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【祝!PV累計80万突破】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第六十八話「中二病と至誠と馬車馬の話」

 万延元年、秋の始まり。

 京都は、江戸とは違う秋の来方をする。

 江戸の秋は突然だ。昨日まで夏だったのに、今日は風が変わっている——そういう秋の来方をする。しかし京の秋は、じわりと来る。朝の光の色が少しずつ変わって、夕暮れが少しずつ早くなって、気づけば秋になっている。

 松屋善次郎が、天朝物産会所の京都拠点の一室で、書状を読んでいた。

 部屋は小さかった。格式はあるが、広くはない。文机が一つ、棚が壁際に二つ。棚には帳面と書状の束が整然と並んでいた。乱れた物が一つもない。善次郎の性格が部屋に出ていた。

 窓の外には、京の秋が始まっていた。庭の紅葉がまだ緑だが、その緑の色が少し変わり始めていた。夏の緑より、わずかに落ち着いた色だ。秋の光を受けて、葉の縁が少し透けて見える。

 善次郎が書状を読み終えた。

 「……姫様からお呼びの声がかかった」

 一人で言った。声が出たのは自分でも驚いた。

 いつかこの日が来ると思っていた。天朝物産会所が江戸で本格的に動き始めれば、糸子は必ず京の実務担当を江戸に呼ぶ。そのために善次郎は準備をしていた。

 書状をもう一度読んだ。

 内容は明快だった。一週間以内に江戸へ来い。岩崎弥太郎という人物を松屋善兵衛のもとに預けた。その間の京と江戸の情報の流れを整理する役割が必要になる。近く江戸に新しい人材が来る。その環境を整えるための準備も必要だ。

 善次郎が書状を折りたたんだ。

 「急なお願いになりましたが」と書いてあった。しかし善次郎は苦笑した。

 (急なお願いだが——急ではない。準備はしてある)


 善次郎が書状を懐に入れて、廊下に出た。

 「三人を呼んでくれ」

 近くにいた使いの者に声をかけた。

 「朽木殿、豊田殿、藤堂殿を」

 「はい、ただいま」

 善次郎が部屋に戻った。窓の外の庭を見た。紅葉がまだ緑のまま、静かに立っていた。この木が赤くなる頃、自分はもう江戸にいるだろう、と思った。

 しばらくして、三人が入ってきた。

 一人目——朽木誠一郎。二十八歳。背が高く、物静かな男だ。感情が顔に出にくい。入ってきた時の所作が整っている。公家屋敷で長年働いていた経験が、体に染み込んでいる。

 二人目——お豊。三十二歳、本名・豊田キワ。小柄でよく動く。入ってきた瞬間に部屋の中を一度見渡した。棚の整理の状態、文机の上の書状の枚数——無意識に確認している。商家育ちの習慣だ。

 三人目——藤堂蓮之助。二十一歳。若い。体が細く、一見頼りなく見える。しかし座った瞬間の目が鋭い。話を聞く時の集中が、年齢より格段に高い。


 三人が揃って礼をした。

 「善次郎様、お呼びでございますか」

 誠一郎が代表して言った。

 善次郎が少し間を置いた。

 三人の顔を見た。

 この三人を選んで、育ててきた。誠一郎は御所周辺の人間関係に精通している。お豊は仕入れ経路の管理と算盤の腕が善次郎より確かだ——善次郎はそれを認めたくないが、認めている。蓮之助は記憶力が異常によく、一度聞いた人名・家格・藩の事情を忘れない。

 三人それぞれに専門がある。そして三人がいれば、互いに相談できる。一人が倒れても二人で穴を埋められる。

 「姫様から江戸への呼び出しを受けました」

 善次郎が言った。

 三人が静かに聞いていた。

 「江戸へ行けば——当分、京には帰ってこられないと思います」

 「……」

 誠一郎の顔が微かに動いた。お豊が帳面を膝の上で少し握った。蓮之助が少し前に身を傾けた。

 「後は、教えた通りの手はずでお願いします」

 善次郎が言った。

 「誠一郎殿」

 「はい」

 「御所との連絡は、さと様と組んでお願いします。さと様が御所内部の人間と話す係、あなたが書状の管理と記録を担う係。この分担は変えなくていいです。判断に迷ったことは、書状で江戸に送ってください。ただし——」

 善次郎が少し真顔になった。

 「三回までです。月に三回まで。それ以上は自分で判断しなさい」

 誠一郎が「……承知しました」と言った。少し苦しそうな顔をしていた。

 「お豊殿」

 「はい!」

 お豊が明るい声で答えた。

 「仕入れ経路の管理は全てお任せします。西陣の織元、宇治の茶商、丹波の陶器商——あなたは全員と顔見知りになっていますから、問題は出ないでしょう」

 「はい、任せてください」

 「ただし——姫様の宇治のお茶だけは、絶対に品質を落とさないでください。これは最重要案件です」

 「分かっています。あの最高級品経路は私が一番よく知っていますから」

 お豊が笑った。その笑顔は、初対面の相手をすぐに打ち解けさせる種類の笑顔だ。

 「蓮之助殿」

 「はい」

 蓮之助が背筋を伸ばした。

 「惣会所の地ならしを続けてください。わたくしが始めた、各商家への訪問と顔合わせの仕事です。あなたは若い分、商家の主人が話を聞いてくれやすい。その利点を使いなさい」

 「はい」

 「ただし——情報を取りすぎないように」

 蓮之助が少し表情を変えた。

 「あなたは優秀だが、欲張りです。担当を越えた情報を引き出そうとする癖がある。それをやめなさい。越えた情報は、誠一郎殿かお豊殿に回しなさい。自分一人で処理しようとしない」

