うわあ……」
小さく、声が出た。
(このおっさん……本当に「始末の悪い」おっさんだ)
四
糸子はしばらく、文机の前で固まっていた。
池の水面が、光を受けてきらきらと揺れている。松の葉が、風もないのに微かに揺れた。庭師が朝に水を打った石畳に、蝉が一匹止まって、またすぐに飛んでいった。
奥御殿の一室は静かだった。
しかしその静けさの中で、糸子の頭は全力で動いていた。
(吉田松陰という人間の「始末の悪さ」を整理する)
私欲がない——だから利益で動かせない。
死を恐れない——だから脅迫が効かない。
信念を曲げない——だから妥協の余地がない。
しかも——処刑しても「弟子たちへの遺志」という形で影響力が増幅する。幕府がそれをやって、結果として長州の弟子たちが「先生の死の仇を取る」という動機で過激化した。
(「潰した側が、遺志を継いだ者たちに飲み込まれる」——これが松陰という人間の最も危険な特性だ)
糸子が深く息を吐いた。
(では——唯一の現実的な対処法は何か)
教授がシミュレーション授業の最後に言った言葉が、記憶の底から浮かび上がってきた。
「もし、あなたの周りにこういう『松陰タイプ』がいたら、徹底的に現実を教えるよりも、うまくそのエネルギーを『実務』の方向に誘導してくれるパートナーを付けるのが、唯一の現実的な対処法かもしれません」
どこかで読んだ言葉だった。前世の本の一節だったか、授業で聞いた話だったか——どちらにしても、それは正しいと糸子は思った。
(「実務」の方向に誘導する。エネルギーを転換させる)
糸子が少し目を細めた。
それは——つまり。
「始末の悪いおっさんを、どこかに閉じ込めて封印する」のでも「論破して黙らせる」のでも「処刑して消す」のでもなく——
「そのエネルギーを使う方向を変える」ということだ。
(理屈で動かないなら——志で動かす。それが唯一の方法か)
糸子が腕を組んだ。
松陰は「至誠」の人だ。誠実な言葉に、誠実な動機に——反応する人間だ。「日本を変えたい」という志のためなら、死をも恐れない。
だとすれば——「より大きな志」を見せれば、動く可能性がある。
「内戦なき近代化」という絵図を。
「無血で日本を変える」という可能性を。
(しかし……)
糸子が少し止まった。
(わたくしは……この「始末の悪いおっさん」と直接関わり合いになることを、本能的に避けたい)
これは正直な気持ちだった。
糸子がまた遠い目になった。
「至誠」の人間に「至誠」でなければ通じない。つまり——糸子が計画を全て本音で話さなければ、松陰は動かない。「情報の非対称性を維持」し「段階的に見せる」という糸子の通常の手法が、松陰には全く通じない。
(絶対に疲れる。それも確実に。あのおっさんと関わり合いになれば、わたくしの精神はガリガリ削られていく……)
(完全に相性が悪い……)
糸子が遠くを見た。
縁側の向こうの池に、赤い鯉が一匹、水面に顔を出した。口を丸く開けて、また水の中に消えた。
糸子はその鯉を見た
(それに何よりこんなめんどくさいおっさんに関わっていられるほど、わたくしは暇ではありません)
それから——小さく言った。
「もう……わたくしが助けなくてもいいのではないのかな?」
五
現実逃避が始まった。
「弟子の方とか、でしのかたとか、デシノカタとか……伊藤博文殿とか高杉殿とか……そういう正義の味方が、きっとこのおっさんを助け出すに違いない。うん、絶対にそうだ。何もわたくしが動く必要はないのだ……多分」
糸子が遠い目をしたまま、自分に言い聞かせていた。
庭の松が、かすかに揺れた。
池の水面が光を映して、静かに動いていた。
「…………」
糸子がしばらく、その遠い目のまま、何かを一生懸命に自分に言い聞かせていた。
