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【祝!PV累計80万突破】幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第六十四話「惣会所の夜明け②」

 松屋善兵衛との会合から数日後……


 江戸の夏は、京とは違う種類の暑さを持っていた。

 京の夏は盆地特有の、熱が四方から押し寄せてくるような蒸し暑さだ。しかし江戸の夏は、もっと開けた暑さだ。海から風が来る。川から湿気が来る。そして何より、空が広い分だけ、日差しが直接に落ちてくる。

 一橋上屋敷の表御殿は、朝から準備が整えられていた。

 庭師が夜明け前から動いていた。石畳を丁寧に掃き、松の根元の落ち葉を集め、縁石の苔に水を打つ。水が石畳の上に広がって、朝の光を受けてきらきらと輝く。その光が、縁側の軒先に細かく反射して揺れる模様を作っていた。

 表御殿の廊下も、隅々まで掃き清められていた。磨き抜かれた板張りの廊下が、朝の光の中で薄く輝いている。その廊下を渡る風が、今日は少し涼しかった。夏の盛りの中の、束の間の涼しさだ。

 広い座敷に、御簾が立てられた。

 近衛家の御簾だ。細かく編まれた葦に、近衛家の紋——五つの藤——が金糸で縁取られている。その高さは、座敷の天井近くまで届く大きなものだった。御簾の向こうに、糸子と葵と小夜が座っている。御簾の手前には、広い畳の間が続いていた。

 床の間には、掛け軸が一幅かけられていた。松と鶴を描いた、格調のある絵だ。床の間の前に、香炉が置かれている。今日は特別に、沈香が焚かれていた。甘く、深い香りが、座敷の空気に静かに溶け込んでいた。

 糸子は御簾の中で、装束を整えて座っていた。

 (今日は——大事な日だ)

 糸子は御簾越しに庭を見ながら、頭の中で段取りを確認していた。

 松屋善兵衛が数十人の商人たちを連れてくる。江戸の主要な商家の当主たちだ。彼らに向けて、天朝御用商務惣会所の設立を告げる。御門様の綸旨を背景に、日本の商家が一つにまとまる組織の核を、今日ここで作る。

 (言葉を選ばなければならない。しかし飾りすぎてもいけない)

 糸子が心の中で整理した。相手は商人だ。感情ではなく、事実と利益で動く人間たちだ。だからこそ——事実を正確に伝えることが最も強い言葉になる。

 縁側の向こうの庭で、池の鯉が一匹、水面に顔を出した。赤い鯉だった。口を丸く開けて、また水の中に戻っていく。

 近藤勇が廊下の端に立っていた。

 今日は護衛の人数が多い。近藤に加えて、土方歳三と沖田総司が庭の端に控えている。多くの商人が来る——そのための配置だ。

 「来ましたね」

 近藤が小声で言った。

 庭の入口から、人の気配が増えてきた。


 松屋善兵衛が先頭に立って、数十人の商人たちを連れてきた。

 善兵衛は今日、改まった装いをしていた。紺地に松屋の紋が入った羽織。上質な着物。商家の当主としての正装だ。その顔は緊張しているが、目の中に何かの確信がある。

 善兵衛の後ろに続く商人たちは、それぞれが異なる格式の装いをしていた。三井越後屋の代理人は、三井家の家紋が入った上質な羽織だ。鴻池の江戸店を仕切る番頭は、いかにも大坂商人らしい実質的な着物。住友の江戸出張所の責任者は、銅山経営で培われた重厚感がある。大丸屋の江戸店主と白木屋の当主は、江戸の老舗ならではの落ち着いた装い。

 みな、松屋善兵衛から話を聞いていた。「近衛様がお呼びだ」「御所御用達・天朝物産会所から重要な話がある」「御門様からの綸旨に関わることだ」——善兵衛がそう伝えたのだろう。