 「……承知しました」

 蓮之助が少し悔しそうに頷いた。

 善次郎が三人を見回した。

 「大丈夫です。今までわたくしが教えてきた通りにやれば、天朝物産会所は守れます」

 「……」

 三人が静かに聞いていた。

 「あなたたちは——わたくしが居なくても、天朝物産会所をしっかり守れる存在になっています。だから江戸に行けるのです。もし心配だったなら、行けません」

 「善次郎様……」

 誠一郎の声が、少し詰まった。

 「いいですか、わたくしは江戸に向かうのに、京の事は何も心配していませんよ」

 善次郎が言った。

 その言葉は本当のことだった。心配していない。この三人なら大丈夫だという確信があった。だから最初からこの三人を選んで育てた。


 しかし——三人の目が、それぞれに潤んでいた。

 誠一郎が代表して口を開いた。

 「善次郎様のご期待に沿えるよう、三人力を合わせてしっかりやらせていただきます」

 「……藤堂殿は」

 蓮之助が言った。

 「善次郎様は何の憂いもなく、無事に江戸へお向かいください」

 それからお豊が笑いながら言った。

 「この二人がサボっていたら、尻を蹴り上げてやりますよ」

 誠一郎が「蹴らないでください」という顔をした。蓮之助が「その脅しはやめてほしい」という顔をした。

 部屋の中に笑いが起きた。

 善次郎も笑った。

 「みな、しっかり頼むぞ」

 「「「誠心誠意、努めさせていただきます」」」

 三人が深く頭を下げた。

 善次郎が部屋を出た。

 江戸への準備を始めるために。


 時間を少し遡る。

 糸子が三通の書状を書いてから、三日後の朝のことだ。


 奥御殿の一室。

 糸子は朝の文机の前で、葵が持ってきたお茶を飲んでいた。

 縁側の外の庭では、梅雨明けに近い蒸し暑さが残っていた。池の水面が、朝の光の中で白く光っていた。蓮の葉が水の上に広がって、その上に小さな雨粒が残っていた。昨夜の雨の跡だ。

 蝉の声が、遠くから聞こえてきた。今年の蝉の初声だ。夏の本格的な到来を告げる声だった。

 葵が「土方殿から報告の書状が届いております」と言って、封を差し出した。

 糸子が封を開けた。

 二つ折りの和紙が入っていた。土方の整然とした字で、報告が書かれていた。

 読んだ。

 (動き始めた)

 糸子が内心で呟いた。

 報告の内容は——堀田正睦が松陰の罪状の詳細を側近に調べさせた、という江戸城からの情報。そして勝海舟が幕府の知人三人と居酒屋で「偶然」酒を飲み、「伝馬町に博識な囚人がいるらしい」という話が複数の口から自然に出た、という話だった。

 (わたくしが書いた書状が、二つとも機能している)

 (堀田殿は——「判断を迫る書状」として受け取った。勝殿は——「仕掛ける許可の書状」として受け取った。二人とも正確に読んだ)

 糸子が書状を閉じた。

 少し間を置いて、葵に言った。

 「葵、ご苦労様でございます。土方殿に——動きを引き続き追ってほしい、と伝えて」

 「承知しました」

 葵が退室した。

 糸子が一人になった。

 文机の前で、もう一度お茶を飲んだ。

 (堀田殿への書状は——短かった)

 糸子は、三日前の夜に自分が書いた書状の内容を思い返した。

 堀田正睦に宛てた一通目は、こう書いた——

 『堀田様におかれましては、益々ご健勝のことと存じ上げます。

 先日、長州の志士坂本龍馬殿より、吉田松陰なる者の件について書状が参りました。本人の処遇については幕府の御判断によるべきものと存じますが、一つだけ気にかかる点がございます。

 松陰の件は、長州藩内において単なる一学者の処刑にとどまらぬ影響を及ぼす可能性があるとの由。長州には松陰の影響下にある若い志士が数多く、その者たちが過激な方向へ動けば——桜田の一件の後、幕府がさらなる動揺に晒される懸念があります。

 逆に申しますならば——松陰を生かしたまま、使い方を変えることで、長州の若い者たちを穏便な方向に導く可能性もございます。松陰本人は海外の事情に通じており、その知識は時代の役に立ちうるものです。

 これは堀田様への進言ではございません。ただ——判断の材料の一つとして、お耳に入れておきたく存じます。御判断は堀田様にお任せ申し上げます。

 くれぐれもお健やかに。

 近衛糸子拝』

 (頼み事はしていない。判断もしていない。ただ——材料を置いただけだ)

 (情報を置くだけで、堀田殿は動く。それがあの人の性格だ。判断の材料を持った者は、判断せずにはいられない。特に堀田殿のような、責任感の強い人間は)

 (「末恐ろしい姫君」—…数か月ほど前に堀田殿が呟いたとされる言葉を、わたくしは伝え聞いていた。今回もきっと、そう呟いただろう)

 糸子が少し笑った。

 腹黒い笑いだった。


 (そしてもう一通——勝殿への書状は、全く違う形にした)

 勝海舟への二通目は、こう書いた——

 『勝殿におかれましては、ご健勝のことと存じます。

 先日ご相談申し上げた『海軍教育に必要な人材』の件、引き続きご検討いただきたく。

 一つ、耳に入った話がございます。伝馬町に、海外の事情に通じた博識な囚人がいるとの由。長崎海軍伝習所の関係者が、その知識に驚いたとも聞き及んでおります。名前は吉田松陰。処刑の方向で話が進んでいるとのこと。

 もしこの者の知識が、将来の海軍教育に役立つものであれば——使い方次第では、惜しい人材かもしれません。ただし、その者には過激な一面もあると聞いております。取り扱いは慎重であるべきでしょう。