そこへ——。
「姫君様ー、坂本殿からの書状が届きました」
障子の向こうから、葵の声がした。
糸子の遠い目が戻った。
「……」
葵が障子を開けて、入ってきた。手に書状を持っている。
「……分厚うございますよ、姫様」
葵が書状を差し出しながら言った。確かに分厚かった。龍馬の字で、先日よりも多くのことが書かれているのだろう。
糸子が書状を受け取った。
その時——聞こえないように、かなり小声で——
「……ちっ」
葵には聞こえなかった。
…聞こえなかった、ということにしておきたかった。
六
糸子は封を開けた。
龍馬の字が、いつもより多く並んでいた。最初の段から読み始めた。
薩摩の動向——大久保の続報。長州の様子——桂との接触の経過。長崎での商売の情報——岩崎弥太郎が江戸行きの準備を進めているという知らせ。中岡慎太郎と共に近々江戸に向かうという報告。これらが続いた後——。
書状の後半に入った。
龍馬の筆跡が、少し変わった。先ほどまでの報告文の文字より、少し乱れた字だった。思いの込もった字だ。
『ところで、姫様——。
いかん、また書いてしまいますぜよ。前の書状でも書いたきに、また書くのは気が引けるがじゃ。けんどわしゃあ、どうしても書かずにおれんかった。
吉田松陰先生のことながぜよ。
弟子の連中から、新しい話を聞きましたきに。』
糸子が書状を持つ手を、少し止めた。
(また松陰か……)
読み続けた。
『松陰先生が伝馬町の牢に入れられてから、もうだいぶ経ちます。なぜまだ最終の沙汰が下りていないのか——弟子らには本当に分からんと言うちょりました。
わしゃあ、少し調べました。どうやら井伊大老が失脚したことが関係しておるらしいがです。大老が動かそうとしていた案件が宙に浮いた。先生の処遇もその中に入っちょるのかもしれん。
それから姫様——先生の最近の様子を、牢番から話を聞けた者がいましてな。
先生は今も、牢の中で読書をしゆうそうです。本を持ち込んで、毎日読んじゅうとのことで。
「吉田先生は今も本を読んじょる。何があっても学ぶことをやめん人じゃ」と弟子の一人が言いよりました。
目に涙を浮かべながら言いよりました。
姫様。どうにかなりませんでしょうか。
わしゃあ、先生が死ぬのを見たくないがです。
志は過激でも——先生の根っこにあるのは「この国を本当に変えたい」という本物の気持ちやと思うちょります。その気持ちだけは、わしゃあ本物やと信じちょります。
お役目の範疇を超えちゅうことは分かっちゅうがです。しかしどうしても、姫様に届けずにはおられんかった。
何卒、お考えいただければ幸いに存じます。
土佐の坂本龍馬より』
糸子が書状を膝の上に置いた。
しばらく動かなかった。
縁側の外の庭で、蝉の声が続いていた。
今日は声が特に大きかった。夏の盛りを過ぎた頃の蝉は、何かを急ぐように鳴く。
池の水面が、静かに揺れていた。
七
糸子の頭の中で、いくつかの声が動き始めた。
最初の声が言った。
(なぜわたくしがそれを考えねばならないのか)
(幕府の囚人である。朝廷が動けば政治問題になる。堀田様に余計な負担をかける。勝にも迷惑がかかる。第一、松陰とかいうその人物はわたくしには一切関係がない)
別の声が言った。
(坂本、あなたは本当に…なんて余計なことを書いてくれたのだろう)
さらに別の声が言った。
(それに何よりも……あの中二病を煮詰めたような「始末の悪いおっさん」と本当に関わり合いになりたくない。坂本は十二歳の幼気な少女になんて…こんなにむごい仕打ちをするのだろう。わたくしが可哀そうすぎる。ぐすん…)
最後の声が言った。
(それに、わたくしは暇ではありません。非常に忙しいのでございます!!)
