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【祝!PV累計80万突破】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第六十二話「絵図を持つ者②」

 一

 万延元年、夏。

 一橋上屋敷に、一通の書状が届いた。

 近藤勇が廊下から声をかけた。

「姫様、坂本殿から書状が届きました」

「龍馬殿から?」

 糸子が文机から顔を上げた。

「はい。両替商の鴻池経路で」

「持ってきてくださいませ」

 近藤が書状を持って入った。封がしてある。土佐っぽい、少し大きな筆跡で宛名が書かれていた。

 糸子が受け取った。

 封を開けた。

 最初の一行を読んだ。

 ——思わず笑った。

 龍馬らしい書き出しだった。謝罪から始まる書状など、糸子は今まで受け取ったことがなかった。

『まっさきに謝らなならんことがあるきに』

 糸子が少し前のめりになって、書状を読み続けた。


 『近衛糸子姫様へ

 まっさきに謝らんとあいならんことがあるがぜよ。書状を出すのが遅うなってしもうた。理由はいくつかあるきに。

 一つは、薩摩の件で思いもよらん御仁ごじんに出会うてな。その御仁を追いかけよったら、思うたより時が経ってしもうたんじゃ。もう一つは――正直に言うが――わしゃあ、書状を書くのが苦手でいかん。

 いつも話す方が得意なもんで、筆を持つと言いたいことが半分ばあになってしまうがぜよ。

 けんど、姫様が『報告せよ』とおっしゃったき、精一杯書いたちや。長うなったけんど、読んでくれたら嬉しいぜよ。』

 糸子が少し笑いながら、次の段に目を移した。

 【指示その一の報告:薩摩の動向について】

 『結論から先に言います。薩摩は――今、迷うておるがぜよ。

 島津斉彬様が急死されてからというもの、薩摩の中の人間が真っ二つに割れとります。『斉彬様の遺志を継ぐ』と言う者と、『今は内を固める時だ』と言う者じゃ。

 江戸の薩摩藩邸に近づいてみました。最初はえらい警戒されましたきに。土佐の浪士風情が薩摩藩邸の周りをうろうろせりゃあ、そりゃあ怪しまれて当然ぜよ。

 けんど――ある夜、居酒屋で薩摩の下級藩士と隣になりましてな。酒を酌み交わしたきに。

 その男が熱う語ってくれました。『斉彬様がご存命なら、今頃日本はもっと変わっておったろうに』と。

 目に涙を浮かべとった。この御仁ごじんは本物だ、と直感しました。名前は言わんことにします(書状は誰が読むか分からんきに)。』


 糸子の目が止まった。

 (斉彬様の遺志組か……)


 斉彬が亡くなった時の衝撃を、糸子は今でも覚えている。「この国の行く末を見届けてほしい」と言って逝った人だ。その遺志を継ごうとしている者たちが、薩摩の中にいる——それは、計画①にとって重要な情報だった。


 読み続けた。

 『彼らが求めちゅうもの――それは『薩摩だけが強うなること』やのうて、『日本全体が強うなること』ながぜよ。

 そのために朝廷のお力を借りたい、という気持ちは確かにあろう。けんど――「朝廷を道具として使う」がか、それとも「朝廷のために己らが動く」がか。

 この二つの狭間で、まだ迷うておるように見えたがじゃ。』


 (「朝廷を使う」か「朝廷のために動く」か——)

 その二つの違いが、将来の薩摩の動きを決定的に分ける、と糸子は思った。どちらを選ぶかによって、計画①との関係が全く変わる。


 次の段。

 【追記・薩摩で出会った人物について】

 『一人だけ、特別に報告しちょきます。大久保一蔵という男がおるがぜよ。(後に利通と名乗るかもしれん)

 この男は――怖いきに。怖いというがは悪い意味じゃのうて、頭の回転がえらい速うて、何を考えておるかまるで見当がつかん。酒を飲んじゅう時でも、目だけは冷やう計算しちょる。