 勝先生のご判断におまかせ申し上げます。何か動きがあれば、お知らせいただければ幸いです。

 近衛糸子拝』

 (勝殿は短い文章の奥に、仕掛けの余地を読む人だ。「海軍教育に必要な人材」という話を先に置いた。そこに伝馬町の話を重ねた。勝殿は——誰も直接動かせない方法で、周囲が自然に動き始める状況を作ることができる人間だ。ただ情報を置けば、それで動く)

 (そして実際に動いた。居酒屋で「偶然」三人と飲んで、三人全員が「自然に」吉田殿の名前を口にするように仕向けた。それが勝海舟の技だ)

 (わたくしは書状を渡しただけだ。動いたのは勝殿自身の判断だ)

 (しかしその判断が「動く」方向に向くように、書状の言葉を選んだ。それは——紛れもなく、わたくしの仕業だ)


 糸子が窓の外を見た。

 夏の朝の光が、庭の池の水面を輝かせていた。蓮の葉が光っていた。蝉の声が、さらに強くなっていた。

 (堀田殿が松陰の罪状を調べ始めた。勝殿が幕府内の空気を動かし始めた。そして龍馬にも書状を送った——龍馬は龍馬で、長州藩の内部から松陰擁護の声が自然に出るように、土佐の伝手を使って動いているはずだ)

 (三つの角度から動く)

 (朝廷は直接介入しない。しかし結果として、松陰が釈放される状況が作られる)

 (うまくいくか、いかないかは——まだ分からない。しかしやるべき手は打った)

 糸子が立ち上がった。

 縁側に出た。

 夏の朝の庭が、目の前に広がっていた。

 (後は——待つだけだ)

 (そして吉田殿が釈放された後——)

 糸子の目が、少し遠くを見た。

 (どうしてくれようかしら?。ほんとに溜息しかでない…)

 糸子は急速にしぼみ出し、しょんぼりした。

 「わたくしにはあの中二病の始末の悪いおっさんは扱いきれません…」

 小声だった。

 廊下を通りかかった近藤が、遠くで「姫様がのお元気がない?」と思った。

 (何があったかは分からない。しかし姫様は強いお方だ。きっと大丈夫。某は姫様を信じておりますぞ!)

 近藤は糸子に何も言わずに見守っていた。 

 庭の池で、鯉が一度、水面を跳ねた。

 その音が、静かな朝の空気の中に、短く消えた。


 それから数日後。

 江戸、一橋上屋敷。

 奥御殿の廊下に、静かな足音があった。

 近藤勇が廊下の端に立っていた。

 「姫様」

 「なんでしょう」

 「吉田松陰殿が——釈放されました」

 御簾の向こうで、書き物をしていた糸子の動きが、一瞬止まった。

 「そう」

 「……お会いになりますか」

 糸子がしばらく黙った。

 「会いたくないと言いたいのですが——」

 「はい」

 「会わないと、吉田殿のところに坂本が毎日確認しに来るでしょう。そして坂本には別のことでしっかりと働いてもらわなければなりません。渋沢栄一を探す仕事がありますから」

 近藤が少し表情を動かした。

 廊下の端に善次郎が立っていた。善次郎が江戸に着いたのは五日前だ。すでに善次郎らしく、岩崎弥太郎の松屋善兵衛への引継ぎと、各方面への連絡の整理を始めていた。

 「……それだけの理由で、お会いになるのですか」

 善次郎が静かに言った。

 「それだけの理由なのでございますのよ」

 糸子が少し言葉を続けてから、止まった。

 (ほんとにね…)

 御簾の向こうで、糸子がなぜかしょんぼりした気配があった。

 近藤と善次郎が顔を見合わせた。

 どちらもその「しょんぼり」の意味を測りかねていた。


 翌日の朝。

 一橋上屋敷の表御殿。

 今日は庭師が普段より丁寧に庭を整えていた。石畳を掃き、松の根元の枯れ葉を取り除き、池の縁の石を一つ一つ拭いた。秋の朝の光が、池の水面に斜めに差し込んで、底まで透けて見えそうなくらい澄んでいた。

 縁側の向こうに見える庭の松は、まだ緑だ。しかしその緑の中に、秋の始まりの色が混じり始めていた。葉の一枚一枚が、朝の光を受けて少し透けて見える。夏の重みが落ちた後の、秋の初めの軽さが、庭全体にあった。

 床の間には新しい掛け軸がかかっていた。水墨の枯山水だ。石と砂と——そこに一本の松。その松の形が、今日の庭の松と似ていた。

 御簾の前に、坂本龍馬と吉田松陰が座った。

 龍馬が先に入ってきた。いつもの格好だ。着流しに羽織。それがどこか場違いに見えない男だ。

 松陰は——少し違う様子だった。

 牢から出てきたばかりの男が持つ、独特の空気があった。体は少し痩せていた。しかし目は——消えていなかった。むしろ、何かを見据えている目だった。


 二人が御簾の前で深く礼をした。

 「ははあ——」

 御簾の向こうから、静かな声がした。

 「大義である。面をあげよ」

 松陰が顔を上げた。

 御簾の向こうに気配がある。若い気配だ。しかし——重みがある。普通の若さとは違う。何かを長い間考え続けてきた人間の気配だ。

 しばらく、誰も言葉を発しなかった。

 松陰には言葉がなかった。龍馬は「まあ先生が喋るやろ」と思って待っていた。糸子は「何か喋ってください。わたくしも何を言えばいいか分からないのです」と内心で思っていた。

