↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
48/233

第四十八話「天誅」

一 風呂敷の中身

 安政六年、冬。


 一橋上屋敷の奥御殿に、朝の光が差しこんでいた。


 付書院の障子越しに見える小庭の松には、霜が降りていた。葉先についた細かな白い結晶が、朝の光を受けて小さく輝いている。上段の間の金箔の格天井が、その光を鈍く受けていた。


「姫様ーー、どこにいますかーー?」


 廊下の向こうから、大きな声がした。糸子は帳面から顔を上げた。


「こちらでございますよー。いかがなさいました? 沖田殿」


 障子が開いて、沖田総司が現れた。肩に、ばかでかい風呂敷包みを担いでいる。


「あー、いたいた! 持ってきましたよ!」


「何だ、沖田……その荷物は?」


 廊下に控えていた近藤が、思わず声を上げた。風呂敷の大きさが尋常ではなかった。沖田の肩から腰まで届きそうなほど丸く膨らんでいて、形からは中身の見当もつかない。


「まあまあまあ、ずいぶんと集められたのですね! 早く見せてくださいまし」


 糸子が身を乗り出した。顔がぱっと明るくなっている。


「松屋と自分で、めちゃめちゃ頑張ったんですよー。姫様は多いほうが分かりやすくて喜ぶだろうなと思って、できるだけ集めました」


 沖田が重そうに風呂敷を床に降ろした。どすん、と鈍い音がした。


 結び目を解いて、広げる。


「こんな感じでどうでしょう?」


 沖田は得意げだった。


「どれどれ……」


 糸子と近藤が、中をのぞきこんだ。


「こっ……これは。こんなものを一体何に使うのだ、沖田よ」


 近藤は首をかしげた。訳が分からない、という顔だった。


 風呂敷の中には、さまざまな品が、ごちゃりと詰まっていた。


「まあ、いろいろありますのね。これだけあれば人目につきやすくて分かりやすい。大変よろしゅうございます」


 糸子は大喜びだった。


「でしょーー」


 沖田がにんまりと笑った。


「?」


 近藤にはますます訳が分からなかった。首をかしげたまま、二人の顔を交互に見た。


「それじゃ沖田殿。こちらの書状を見てくださいな」


 糸子が胸元から書状を取り出して渡した。沖田がそれを広げる。


「どれどれ……あー、土方さんからの報せですね。へえ、こんなに細かい計画と、討ち入りの日時まで、それに加わる人数も分かったんですか! さすが土方さんだ!」


 沖田は感心した。


「加わるのは……合わせて百二十七名!! かなり多いですね。これなら、ずいぶん紛れこみやすいですよ、姫様」


 沖田のわくわくした気持ちが、顔からにじみ出ていた。


「そうでございますかー」


 糸子は静かに微笑んだ。


「沖田殿、お分かりだとは思いまするが、当日は長居無用にございます。目的を果たしたら、土方殿と二人でさっさと帰ってきてくださいまし」


「分かってますよ、姫様。当日は土方さんも、無理やりにでも引っ張って帰りますから安心してください」


 沖田は屈託なく言った。


「よしなに、お頼み申します」


 糸子は軽く頭を下げた。


「それにしても……」


 沖田と糸子が、ほとんど同時に口を開いた。


「当日が楽しみだなー。早くその日が来ないかなー」


「全くでございます」


「ふふふふふーーーーーーっ」


 二人は同じ笑い方で笑った。黒く、不気味に、それでいて楽しそうに。


 近藤は、笑う二人を黙って見ていた。そして誰にも気づかれないよう、そっと一歩後ろへ下がった。


 俺は何も知らない。何も見ていない。何も聞いていない。何も言わない。この件には、絶対に触れないぞ。


 近藤は心の中で、固く誓った。


二 彦根藩江戸藩邸

 彦根藩の江戸藩邸は、江戸城の桜田門にほど近い外桜田に構えられた広大な屋敷だった。


 将軍のお膝元の要地に、井伊家は長年この屋敷を構えてきた。彦根三十五万石の格式にふさわしい、威容を誇る大名屋敷である。


 正門は黒塗りの重厚な門だった。柱は太く、扉は分厚い。門の上には、井伊家の家紋を象った金具が打たれていた。門の両脇には番所が設けられ、門番が絶えず詰めている。


 門をくぐると、広い表の庭が広がっていた。松と石組みを整然と配した、格式のある庭だ。よく手入れされた松は冬の今も濃い緑を保ち、石灯籠が等しい間を置いて並んでいた。


 庭の奥に表御殿が建っている。長く伸びた板廊下は磨きこまれて鏡のように光り、客間と書院があって、政務の場として使われていた。


 表御殿の奥の玄関を入ると、中庭を挟んで奥御殿へと続く。冬の中庭には霜が残り、夜になるとその霜が固く締まって、踏めば音を立てた。


 奥御殿は、直弼の日々の居所だった。書院があり、茶室がある。茶室の庭には、直弼が自ら手を入れた跡があった。一期一会の心を形にしたような、簡素でいて奥行きのある庭だった。