 この男は――『薩摩のために動く』がやのうて、『己が正しいと信じる道へ動く』性分しょうぶんじゃと見ました。

 姫様の目指す道が大久保の信じる道と重なれば――これほど頼もしい味方はおりませぬ。けんど、もし違う方向を向いたなら――これほど手強い相手はおらんぜよ。

 どうか、この男の名だけは頭の隅に置いちょいてつかさい。』


「……龍馬殿は人を見る目がある」

 糸子が小さく呟いた。

「酒を酌み交わしちゅう時でも、目だけは冷やう計算しちょるがぜよ。」——それは正確な観察だ。転生前の知識で言えば、大久保利通は感情で動く人物ではない。信念と計算が合わさった、幕末で最も冷静な政治家の一人だ。


 糸子が帳面を取り出して書いた。

「大久保利通——早めに接触を考える必要がある」


 それから次の段を読んだ。

 【指示その二の報告:長州の動向について】

 『これが一番、難儀なんぎな仕事じゃった。長州は――熱いきに。ええ意味でも悪い意味でも。松下村塾の門下生もんかせいらに会うがは、そう難しゅうはなかったぜよ。

 あいつらあは、喋りとうてたまらんがじゃ。自分らの志を誰かに聞いてほしい、そう思うちょるがやき。それが分かっちょったき――わしゃあ、とにかく聞くことに徹しました。

 話すより聞く方が、よっぽど情報が集まる。これは姫様から教わったことながぜよ。』


 (これは姫様から教わったことながぜよ、か)

 糸子の口元が少し動いた。


 読み続けた。

 『門下生らの中に、とりわけ報告せにゃあいかん御仁ごじんが二人おります。

 一人目は桂小五郎という男。この男は――えらい冷静れいせいながぜよ。長州の中じゃあ珍しいくらいに。

 周りの仲間が『攘夷じょういじゃ!』とわめきゆう中で、一人だけ『それで異国いこくに勝てるがか』と考えちょる。

 『攘夷』の志は分かっちょるがじゃ。けんど、その『やり方』に疑念を持っとるがです。

 姫様が仰っておった『攘夷だけやのうて、広い目で見ることができるお人』――。これが、桂のことじゃと直感しました。

 けんど、この男は警戒心がえらい強いきに。性急に近づこうとすれば、さっと身を引かれてしまう。

じっくりと時をかけんといかんがじゃ。』


「この人間は将来、計画①に欠かせない」

 糸子が帳面に書いた。


「桂小五郎——急がず、時間をかけて」

 そして次の段——龍馬の文章が、急に変わった。

 文字が少し乱れた。それまでの落ち着いた字が、急ぎで書いたような字になった。感情が滲み出た字だ。


 『二人目は――これが困ったことに、吉田松陰先生ご本人との縁がありましてな。先生は今、江戸へ護送ごそうされる道中どうちゅうやという話を聞きました。(書状を書きゆう今この時も、先生のお命のことが心配で、心配でなりませぬ。)』


 糸子の手が止まった。

 (吉田松陰……)


 二

 転生前の知識が、糸子の頭の中で素早く動いた。吉田松陰——松下村塾の主宰者。伊藤博文や山縣有朋など、後の明治政府を担う人材を育てた教育者。しかし安政の大獄で捕らえられ——処刑された。

 この世界線では、井伊直弼がすでに別の形で消えている。それが松陰の運命を変えているかもしれない。あるいは変えていないかもしれない。

 糸子は少し考えてから、読み続けた。


 『先生の門下生らあは――先生への忠義と、日本への想い、それに幕府への怒りで、今にも爆発しそうな有様ぜよ。姫様が仰っておった『過激な動きに巻き込まれるな』というお戒め――。

 正直に言いますれば、一度だけ危ういことがありました。

 ある夜、弟子の一人が『これから奉行所へ討ち入る!』と喚き出しましてな。わしゃあ、必死で止めました。『それで松陰先生がお助かりになるがか!』と問うたら、その男がぴたりと足を止め、泣き出しまして……。