 沈黙が続いた。

 庭の松が風に揺れる音がした。池の水面が、その風を受けて微かに動いた。縁側に光が差し込んで、御簾の金の縁取りが静かに輝いた。

 松陰が、ようやく口を開いた。

 「なぜ——助けてくださったのですか」

 声は、想像より穏やかだった。

 糸子が答えた。

 「そちらの方が得でしたので」

 松陰が少し目を細めた。

 「……得?」

 「吉田殿が生きていた方が、わたくしに都合が良い。それだけのことでございます」

 松陰がまた黙った。

 今度の沈黙は、少し長かった。

 (嘘はついていない。全部本当のことを言っている。なぜそれがこんなに重く聞こえるのか、自分でも分からない)

 糸子は内心でそう思っていた。

 それから糸子は、少し言葉を変えた。

 「吉田殿」

 「はい」

 「わたくしは——吉田殿に死なないでほしいのです」

 「……」

 「吉田殿の志より、吉田殿の命の方が——わたくしには必要なのでございます」

 松陰が絶句した。

 長い沈黙があった。


 龍馬がちらりと松陰を見た。松陰の顔が——何か複雑なものをこらえているような表情をしていた。

 やがて松陰が言った。

 「……あなた様は、不思議なお方です」

 糸子は内心で(どこが不思議なのか?よく分からない。誰か説明してほしい。全部計算して話をしているのに?)と思っていた。

 しかし口には決して出さなかった。


 「吉田殿にお願いがあります」

 糸子が言った。

 松陰が「はい」と答えた。声が少し変わっていた。何かが、この男の中で静かに決まった瞬間の声だった。

 「三つだけ守ってくださいまし」

 「はい」

 「一つ。暗殺計画は立てないこと」

 「はい」

 「二つ。弟子を過激な行動に向かわせないこと」

 「はい」

 「三つ。わたくしの指示より先に動かないこと」

 松陰が少し止まった。

 「……もし、あなた様の指示が間違っていた場合は」

 糸子が少し間を置いた。

 「その時は吉田殿が正しいと思う通りに動いてください。ただし——」

 糸子が続けた。

 「吉田殿がわたくしの指示より先に間違いだと判断した場合と、後から間違いだったと分かった場合——どちらが多いか。少し考えてみてくださいまし」

 松陰が考えた。

 かなり長い間、考えた。

 (本気で考えるから時間がかかる。しかし、もう少し素直に「はい」と言えないものか……)

 糸子が内心でそう思っていた時——。

 「……守ります」

 松陰が言った。

 短い言葉だったが、質があった。この男が「守ります」と言った時には、守る。それは糸子にも伝わった。

 龍馬がほっとした顔をした。

 「では、今日はここまでにしましょう」

 糸子が言った。

 「坂本殿、吉田殿を宿まで送ってください」

 「はいきに!」

 二人が礼をして退室した。

 廊下に二人の足音が遠ざかっていった。

 座敷に静けさが戻った。

 善次郎が廊下の端に立っていた。

 「……姫様」

 「なんでしょう」

 「お会いになった感想は」

 糸子が少し間を置いた。

 「……面倒くさいことこの上無い、という感想でございます」

 善次郎がかすかに笑った。


 三日後。

 予感は的中した。

 葵が書状を持って部屋に入ってきた。

 「……吉田殿からでございます」

 分厚い。明らかに分厚い。

 「内容は」

 「志について、商務語学所の教育方針について、日本の未来について、その他諸々……」

 「何枚?」

 「……十二枚です」

 糸子が少し目を閉じた。

 「返事は三行で書いて」

 「わ、わたしが、ですか」

 葵が少し動揺した顔をした。

 「わたくしが書いても三行、葵が書いても三行。まったく同じでございます」

 「……それは、少々問題では?」

 「同じです」

 糸子が断言した。

 葵が少し困った顔をして、書状を持って退室した。


 三日後、また書状が来た。

 「……また吉田殿から」

 葵が部屋に入ってきた。

 「葵、返事を出した?」

 「出しました。三行で」

 「何と書いた」

 「『拝読いたしました。引き続き、よろしくお願い申し上げます。』と」

 「……それで十二枚の返事が来たと?」

 「はい」

 糸子の動きが止まった。

 しばらく沈黙があった。

(この中二病おっさんは一体何なのか)

 そう思いながら、しかし糸子は書状を手に取った。

 読まなければならない。面倒くさいが、使えるかもしれないから。


 翌日の午後。

 村田蔵六が教科書編纂の打ち合わせのために来た。

 二人が座敷で向かい合っていた。村田が帳面を持って、糸子の御簾の前に座っている。

 そこへ——廊下から声がした。

 「失礼いたします。教科書の打ち合わせに参加させていただけますでしょうか」

 村田が顔を上げた。

 糸子も動いた。

 (あの声は……)

