第六十三話「惣会所の夜明け①」
一
万延元年、夏。
一橋上屋敷の表御殿に、朝から人の気配があった。
奥御殿とは違い、表御殿は来客を迎えるための場所だ。格式のある書院造の廊下が、中庭を挟んで几つもの部屋に繋がっている。
今日は客を迎えるための準備として、廊下の端々まで掃き清められ、床の間の掛け軸が改められ、庭の石畳に水が打たれていた。夏の朝の水打ちは、涼気を作るためでもある。石の上に落ちた水が、朝の光を受けて細かく光りながら、ゆっくりと乾いていく。
その庭に面した座敷の一つに、御簾が設けられていた。
格調のある御簾だ。細かく編まれた葦に、近衛家の紋が金糸で縁取られている。その向こうに、糸子がいた。
今日の装束は、いつもより改まっていた。葵が朝から丁寧に整えた淡い水色の小袖に、藤色の打掛。髪飾りは白と淡金の組み合わせで、控えめでありながら品格がある。十二歳の姫君として、しかし「近衛家の代表」として来客を迎える——その両方を満たす装いだ。
小夜が御簾の端で控えている。葵は糸子の後ろに座った。
来客は、もうすぐ着く。
糸子は御簾越しに庭を見ながら、頭の中で今日の段取りを確認していた。
松屋善兵衛が来る。
天朝物産会所が江戸での拠点を探していることは、ずいぶん前から善兵衛に依頼していた。その件について、善兵衛から「よい場所が見つかりました」という知らせが来たのが三日前だ。
しかし糸子にも、善兵衛に話したいことがあった。今日はちょうどいい機会だ。
(善兵衛殿の話を先に聞いて、それからこちらの話をしよう)
糸子は心の中でそう決めた。
縁側の向こうで、松の葉が朝風に揺れた。池の水面が光を受けて、小さく揺れている。その揺れが、御簾の細かい編み目を通して、糸子の目に届いた。
「松屋善兵衛様がお見えになりました」
廊下から近藤の声がした。
「お通しください」
間もなく、廊下に足音がした。
二
松屋善兵衛が座敷に入ってきた。
六十手前の年齢だが、体はしっかりしている。京の老舗呉服商の当主として、長年商いの世界で生きてきた人物だ。その顔には穏やかさがあるが、目の奥に鋭さがある。商人として培われた、相手を読む目だ。
しかし今日の善兵衛は、いつもより少し昂揚している様子だった。
深く礼をして、座った。
「近衛様、本日はお時間をいただきまして誠にありがとうございます」
「お越しいただきかたじけなく存じます、松屋殿。わざわざ足をお運びいただき」
「いいえ、近衛様のご用とあらば、いつでも参ります」
善兵衛が少し前に出た。
「実は——本日参りましたのは、近衛様にご報告申し上げたいことがございまして」
「はい」
「天朝物産会所の江戸での拠点につきまして、よい候補地を三か所、ご用意いたしました」
糸子が御簾の中で少し頷いた。待っていた言葉だった。
「ぜひ、お聞かせください」
善兵衛が懐から、丁寧に折りたたまれた紙を取り出した。広げると、地図が描かれていた。江戸の主要な地域が丁寧に書き込まれ、三か所に印がついている。
「まず、候補地その一でございます」
善兵衛が話し始めた。
「日本橋周辺でございます」
その声に、自信があった。
「日本橋は江戸商業の絶対的な中心地でございます。五街道の起点であり、主要な大店が立ち並ぶ場所でございます。天朝物産会所の看板を掲げても、『京の大店が江戸に出てきた』という程度の認識で終わりましょう。大名・公家の出入りに慣れた土地柄でもございますので、近衛家の紋が入った駕籠が来ても誰も驚きません」
善兵衛が続けた。
「施設の形式としては、表向きを『京の物産を扱う問屋』として機能させ、奥座敷を近衛様の御滞在所とする形がよろしいかと。大店の奥を改装した『表は商会・奥は御座所』という形式でございます」
糸子が聞いていた。具体的だ。善兵衛はちゃんと考えてきている。
「次に候補地その二、深川・霊岸島あたりでございます」
「深川は蔵屋敷と廻船問屋が集中しており、物資の出入りが多い場所でございます。水運の便が良く、品川沖・横浜方面への移動も容易にできます。大名屋敷と商家が混在しておりますので、上質な施設でも目立ちにくい」