 それ以上、騒ぎが起きることはありませなんだ。

 

 姫様、長州は今、日本で一番危うい場所ながです。

 けんど――その危うさの中にこそ、本物の人間がおります。桂小五郎は先々、必ずや力になってくれる御仁ぜよ。

 今はじっくり時をかけて、信頼を築いていくしかなかろう。そう思うちゅうがです。』


 龍馬が「一度だけ危なかった」と書いた。

 糸子はその一文を読んで、少し息を止めた。


「危なかった」というのは、龍馬が巻き込まれそうになったということだ。糸子が指示した「過激な行動に巻き込まれるな」という注意を、龍馬は守った。しかし——それは龍馬が「止めた」から安全だった。

 (龍馬が動き回っている間、常にこういうリスクがある)

 その事実が、糸子の胸の中で重く動いた。


 次の段に移った。

 【指示その二の補足・吉田松陰先生について】

 『これが一番、書くのを迷った部分です。』

 龍馬の文章が、また変わった。今度は迷いの字だった。何度も書き直したような跡がある。


 『松陰先生の今の様子について。

 先生は今――江戸の伝馬町牢屋敷におられます。安政五年の秋、幕府に捕らえられて江戸へ送られました。

 なぜ捕らえられたがか――先生は幕府のやり口に、真っ向から反対なされたきに。

 『日米修好通商条約は朝廷のお許しを得ておらん。これは不当じゃ!』と、公に言い放たれたがです。

 さらに――「老中の間部詮勝を討つべし」という計略を、門下生らに説かれたとのことで。弟子の一人が言うちょりました。

 『先生は、誰にも止められんお人ながじゃ。正しいと信じたことは、いかなる危うい目にあおうとも、やり抜くお人ながぜよ』と。

 「それが先生の凄みであり、同時に、先生の危うさでもあるがじゃ」と。わしゃあ、それを聞いて胸が締め付けられる思いがしました。』


「先生の凄みであり、同時に、先生の危うさでもあるがじゃ」——龍馬がその言葉を引用したのは、龍馬自身がその言葉に深く共感したからだ、と糸子には分かった。

 龍馬は人を見る目がある。


 『なぜ、まだ処刑されちょらんがか――。これが、門下生らあもよう分からんと言うちょりました。井伊大老が失脚したことが、何かしら関わっちょるのではないか、と。(ここらあは、わしにも確かな証はないがぜよ)

 ただ――伝馬町の牢に入れられたまま、未だに最終的なお裁きが出ておらん状態ながです。弟子らは「先生がいつ処刑されるか分からん」と、毎日、怯えながら過ごしちょりました。その姿を見ておるのも、辛うてなりませなんだ。』

 (この世界線では、松陰はまだ生きている)

 糸子は静かに確認した。


 そして次の段——龍馬の筆が、また変わった。今度は、それまでの報告文から離れた。個人的な言葉の字だった。

 『松陰先生という御仁について――わしが感じたことを言わせてください。先生に直にお会いしたことはありませぬ。けんど、門下生らが語る先生は――『この国を根底から変えたいと、心の底から願うちょる人間』だということは、痛いばあ伝わってきました。

 やり口はあまりに過激ぜよ。けんど、その志だけは――本物じゃと信じます。


 姫様――。

 この先生が生きちゅううちに、何とかならんもんでしょうか。先生の持っちょる知識と志を、もっと真っ当な道で使うことはできんがでしょうか。

 これは、わしの勝手な願いながです。姫様から頂いたお役目の範疇を超えちゅうことは、百も承知の上ながぜよ。けんど、どうしても書かずにおれんかったがです。』


 糸子が書状を持つ手を、少し止めた。

「……坂本」

 小さく呟いた。


 龍馬は「お役目の範疇を越えちゅうことは、百も承知ながぜよ」と分かりながら、それでも書いた。それが龍馬という人間だ。計算で動かない。感じたことを、そのまま届ける。

 糸子は帳面を取り出して、一行書いた。


「吉田松陰——確認が必要」

 それだけ書いて、次の段に移った。


 【指示その三の報告:商売の可能性について】

 『これは――正直に言うて、わしには一番の難儀じゃった。刀のことや藩の動きなら、あちこち話を聞いて回ればええがやけど。商売のこととなると――数字がわんさと出てきて、もう頭が痛うなって。