 吉田松陰だった。

 昨日、「教科書の編纂に参加したい」という書状が来ていた。糸子は「考えておきます」と三行で返事を出していた。

 「考えておきます」は「まだ判断していない」という意味だったが、松陰は「検討中なので今日行ってもいいだろう」と解釈したらしい。

 松陰が座敷に入ってきた。

 村田が松陰を見た。

 「……この方は?」

 「吉田殿です」

 「どちらの」

 「松下村塾の」

 村田が少し固まった。

 松陰が村田を見た。

 二人の目が合った。

 沈黙があった。

 それから——ほぼ同時に、二人が口を開いた。

 「教科書の構成は——」

 「教育の目的は——」

 二人が同時に話し始めて、同時に止まった。

 もう一度、目が合った。

 それから、また同時に話し始めた。


 糸子は書き物を取り出した。

 二人が話しているのを聞きながら、別の帳面を開いた。

 村田が言った。「教科書の第一巻は現状の説明から入るべきだ。なぜこれを学ぶ必要があるか、その理由を最初に示す」

 松陰が言った。「違う。最初に示すべきは志だ。なぜ学ぶか、ではなく、何のために学ぶか。日本という国のために、という大きな目的を最初に示すべきだ」

 村田「志は途中で揺れる。だから最初に論理的な根拠を置く方が安定する」

 松陰「論理だけでは人は動かない。人は志で動く」

 村田「志だけでは実務が回らない」

 松陰「実務だけでは魂がない」

 糸子が途中から「それは正しい」「それは違う」と時々どちらかの言葉に答えながら、書き物を続けた。

 二時間後。

 二人が同時に黙った。


 糸子が書き物から顔を上げた。

 「教科書の第一巻に、二つの柱を入れましょう」

 二人が同時に糸子を見た。

 「一つ目は村田殿の言う『なぜこれを学ぶか』という論理的な根拠。二つ目は吉田殿の言う『何のために学ぶか』という志の根拠。両方を最初に置きます。論理がなければ実務ができない。志がなければ継続できない。どちらも必要です」

 沈黙があった。

 村田が少し考えた後、頷いた。

 松陰も少し考えた後、頷いた。

 座敷から二人が退室した後、善次郎が廊下に立っていた。

 「……姫様」

 「なんでしょう」

 「あの二人を同じ部屋に入れると、ああなるのですか」

 「……計算外でした」

 糸子が少し間を置いた。

 「しかし——教科書の構成が、当初より良くなっています。使えます」

 善次郎が「……なるほど」という顔をした。

 「善次郎殿」

 「はい」

 「この二人を定期的に同じ部屋に入れてください。打ち合わせの名目で」

 「……喧嘩させる、ということですか」

 「喧嘩の結果が良いものになるのでしたら——使わない手はないでしょう」

 善次郎が少し苦笑した。


 その後も、龍馬からの報告は続いた。

 「先生が伝馬町の看守の方々に『勉強を続けましょう』と手紙を送っています」

 「止めなくていい。害はない」

 「先生が弟子の久坂に『過激な行動は今は待て』と書状を送りました」

 (機能している)

 「先生が姫様に会いたいと言っています」

 「昨日会ったばかりです」

 「今日また会いたいと」

 (お・こ・と・わ・り・DEATH!)


 二日後、また龍馬から報告が来た。

 「長州・萩の松下村塾の様子です。高杉晋作が特に過激な案を持っているとのことで」

 糸子が少し止まった。

 (想定内。しかし吉田殿が直接止める手紙を出す前に動かれると困る)

 「中ニ病に大量に書状を書いていただく手配を——」

 糸子は言いかけて、止まった。

 (待て。どうせ中ニ病は弟子に長い手紙を書く。長い手紙を読んだ弟子たちは燃え上がる。中ニ病の文章は人を動かすが——方向が定まらない。中ニ病に書かせるとまた収拾がつかなくなる)


 「葵、中二病を呼んで」

 「ちゅ……中二病?って、どなたのことでございますか?姫様……」

 葵が困惑した顔をした。

 「今後、中二病といったら——それは吉田のことでございます。覚えておいておくんなまし」

 「は、はい……」

 葵が恐る恐る頷いた。

 しばらくして、松陰が来た。

 座敷に入って礼をした松陰に、糸子が言った。

 「吉田殿。萩の弟子たちが動こうとしています」

 「存じております。止める書状を——」

 「止めなくていい」

 松陰が少し止まった。

 「……は?」

 「止めるのではなく、方向を変えてください。江戸に来いと書いてくださいまし」

 「全員を、ですか」

 「全員をでございます」

 沈黙があった。松陰が糸子を見た。御簾を見た。その向こうにいる気配を感じた。

 「……何人おるか、ご存知ですか」

 「何人おりますか」

 「塾生だけで二十名以上。出入りを含めればもっと」

 (……計算が変わる。しかし)

 糸子の頭の中で、急速に計算が走った。

 二十名以上の「松陰の弟子」が江戸に来る。全員が計画①の方向で使える人材になる可能性がある。長州の過激行動のリスクが下がる。商務語学所の人材が一気に揃う——。

 (得だ。腹立たしいが得だ。もうこうなれば全員使い倒してやる!死ぬまでずっと…)

 「では——全員連れてきてください」

 糸子が言った。

 「……どうやって」

 「先生が書状を書けば来るでしょう。先生の弟子なのですから」

 「旅費が……」

 「気合で何とかなりましょう。吉田殿の弟子なのですから」

 「そんな無茶な……」

 糸子が葵を見た。

 葵が察して、少し頷いた。

 「ご用意いたします」

 (出費。また出費。中二病のせいで今月は計算が全部狂う……)

 糸子は内心でそう思いながら、それを顔には出さなかった。

 「吉田殿。追加のお願いがあります」

 「なんでしょう」

 「弟子の方々が江戸に来たら——今後は全員、商務語学所で学んでいただきます。吉田殿も含めて」

 松陰が少し固まった。

 「……わしも生徒になるのですか」

 「作っている教科書には、吉田殿もまだご存知ないことが含まれています。吉田殿にも、今後、教えていただくこともあるかもしれません。学んでいただく機会が先に来ることもございましょう」

 松陰が少し考えた。

 その考える時間が、少し短かった。

 「……分かりました」

 (素直に頷いた。中二病が素直に頷くのは珍しい。この中二病は「学ぶ」という言葉に弱い。覚えておこう)