糸子は最終的に結論を出した…
書状を畳んで、葵に渡した。
「これ…捨てておいて」
「……えぇー!?」
葵が目を丸くした。
「捨てて、ということですか?」
「言葉の意味そのままでございます」
「しかし……坂本殿からの書状で……」
「見なかったことに致しましょう」
「……えぇーーーっ」
葵が盛大に引いていた。
糸子が文机に向かい直した。
葵が書状を持ったまま、どうしてよいのか分からない顔で、座ったまま固まっていた。
八
夜になった。
一橋上屋敷の奥御殿は静まり返っていた。近藤勇が廊下の端で夜番をしていた。池の水面に月が映っている。今夜の月は半月だった。その光が、庭の石畳を薄く照らしていた。
蛙が鳴いていた。夏の終わりに近づいた蛙の声は、少し低くなっていた。
糸子は布団の中に入っていたが、眠れなかった。
天井を見ていた。行灯は消えている。月明かりだけが薄く入り込んで、天井の板目を浮かび上がらせていた。
(なぜ眠れないのか。関係ないのに)
糸子が内心で呟いた。
(……いや、待て。感情ではなく、計算してみよう。損得の計算だ)
糸子は目を閉じた。
松陰が処刑された場合——何が起きるか。
弟子の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら——彼らが「先生の死の仇を取る」という動機で過激化する。長州全体が「怒りと悲しみ」で動き始める。過激派が主導権を握る。長州が計画①の方向への誘導が難しくなる。桂小五郎との接触が困難になる。
(……それは、まずい)
糸子が目を開けた。
天井が見えた。
松陰が生きている場合——何が起きるか。
弟子たちの「炎」に栓ができる。松陰が生きている限り、弟子たちは「先生のために」という動機で動く。その動きを「先生が認める方向」に誘導できれば——長州を計画①に向けて動かすことができる。
(……つまり)
糸子がゆっくりと起き上がった。
(松陰を救う理由が——損得の計算から出てしまった)
糸子が布団の中で正座した格好になって、暗い部屋の中で自分の膝を見た。
(これは感情ではない。完全に損得の計算だ。計画①の長州ルートを維持するための、合理的な判断だ)
(しかしなぜか……悔しい)
ぐぬぬ、という顔になった。どうして悔しいのかは、自分でも分からなかった。しかし確かに悔しかった。
(計算の結果として「助ける理由が出てしまった」という事実が、悔しいのか)
それも正確ではない気がした。
しかし今はそれを考えている時間がない。
糸子が立ち上がった。布団から出た。素足で畳の上を歩いた。文机の前に座った。
行灯に火を入れた。
その光の中で、糸子は紙を取り出した。
「葵ーーー」
障子の向こうへ声をかけた。
間もなく、隣の障子が静かに開いた。
「……はい、何かご用でしょうか、姫君様」
葵の声は、眠そうではなかった。起きていたのだろう。あるいは、糸子が眠れていないことに気づいて、起きていたのかもしれない。
「あの書状、捨てないでくれていた?」
少しの間があった。
「……はい」
「さすがね、葵」
「……姫君様が捨てろとおっしゃっても、捨てられるものとそうでないものがございます」
葵が書状を持って入ってきた。
「……姫君様、やはり気になっておられたのでしたか」
葵が差し出した。
「損得の計算です。感情ではありません」
糸子が受け取った。
「ありがとう」
葵が微かに笑った。「そういうことにしておきます」とでも言いたそうな顔だった。
「……お水をお持ちしましょうか」
「はい。それから——葵」
「はい」
「今夜は少し長くなります。申し訳ありません」
葵が少し間を置いた。
「承知しました。傍におります」
それだけ言って、葵が退室した。
糸子が文机の前に座った。
墨を磨り始めた。
九
糸子は行灯の前で、筆を持った。
龍馬の書状を横に置いて、白紙を三枚、文机の前に並べた。
三通の書状を書く。
宛先が決まっていた。どれも、要点だけを書く。
一通目——堀田正睦へ。
二通目——勝海舟へ。
三通目——坂本龍馬へ。
書き終えてから、糸子は少し笑った。