 半信半疑の顔が多かった。それは当然だ。御所御用達の商家が江戸で商人を集めて何かをする——そんなことは前例がない。しかし全員が来た。

 それだけで、松屋善兵衛の江戸における信望の大きさが分かった。

 商人たちが廊下を通って、座敷に通された。

 広い畳の間に、端から整然と座っていく。みな正座して、前を見た。

 御簾の前に出た時——座敷の空気が変わった。


 御簾が引かれていた。

 その向こうに——気配がある。

 人数は少ない。しかしその気配の質が違った。普通の気配ではない。重みがある。静かでありながら、どこか高い場所にある気配だ。

 嘘ではない。

 それが分かった。

 商人たちの間に、その認識が静かに広がった。松屋善兵衛の言葉は本当だった——「本物の話だ」という確信が、全員の背筋を伸ばした。

 いくつかの商家の当主が、松屋善兵衛の方をちらりと見た。善兵衛は静かに前を向いていた。その顔に動揺はない。本気だということが伝わった。

 一呼吸の後——御簾の向こうから、声がした。

 「大儀である」

 静かな声だった。年齢を感じさせない、しかし重みのある声だった。

 「わたくしは天朝物産会所の主、近衛糸子でありまする」

 商人たちの間に、静かな衝撃が走った。

 近衛——五摂家筆頭の近衛家の姫君。それが「天朝物産会所の主」として自ら名乗った。

 松屋善兵衛が言っていた通りだった。御所御用達の天朝物産会所を動かしているのが、近衛家の姫君——それが今、本人の口から告げられた。

 「此度の天朝御用商務惣会所の設立は、御門様から直接、綸旨を賜った事業である。よって幕府にも止めることは一切できぬものと心得よ」

 全員が平伏した。

 「ははあ——」

 一斉の声が、広い座敷に響いた。

 御簾の中で、糸子はわずかに息を整えた。

 (それでは始めましょう)


 「皆様に、まず資料をお渡しいたしまする」

 葵と小夜が静かに立って、手元の束を持った。商人たちの前に、丁寧に一冊ずつ配っていく。

 商人たちが資料を受け取った。

 開いた。

 ——困惑した者がいた。これほど丁寧に整理された形で説明を受けるのは、初めてのことだ。数字が整然と並び、構造が図で示されている。

 ——「これは使える」と判断した者がいた。内容が具体的で、数字に根拠がある。

 みな、ほぼ一致してある思いに至った。

 (この方は——ただ者ではない)

 御簾の向こうの気配が、配られた資料が——全てが、そう語っていた。

 糸子が話し始めた。

 「今日参っていただいた方々に、まず現在の日本の状況をお伝え致しましょう」

 声が通った。御簾越しであっても、広い座敷の端まで届く声だった。

 「不平等条約によって引き起こされた富の流出——その最も具体的なものは、金の大量流出でございます」

 商人たちの間に、静かな緊張が走った。

 「皆様はご存知でしょうか。開港からわずか半年、金貨が大量に異国に持ち出されました。仕組みは単純でございます。異国人がメキシコ銀などの銀貨を日本に持ち込み、日本の銀に替え、その銀で小判を買い、海外に持ち出す——これだけで、元手の銀が約三倍になりまする」

 「三倍……」

 誰かが小声で繰り返した。その声には、信じられないという色があった。

 「なぜそうなるか。世界標準の金銀比価は一対十五程度でございます。しかし鎖国をしていた日本では一対五でした。日本では金の価値が極端に安かった——そこを、異国商人に狙われました」

 「なんと……」

 商人たちの間に、静かな衝撃が広がった。

 「この流出量は近衛家独自で集めた情報を元に試算した結果でございますが、わずか数ヶ月で五十万両の金貨が流出したと推定されまする。これはほぼ間違いのない数字になりましょう」

 五十万両…という言葉が、座敷の空気を変えた。

 一両は現代価値で数万円から数十万円。五十万両は——現代価値に換算すれば数百億円から一千億円規模。それがわずか一年以内に消えた。

 「しかし——金貨の流出そのものより、さらに深刻なことがありまする」

 糸子が続けた。声が低くなった。

 「幕府は金の流出を防ぐために、金貨に含まれる金の量を約三分の一に減らした万延小判を先日から発行し始めました。その結果——通貨の価値が急落し、物価がこれから猛烈に上がることになりましょう」

 「……米が」

 ある商人が呻いた。思わず出た声だった。

 「お米の価格が、このままでは数年で四倍から十倍に跳ね上がることが懸念されます。日用品——醤油、油、絹、綿——これらが高く売れる輸出用に回されてしまい、国内から姿を消し始めています。お金を持っていても物が買えない状況が、既に一部では起きています」

 商人たちが無言になった。

 それは単なる「困った話」ではなかった。自分たちの商売の土台そのものが、今まさに崩れかけているという認識だった。呉服を扱う者は、絹が国内から消える恐怖を感じた。食品を扱う者は、醤油や油の仕入れが困難になる未来を感じた。両替を業とする者は、通貨の信用崩壊がもたらす混乱を想像した。

 「さらに申し上げます」

 糸子が続けた。

 「外国から安価な綿製品が大量に入ってきていまする。国内の手織り綿布——農家の大切な現金収入の一つでございました——これが、機械で作られた外国産の綿布に太刀打ちできなくなっていきましょう。すでに農村が困窮し始めておりまする。そして困窮した人々が都市に流れ込み、治安が悪化していいきましょう」