 松陰が退室した。


 数日後。

 松陰が葵から金を受け取る場面があった。

 奥御殿の廊下。葵が袱紗に包んだ金を持ってきた。

 「……これは」

 松陰が少し目を丸くした。

 「旅費と、塾生の方々の当面の生活費、江戸までの旅費、その他諸々でございます」

 「多すぎる」

 「姫君様から『足りなくなるより多い方がまし』とのことでございます」

 松陰が袱紗を受け取った。

 しばらく黙っていた。

 「姫君様は——」

 言いかけて、止まった。

 何故か?中ニ病は涙ぐんでいた。


 葵が「?」という顔をした。

 「……いえ。行ってまいります」

 中ニ病が礼をした。

 葵が後で糸子に報告した。

 「中ニ病殿、出発なさいました。目に涙をためておられました」

 (涙……。計算の話をしただけなのに。なぜそうなるのか、中二病のことは本当によく分からない)

 糸子は内心でそう思った。

 そしてそれ以上は考えないことにした。


十一

 萩への道中——。

 松陰は、歩きながら考えていた。

 あの御簾の向こうにいる人物のことを。

 「そちらの方が得でしたので」という言葉。「吉田殿の命の方がわたくしには必要なのでございます」という言葉。

 (不思議なお方だ)

 松陰が思った。

 あの方は「得」と言う。「計算」と言う。しかしその言葉の向こうにあるものが——松陰には感じられた。言葉の表面と、言葉の中身が、少し違う。

 志を持っている人間には分かる。言葉の皮一枚の下に何があるかが。

 (あの方は——本物だ)

 松陰が確信した。

 「先生」

 一緒に歩いていた龍馬が声をかけた。

 「どうしたがですか、急に黙って」

 「……龍馬」

 「はいき」

 「あの御簾の向こうの方は——どういう御仁なのか」

 龍馬が少し考えた。

 「わしにも全部は見えていないがぜよ」

 「そうか」

 「ただ——」

 龍馬が空を見た。

 「あの方の後をついていけば、何かが変わる気がするがよ。ずっとそう思うちゅうがよ」

 松陰が頷いた。

 「わたしも——同じ気がする」

 龍馬が少し驚いた顔をした。

 「先生が、そういうことを言うがは珍しいぜよ」

 「あの方は——」

 松陰が言いかけた。

 「あの方は、わたしより先を見ている。それが分かる。分かったなら——従う。それだけのことだ」

 龍馬が「……ほほう」という顔をした。

 「先生がそこまで言うがか」

 「ああ」

 松陰が前を向いて歩き続けた。

 萩はまだ遠い。しかし足が軽かった。

 行く先に、目的がある。江戸に、あの御簾の向こうに——使命がある。

 松陰の目の奥に、火が灯っていた。


十二

 萩。松下村塾。

 松陰が戻ってきた。

 弟子たちが集まっていた。

 高杉晋作が、誰より先に口を開いた。

 「先生、なぜ出てこれたんですか」

 真顔だった。真顔で、しかし目が輝いていた。

 松陰が答えた。

 「……江戸に、すごいお方がいる」

 「すごい方?」

 「近衛家の姫君様だ」

 高杉が少し眉を上げた。

 「……姫君?」

 「日本という国の行方を、一人で考えておられるお方だ」

 松陰が言った。声に、いつもと違う質があった。

 弟子たちが静かになった。

 松陰先生がこういう声で話す時——何か大事なことを言おうとしている時だと、長く師に付き従ってきた弟子たちは知っていた。

 「わたしは——その方の描く絵図の中で動くことにした」

 「……」

 久坂玄瑞が少し目を細めた。

 「先生が、他の方の絵図の中で動くとおっしゃるのですか」

 「ああ」

 「なぜですか」

 「その方の絵図が——わたしの志と同じ方向を向いているからだ。しかもわたしより遠くまで見えている」

 沈黙があった。

 高杉が少し考えた後、言った。

 「……先生がそう言うなら」

 それだけだった。高杉がそれ以上を問わないのは——先生への信頼があるからだ。先生が「この方の絵図の中で動く」と言うなら、その方は本物だということだ。

 「江戸に行くのですか」

 久坂が聞いた。

 「全員で行く。支度しろ」

 塾生たちが顔を見合わせた。

 「「「はい!」」」

 一斉の声が、松下村塾の部屋に響いた。

 高杉が小さく笑った。

 「姫君様か——」

 呟いた。

 「どんなお方なんですかね、先生」

 「行けば分かる」

 松陰が答えた。

 その答えに、龍馬の言い方と似たものがあった。

 「行けば分かる」——それが、この方を知る者たちの共通の答えになっていた。


十三

 江戸。糸子の部屋。

 ある朝。

 葵が分厚い書状を持って入ってきた。

 「……中二病殿から書状が届きました」

 葵が少し慌てた顔をした。

 「何枚?」

 糸子が書き物をしながら聞いた。

 「……二十枚でございます」

 「二十枚」

 「塾生全員の名前と特徴と長所と——それぞれをどのように使うべきかという、中ニ病殿のご見解が」

 「……」

 糸子が書き物を止めた。

 善次郎が廊下の端に立っていた。

 「いかがなさいますか」

 糸子がしばらく黙った。

 「……読みたくないけれど、読まなければいけない」

 「なぜでございますか?」

 「使えるかもしれないから」

 善次郎が「……なるほど」という顔をした。

 糸子が書状を手に取った。読み始めた。

 一頁目。二頁目。三頁目——。

 しばらく読み続けて、糸子が少し顔を上げた。

 「葵」

 「はい」

 「中二病の弟子の中に——数字が得意な者はいるかしら」

 「確認してみます」

 葵が書状の名前一覧を確認し始めた。

 糸子が書状を読みながら、静かに言った。

 「江戸に来て教科書ができたら——全員、商務語学所で学んでいただく。中二病も一緒に。休みはない。泣き言は聞かない。気合が足りないと言う者には気合の話をして差し上げる。中二病がご専門のはずだから」