 屋敷のまわりは、人の背丈の倍ほどもある土塀が囲っている。外から容易には入りこめない造りだった。


 その冬の夜の彦根藩邸に、百二十七名の意志が集まろうとしていた。


三 決行前夜

 冬の深夜、江戸のあちこちに潜んでいた浪士たちが、静かに動きはじめた。


 本所の裏長屋を出る者がいた。深川の空き家を出る者がいた。神田の旅籠を出る者がいた。それぞれが別の道筋を取り、別の刻限に動いて、最後の集まりの場所へ向かった。


 提灯は持たなかった。月明かりと辻番所の灯りだけを頼りに歩いた。冬の夜の江戸は暗い。だが今夜は、その暗さが都合よかった。


 集まる場所は、彦根藩邸の外周に沿って、何か所かに散らしてあった。


 金子孫二郎が全体を束ね、高橋多一郎が戦の運びを判じ、関鉄之介が現場を率いる。この三段の指揮の形は、何度も確かめ合ってあった。


 高橋が低く言った。


「目的は一つだ。それだけを見ろ」


「応!」


「離れるな。だが固まるな。その場に応じて動け」


「応!!」


 一人一人が頷いた。


 合言葉は一つだった。


「天誅!!!」


 集まった者たちのあいだに、静けさが流れていた。


 誰も余計なことは言わなかった。怒鳴る者も、いきり立つ者もいない。それぞれが、腹の中にそれぞれの理由を抱えていた。激情、義憤、疑い。それらを押し殺し、動きだけを一つにそろえていた。


 前面の隊は、関鉄之介が率いていた。冷えきった夜気の中で、その目がせわしなく動いていた。正門の位置を確かめ、番所の様子をうかがい、内通者が動く刻限を確かめる。


 集団の中に、有村次左衛門がいた。この薩摩の脱藩浪士だけは、ほかの者たちと少し違う空気をまとっていた。静かで、昂ぶりがない。ただ一点だけを見ていた。


 そして百二十七名の中に、粗末な着物を着た男が二人、それぞれ別の場所に立っていた。


四 土方と沖田

 土方歳三は、正門近くの一団に混じっていた。


 田中弥次郎の名で、数週間を過ごした。脱藩浪人として信用も得た。それも今夜で終わる。企ての内にいて、報せはすべて送った。あとは、姫様が何をするかだ。


 背後から、肩を叩かれた。


 反射的に振り向いた土方の目の前に、満面の笑みを浮かべた沖田総司がいた。


「──!!?」


 土方は思わず声を上げかけ、とっさに自分の口を押さえた。


「ずいぶん探しちゃいましたよー」


 沖田が小声で言った。


「こんな楽しいこと、自分に内緒だなんてずるいなー。自分も混ぜてくださいよ」


「おっ……なんでお前がここにいるんだよ!」


 土方は小声で返した。声を抑えるのが精一杯だった。


「自分は、姫様から大事なお役目をもらってきてるだけですよ」


 沖田は楽しそうだった。


「気のせいか……お前、ものすごく楽しそうだな」


「こんなお祭りには、なかなか加われませんからね。楽しまないともったいないですよ」


「祭り……だと?」


 土方は少し身を引いた。


五 討ち入り

 合図は、夜の中で静かに出された。


 冬の夜の彦根藩邸のまわりは冷えきっていた。地面には霜が残り、遠くで犬が吠えている。百二十七名が、息を殺して待っていた。


 金子孫二郎が手を上げた。


 一瞬の静けさのあと、前面の主力が動いた。


 内通者が閂を外した。彦根藩邸の正門が、内側から開く。その音は思いのほか静かだった。次の瞬間、浪士たちがどっと流れこんだ。


「天誅!!」


 最初の声が上がった。それが合図になった。


 正門を破った前面の隊の先頭は、槍を持った者たちだった。守りを打ち破る突破の役だ。その後ろに刀を持った者たちが続いた。同時に、側面の隊が外周の塀を越えはじめた。塀の上に人影が立ち、次々と内側へ飛び降りていく。