 「これは——」

 誰かが言いかけて、止まった。

 「これは偶然ではありませぬ」

 糸子が明確に言った。

 「異国の商人は日本の金融の仕組みを研究して、その弱点を意図的に突いたのでございます。今後も同じことが繰り返されましょう。次は金貨だけでなく、皆様の商品の価格、皆様の取引先、皆様の商売の仕組みそのものが標的になりまする」

 座敷がさらに静まり返った。

 商人の中で、具体的な恐怖が動き始めていた。


 しばらく沈黙があった。

 その沈黙の中で、座敷の外から夏の音が入り込んできた。蝉の声が遠く、低く響いている。庭の松が風に揺れる音が、かすかに聞こえた。池の水面が光を受けて揺れているのが、縁側の向こうに見えた。

 それから——一人の商人が手を挙げた。

 「近衛様——一つ、お伺いしてもよろしゅうございましょうか」

 三井越後屋の代理人だった。顔色が白かった。しかし目は冷静だった。数字を扱う者の目だ。感情ではなく、事実を確認しようとしている目だった。

 「なんでありましょう?」

 「主上様は——その様な好き勝手をこれ以上異国にさせないために、朝廷の御使者として近衛様をこの江戸に御使いなされ、メリケンとの交渉に近衛様がお奔走されたのでございましょうか」

 糸子が少し間を置いた。

 「そうでございます」

 座敷にざわめきが起きた。

 小声で交わす言葉の中に「まさか」「本当か」「では江戸での交渉は……」「あの流言は……」という言葉が混じった。

 江戸ではハリスとの交渉の噂が広まっていた。「朝廷の使者が交渉に関わった」という話は、商人たちの耳にも届いていた。しかしその使者が誰なのかは、はっきりとは分かっていなかった。

 今、目の前の御簾の向こうにいる「近衛糸子」——それがその使者だと分かった。

 松屋善兵衛が、この場でもう一度驚愕していた。

 (この方は——主上様のご意向を受けて、この江戸でハリスと渡り合われたのか……)

 善兵衛は近衛家との付き合いが長い。糸子の動きのいくつかは間近で見てきた。しかしその全体像は——今日も、まだ完全には見えない。それが、この姫君という人物の奥行きだ、と善兵衛は改めて感じた。

 「松屋殿がお声がけくださったこの場に参加できた幸いに、心から感謝申し上げます」

 誰かがそう言った。他の者が静かに頷いた。

 今日という日に、この場所に参加できた。それがどれほどのことか——商人としての感覚が、それを告げていた。


 「それでは——本題に入りましょう」

 糸子が言った。

 「今の状況を変えるために、三つの事業を御門様のご許可のもとで始めまする」

 声に力があった。御簾越しであっても、その力は座敷の全体に届いた。

 「一、天朝御用商務惣会所の設立。二、天朝物産会所附属・商務語学所の設立。三、国産品の海外輸出——この三つでございます。本日の主要な説明事項は、一と二でございます」

 「改めて申し上げます。これは御門様から直接、綸旨を賜った事業でございます。不参加は一切認めませぬ」

 座敷が静まり返った。

 「御門様の綸旨」——その言葉の重みが、座敷の空気を変えた。これは「お願い」ではない。「お上のご命令」だ。

 「……仰せの通りに」

 全員が平伏した。

 「よろしい」

 糸子が言った。声に、温かみが戻った。強さと温かさが混在した声だった。

 「では、天朝御用商務惣会所の具体的な話をいたしましょう」


 「組織の名称は、天朝御用商務惣会所——略称は惣会所でございます」

 糸子が話した。

 「天朝御用を冠するのは、御所の権威が背景にあることを示すためです。商務で目的を明確にする。惣会所は、全ての商家が集まる場所という意味です」

 商人たちが聞いていた。資料を手に持ちながら、糸子の言葉と照らし合わせている者もいた。

 「この組織の本質的な意義をお伝えします」

 糸子が少し間を置いた。

 「これは単なる商人の集まりではありませぬ。日本の民間の商いの力を一つの意志で動かす——そのための組織です」

 商人たちの間に、静かな驚きが走った。

 「言い方を変えて申し上げれば——商家すべての知恵と情報と力を集めた、総力戦の仕組みでございます」

 「異国の商人は組織として動いておりまする。個々の商家が個別に対応している限り、組織的な連携には勝てませぬ。だから——日本の商家も、組織として動く必要があるのでございます」

 ある商人が身を乗り出した。

 「具体的には、どのような運営になるのでしょうか」

 「三層構造でございます」

 糸子が説明した。

 「最上位に、天朝物産会所。御所御用達として、組織全体の後ろ盾・最高顧問になります。意思決定には直接関与しない形式を取りまするが、実質的には組織全体の方向に天朝物産会所の意向が反映される仕組みになりまする」