 「……畏まりました」

 葵が静かに言った。

 善次郎が「……姫様は本当に遠慮がない」という顔をしていたが、口には出さなかった。

 糸子が書状を読み終えた。

 少し考えた。


 「整理しよう」

 一人で呟いた。

 今回の件で出たもの——堀田様への借り(後日返済予定)。旅費と生活費。葵の三日分の精神力。わたくしの睡眠一夜分。

 今回の件で入ったもの——中二病(管理コスト高)。松下村塾の塾生二十名以上(使える人材の可能性あり)。長州の過激行動リスクの一時的な低下。

 損か得か——まだ分からない。中二病一行が江戸に来てから判断する。


 ただし一つ決めたことがある。

 これだけ手間をかけさせてもらったのだから——来た後は、遠慮なく使わせていただく。馬車馬のように。泣き言を言ったら精神論で返す。中二病が弟子たちに使った手法を、そのままお返しする。


 絶対にやる!わたくしはやると決めたら、やるおなごなのでございます。


 糸子の中で、なぜか猛烈に怒りの炎が燃え上がっていた。

 先生は「至誠」と言った。わたくしも至誠を以てお応えする。至誠を以て、こき使い倒す。


 そう心の中で決めた瞬間——糸子は閃いた。

 「近藤殿」

 「なんでしょう、姫様」

 近藤が廊下から入ってきた。

 「中二病とその弟子たちが江戸に来たら——全員、学所で学んでいただくまでは、試衛館で鍛えていただきたいのです」

 近藤が少し止まった。

 「……試衛館で、ですか」

 「微塵も遠慮せず、全力で。中二病含めて全員、鍛えてやってください。泣き言を言ったら精神論と実力で分からせてあげてくださいまし」

 近藤の顔に、珍しい表情が浮かんだ。

 「……よろしいので?」

 「これからの日本は激動の時代になります。その荒波の中で動き続けるには——鍛えられた肉体と精神が必要なのです」

 「中二病殿は——その言葉で納得しますかな」

 糸子が少しにやりとした。

 「強い精神は強い肉体に宿るのでございます。中二病殿はご自分が弟子たちに言ってきた言葉でしょうから、きっと納得されるでしょう。そのようにお説き伏せておくんなまし」

 「……全力で可愛がってあげれば、と?」

 「はい。よろしくお頼みします」

 近藤がにやりと笑った。

 その笑いは、普段の近藤にはない種類の笑いだった。どこか楽しそうな——本当に楽しそうな笑いだった。

 「御意」

 近藤が軽く会釈して、廊下に出た。

 廊下を歩く近藤の後ろ姿から、楽しみにしているという気配が滲み出ていた。


 (これで——あの中二病たちを近藤殿に押し付けることができた……)

 糸子が少し肩の力を抜いた。

 「よし。わたくしは教科書の作成を全力で、ものすごく時間をかけてのんびりやろう!」

 心の中でそう誓った。


 村田との打ち合わせは週に三回。中ニ病殿との……うっかり対面は最小限。龍馬の報告書は善次郎に先に読んでもらって要約を受ける。岩崎殿の一ヶ月後の報告書は楽しみにする。中岡殿の三ヶ月後の人材地図は楽しみにする。渋沢殿が来るのは——いつになるか分からないが、善次郎が環境を整えているから大丈夫。

 全部、動いている。

 全部、繋がっている。

 「葵」

 「はい」

 「宇治のお茶を淹れてください」

 「はい、ただいま」

 「少し濃いめで」

 「承知しました」

 葵が退室した。

 糸子が窓の外を見た。

 秋の江戸の空が広がっていた。雲が少なく、青が深い。秋の最初の青さだ。夏の暑さが抜けた後の、清澄な青。

 その空に向かって、糸子が小さく呟いた。

 「中二病は面倒くさいが——」

 少し間を置いた。

 「使いようがある、かもしれない」

 (それが——わたくしの、至誠である)

 行灯の火が、秋の風に揺れた。

 江戸の秋が、静かに深まっていた。


十四

 その夜、善次郎が帳面を整理していた。

 廊下の端の小さな行灯の前で、糸子からの指示書と、各方面への連絡事項を、丁寧に書き出していた。

 善次郎は、この作業が好きだった。

 散らかった情報を整理して、必要な経路に流す。誰に何を伝えて、誰に何を伝えないか。情報の管理が、善次郎の一番の仕事だった。

 今日だけで、整理しなければならない情報がいくつかあった。

 中二病から来た二十枚の書状の要点整理。岩崎弥太郎が松屋善兵衛のもとに着いたという確認。善次郎が京を離れる前に引き継いだ三人——誠一郎、お豊、蓮之助——からの初めての報告書が届いていた。

 善次郎が報告書を読んだ。

 誠一郎の字は端正だった。内容も整理されていた。御所への報告書の届けが無事に完了したこと、さととの連携が問題なく動いていること——月三回の書状の制限を誠一郎が意識しているらしく、かなり内容を絞って書いてあった。

 (よくやっている)

 善次郎が思った。

 お豊の報告書は算盤の記録が丁寧についていた。仕入れ経路の現状、各商家との取引状況、糸子の宇治のお茶経路の確保——全部が整然と書かれていた。

 (お豊殿は安心だ)

 蓮之助の報告書は、少し長かった。惣会所の地ならしで回った商家の数が、想定より多い。情報を取りすぎている気配があった。しかし内容自体は正確で、有用な情報が含まれていた。

 (欲張りは変わっていない。しかし仕事はしている)

 善次郎が三通の報告書を閉じた。

 それぞれへの返信を、明朝書こうと決めた。誠一郎には「この調子で」と短く。お豊には「宇治のお茶の確保ありがとう。姫様が喜んでいます」と具体的に。蓮之助には「情報量を絞ること、担当を越えたら誠一郎殿かお豊殿に回すこと」という注意書きを丁寧に。