 門番が応戦しようとした。だが、数が違いすぎた。


「敵が入りこんだぞーー!!」


「討ち入りだーー!」


 藩邸の中から声が上がった。


「迎え撃てーー!」


「殿をお守りしろ!!」


「井伊はどこだーー!」


「天誅を下せーーー!!」


 彦根藩士たちが、武器を手に飛び出してきた。廊下から、部屋から、庭の奥から。


 だが、どこへ向かえばよいのか、すぐには分からなかった。あちらで声がし、こちらで足音がする。囲まれているという感覚が、藩士たちの判断を鈍らせていた。


六 戦闘

 中庭に出た途端、斬り合いが始まった。


 夜の中庭は暗かった。黒々と立つ松と石灯籠の影の中で、刀と刀がぶつかり合い、金属の音が立て続けに鳴った。


 浪士たちが押しこんでいた。数が多いうえに、どこから来るか分からない。その状況が、彦根藩士たちの判断を狂わせていた。


 正門を破った前面の隊は、そのまま中庭へなだれこんだ。


 先頭に立つ関鉄之介の両脇を、岡部三十郎と鯉渕要人が固めていた。三人が楔のように前へ出て、彦根藩士の守りに食いこんでいく。


「玄関前を固めろ!」


 彦根藩士が叫んだ。


「押し返せ! 殿をお守りしろ!!」


 彦根藩士が五人、玄関の前に並んで槍を構えた。槍の間合いは刀より長い。正面から突っこもうとした浪士が、穂先に弾き返された。


 だが、側面からは別の一団が入りこんでいた。廊下の奥で声が上がった。


「こっちからも来ているぞ!」


 守る側の指図が、乱れはじめた。


「回りこめ!」


 高橋多一郎の声が飛んだ。


 浪士の一部が庭を回りこみ、廊下の脇から入ろうとした。側面から入った者たちは、すでに縁側の障子を蹴破って屋敷の中へ踏みこんでいた。


 乱戦が広がった。


 廊下でも、また別の斬り合いが始まった。廊下は狭く、二人並んで走れるほどの幅しかない。だがその狭さが、かえって浪士たちに味方した。数の多い側が勝つ押し合いになった。


 正門の近くで、稲田重蔵が倒れた。浪士の側で最初に出た死者だった。だが前面の隊は退かなかった。稲田が倒れるより早く前に出ていた者が、さらに前へ出る。一人が倒れれば、次の者が前に出る。その繰り返しが、彦根藩の守りを少しずつ削っていった。