「施設の形式は、蔵屋敷を兼ねた物産取扱所という形がよろしいかと。実際に京の物産を江戸へ運ぶ中継拠点として機能させつつ、奥に書院造の御座所を設ける形です」
善兵衛が三枚目の紙を開いた。
「そして候補地その三、芝・増上寺門前から品川宿手前でございます」
「こちらは東海道の入口にあたりまして、上方からの往来に自然な理由がつけやすい場所でございます。品川沖への船の便もございますし、大名の下屋敷が多く、上質な施設が周囲に馴染みます」
「施設の形式は、『京都の公家縁の宿所』として機能する書院造を備えた中規模の屋敷でございます。表向きは『上方からの賓客を迎える宿泊所付き物産所』という形です」
善兵衛が話し終えて、糸子を見た。御簾越しに——糸子が何かを考えている気配を、善兵衛は感じ取った。
三
糸子は少し考えた。
三候補を、頭の中で整理した。
(三つに共通しているのは「目立たない」という点だ。しかし天朝物産会所の江戸拠点に求める条件は、それだけではない)
糸子の頭の中で、条件が整理されていく。
一つ目——商売として実際に機能すること。看板だけの「形だけの商会」では意味がない。実際に物が動き、人が来て、情報が集まらなければならない。
二つ目——近衛家の格として問題がないこと。公家の筆頭・近衛家の拠点が、格の低い場所にあっては説明がつかない。
三つ目——将来にわたって使える場所であること。今の需要に合わせた場所ではなく、十年後・二十年後の江戸の発展に対応できる場所でなければならない。
この三条件で三候補を採点すると——。
「松屋殿、少しよろしいでしょうか」
糸子が御簾の向こうから言った。
「はい、なんなりと」
「深川・霊岸島の候補について、一つ確認させてください」
「はい」
「水運の便は良いとのことでしたが——近衛家の者が出入りする場所として、『格』という面ではいかがでしょうか」
善兵衛が少し間を置いた。
それから率直に言った。
「……正直に申し上げますと、格という点では、やや低うございます」
「やはりそうでございますね」
糸子が言った。
「深川は水運と隠密性では優れています。しかし近衛家の名が出た時に、『なぜ深川なのか』という説明がつかない。商家の大店が出る場所ではなく、蔵屋敷が集まる場所という印象がありまする」
善兵衛が頷いた。
「おっしゃる通りでございます。その点は候補として挙げながら、私も懸念しておりました」
「それでは芝・品川の方はいかがですか」
「芝・品川方面は、逃げ道の確保という点では優秀でございます。品川沖からの海路は確かに魅力です。しかし——」
善兵衛が少し考えてから続けた。
「江戸の商業の中心から遠い。天朝物産会所の江戸拠点として、本部機能を持たせるには辺縁すぎます。情報と人と物が集まるためには、中心に近くなければなりません」
「そう思いまする」
糸子が言った。
「となると——日本橋でございますね」
「はい。ただ、日本橋の中でも場所の選択が重要です。日本橋の全域が最適というわけではない」
「左様でございます。実は私が最もよいと考えております場所がございまして——」
善兵衛が地図の上に指を置いた。
「小舟町から本石町にかけての一帯でございます」
糸子が少し前のめりになった。
「理由を聞かせてくださいまし」
善兵衛が丁寧に話し始めた。
「日本橋本町は薬種問屋の集積地でございます。そして堀留は呉服・京物産の集散地でございます。小舟町はその中間に位置しており、『京からの物産を扱う問屋』という看板が最も自然に立つ場所でございます」
「なるほど」
「さらに——堀留川に面しております。小舟が直接横付けできる。物資の搬入出に船を使えますので、人目を通さずに荷の移動ができます」
「それは重要でございますね」
「周囲には三井越後屋、大丸と申した大店が立ち並んでおります。上質な屋敷を構えても『また京の大店が出てきた』程度の認識で終わります」
「大名・公家の使者も日常的に出入りする土地柄、ということですね」