 けんど、姫様に頼まれたきに、精一杯踏ん張りましたぜよ。。』


 糸子が少し笑った。

 龍馬が「もう頭が痛うなって」と書いた。素直だ。


 『長崎へ行ってきました。異国の商人がわんさと集まっちゅう場所へ潜り込んでみたがぜよ。最初は言葉がさっぱり分からんで、どうにもならんかったきに。

 そこで――一人、おもしろい男を見つけました。土佐の出で、長崎で異国商人を相手に商売をしゆう男ながです。

 この男は――儲けることしか頭にないがじゃ(笑)。けんど話を聞いてみれば、長崎で何が売れるか、異国が何を欲しがっちゅうか、驚くばあ詳しく知っとる。

 名は――弥太郎といいます。岩崎弥太郎。土佐の出ですき。この男に聞いた話を報告します。

 異国商人が一番欲しがっちゅうもの――それは『生糸』『茶』『陶磁器』、この三つぜよ。

 けんど、一つ大きな問題がある。「しなの良し悪しがバラバラすぎる」と異国商人がこぼしちょりました。

「同じ値で買うても、質が違いすぎる。これじゃあ商売にならん」とな。つまり――品質をきっちり揃えさえすれば、もっと高く売れるということながです。

 弥太郎もそれをよう分かっちょりました。「けんど一人の商人の手には負えん」とも言いよった。

「誰かが全体を束ねてくれたら、日本の商売はガラリと変わる」とな。』


「品の良し悪しをきっちり揃えさえすれば、もっと高う売れるがぜよ。」

 糸子がその一文を、もう一度読んだ。


 百貨店バイヤーとして培った目が、その言葉の意味を正確に理解した。外国市場で日本の商品が買い叩かれている最大の理由の一つが、品質の不均一だ。

 「同じ日本の生糸でも、品質が全然違う」という評判が外国商人の間にある。だから値段を下げるしかない。

 しかし——品質を統一して安定して供給できれば、価格交渉力が生まれる。


「誰かが全体をまとめてくれたら」——それが「天朝御用商務惣会所」の役割だ。糸子が考えていた計画と、岩崎弥太郎が現場で感じている問題意識が、正確に一致している。

「岩崎弥太郎——連れてきてもらいましょう」それとついでに…「中岡慎太郎も連れてきてもらいましょう」

 帳面に書いた。それから少し考えて、括弧書きで書き加えた。「(計画①・第一の商業担当として)」

 「(計画①・ 陸上の人脈・情報網の構築、 薩長土の連携工作として)」書状の最後の段を読んだ。


 『最後に——わしは旅をして、ようけの人間に会うてきました。その中で一つだけ、確信したことがあるがじゃ。

 今の日本は——まっこと変わらなあいかん。変わらんと、異国に食われてしもう。そんなことは誰にでも分かっちゅう。けんど、『どうやって変わるか』が誰にも分からんがです。みんな分からんまま、叫んだり、腹を立てたり、泣いたりしちゅう。

 姫様——あんた様は「どうやって変わるか」を知っちゅうと思う。わしにゃあ、まだ先のことまでは全部は見えん。けんど——あんた様の差配に従って動いちょったら、何かが変わる気がするがじゃ。