腹黒い笑いだった。
(松陰を救うために動く。しかし朝廷が直接動いてはいけない。幕府の囚人に朝廷が介入すれば、それは政治的な問題を引き起こす。だから——それぞれの立場の人間が、それぞれの立場で動く必要がある)
堀田には——幕府の立場から動いてもらう。
勝には——勝にしかできない動き方で動いてもらう。
龍馬には——龍馬にしかできない動き方で動いてもらう。
三者が別々の角度から動けば、朝廷が直接介入しなくても、結果が変わる可能性がある。
糸子が筆を取って、一通目を書き始めた。
行灯の光が揺れた。夜の奥御殿の中で、筆の音だけが続いた。
十
三通の書状を書き終えた後、糸子が小さく笑った。
「まったく」
呟いた。
「坂本というのは本当に余計なお世話を焼く。おかげでわたくしの夜が一つ潰れた」
行灯の炎が、その言葉に答えるように微かに揺れた。
書状を三つ、丁寧に折りたたんだ。
それぞれに宛先を書いた。
(読者だけが知っている——堀田正睦、勝海舟、坂本龍馬。その三名への書状が、文机の上に並んでいる)
糸子が書状を見た。
「よし」
それから——
「坂本には容赦なく馬車馬のように働いてもらわなければ。わたくしがやりたくもないことをやらせるのだから——罰はしっかり受けてもらわなければなりませんよね」
行灯の火が揺れた。
腹黒い笑いが浮かんだ。
「うけけけけけーーーーーっ」
声が漏れた。夜の奥御殿の中に、その笑いが広がって、消えた。
縁側の外で、蛙が鳴いた。
月が傾いていた。夜が深まっていた。
糸子が立ち上がって、葵の気配がする方向に声をかけた。
「葵、今夜はありがとう。もう休んでください」
「……姫君様はいかがなさいますか」
「少し考えがあります。もう少しだけ起きています」
「承知しました……お水はそこに置いておきます」
「ありがとう」
葵の気配が遠ざかった。
糸子が再び文机に向かった。
帳面を開いた。新しい頁に、一行書いた。
「吉田松陰の件——計画①の長州ルート維持のための合理的判断として、動く」
それだけ書いて、帳面を閉じた。
行灯の火を消した。
部屋が暗くなった。月明かりが薄く入り込んで、文机の上の三通の書状を、薄く照らしていた。
糸子は布団に戻った。
今度は——すぐに眠れた。
十一
その頃——江戸から遠く離れた場所で。
ある宿場町の旅籠に、三人の男が泊まっていた。
夜の旅籠は静かだった。廊下に行灯が一つ灯されていて、その光が板張りの廊下を薄く照らしている。外からは虫の声が聞こえた。秋の気配が少し混じった、夏の終わりの虫の声だった。
三人が泊まっている部屋は、旅籠の二階の奥だった。
窓の外には、宿場町の夜の風景が広がっていた。星が出ていた。少し靄のかかった夜だったが、それでも星は見えた。遠くに宿場の常夜灯の光が点々と続いていた。
部屋の中で、三人が向かい合っていた。
坂本龍馬、岩崎弥太郎、中岡慎太郎——の三人だった。
龍馬が行灯の光の前で、足を崩して座っていた。旅の疲れが顔に出ていたが、目はまだ元気だった。
弥太郎が向かいに座って、算盤を手元に持っていた。旅の間も計算をやめない男だ。
中岡慎太郎が窓の近くに座って、外の夜を見ていた。土佐勤王党の出身で、龍馬より少し年上だ。細身で、目が鋭い。静かに考える人間の目だ。
「龍馬、江戸まであとどのくらいかかるがぜよ」
弥太郎が算盤を置いて聞いた。
「あと十四日くらいぜよ」
龍馬が答えた。
「長い旅じゃのう……」
弥太郎がぼやいた。
「なんや、弥太郎。おまん、旅が嫌いながか」
「嫌いやない。ただ、江戸で何が待っているのかが気になっちゅう」
「面白い仕事が待っちゅうと言うちょろう」
「面白い仕事ねえ……」
弥太郎が腕を組んだ。
「龍馬、お前は江戸で会う相手のことを何も教えんな。男か女か、武士か商人か——そのくらいは教えてくれてもええろ」
「会えば分かるきに」
「もう少し詳しく言えんがか!お前ぜよ!もう!!」
中岡が窓から視線を戻して、二人を見た。
「弥太郎、諦めや。龍馬はこういう奴じゃ。聞いても教えん」