 「その下に、中央惣会所が京都・大坂・江戸の三都に置かれましょう。幹事商家十軒による合議制で運営致しまする。さらにその下に、各地の主要商業都市に地方惣会所を設けまする。そして一般会員商家が、参加を希望する全ての商家となりましょう」

 商人たちが資料の構造図を見た。図は明確だった。自分たちがこの構造のどこに位置するのか、一目で分かる。

 「江戸の惣会所の最初の幹事商家は——今日この場にお集まりの皆様を中心に選定いたしまする」

 座敷の空気が、また変わった。

 今日来た者が、そのまま江戸の惣会所の中枢になる。それは——今日来なかった者は最初から外れる、ということだ。

 この場に呼んでくれた松屋善兵衛への感謝が、さらに深まった。


 「幹事商家には、具体的な特典がございます」

 糸子が続けた。

 「一つ目。天朝物産会所が持つ情報への優先利用——海外の相場情報・商品情報・外交情報を含みます。今後、駐米日本領事として赴任した中浜万次郎殿からの情報も、この経路に入りましょう」

 商人たちの目が光った。

 (中浜様——メリケンを実際に知っているお方だと聞く、その様な人物からの情報が届く…)

 「二つ目。商務語学所の卒業生の優先採用権。外国語と商業の両方を学んだ人材を、優先して雇えまする。三つ目。御所御用達としての対外的な信用。これは看板としての価値が大きいものとなりましょう」

 「そして四つ目——最も重要なものでございます」

 糸子が少し間を置いた。

 「組織として異国の商人と交渉できる立場でございます」

 一人の商家が異国の商人と交渉する時、その力の差は圧倒的だ。しかし惣会所という組織——その後ろ盾に天朝物産会所という御所御用達がある組織——を代表して交渉すれば、力の差は全く変わる。

 「異国人は日本の統治の仕組みを完全には理解してはおりませぬが、Imperial authority——皇帝の権威——という言葉の重みは理解しまする。その権威を背景に持つ組織との交渉は、単なる商人集団との交渉とは全く異なりましょう」

 商人たちが、その言葉の意味を測っていた。

 (御所の権威を後ろ盾に、異国商人と交渉できる)

 それがどれほど大きな変化か——商人として異国商人と渡り合ってきた経験のある者たちには、その意味が肌身で分かった。


 「組織の情報共有について申し上げます」

 糸子が続けた。

 「今後、海外の相場情報・商品情報・外交情報をまとめた通報を月に一度発行します。幹事商家に配布しましょう」

 「月に一度……」

 ある商人が呟いた。

 「これを読めば、他の商家より一手早く動けます。中浜殿がメリケンから送ってくる情報も、この通報に含まれまする。メリケンでは商人たちが組合を作り、情報を共有し、価格を協議し、政府に働きかけておりまする。日本の商人が個別に動いている限り、メリケンの商人組織には絶対に勝てませぬ——中浜殿はそう言っておりまする」

 「中浜様が……」

 商人たちが静かに動揺した。

 中浜万次郎——メリケンを実際に生きた人物。その言葉は、書物の言葉とは違う。

 「実際に見てきた者の言葉でございます。だから——日本の商家も組織を作る必要がありまする。この惣会所が、その組織でございます」

 「月に一度の通報で、一手早く動ける」という言葉が、商人たちの頭の中で動き始めていた。

 (これだけで惣会所に参加する意味がある)

 その計算が、複数の商人の中で同時に走った。


 「惣会所として、最初に取り組む共同行動についても申し上げましょう」

 糸子が言った。

 「幕府に対して——外国との取引における正当な金銀交換比率の確立を求める建白書を提出しまする。天朝物産会所の御朱印状を後ろ盾に、御所の権威として幕府に働きかけまする」

 商人たちが少し前のめりになった。

 幕府への建白書——それは一商家の単独の意見では力を持たない。しかし御所御用達の後ろ盾を持つ組織からの建白書となれば、話が全く変わる。

 「これが惣会所の最初の成果になりましょう。この建白書が実現すれば——参加を躊躇していた商家が一気に参加してきまする」

 (組織が動けば、結果が出る。結果が出れば、さらに大きくなる)

 その循環の可能性を、商人たちの感覚が掴んでいた。

 「長崎・名古屋・金沢・仙台など、各地の主要商業都市にも惣会所を今後は広げていきまする。江戸が最初の核でございます。ここで実績を作れば、全国展開は自然についていきましょう」

 「全国……」

 誰かが小声で言った。

 日本中の商家が繋がった組織——それが実現した時の影響力は、誰にも正確には計算できなかった。しかし「大きい」ことだけは確かだった。あまりにも大きすぎて、想像が追いつかない。