 それがわしの報告の最後の言葉ぜよ。また、いつでも指図をやってきとうせ。


 土佐の坂本龍馬より


 追記:岩崎の弥太郎のことをもっと詳しく知りたけりゃあ、連れてきてもかまんぜよ。まっこと、おもしろい男やきに。』


 糸子が書状を読み終えた。

 しばらく動かなかった。

「……龍馬殿らしい」

 小さく言った。


「姫様——。あんた様は、『どうやって変わるか』を知っちゅうと思うがじゃ。」——この一文で、糸子の手が微かに止まった。

 (当たっている)


 しかし——「全部見えている」と言えるかどうか、糸子には分からない。計画①は形にした。計画②の輪郭も見えている。しかし、それが本当に「どうやって変わるか」の全体像かどうか——転生者としての知識と、この幕末の現実の間に、まだずれがある可能性がある。


 だから——

 (常に修正しながら動かなければならない)

「『頭の回転が速くて目だけが計算している』か」

 龍馬の大久保評を、糸子が改めて口の中で繰り返した。


「大久保利通——早めに接触を考える必要がある」

 帳面に再確認として書いた。

「龍馬は——全部見えていないが、何かが見えている」

 糸子が帳面に書いた。


「この人間は——計画を全部知らない方がより良く動く」

 少し間を置いて、書き加えた。


「しかし信頼できる」

 糸子が書状を丁寧に折りたたんだ。

 引き出しにしまった。

 帳面を開いた。


「龍馬への返信——岩崎弥太郎、中岡慎太郎を連れてくるよう指示する」

「大久保への接触経路を考える」

「桂への接触は龍馬に継続してもらう」


 書き終えた後——糸子が小さく笑った。

 腹黒い笑いではなかった。本当に嬉しそうな笑いだった。

「龍馬殿——あなたは本当に面白い人ですね」

 窓の外を見た。


「全部見えなくていいのです」

 糸子が静かに言った。

「あなたにはあなたにしか見えないものを見ていてほしい」

 それが龍馬の価値だ——糸子はそれを完全に理解していた。大久保利通は計算しながら見る。桂小五郎は整理しながら見る。しかし龍馬は——感じながら見る。その感じ方が、誰にも真似できない精度を持っている。


「……さて」

 糸子が返信の紙を出した。

 筆を取った。


 【数週間前・長崎のある宿………】

 長崎の夏の夜は、蒸し暑かった。

 港に近い宿の一室に、異国の風が入り込んでいた。長崎の空気は、他の日本の町とは違う匂いがする。海の塩気と、異国の香辛料と——もっと何か、言葉にできない混じり合いの匂い。長崎はそういう場所だ。日本の中にあって、日本だけではない場所。