「中岡は納得いくがか」
「納得はせん。しかし龍馬が連れていくなら、そう悪い相手ではなかろう」
弥太郎が少し黙った。
それから「……まあ、そうじゃな」と言った。
三人の間に、短い静けさがあった。
虫の声が続いていた。
行灯の光が、三人の顔を照らしていた。
それから——。
龍馬が突然、身を震わせた。
「うっ……」
「どうしたんじゃ、龍馬?」
中岡が聞いた。
「いや……今、すさまじい悪寒が……」
龍馬がきょろきょろとあたりを見回した。
部屋の隅、窓の外、廊下の方——全部見た。
誰もいない。何もない。夜の旅籠の静けさだけがある。
「何かあったがか」
弥太郎が少し前に出た。
「いや……なんじゃろ。なんか……凄まじく悪い予感が……」
龍馬が自分の両腕を抱いた。
「誰かがわしのことを考えちゅうような……しかも……かなり恐ろしいことを考えちゅうような……」
「お前、疲れちゅうがやないか」
弥太郎が言った。
「そうかのう……」
「旅の疲れじゃ。早よ寝れや」
「……そうするきに」
龍馬が布団を引っ張った。
しかし寝転がっても、その悪寒の感覚がなかなか消えなかった。
(誰かが……わしに、とんでもないことをさせようと考えちゅうような気がする……)
龍馬がそう思いながら、目を閉じた。
行灯の光が揺れた。
窓の外に、星が出ていた。
江戸はまだ遠かった。
しかし確実に、近づいていた。
十二
翌朝、一橋上屋敷。
夜明けの光が庭に差し込んできた頃、糸子は文机の前にいた。
昨夜書いた三通の書状が、机の上に並んでいた。
葵が朝の茶を持ってきた。
「姫君様、昨夜はいつお休みになったのですか?」
「途中で寝ました。大丈夫です」
「顔色は……」
「問題ありません」
糸子が茶を一口飲んだ。
「葵」
「はい」
「この書状を、それぞれの経路で届けてください」
糸子が三通の書状を葵に渡した。
「堀田様への経路は実光様を通じて。勝殿への書状は直接。龍馬への書状は鴻池経路で」
「承知しました」
葵が書状を受け取った。
「それと——葵」
「はい」
「村田蔵六殿に、今日か明日にでも来ていただけるよう、使いを出してください」
「村田様……でございますか?」
「はい。少し相談したいことがあります」
葵が頷いた。
「分かりました。すぐに使いを出します」
糸子が庭を見た。
夏の朝の光が、庭の松を照らしていた。池の水面が金色に変わっていく。今日も江戸の空は広かった。雲が少なく、青が深かった。
(松陰を救うことが計画①に資するかどうか——まだ分からない部分もある)
糸子は思った。
(しかし……「損得の計算として」と自分に言い聞かせながら——本当は少し違うことも分かっている)
坂本が「どうにかなりませんでしょうか」と書いた言葉。弟子たちが泣きながら「先生が死ぬかもしれない」と怯えている様子。松陰が牢の中でも今日も本を読んでいるという事実。
そういうことが——計算の外にある何かを、糸子の中で動かしていた。
(それが何かは……今は考えない)
糸子が帳面を開いた。
葵が戻ってきた。書状を持って行く前に、茶のお代わりを置いてくれた。
「姫君様」
「なんでしょう」
「昨夜は……お眠りになれなかったのですか?」
「途中で眠れました」
「なぜ眠れなかったのですか」
糸子が少し間を置いた。
「……損得の計算が終わらなかったからです」
葵が少し首を傾けた。
「損得の計算……でございますか」
「はい。計算が終わったら、眠れました」
葵が「……左様でございますか」と言って、目を伏せた。
その目が——「損得の計算だけではなかったのではないか」という色をしていたが、糸子はそれを見ないふりをした。
「葵、書状をよろしくお願いします」
「はい、ただいま」
葵が退室した。
糸子が庭を見た。
池の赤い鯉が、水面の近くを泳いでいた。何も急がない動きで、悠々と。
庭の松が、朝の光の中で静かに立っていた。
今日も江戸の朝は早かった。
十三
数日後、江戸城。
堀田正睦の執務室。
江戸城の廊下は長い。磨き抜かれた板張りが続き、欄間の彫刻が廊下の天井に細かい影を作っていた。廊下の両側には、各地から届いた書状や文書が整然と積まれた棚があった。