十一

 「一つ、根本的なことを申し上げまする」

 糸子が少し間を置いた。

 その間に、座敷全体の空気が集中した。

 「皆様はこれまで、商人というだけで——多くの場所で軽く扱われてきたことがあるかと存じまする」

 商人たちが静かになった。

 「なれど——この国を動かしているのは何か、と考えた時。物を作る者と、物を届ける者と、物の価値を適切に伝える者がいなければ、この国は一日も動きませぬ。その役割を担っているのが、皆様でございます」

 誰も何も言わなかった。

 しかし——聞いていた。全員が、全身で聞いていた。

 「御門様はそのことをご存知でございます。だから——商家の力を日本の力として動かすために、この綸旨をお出しになりました。皆様は御門様に認められた、この国の力の担い手でございます」

 座敷に、静かな変化が起きた。

 目に見えない何かが——空気の中で変わった。

 商人というだけで低く見られてきた。武士の上にも、公家の上にも、商人は立てなかった。それは武家社会の長い歴史の中で、当たり前のこととして受け入れられてきた事実だ。

 しかし今日——御門様の綸旨を受けた近衛家の姫君様が、商人たちに向かって「あなたたちはこの国の力の担い手だ」と言った。

 それは——商人たちが、この国の力の一部として、初めて正式に認められた瞬間だった。


十二

 (商人というだけで低く見られていたが、主上様は我々を見てくださっている)

 ある商人が、その思いを心の中で噛みしめていた。

 三井越後屋の代理人だった。三井家は幕府の御用商人として長年動いてきた。しかしその役割は「幕府のために金を動かすこと」だった。幕府が必要とした時に金を出し、幕府の御用として動く。それが三井の在り方だった。

 しかし今——御所から綸旨が来た。朝廷が「商家の力を日本の力として使う」と言った。これは——三井家にとって、幕府との関係を超えた話だ。

 (近衛様が自ら動かれている。これほど喜ばしいことはない)

 住友の担当者が思った。銅山経営という実業を通じて、住友家は常に「作るものが日本を動かす」という感覚を持ってきた。その住友家の動きを、今日の話は国家レベルに引き上げようとしている。

 (個人の利益も大事だ。しかしこれからは——日本の利益になるように働こう)

 鴻池の番頭が思った。大名への融資で巨万の富を築いてきた鴻池家。しかしその融資が回収できなくなるリスクは、幕末の動乱の中で現実のものになりつつある。今日の話は——そのリスクを超えた、新しい方向を指している。

 一人一人の商人が、少しずつ、その思いに至っていた。

 志が高くなっていく——その変化が、座敷の空気の中に実際にあった。


十三

 「江戸惣会所の総差配役について、お伝えいたします」

 糸子が言った。

 「総差配役は——松屋善兵衛殿でございます」

 商人たちがざわめいた。

 松屋善兵衛——この江戸の老舗呉服商の当主。確かに、今日この場を設けたのは善兵衛だ。しかし「江戸の惣会所を束ねる総差配役」というのは——商人が担う役ではない、幕府ならば武家の方がそのお役目につくのが通例であるのち…という疑問を浮かばせた者が何人かいた。

 「商売のことは商人の方がお決めになるのが、道理となりましょう。これは幕府でも異論は認めませぬ。また、他の者もありえませぬ。異論は御門様への異論とお思いなさい」

 ざわめきが止まった。

 「松屋殿は——天朝物産会所が始まった日から、誰よりも誠実に、誰よりも力強くお支えくださってきた方でございます。江戸での拠点確保も、今日の商家の皆様へのお声がけも——全て松屋殿が動いてくださったことでございます。この信頼の深さに勝る者は、今この瞬間、この場にはおりませぬ」

 商人たちが黙った。

 その言葉は正しかった。今日ここに全員が来たのは、松屋善兵衛への信頼があったからだ。善兵衛が「行くべきだ」と言ったから来た。その信頼を動かせる人間が——惣会所の総差配役として最もふさわしい。

 松屋善兵衛が深く頭を下げた。その背中が、少し震えていた。

「松屋善兵衛殿を中心に、今日ここに集まった商家は速やかに協力し、松屋殿をお助けなさい。そして異国の商人に好き様にされない惣会所を、速やかに作りなさい」

 「仰せの通りに……」

 全員が平伏した。


十四

 「具体的な最初の動きについて、指示を出しましょう」

 糸子が続けた。

 「まず、惣会所の組織骨格を作りまする。幹事商家の選定と役割の確認を、一か月以内に完了させてくださいまし。松屋殿が中心になって取り仕切りまする」

 「次に——異国商人との取引価格の事前協議の仕組みを作りまする。誰かが独自に安売りすることを防ぐための内部規約でございます。これを惣会所の最初のルールとして定めまする」