 その宿の二階の一室で、龍馬が座って書状を書いていた。

 行灯の光が揺れる中、龍馬は懸命に筆を動かしていた。文章を書くのは得意ではない。しかし書かなければならない。「報告せよ」と言われた。それを実行する。

 部屋の隅に、岩崎弥太郎が座っていた。

 二十代半ばの男だ。体格はそれほど大きくない。しかし目が鋭い。一言で言えば、よく観察する目だ。常に周囲の状況を把握して、利益を計算している——そういう目。

「お前、何を書いとる」

 弥太郎が言った。

「書状ぜよ」

「誰に」

「大事な方にきに」

「相当な人物か?」

 龍馬が少し驚いた。

「なぜ分かる」

「お前が文を書くがは、よっぽどの相手だけやき。しかも丁寧に書いちょる。」

 弥太郎が体を伸ばして、龍馬の書状を覗き込もうとした。

「見るな」

 龍馬が書状で遮った。

「けちな」

「おんしゃあのことも書いちゅうき、おかしな真似はしなや。ええか、わかっちょるな」

「わしのことを?」

 弥太郎の目が少し変わった。さっきまでの怠惰な表情が消えて、「情報が入ってきた」時の顔になった。

 「連れてきてもええか、聞いてみるつもりやき」

 「……どこへ?」

 「江戸ぜよ」

 「江戸!?」

 弥太郎が体を起こした。

「おもしろい仕事があるぜよ。おまんに向いちゅう仕事がのう!」

 「どんな仕事ながな? おまんにしては、妙に自信満々やないか」

 「わからん」

 「なんだそりゃ」

 龍馬が筆を置いた。

 「でも——」

 少し考えてから言った。

 「おんしゃあが言いよったがやないか。『誰かが全体をまとめりゃあ、商売のあり方ががらりと変わる』とな。」

 「言った」

 「その『誰か』が、おるがぜ」

 弥太郎が少し止まった。

 「本当か」

 「本当ぜよ」

 「……どんな御仁ぜよ」

 「秘密ぜよ。……今はまだ、言えんきに」

 「よほどのお人ながか。……おまんがそこまで隠すがは、並の奴やないろう。」

 「いずれ分かるがぜ。……こじゃんと楽しみにしちょれよ」

 「何が分かるっちゅうがな。……おまん、勿体をつけすぎぜよ」

 「本物かどうかよ。……会うてみりゃあ、一発で分かるがぜ」

 弥太郎がしばらく黙った。行灯の光が揺れた。その光の中で、弥太郎の目が計算していた。しかし今回の計算は、いつもとは少し違った。利益の計算ではなく——「これあ、真実の話ながか」という計算だ。

「……連れてってくれ。……わしも、その御仁に会いたいがぜ」

 弥太郎が言った。

 「書状の返事が来てからきに。それまで待っちょれ」

 「いつ届くがな。……そんなに時間がかかるもんながか」

 「来月か再来月ぜよ」

 「そんなに待てるかよ! おまん、正気か?」


 龍馬が再び筆を取った。書状の続きを書き始めた。

 弥太郎が黙って龍馬の横に座った。何も言わなかった。しかし弥太郎の目が——少し違う光を帯びていた。

 「おもしろい仕事」という言葉が、頭の中に残っていた。

 弥太郎は儲けることを考える人間だ。それは本当のことだ。しかしその根っこには——「日本の商売を変えたい」という、言葉にしない思いがあった。

 長崎で外国商人と渡り合いながら、日本の商人が買い叩かれる現実を見続けてきた。その悔しさが、弥太郎を動かしていた。

「誰かが全体をまとめてくれたら、商売が変わる」——それを実現できる人間が、江戸にいる。

 (本当ならば行くしかないきに)

 弥太郎が行灯の光を見ながら思った。

 長崎の夜の蒸し暑さが、少し遠くなった気がした。


 一橋上屋敷の奥御殿。

 糸子が返信を書き終えた。

 行灯の光が揺れる中、書いた文字を確認した。


 『龍馬殿へ

 書状、受け取りました。言い訳は聞きました。しかし内容が十分すぎるので許します。

 四点、指示を出します。

 一:岩崎弥太郎殿を江戸に連れてきてください。それから一緒に行動しているであろう中岡慎太郎殿も

一緒に御連れください。早ければ早いほどいいです。


 二:坂本に大切なお話があります。一度江戸へきて顔を出しなさい。  


 三:桂小五郎殿への接触は急がず続けてください。友人を作るような感覚で。


 四:大久保一蔵殿については——今は遠くから見るだけで構いません。


 追記一:「姫様はどうやって変わるかを知っていると思います」と書いてくれましたね。当たっています。

 追記二:岩崎殿を連れてくる際、「儲けさせてください」と言いそうですが——その言葉を止めないでください。そのままで構いません。


 協力者より


 糸子が返信を読み直した。

 一度で全体像を教えない。段階的に開示する。今は岩崎弥太郎を江戸に呼ぶことが最優先だ。弥太郎が実際に動き始めれば、天朝御用商務惣会所の海外販路開拓に具体的な人材と知識が加わる。