堀田の執務室は、城の中でも比較的奥まった場所にあった。大きな部屋ではない。しかし格式はある。床の間には端正な掛け軸が一幅。枯淡な墨跡で書かれた「誠」の一字だった。窓の外は内庭で、手入れの行き届いた松が見えた。
堀田正睦が執務室に入った。
側近が「本日の書状でございます」と言って、束を差し出した。
堀田が机に座って書状の束を取り上げた。一通一通、確認していく。
その中に——一通、見慣れない封がある書状があった。
封を開けた。
読んだ。
読みながら、堀田の表情が少しずつ変わった。
眉が上がった。次に少し下がった。それから——じっと、書状の一点を見た。
しかし堀田の表情が、その内容を語っていた。
「……」
堀田が少しの間、何も言わなかった。
執務室の外から、城内の気配が微かに聞こえてきた。
やがて堀田が側近を呼んだ。
「松陰という者の罪状の詳細を調べよ」
側近が少し戸惑った顔をした。
「吉田松陰でございますか……処刑の方向では……」
「調べよと言った」
堀田の声は静かだった。しかし有無を言わせない静けさだった。
「……承知いたしました」
側近が退室した。
堀田が一人になった。
書状をもう一度見た。
(近衛の姫君は——頼み事をしない。情報を置いていくだけだ。判断はこちらに任せる。それが——なぜこうも動きたくなるのか)
堀田が少し目を細めた。
「末恐ろしい姫君だ」
また独り言が出た。この二か月で何度そう思ったことか。
窓の外の松が、城内の風に静かに揺れた。
十四
同じ頃。
勝海舟の屋敷。
勝が縁側に出て、煙草に火をつけた。
届いた書状を手に持ったまま、火をつけた煙草を一口吸った。
書状を読んだ。
「……へえ」
一言だけ言った。
煙草をもう一口吸った。
書状を懐に入れた。
それだけだった。
しかしその日のうちに——勝は幕府内の知人三人と「偶然」酒を飲んだ。
場所は、江戸の小さな居酒屋だった。格式のない店だ。板張りの床に、傷だらけの机が並んでいる。壁には酒の銘柄が墨で書かれた紙が貼ってあった。行灯の光が、煙草の煙と混じって、部屋を橙色に染めていた。
話題は「海軍教育に必要な人材」だった。
松陰の名前は一度も出なかった。しかし三人全員が、不思議なことに、ほぼ同じ時間帯に「そういえば伝馬町に妙に博識な囚人がいるらしい」という話を「自然に」し始めた。
「海外の事情に詳しいという話だ」
「長崎海軍伝習所の連中が聞いたと言っていた」
「もったいない話だ。あれほどの知識があって、牢に入れたままでは」
勝が酒を飲みながら、何も言わなかった。
ただ聞いていた。
帰り道、一人になってから、勝が夜空に向かって小さく言った。
「姫さんの書状ってのは短いくせに、読んだ後に自分が動きたくなる。不思議な文章だ」
煙草の火が、夜風に揺れた。
十五
さらに別の場所。
大坂の宿——鴻池系列の旅籠。
坂本龍馬が廊下に立っていた。
手に、二通の書状を持っていた。
どちらも、大坂に着いた時に鴻池の両替商から受け取ったものだ。
一通目を開けた。
読んだ。
「やった!」
龍馬が思わず声を上げた。
廊下に出てきていた岩崎弥太郎が「なんや」という顔でこちらを見た。中岡慎太郎も廊下の奥から顔を出した。
「なんの書状ぜよ」
「あの方からぜよ!」
「何が書いてある」
龍馬が書状を見た。
「『わかった』とだけ書いてある」
中岡が「……それだけか」という顔をした。
「それだけながよ」
「それで分かるのか」
「分かるがぜよ!あの方が『わかった』と言うたら、もう終わっちゅうがよ!」
龍馬が書状を胸に抱いた。
弥太郎が「よう分からんな」という顔をした。
「ほんまに、それだけかよ?三行くらいはあるやろ普通は」
「あの方はいつもそうながよ。三行以上書いたことがない」
「……変な御仁やな」
「変じゃない。あの方はいつもそうなんじゃ。それだけで十分なんじゃ」
龍馬が二通目を開けた。
読んだ。
——三秒で、完全に顔色が変わった。
「う……」
「どうしたんじゃ、龍馬」