 商人たちが頷いた。一人が安売りすれば全員が足を引っ張られる——それは商人全員が肌で知っていることだった。

 「規約の核心は三点です。情報の共有義務。異国商人との取引価格の事前協議。そして天朝物産会所の最高顧問としての位置づけ——この三つを明確に定めまする」

 「そして将来——惣会所として幕府に対して、異国との取引における正当な金銀交換比率の確立を求める建白書を提出致しまする。天朝物産会所の御朱印状を後ろ盾に、御所の権威として幕府に働きかけまする」

 「惣会所の最初の成果——これが実現すれば、参加を躊躇していた商家が一気に加盟してきましょう」

 商人たちの目が輝いた。


 「惣会所の学校との連携についても申し上げます。商務語学所——天朝物産会所附属の語学商業学校——が設立されまする。そこで学んだ卒業生が、惣会所の会員商家に就職する。その卒業生が異国との商いを通じて動かす——これが長期的な設計でございます」

 「語学と商業の両方を学んだ人材が、惣会所の中に育っていく。その人材が、日本の商売を変えていくのでごさいます」

「そしてこの人材と資金と情報が集まる場所が——この惣会所になりましょう」

 商人たちが、その言葉の意味を測った。

 (人材と資金と情報が集まる場所——それはつまり、この組織が日本の経済の中心になるということだ)

 その認識が広がった瞬間、座敷の空気がまた変わった。

 今日この場に参加した者たちが——その中心の近くにいることになる。


十五

 「これは私一人の計画ではありませぬ」

 糸子が最後に言った。

 「御門様のご意向があり、天朝物産会所が主導し——そして、この場に集まった皆様が動かしていく仕組みにございます」

 「皆様にお願いがありまする」

 「今日ここで聞いた話を、今日参加できなかった仲間の商家にも伝えてくださいまし。ただし——天朝御用商務惣会所の名と御門様の綸旨という事実を正確に伝えてくださいませ。誇張も、縮小も、必要ありませぬ。事実だけで十分に大きな話になりましょう」

 「承知いたしました」

 商人たちが一斉に頷いた。

 「それでは——具体的な最初の動きについては、松屋殿から説明を受けてくださいませ」

 糸子が言った。

 「本日はここまでです。お集まりいただき、誠にかたじけなく存じます」

 全員が再び平伏した。

 「ははあ——」

 その声が、夏の日差しの中で静かに広がった。

 座敷の外から、蝉の声が聞こえた。夏の盛りの、力強い蝉の声だった。


十六

 商人たちが退室した後、表御殿の座敷は静かになった。

 廊下の外で、近藤勇が商人たちを丁寧に見送っていた。土方歳三と沖田総司が庭の端で控えていた。

 全員が出ていった後、表御殿に残ったのは糸子と近藤と葵と小夜だけだった。

 御簾がまだ引かれていた。その向こうに、糸子が座っている。

 近藤が御簾の前に座した。深く礼をした。

 「姫様……今日は——大変なことをなさいましたな」

 「そうでございますね」

 糸子が静かに言った。

 「商人たちの顔が——変わりました。後半は全員の目が輝いていた」

 「分かりました」

 「……最初は半信半疑でした。しかし最後には——本気になっていた」

 近藤がその言葉を続けた。

 「それは姫様が——事実だけで動かしたからだと思います。飾らず、誇張せず、事実を数字で示した」

 「近藤殿は商人の心がよく分かりますね」

近藤が少し目を細めた。

 「旭狼衛の者たちは、様々な出自の者が集まっております。商家の出の者も何人かおります。彼らを見ていると——商人は感情より事実で動くということが分かります」

 糸子が御簾の中でわずかに頷いた。

 「近藤殿、今日の場をしっかり守ってくださいました。かたじけなく存じます」

 「いいえ、当然のことでございます」

 近藤が頭を下げた。

 その後ろで葵が、茶を持ってきた。

 今日の茶は、宇治の茶ではなかった。宇治の茶の最後の一包みは、昨日使い切った。今日は江戸のお茶だ。

 葵が糸子の前に置いた。

 「姫君様、今日はよくお頑張りになられました」

 「葵が傍にいてくれたから頑張れました。資料の配布もおおきに」

 「いいえ……当然のことでございます……」

 葵の言い方が近藤と同じだったので、糸子が少し笑った。

 「お二人とも、同じことを言いますね」

 「……左様でございますか」

 葵が少し照れた様子で目を伏せた。


十七

 糸子が茶を一口飲んだ。

 宇治の茶とは違う。しかし今日の疲れた体には、この江戸の茶の素直な味わいが、すっと入ってきた。

 庭の松が、夏の風に揺れた。池の水面が光を受けて、静かに輝いていた。蝉の声が続いていた。遠く、そして近く——夏の盛りの、豊かな声だった。

 (天朝御用商務惣会所——始まった)