 「追記二」を書いた理由は——弥太郎が「儲けたい」と言った時に、龍馬がそれを「品のない言葉だ」と止める可能性があるからだ。しかし糸子にとって、弥太郎の「儲けたい」という本音は、むしろ歓迎だ。本音で動く人間は、実際に動く。建前だけの人間より、ずっと信頼できる。


 糸子が返信を折りたたんだ。

 帳面を開いた。

 「岩崎弥太郎——来月か再来月に到着予定。計画・第一の商業担当として配置予定」

 「中岡慎太郎は—— 陸上の人脈・情報網の構築、 薩長土の連携工作として配置予定」

 「龍馬に直接会って話すことが必要——江戸に呼んだ」

 書き終えた後、糸子が小さく笑った。


 「うけけけけーーーっ」

 声が漏れた。


 龍馬は知らない。

 岩崎を連れてくることが——計画の重要な一手だということを。弥太郎の「面白い仕事」への期待が、天朝御用商務惣会所の海外部門の核になることを。


 しかし龍馬は知らなくていい。

 知らないまま、最善の人材を連れてくる。それが龍馬の価値だ。


 夜が深まった。

 一橋上屋敷の奥御殿は静かだった。

 近藤勇が廊下の端に立って、庭を見ていた。夜番はいつも静かだ。今夜も静かだった。池の水面に月が映っている。今夜の月は少し欠けている。丸くはないが、その光は十分に明るかった。


 廊下の外の庭に、蛙の声が聞こえた。夏の盛りの蛙だ。丸く、低く、たくさんの声が重なって、夜の庭の低音になっていた。

 奥御殿の部屋の行灯が、まだついていた。


 (姫様は——まだ起きておられる)

 近藤は思った。


 今日は何があったのだろう——と思いながら、しかし聞こうとは思わなかった。姫様が話す時には話す。話さない時には話さない。それを待つことが、自分の役目だ。

 近藤が刀に手を添えて、庭を見続けた。


 奥御殿の一室。

 糸子は文机の前に座っていた。

 帳面が開いている。行灯の光が、帳面の上に橙色の明かりを落としていた。

 今日一日のことを、整理していた。


 御門様からの宸翰——全ての事業を聴許してくださった。これは計画①の土台が確立したことを意味する。

  勝海舟の合流——絵図を見せた。計画②は今日は見せなかった。しかし計画①を本気で動かそうとしている人間を一人、得た。勝は幕府の人間だ。

 幕府の人間が「内戦なき近代化」に共鳴している——この事実が、将来の大政奉還への伏線になる。

 龍馬からの書状——大久保利通、桂小五郎、岩崎弥太郎という三人の名前が届いた。それぞれが計画①の異なる部分を担える人材だ。


 そして——吉田松陰の存在。

 糸子は帳面に書いた一行を見た。

 「吉田松陰——確認が必要」

 (この世界線では、松陰はまだ生きている)


 それが何を意味するか——糸子はまだ判断できていなかった。史実では松陰は安政六年(一八五九年)に処刑された。しかしこの世界線では、井伊直弼が別の形で消えた。安政の大獄の経緯がずれている。だから松陰がまだ生きている可能性がある。

 (龍馬が「まだ最終的な判決が出ていない」と書いた)

 それが事実なら——松陰を救える可能性がある。


 しかし——どうやって。

 幕府が判決を出そうとしている人物に、朝廷が介入することは、政治的に大きな問題を引き起こす。御門様の宸翰は計画①の事業への聴許だ。松陰の件はまた別の話だ。

 (慎重に考えなければならない)

 糸子は帳面を閉じた。

 今夜はここまでにしよう、と思った。

 しかし——頭の中が静かにならなかった。

 計画①。計画②。

 勝の合流。

 龍馬の報告。

 岩崎弥太郎の江戸招致。

 篤姫様への書状。

 後継者問題。

 吉田松陰——全部が、同時に動いている。


 (これは——自分一人で設計した計画だ)

 糸子は思った。

 前世の知識と、この幕末の現実と、バイヤーとして培った実務感覚——それら全部を使って、一か月間で書き上げた設計図が、今、動き始めている。

 (本当に、動いている)