「左様でございます。近衛家の紋が入った駕籠が来ても、誰も驚かない。これは非常に大切なことでございます」
糸子が御簾の中でゆっくり頷いた。
(小舟町。転生前の知識でも、あの辺りは江戸商業の中心だったことは知っている。そして堀留川に面しているという利点は大きい)
四
「それでは施設の構成はいかがなものがよろしいでしょうか」
糸子が聞いた。
善兵衛がまた別の紙を取り出した。細かい文字で、施設の構成案が書かれていた。
「私が考えました案でございますが——まず表の顔として『天朝物産会所江戸取次所』という形を取ります。間口十間ほどの大店形式でございます」
「間口十間というと——かなりの規模ですね」
「はい。一階は実際に機能する物産展示・取引の場として使います。京都からの生糸・陶磁器・西陣織の見本を並べ、松屋が仕入れた本物の品を扱います。商売として実際に成立するようにします」
「それが重要でありましょう。看板だけでは意味がございませぬ」
「おっしゃる通りでございます。中の顔として——表の奥に二階建ての書院造を設けます。表向きは『商談の間』として使いますが、実質的には近衛様が各方面の方と会う御座所として機能します。防音のため壁に土壁を二重に入れます」
「土壁を二重に」
「会話が外に漏れないようにするためでございます。商談の内容が競合に漏れては困りますので、という名目で自然に説明できます」
糸子が小さく笑った。
「奥の顔は」
「中庭を挟んだ奥の棟に、書院造の上質な座敷を設けます。御簾・几帳を備え、江戸在留時の近衛様の実質的な居所とします。一橋上屋敷とは別に『商用の折の仮の宿所』という名目にいたします」
「それならば幕府への届け出も問題ありませんね」
「はい。そして——最後に一つ」
善兵衛が少し声を低くした。
「地下に文書保管室を設けることを提案いたします」
「地下に?」
「石蔵でございます。帳面・書状の控え・資金の一部を保管します。入口は台所の竈の裏に設けます。鍵を持つのは私と、近衛様お側の方お一人という形がよろしいかと」
糸子が少し止まった。
(善兵衛殿が地下の保管室まで提案してきた。これは——私が考えていた以上に、善兵衛殿がこの拠点の意味を正確に理解している、ということだ)
「……松屋殿」
「はい」
「この案を作るのに、どれくらいかかりましたか」
善兵衛が少し照れたように言った。
「三か月ほどでございます。近衛様にご依頼いただいてから、ずっと考えておりました」
「三か月?」
「はい。どうすれば近衛様のお役に立てるか——ずっと考えておりました」
糸子が御簾の中で、静かに深く頷いた。
(三か月、ずっと考えていた。この人は本物だ)
「松屋殿の案、大変よくできています。小舟町を中心とした日本橋の拠点、それで進めましょう」
善兵衛が少し頰を緩めた。
「ありがとうございます。それでは——」
「ちなみに」
善兵衛が少し前のめりになった。
「すでに場所は押さえてございます」
糸子が止まった。
「……え?」
「近衛様がそのようにご決断されるかと思い、もう小舟町の物件は押さえておきました。あとは近衛様がいかようにでもお好きにお使いください」
糸子が少しの間、何も言わなかった。
それから——
「近衛様」
「はい」
「なお、此度の拠点につきましては、松屋からの御奉仕ということでお代は結構にございます」
善兵衛が深く平伏する。
廊下の端で控えていた近藤勇が、その言葉を聞いて心の中で思った。
(姫様……さすがにこれは——これはかなり大きな御奉仕なのでは……)
五
糸子が少し間を置いた。
そして——口を開いた。
「松屋殿」
「はい」
「一つ、お願いがございます」
善兵衛が顔を上げた。
「なんなりと」
「横浜にも拠点を設けたいのでございます」
善兵衛が少し目を丸くした。
「……横浜でございますか?」
「はい。場所は——吉田橋のすぐ内側でございます。関内への入口に最も近い日本人地区の一角でございますね」
善兵衛が少し考えた。
「横浜はまだ開港から一年ほどでございます。今の横浜に拠点を設けることの利点は……」