 糸子は思った。

 計画①の土台の一つが、今日ここで置かれた。商家連合体という名の、経済インフラの核が。

 学校が「人材を作る装置」なら——惣会所は「その人材と資金と情報が集まる場所」だ。この二つが揃って初めて、天朝物産会所の設計が完全に動き始める。

 惣会所が動けば、日本の民間経済が一つの方向を向いて動き始める。それが幕府にも藩にも関係なく——日本全体の経済インフラとして機能するようになれば。

 (止める者はいなくなる)

 糸子の頭の中で、計画の全体像が少し鮮明になった。止めることは「日本の経済を止めること」と同義になるからだ。

 「全部、つながっている」

 糸子が小さく呟いた。

 屋根から始まった。商売から始まった。英語から始まった。交渉から始まった。勝海舟が合流した。龍馬が動いている。篤姫様への経路を探している。後継者問題を考えている。

 そして今——惣会所が始まった。

(この国の百年先)

 糸子が思った。

 相互主義。対等な関係。この国の百年先——迷った時に戻る三つの言葉が、今もある。

 この三つを忘れない限り、言葉は出てくる。計画は動く。人は集まる。


十八

 翌朝。

 江戸の夜明けは早い。

 一橋上屋敷の庭に、朝の光が差し込んでくる頃には、庭師がもう動いていた。石畳を掃き、松の根元の落ち葉を集め、池の縁に水を打つ——静かな作業が音もなく続いていく。

 縁側に、糸子が出ていた。

 帳面を膝の上に置いて、庭を見ていた。今日は書いていなかった。ただ庭を見ていた。

 葵が茶を持ってきた。

 「姫君様、昨日の商人たちのことを考えていらっしゃいますか?」

 「少し」

 「あの方々は——どうなるでしょうか」

 糸子が少し考えてから答えた。

 「変わります」

 「変わる……でございますか」

 「昨日の場で、何かが決まりました。それぞれの商人の中で」

 葵が静かに頷いた。

 「個人の利益から、日本の利益への——意識の変化です。それが全員に起きたわけではないかもしれません。しかし何人かには確実に起きました」

 「何人かでも——よいのでございますか」

 「十分です」

 糸子が庭を見た。

 「組織というものは、最初に志の高い者が数人いれば、それが広がっていきましょう。志の高い者が実績を作れば、志の低かった者も高くなりまする。そういう仕組みでございます」

 葵が「……分かりました」と言って、静かに頷いた。

 糸子が帳面を開いた。

 今日やることを、書き出した。

 「松屋殿への追加の指示——横浜拠点の設計について確認する」

 「篤姫様への書状——実光様の経路が整い次第、送る準備を進める」

 「吉田松陰の件——近藤殿に情報収集を依頼する」

 「龍馬からの返信への追加指示——中岡慎太郎についての情報を求める」

 書き終えた後、糸子が小さく笑った。

 腹黒い笑いではなかった。

 今日も頑張ろうという、前向きな笑いだった。


十九

 その頃——江戸の別の場所で。

 堀田正睦の屋敷の書院。

 夏の朝の光が、格子窓を通して斜めに差し込んでいた。書院の床は広く、磨かれた板張りが光を受けて薄く輝いている。床の間には、端正な山水の掛け軸が一幅。その前に、質素な花が一輪、生けられていた。

 堀田正睦が一人で座っていた。

 今日は訪問者の予定がない。しかし堀田は朝から書院に座して、考え続けていた。考えているのは——昨日、自分の耳に届いた話についてだ。

 「天朝御用商務惣会所——近衛家が江戸の商人を集めた」

 その話が届いたのは、昨夜のことだった。「一橋上屋敷に、江戸の主要商家数数十人が集まった。御所御用達の天朝物産会所からの話で」という報告だった。

 (またあの姫君様か)

 堀田が思った。

 天朝物産会所——御所御用達として動く商業機構。井伊直弼亡き後も、その動きは止まらない。ハリスとの交渉に関与し、万次郎をメリケンへ送り出し——そして今度は、江戸の商家を組織しようとしている。

 (御所御用達の後ろ盾で、江戸の商家を束ねる……)

 堀田が少し目を細めた。

この動きが何を意味するか——老中として長年幕府政治の中心にいた堀田には、その含意が分かった。


御所が経済に手を出し始めた。それは単なる商売ではない。経済的な影響力を持つということは、政治的な影響力を持つことに繋がる。

 (近衛の姫君様は——どこまで見えているのか)