 善次郎が帳面を閉じた。

 行灯の光が揺れた。

 (姫様はもう休んでおられるか)

 廊下の端から奥御殿の方を見た。

 光が見えた。まだついている。

 (また夜遅くまで書き物をしておられるのか……)

 善次郎は立ち上がった。

 奥御殿に向かった。

 「姫様」

 障子の向こうから声をかけた。

 「善次郎殿?」

 「はい。もうお休みいただけますか。今夜のところは十分です」

 少しの間があった。

 「……そうします」

 素直な返事が来た。

 善次郎が少し安堵した。

 今日の糸子は中二病の書状を読んで、近藤への指示を出して、葵に追加の作業を頼んで——一日中動いていた。十二歳の姫様が、これだけの量の物事を頭に入れながら動いている。

 (無理をさせてはいけない)

 善次郎が廊下に戻った。

 行灯の光が消えた。

 奥御殿が静かになった。

 江戸の夜が、深まっていた。


十五

 翌朝。

 朝の光が庭に差し込んでくる頃、糸子は縁側に出ていた。

 秋の朝の庭は、夏とは全く違う色をしていた。松の葉の緑が少し落ち着いて、朝露が石畳の上に細かく光っていた。池の水面が、朝の静けさの中で鏡のように平らになっていた。遠くで鳥が鳴いた。秋の鳥の、細い声だ。

 葵が宇治のお茶を持ってきた。

 「姫君様、今日はよくお眠りになれましたか」

 「よく眠れました。善次郎殿がそろそろお休みをと言ってくださったので」

 「善次郎様は気が利く方ですね」

 「本当に」

 糸子がお茶を一口飲んだ。

 宇治の深い緑の香りが、朝の空気に広がった。お豊が確保してくれた経路のお茶だ。京のお茶が、江戸でも届く。それだけで、糸子の中の何かが安定した。

 「葵」

 「はい」

 「中二病の弟子の中に——数字が得意な者の確認は、できた?」

 「はい。昨夜、書状の名前一覧と照合してみました」

 「いた?」

 「一人、算術が得意と書かれていた方がおられます」

 「名前は」

 「……伊藤利助殿です。後に博文と名乗るかもしれない、と書いてありました」

 (伊藤博文……)

 糸子の頭の中で、転生前の知識が動いた。

 (伊藤博文が来る。初代内閣総理大臣が来る。いや、今はただの若者だ。松陰の弟子だ。商務語学所で学ぶ生徒の一人だ。まだ何者でもない。これから何者にでもなれる)

 「……その方には、語学所で少し特別な授業内容を組みましょう」

 「どのような?」

 「英語と経済の両方を集中して。それから外交の場での振る舞いも」

 葵が帳面に書き取った。

 糸子が庭を見た。

 池の鯉が一匹、水面の近くを泳いでいた。赤い鯉だった。秋の朝の光の中で、その赤が鮮やかに見えた。何も急がない動きで、悠々と水の中を動いていた。

 (全部、動いている)

 糸子は思った。

 岩崎弥太郎が善兵衛のもとで学んでいる。中岡慎太郎が人材地図を作っている。龍馬が渋沢栄一を探している。松陰が萩に向かっている。松陰の弟子たちが江戸に来ようとしている。善次郎が情報の流れを整えている。京では誠一郎、お豊、蓮之助が動いている。村田が教科書を作っている。勝が後継者問題の種を蒔いている。

 全部が、一本の線の上にある。

 「この国の百年先」

 糸子が小さく呟いた。

 相互主義。対等な関係。この国の百年先——迷った時に戻る三つの言葉。

 この三つを忘れない限り、言葉は出てくる。計画は動く。人は集まる。

 「葵」

 「はい」

 「今日はのんびり教科書の作業をします」

 「……ほんとうに?」

 葵が少し驚いた顔をした。

 「本当に。村田殿との打ち合わせは午後から。それまでは静かに書きます」

 「分かりました」

 「中二病からの書状が来ても、善次郎殿に最初に読んでもらって要約だけ教えてくださいまし」

 「承知しました」

 「渋沢殿が来るまでの間は、できる限りのんびりやりまする」

 葵が「……のんびりできているうちが花でございますからね」と思った顔をしていたが、口には出さなかった。

 糸子がお茶を飲み干した。

 秋の朝の光が、縁側の上に長く伸びていた。

 庭の石畳の朝露が、ゆっくりと乾いていく。その乾き方が、夏より穏やかだった。秋の朝は、急がない。

 糸子が立ち上がった。

 「さて」

 小さく言った。

 「今日も、始めましょうか」

 縁側から部屋に入った。文机の前に正座した。帳面を開いた。

 そこに書かれた文字を見た。

 「無血近代化計画——段階一、基盤固めと人材確保」

 その文字の下に、今日から書き加える部分がある。

 「松下村塾の塾生、商務語学所入学予定者表——確認中」

 糸子が筆を取った。

 墨を磨った。

 秋の江戸の朝に、筆の音だけが続いた。


 第六十八話 了

吉田松陰が糸子さんのせいで、今後は中ニ病と呼ばれることになってしまいました(;´Д`A

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静かに始まったはずの秋が、気づけばとんでもない熱量を孕んでいる。 善次郎の背中で泣かせておいて、糸子の「中二病おっさん」で腹筋を崩させる、この落差の手腕よ。 情と合理が殴り合いながら共存しているのが、…
後世に糸子が松陰先生を『中二病』と呼んでたことが伝わったら、とんでもないあだ名つけられた偉人に松陰先生が入るんですね。 松陰先生だけじゃなく松下村塾のメンバーも全員面倒見るとか、また大変なことに。 …
姫様が「厨二病」と言わなくて安心しました
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