「今だからこそ設けるのでございます」
糸子が静かに言った。
「横浜港の物流量は、今後大きく増えまする。そうなった時に、最もよい場所に最初から拠点があることが重要なのでございます。後から場所を探しても、よい場所はもう取られておりましょう」
善兵衛がその言葉を聞いて、じっと考えた。商人としての勘が動いている顔だった。
「吉田橋の内側は——異国人居留地への入口に最も近い日本人地区の一角ですな」
「はい。異国商人が居留地を出る時も、日本人商人が居留地に入る時も、必ず吉田橋を通ります。つまり——情報と人が自然に集まる場所になりましょう」
善兵衛の目が細くなった。
「なるほど……確かに」
「施設の形としては——見た目より大きな蔵を建ててほしいのでございます」
「見た目より大きな?」
「今は半分空でよいのでございます。なれど将来の物量の増大に対応できる構造を、最初から作っておくのでございます。それが後に重要になりましょう」
善兵衛がその言葉の意味を咀嚼した。
(将来の物量増大……この方は、横浜がこれから大きく発展することを、確信しておられる)
「表向きは『天朝物産会所横浜取扱所』として、生糸・陶磁器の見本を常設展示する場所に致しまする。異国商人が何があるか見に来られる場所に致しまする。英語の看板も掲げましょう」
「英語の……」
善兵衛が驚いた。
「Tencho Trading House。万次郎殿が書いた文字を使えばよいですね。今の横浜で英語の看板を掲げている日本人の商業建物は、おそらくないでしょう。異国商人の目を引きまする」
善兵衛が固まった。
この方は一体——どこまで先を見ているのだ。
「それは……確かに、今の横浜でそのような施設はございません」
「でしょう。だから意味があるのでございます」
「しかし費用の面が……」
善兵衛が言いかけて、止まった。
御簾の向こうで、糸子が少し間を置いた。
それから——穏やかな声で、しかし明確に言った。
「松屋殿、構いませんわよね?」
善兵衛の動きが止まった。
廊下の端で近藤勇が、その言葉を聞いた瞬間に——ハリスとの会議の場面を思い出した。あの時も糸子はこういう言い方をした。穏やかに、しかし一切の退路を塞ぐような言い方を。
(姫様……それは……少々厚かましいのではないでしょうか……)
近藤は心の中でそう思いながら、表情を動かさなかった。
御簾の脇で控えていた葵も、その言葉を聞いた。
(姫君様……それは余りにもあんまりなのでは……松屋殿がお可哀想に……)
葵は心の中で盛大に引いた。
松屋善兵衛は——目が点になっていた。
日本橋・小舟町の物件を既に押さえて「お代は結構にございます」と申し上げた直後に——横浜にも拠点を作れ、大きな蔵を建てろ、費用は松屋持ちで——とこの姫様はおっしゃっている。
脂汗が出た。止まらない脂汗が……
しかし——。
先ほど江戸の物件を「松屋からの御奉仕」として献上してしまった。それを前提に「構いませんわよね?」と言われれば——断れるわけがない。
「よ……喜んでご用意させていただきます」
善兵衛が言った。大量の脂汗を流しながら。平伏した。
近藤と葵が、心の中で思った。
(なんとむごい仕打ちをされるのだ、この姫様は……)
二人の思いが、ぴったりと一致した瞬間だった。
「松屋殿の辛酸なる心掛け、見事なり。かたじけなく存じます」
糸子が言った。
「は、は……ありがとうございます。近衛様……」
善兵衛が力なく項垂れた。
近藤と葵の同情が、さらに深まった。
「なれど……ここまでしてもらっておきながら、松屋殿に何も返さぬというのは道理が通りませぬ」
糸子が言った。
善兵衛がぱっと顔を上げた。
御簾を見た。
目の中に、期待の光が宿った。
(なにかよいことが起こるかもしれぬ……!)
六
「松屋殿に、素晴らしい提案をしましょう。貴殿も鬼に……」
糸子が言いかけて、少し間を置いた。
「……じゃなく。松屋殿」
廊下の端で、近藤と葵が同時に首を傾けた。
(鬼に……?)
(鬼に……?)