 堀田が書状を手に取った。先日、近衛家から届いた書状だ。「惣会所の設立は御門様の綸旨を賜った事業である」と明記してあった。

 幕府が止めようとすれば——御所への干渉という問題になる。止められない。

 堀田が長い間、書状を見ていた。

 (あの姫君は——行く先々で、止められない状況を作る)

 ハリスとの交渉もそうだった。条約の実施細則交渉に朝廷の使者として参加させ、そこで実績を作った。止めようとした時には、既に動いていた。

 今回も同じだ。御門様の綸旨を先に取り付けて——その後で動き始めた。

 (先手先手で動く。止めようとした時には、既に次の手が打たれている)

 堀田が小さく息を吐いた。

 「末恐ろしい姫君だ……」

 独り言を言った。

 書院の外で、蝉が鳴いていた。夏の盛りの、声の太い蝉だった。

 堀田が窓の外を見た。

 格子の向こうに、夏の空が広がっていた。雲が少なく、青が深かった。

 (この動きを止めるのではなく——共存する道を探す方が賢明かもしれない)

 堀田がそう思い始めていた。

 止めることに使うエネルギーより、共存することで得られる利益の方が大きい——それは長年政治の世界にいた堀田の実用的な判断だった。

 書状を折りたたんで、文机の引き出しにしまった。

 「……また、考えよう」

 堀田が小さく言った。

 書院の格子から差し込む夏の光が、畳の上に細い縞模様を作っていた。


二十

 一橋上屋敷の縁側。

 糸子はまだ庭を見ていた。

 帳面を閉じて、膝の上に置いた。

 池の鯉が一匹、水面の近くを泳いでいた。赤い鯉だった。何も急がない動きで、悠々と水の中を動いていた。

 (この国の百年先を——変えようとしている)

 糸子は思った。

 しかしそれは「変えよう」という意思だけでできることではない。一人の力ではできない。人が集まり、動き始めて初めて——変化が生まれる。

 昨日の座敷の中で、商人たちの目が変わる瞬間があった。その瞬間が——糸子にとって、最も嬉しかった瞬間だ。

 (人が変わる瞬間が——一番好きです)

 糸子は思った。前世でバイヤーとして働いていた頃も、そうだった。交渉が成立した瞬間よりも、相手が「なるほど」と思った瞬間の方が、ずっと嬉しかった。

 「姫君様」

 葵が声をかけた。

 「松屋殿から——文が届きました」

 「どのような内容ですか」

 「横浜の物件について、動き始めたとのことです。吉田橋内側の土地、話をつけにいくとのことで」

 糸子が少し笑った。

 「早いですね、松屋殿は」

 「左様でございます……」

 葵の声に、少し同情が混じっていた。

 糸子がその声の色に気づいて、少し首を傾けた。

 「葵は松屋殿が気の毒だと思っていますか」

 「横浜の件だけは、よくよく考えると少しだけ……」

 「日本橋の物件を献上してもらって、横浜の大きな蔵も用意してもらって、惣会所の総差配役も引き受けてもらって——確かに松屋殿には、大変な荷をお持ちいただいていますね」

 「左様でございます……」

 「しかし——」

 糸子が少し間を置いた。

 「松屋殿は、これからの江戸商業の中心に立ちます。天朝御用商務江戸惣会所の総差配役として、御所の権威を後ろ盾に、江戸全体の商家を束ねる立場に立ちます。それがどれほどの信用と影響力、そして富をもたらすしますか」

 「……計り知れない、ということですね」

 「計り知れません。松屋殿も——それを分かった上で、引き受けてくださっておりましょう」

 葵が少し考えて、頷いた。

 「気の毒ではなく……実は大変な得をされているということですか」

 「商人とはそういうものでございます。損を得に変える——それが商人の力でございまする」

 糸子が立ち上がった。縁側から部屋に入った。

 「さて」

 「はい」

 「今日も動きましょう。やることが多いです」

 葵が立って、糸子の後に続いた。

 廊下に夏の光が長く伸びていた。

 その光の中を、糸子は歩いていった。

 江戸の夏は、まだ続く。

 近衛糸子の、この幕末の戦いもまた——まだ続く。

 そして天朝御用商務惣会所は——今日、静かに動き始めた。


 第六十四話 了

一部追加修正致しました。

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― 新着の感想 ―
あれ?葵は「さす姫!」側じゃなかったっけ? 姫様が松屋にご褒美で総差配役を伝えた時、近藤と一緒に聞いてて『気の毒→さす姫』の下りをやってたじゃん
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