 藩邸の一角で、銃声が響いた。


 縁側から、藩士が鉄砲を撃ちこんでいた。煙と轟音が夜の庭に広がり、浪士が何人か倒れた。


 それでも勢いは止まらなかった。


 山口辰之介と斎藤監物が、銃声のしたほうへ向かった。縁側に駆け上がり、撃った藩士に斬りかかる。短い攻防のあと、鉄砲の音はやんだ。


 中庭の真ん中から、高橋多一郎が全体を見ていた。


 頭の中で戦況を計っていた。正門側は押している。側面から入った者たちも、中まで食いこんでいる。だが、奥への突破がまだだ。


「狙いを一つに絞れ!」


 高橋が叫んだ。


「奥へ向かえ! 目的を見失うな!!」


 その声で、ばらばらに散っていた浪士たちの意志が、一点に集まった。


七 奥——主君の間——へ

 斬り合いが広がるなか、土方と沖田は別の動きをしていた。


 二人は浪士たちとともに彦根藩士を斬り伏せながら、じわじわと屋敷の奥へ移っていった。


「みんな元気いっぱいですねー。さすがお祭りは違うなー」


 刀を振るいながら、沖田は実に楽しそうだった。


「なにが祭りだ。お前のその考えが、俺にはさっぱり分からん」


 そう返しながらも、土方の手は止まらなかった。向かってくる藩士をさばきながら前へ進む。


 ある場所まで来たところで、沖田が言った。


「それじゃ、そろそろお役目を片づけちゃいますか。土方さんも付き合ってくださいねー」


 沖田は土方の腕をつかんで引っ張り、斬り合いの流れから外れた場所へ連れていった。


「どうするんだよ」


「あったあった……」


 沖田が柱の陰をのぞきこんだ。そこには、例の大きな風呂敷包みが置かれていた。


「討ち入りの真っ最中に、どうやってそんなでかい風呂敷を、誰にも知られずに運びこめるんだよ?」


 土方は目を見張った。


「いくら土方さんでも、それは秘密です。自分は謎の多い男ですからねー」


「ほんとに訳が分からんぞ……」


「これを揃えるのも、ここまで運びこむのも、ほんとに大変だったんですからー」


 沖田はしみじみと言った。


「で、何なんだそれは」


「まあ、中身は見れば分かりますよー」


 沖田は一生懸命に風呂敷を広げた。のぞきこんだ土方は、そのまま固まった。


八 風呂敷の中身、再び

 広げられた風呂敷の中には、水戸藩ゆかりの品々が、こんもりと詰まっていた。


 まず目に入ったのは刀だった。水戸拵と呼ばれる仕立てのものが何本もある。柄巻は並の菱巻きではなく、平巻きと革巻き。飾りを一切省いた実用本位の拵えで、切っ先は鋭く研ぎ上げられている。突きに重きを置いた水戸の刀の癖が、見る者が見れば一目で分かった。鍔には、葵の紋を少し崩した意匠の、水戸ゆかりの彫り物が入っていた。


 その横には鎖帷子があった。細かな鎖を丹念に編みこんだ、着物の下に仕込む防具だ。水戸の浪士が実戦に備えて身につけていたもので、着こんだ跡まで残っていた。


 袖口を絞るための括り紐も、何本かあった。斬り合いで袖が邪魔にならないよう前もって絞っておく、水戸流の身ごしらえの名残だった。


 印籠もいくつかあった。添えられた袋の意匠から、常陸のあたりの薬屋で作られたものと分かる。医術の盛んな水戸藩では、血止めや気付けの薬をこうした印籠に入れて持ち歩いていた。


 通行手形も何枚かあった。水戸近くの宿場や村の名が記されている。関所を越えるのに使われた、足取りの証だ。中には古びて端が擦り切れたものもあり、長く使いこまれてきたことが分かった。


 さらに、懐紙の束があった。水戸学に特有の言葉が書きつけられ、烈公の好んだ「尊攘」の二文字が、何枚もの紙に記されていた。志士が信念を書き留めたものだ。ところどころに、血の染みがついていた。


「こりゃ……水戸藩のものばかりじゃねえか」


 土方の声は低かった。


 土方には、これらの品が何を意味するのか分かっていた。札の辻で刺客の骸を検めたときに見たものと、同じ類の品々だった。水戸の脱藩浪士が持つ、いかにもそれらしい品々。


「それじゃ、行きますか……」


 沖田が大きく息を吸った。そして。


「おーい、見てくれ~! 水戸藩のものがここに山ほどあるぞぉ! 彦根藩邸に討ち入ったら、とんでもないものを見つけてしまった! あぁーどうしよう!!」


 沖田が大声で叫んだ。


「……そりゃ驚くだろ!?」


 土方は二歩、後ずさった。


九 証拠の波紋

 沖田の声は、斬り合いの喧騒の中でもよく通った。


 まわりの浪士たちが動きを止めた。


「なに!?」


「どうした?」


 そこらじゅうで斬り合っていた浪士たちが、沖田のもとへ集まってきた。


「なんだ?」


「何があった?」


 血刀を提げた浪士たちが沖田を取り囲み、広げられた風呂敷と、その中の品々を見た。


「そういえば……朝廷の使者が二十六人の刺客に襲われた騒ぎがあったな」


 誰かが言った。


「下手人は水戸藩士らしい、という話だったが……」


「なるほど!」


 別の声が上がった。


「彦根藩が水戸になりすまして、水戸藩に罪をなすりつけていたんだな!」


「この品々が彦根藩邸にあるのが、何よりの証拠だぞ!!」


「ますます許せん、井伊!!」


「井伊許すまじ!!!」


「急いでこの証拠を押さえろーー!!」


 人がますます集まってきて、大騒ぎになった。


 土方は、その光景を見ていた。開いた口が塞がらなかった。


 これが、姫様の企てだったのか。


 姫様が襲われたとき、彦根藩は水戸藩に罪を着せるため、偽の水戸の証拠を用意した。今度はその証拠を、わざと彦根藩邸の中から見つけさせる。しかも見つけるのは、討ち入りに加わった百人を超える武士たちだ。その全員が証人になれば、流言の流れは一気にひっくり返る。