二人の疑問符が重なった。
「此度、計画しております——関東での中心となる事業の総差配役を、松屋善兵衛殿にお任せ致したく存じます」
善兵衛が固まった。
「そっ……それは、何でございましょう。姫様」
「追って説明いたしまする。まず聞いてくださいまし」
善兵衛が姿勢を正した。何かとんでもないことが始まる。そういう予感が、全身から出ていた。
糸子が静かに、しかし明確に話し始めた。
「松屋殿はご存知でしょうが、今から申し上げることを改めて整理してお伝え致しましょうか」
「はい」
「御門様より綸旨を賜りました」
善兵衛が息を飲んだ。
「天朝物産会所が御所御用達として後ろ盾となり、三つの事業を始めることを御許しいただいております」
糸子が続けた。
「一つ目、商家連合体の設立。二つ目、語学並びに商業学校の設立。三つ目、国産品の海外輸出でございます」
善兵衛が深く頷いた。一つ一つの言葉の重みを測りながら。
「この中の『商家連合体の設立』——これが今日の本題です」
糸子が少し間を置いた。
「今、日本の商家は深刻な危機に晒されておりまする。異国の商人に個別に対応され、組織的な交渉力を持たないまま、食い物にされているのでございます。それを変えるために、日本の商家を一つにまとめた組織を作りまする」
「それが——」
「天朝御用商務惣会所でございます」
善兵衛が「天朝御用商務惣会所」という言葉を、口の中で繰り返した。
「天朝御用を冠することで、御所の権威が背景にある。商務で目的が明確でございます。惣会所は『全ての商家が集まる場所』という意味でございます」
善兵衛の目が変わった。先ほどまでの脂汗の代わりに——商人としての本能が動き始めた目だ。
「御門様の綸旨を賜った事業の中心組織——それが天朝御用商務惣会所でございます。この惣会所の江戸での惣会所、その総差配役を——松屋善兵衛殿にお任せ致したいのです」
「……!」
善兵衛が動けなくなった。
七
「総差配役とは…」
善兵衛が声を絞り出した。
「江戸における商家連合体の中心です。天朝御用商務惣会所の江戸惣会所を束ねる立場です」
「しかし……それは……私のような商人が……」
「松屋殿でなければなりませぬ」
糸子が静かに言った。
「この江戸で、天朝物産会所と長く信頼関係を築き、誰よりも真摯に動いてくださった方でございます。今日も日本橋の物件を準備してきてくださいました。この信頼は——替えがききませぬ」
善兵衛の目が潤みかけた。
「また——この地位に松屋殿が就けば、江戸における松屋殿の影響力は計り知れなくなりましょう。それがいかような富と信用を生み力を持つか——松屋殿ならば想像できましょう」
善兵衛が少し間を置いた。
商人として、その言葉の意味を計算していた。
天朝御用商務惣会所の江戸惣会所の総差配役——それは江戸の全ての参加商家との関係の中心に立つことを意味する。天朝物産会所という御所御用達の後ろ盾を背景に、江戸の商家を束ねる立場。
(これは——どれほどの影響力を持つことになるのか)
善兵衛の計算が追いつかなかった。あまりにも大きな話だった。
「姫様はそのような大それた企てを……しかも主上様からの綸旨もすでに賜っておられるのですか……」
「はい」
驚きを越えて驚愕している善兵衛に、糸子が静かに言った。
「江戸惣会所総差配役、引き受けていただけますね」
善兵衛が——深く、深く、頭を下げた。
「ははあ……この松屋、主上様のご意向に恥じぬよう、また姫様のありがたきお申し出に、決して期待を裏切ることなく全力で務めさせていただきます」
善兵衛の声は、今度は震えていた。感動の震えだった。
「そしてこの松屋善兵衛は、近衛様に誠心誠意、変わらずの忠義を尽くさせていただきます」
深く平伏した。
廊下の端で、近藤が密かに感心した。
(厚かましすぎると思ったが……この結末があってのことだったのか……姫様は……)
葵が御簾の向こうの糸子に、静かに尊敬の眼差しを向けた。
(さすが姫様です……横浜の話をした時には松屋様が気の毒で仕方ありませんでしたが……これはお見事です!)
善兵衛が顔を上げた。目が輝いていた。先ほどとは全く違う目だった。
八
「それでは早速、具体的な話をいたしましょう」
糸子が言った。
「まずは松屋殿には、総差配役の件はまだ誰にも言わないでいただき——江戸の主要な商家の方々に、天朝御用商務惣会所の設立について話を持ちかけていただきたいのです」
「どのような商家を」
「松屋殿がこれはという方々を。三井越後屋、鴻池、住友——江戸で影響力のある商家を中心に。ただし、一度に多くを集めてください。そしてその方々を伴って、こちらにお連れくださいまし」
「姫様ご自身が?でございますか?」
善兵衛が驚いた。
「御門様の綸旨を賜っております。わたくしが直接動くのが筋になりましょう。また他の商家の方々にも、直接お話しする方が説得力を持ちましょう」
「……はい。早急に動きます」
「よろしゅう おたの申します」
善兵衛が立つ準備をした。そして思い出したように言った。
「あの……横浜の件は……本当によろしいのでございますか……」
「はい。よろしくお願いします」
「……分かりました……」
善兵衛が再び脂汗を流しながら、深く礼をして退室した。
廊下の向こうに善兵衛の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、近藤と葵が同時に思った。
(やはりこの姫様は——とんでもない御方だ……)
第六十三話 了
「松屋…素晴らしい提案をしよう!。お前も鬼にならないか?」と…実はちょっと言って見たかった糸子さん(^◇^;)