 実感があった。


 屋根を直すことから始まった。商売から始まった。英語から始まった。交渉から始まった——そして   今、絵図の全体が動き始めようとしている。

 糸子が行灯の火を消した。

 部屋が暗くなった。

 月明かりだけが、薄く差し込んでいた。

「できると思っています」

 糸子が暗い部屋の中で、小さく呟いた。

 誰に言うでもなく。

 しかしそれは——自分自身への約束だった。

 屋根を直すことから始まった一本の線が、今、どこまで伸びているか——その先を、糸子は見ている。

「できると思っています」

 もう一度呟いた。

 蛙の声が続いていた。

 月明かりの中で、帳面の表紙だけが薄く光っていた。


 翌朝。

 江戸の夜明けは早い。

 一橋上屋敷の庭に、朝の光が差し込んでくる頃には、庭師がもう庭を歩いていた。石畳を掃き、松の根元の落ち葉を集め、池の縁に水を打つ——静かな作業が音もなく続いていく。

 池の鯉が一匹、水面の近くをゆっくりと泳いでいた。赤い鯉だった。何も急がない動きで、悠々と水の中を動いていた。

 縁側に、糸子が出ていた。

 今日は帳面を持っていなかった。膝の上に何も置かず、ただ庭を見ていた。

 葵が茶を持ってきた。昨日の宇治のお茶の残りだ。

 「姫君様、よくお眠りになれましたか」

 「よく眠れました」

 「ようございました」

 葵が隣に茶碗を置いた。

 糸子が茶を一口飲んだ。

 宇治の濃い緑の香りが、朝の空気の中で広がった。

 「葵」

 「はい」

 「昨日の宇治のお茶——本当においしかったです」

 「左様でございましたか。よございました」

 葵が少し笑った。珍しい笑いだった。葵はいつも表情を崩さない侍女だ。しかし今日の朝は、少し違う柔らかさがあった。

 糸子が庭を見た。

 池の鯉がまた水面に顔を出した。口を丸く開けて、また水の中に戻っていく。

 「今日から——また動きます」

 糸子が言った。


 「はい」

 葵が静かに答えた。

 「何から?」

 「岩崎弥太郎殿への返信の整理から。それから——吉田松陰の件を考えます」

 葵が「吉田松陰」という名前に、少し首を傾けた。知っている名前だが、詳しくは知らない、という表情だ。

 「長州の教育者です。今、江戸の牢屋敷にいます」

 「……姫君様が関わることですか」

 「まだ分かりません。しかし——確認しなければならない」

 葵が静かに頷いた。

 「分かりました。もし何かお手伝いできることがあれば」

 「あります」

 「何でしょう」

 「今日も甘いものを大至急お願いします」

 葵が「……は?」という顔をした。


 「頭を使う日には糖分が必要なのです」

 「……承知しました」

 葵が立って、退室した。

 糸子が池の方を見た。

 赤い鯉が、また水面の近くを泳いでいた。

 (この国の百年先)


 糸子は思った。

 相互主義。対等な関係。この国の百年先——迷った時に戻る三つの言葉が、今朝も糸子の中にある。

 この三つを忘れない限り、言葉は出てくる。計画は動く。人は集まる。


 「さて」

 糸子が小さく言った。

 「今日も始めましょうか」

 朝の光が庭に満ちていた。

 松の葉が光を受けてきらきらと揺れ、池の水面が金色に変わっていく。どこかで鳥が鳴いた。

 

 今日も江戸の朝は早かった。

 一橋上屋敷の奥御殿で、近衛糸子の新しい一日が始まった。


 第六十二話 了


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― 新着の感想 ―
吉田松陰は影響力が強過ぎるので本人も望んだ江戸所払いでアメリカ島に島流しが宜かろう。 面白きことも無き世 でも無さそうな 止むに止まれぬ大和魂
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