弥太郎が前に出た。
龍馬が書状を持ったまま、固まっていた。
「……なんちゅうか」
「なんや」
「これは……ものすごい恨みつらみが書いちゅうがぜよ」
「恨みつらみ?」
龍馬が書状をもう一度読んだ。読む顔が、どんどん青くなっていく。
「……わしゃあ、あの方に何をしたんじゃろか」
「なんて書いてあるんや」
龍馬が読み上げた。震える声で。
「あなたのせいで夜が一つ潰れました。坂本殿には容赦なく馬車馬のように働いていただきまする。わたくしがやりたくもないことをあなたがやらせた分だけ、あなたにはやりたくもないことをやっていただきまする。それが当然の道理でございます——」
中岡が少し引いた。
「……それがあの方の書状か」
「そうぜよ!なんでぜよ!わしゃあ何もしちょらんがぜよ!ただ先生のことを書いただけぜよ!!」
龍馬が空に向かって叫んだ。
「わしゃあの方に何をしたんじゃーー!あの方が大激怒しておるーー!どうしたらええんじゃーー!」
弥太郎が少し後退した。
中岡が「……ありゃ、なんちや」という顔で、龍馬と書状を見比べていた。
「あの書状にゃあ、もっと続きがあるがやないかえ?」
「……ある」
龍馬がまた読んだ。今度はさらに震えながら。
「このご恩は一生忘れることなく働くことで返してくださいませ。あなたはわたくしの大切な人材です。容赦なく使い倒させていただきます。うけっ」
「最後の部分は何やねん」
「何が書いちゅうか、さっぱりわからんがぜよ……」
龍馬が完全に引いた顔で書状を見ていた。
弥太郎が少し笑った。
「その人が、今から会いに行く相手かえ?」
「そうぜよ……」
「……楽しみやな」
「楽しみちゃうわーー!!わしゃあどうしたらええんじゃーー!!」
龍馬の叫びが、大坂の旅籠の廊下に響いた。
中岡が「まあ、落ち着けや」と言った。
「落ち着けんがぜよ!!」
「しかし……そのお方が『わかった』と言うたんじゃろ」
「……そうぜよ」
「それは良かったんじゃないか」
「……そうぜよ」
「それだけで十分ながやろう、おんしゃあが言うたがやき。」
龍馬が少し止まった。
それから——少し笑った。
「……そうぜよな」
「怒られもって、動いてくれる。それが、その御仁ながよ。」
「……まあ、そうながよ。うん、そうながやき。」
龍馬がもう一度書状を見た。
今度は笑えた。
「こじゃんとすごいお方ぜよ。腹を立てもって動く。恨みもって助ける。笑いもって叱る……」
弥太郎がまた笑った。
「はよ江戸に着きたうなったちや。」
「……わしゃあ、まだ怖いがよ。」
中岡が星空を見上げた。
「江戸はもうすぐながよ。はよ歩くき!」
三人が旅籠の中に戻った。
廊下の行灯が、夜風に揺れた。
十六
江戸、伝馬町牢屋敷。
夜の牢屋敷は、外の世界とは全く別の静けさを持っていた。
厚い土塀が外の音を遮断する。江戸の夜の喧噪も、川の音も、虫の声も——ここには届かない。牢の中には、灯火が一つだけある。薄暗く、揺れながら、独房の中を照らしていた。
吉田松陰は、本を読んでいた。
正座して、膝の上に本を開いて、その一字一字を丁寧に読んでいた。牢の中に本があること自体、異常なことだ。しかし最近、処遇が変わっていた。書き物が許可され、本の持ち込みが認められた。
「吉田。明日、取調べがある」
廊下から看守の声がした。
松陰が本から目を上げた。
「……はい」
表情は変わらなかった。取調べが何度目かも分からなくなっていた。
翌日。
取調べの間は、小さな部屋だった。格子の窓から、薄い光が差し込んでいた。幕府の役人が一人、机の前に座っていた。松陰が運ばれてきて、向かいに座らせられた。
役人が松陰を見た。
(困った。この男は聞いてもいないことまで喋る。今日は「軽くする方向」で話を進めろと言われているのに)
「吉田松陰。そなたの罪状について、改めて確認する」
松陰が頷いた。
「……そなた、教育者として評判があるそうだな」
松陰が少し眉を動かした。
「はあ……」
(警戒している)
「海外の事情にも詳しいと」
「……何を聞きたいのですか」
松陰が直球で聞いた。
役人が少し詰まった。
(この男は遠回しな話が通じない。正直に言えば全部喋る。嘘をつけと言われても嘘がつけない。だから今日も……)
「そなたの……知識を、世のために使う方法があるとすれば——」
「それはどういう意味ですか」
松陰が身を乗り出した。
「具体的に言ってください。わたしは遠回しな話が苦手なので」
役人がまた詰まった。
取調べは、うまく進まなかった。松陰が「聞かれていること以上のことを答えよう」とする性格と、役人が「最低限のことしか言わせまいとする」方針が、正面からぶつかった。
役人が退出した後、松陰は独房で首を傾げていた。
(何かが変わっている。しかしわからない。わしが動いたわけではない。弟子たちが動いたわけでもない。では——誰が)
十七
数十日後。
看守が松陰に「書き物をしてよい」と言った。
以前より、明らかに処遇が良くなっていた。
「上からそう言われた」
「上とは」
「上は上だ」
看守が短く言って、立ち去った。
松陰は独房の中で、しばらく考えた。
(これは——何かが動いている。外で、何かが動いている)
その夜、面会が入った。
坂本龍馬だった。
面会が許可されたこと自体が、異常だった。しかし松陰は表情に出さずに、面会の間に出た。
龍馬が向かいに座った。
「先生!お顔が見られて嬉しゅうございますがぜよ!」
「龍馬」
松陰が静かに言った。
「何かしたか」
龍馬の動きが、一瞬止まった。
「…………」
「龍馬」
松陰の声が低くなった。
「……わしは何もしちょらんがです」
これは嘘ではなかった。龍馬自身は何もしていない。書状を書いただけだ。
「では誰が」
龍馬が笑って、話題を変えた。
「先生、最近お体の具合はいかがでしょうか」
「……龍馬」
「はい」
「そなたが隠しているということは——龍馬より大きな何かが動いているということだ」
龍馬が少し固まった。
(さすがに鋭い……)
「まあ……それは……」
「教えてくれぬのか」
「今は……まだ、ちょっと……」
「そうか」
松陰が静かに言った。不満そうではなかった。ただ、考えている顔だった。
(龍馬が隠せる。それはつまり——龍馬が信頼している何かがある。龍馬が信頼するものは、「志を持った本物」だけだ。では……)
面会が終わって、龍馬が帰った後。
松陰は独房に戻った。
今日の取調べの異変、処遇の改善、龍馬の面会——これらが全部、一つの方向を指しているように思えた。
しかしその「方向」が誰なのかは、分からなかった。
その夜——。
灯火が消えた後の独房に、看守が一通の書状を滑り込ませた。差出人の名前はなかった。
松陰が灯火を再び灯して、書状を開いた。
そこには、数行だけ書かれていた。
「先生のお志は拝察いたしました。ただし、志の方向はわたくしが決めます。先生が最も苦手なことは『待つこと』と存じます。なれど今しばらく、お待ちを。」
松陰が、長い間、その数行を見つめた。
「……」
一度読んだ。もう一度読んだ。三度目を読んだ。
「志の方向はわたくしが決めます」
その一文で、松陰が少し笑った。
(この書き方は——「わたくしの志はあなたと別だ」という意味ではない。「あなたの志のエネルギーをどう使うかを、わたくしが決める」という意味だ)
(おそらく——この人物は、わしのことを「道具として見ている」のではない。しかし同時に「わしを自由に暴走させる気もない」)
(「先生が最も苦手なことは『待つこと』と存じます」——なぜそれを知っているのか)
(わしのことを、知っている人間が動いている)
松陰は数行の書状を丁寧に折りたたんだ。
懐に入れた。
「今しばらく、お待ちを」
その言葉を口の中で繰り返した。
「……たまには待ってみるか」
独房に、灯火の揺れる音だけがあった。
松陰が本を開いた。
今夜は、いつもより丁寧に読もうと思った。
待つ時間を——読書に使う。それが今の自分にできる最善だ。
灯火が揺れた。
伝馬町牢屋敷の夜は、長い。
しかし——何かが変わり始めている。
松陰はそれを感じながら、静かに本の文字を追い続けた。
第六十六話 了