 井伊が堀田を追い落とそうと流した「堀田が姫様を狙っている」という流言は、「井伊が堀田を陥れようとしていた」という真実にすり替わるのだ。


「大変な証拠を見つけてしまった!! あぁーどうしよう!!」


 沖田はさらに声を張り上げた。


「お前……」


 土方は信じられないものを見る目で、沖田を見た。沖田は、実に楽しそうだった。


十 離脱

 土方が沖田の腕をつかんだ。


「行くぞ」


「あ、そうですね。帰りましょうか。用事も無事に済んだことだし」


 二人は浪士たちの輪から、静かに抜け出した。


 屋敷の中では、まだ斬り合いが続いていた。あちこちで刃の音がし、煙が上がっている。屋敷の一角には火が出ていた。


 その混乱の中を、土方と沖田は誰にも気づかれずに動いた。前もって確かめておいた道筋をたどって、側面の塀の近くへ出た。


「それでいいのか? お前は……」


「自分は、姫様の言うとおりにお役目を果たしただけですからねー。あとは討ち入りした人たちがうまくやるでしょ?」


 沖田は楽しそうに言った。


「………」


 土方は答えなかった。塀に手をかけ、身軽に越える。沖田も続いた。


 二人は、夜の外の道に降り立った。


「いやー、ほんとに楽しかったなあー。お祭りっていいものですねー」


 沖田は満足そうだった。


「……俺にはさっぱり分からん」


 歩きながら、土方の目に、なぜか一つの姿が浮かんだ。


「うけけけけーーーーーーっ」


 一橋上屋敷で笑っている、糸子の姿だった。


「まったく……あの姫様には、かなわん」


 土方は小さく苦笑いした。


 二人は夜の道を歩いていった。後をつけられていないか確かめながら、遠回りに遠回りを重ねて、彦根藩江戸藩邸から離れていった。


十一 奥の間

 そのころ、彦根藩邸の奥御殿では、別の戦いが続いていた。


 表御殿を破った浪士の主力が、奥へ向かっていた。いちばん激しい戦場になっていたのは、廊下だった。


 二人並んで走れるほどの狭い廊下で、彦根藩士たちが槍を構え、時を稼いでいた。


「殿をお守りしろ! ここを通すな!!」


「押せ、押せ!!」


 浪士の前列と、槍を構えた藩士とのあいだで、激しい押し合いが続いた。


 槍が浪士の一人を捉えた。倒れた。だが、すぐに次の者が前へ出た。


 高橋多一郎が判断を下した。


「横から回れ! 縁側から入れ!」


 縁側を伝い、庭から奥へ回りこむ者が出た。廊下の守りが崩れはじめた。


 やがて、奥の間が見えた。


 茶室の隣の書院。直弼が「一期一会」の掛け軸を掛けた部屋だ。その部屋へ向かって、浪士たちが廊下を押しこんでいった。


 護衛は必死に防いでいた。だが廊下の前と横から押されて、じりじりと下がっていく。一人が倒れ、また一人が倒れた。護衛の数は減る一方だった。


 外の混乱が大きすぎて、助けは来なかった。藩士たちはみな、それぞれの場所での斬り合いに手を取られていた。奥の間の護衛は、孤立していた。


十二 井伊直弼・最期

 奥の間は静かだった。


 薄暗い部屋の隅に、行灯がひとつ灯っている。床の間に掛かった「一期一会」の掛け軸の下に、直弼が立っていた。


 護衛は数人いた。だが浪士たちはいくつもの方向から押しこんできていた。護衛は懸命に防いでいたが、もう限界だった。


 長野義言が、直弼の前に立った。


「井伊様、お逃げください!」


「逃げぬ」


 直弼は言った。静かな声だった。怯えてはいなかった。


「お逃げください!!」


「大老が逃げてどうする」


 直弼は刀を手に取った。だが、その手はかすかに震えていた。


 廊下の向こうで声がした。


「天誅!!」


 浪士たちが奥の間になだれこんだ。


「ここは通さぬ!!」


 長野が直弼の前に立ちはだかり、刀を抜いて斬り結んだ。長野は強かった。だが、数が違いすぎた。


「長野!!」


 直弼が叫んだ。


 直弼をかばい、何本もの刀を受けて、長野は倒れた。


 直弼が前へ出て、刀を構えた。だが部屋の四方から、浪士たちが押しこんでくる。


 有村次左衛門が、部屋の真ん中に進み出た。その目に迷いはなかった。ほかの者が戦の流れに引きずられているなかで、この男だけは、ただ一点を見ていた。


「井伊……直弼」


 有村が言った。


 直弼が有村を見た。その刹那、直弼の顔を何かが走った。


「この討ち入りも……近衛が裏で糸を引いているとでもいうのか?」


 直弼は声を絞り出した。


「そうに違いない!!」


「おのれーー、こーのーーえーーーーっ!!!!」


 有村が動いた。一瞬だった。


十三 天誅

 有村の刀が、直弼の首を落とした。


 部屋が静まった。ほんの一瞬だけ。


 有村は直弼の首を刀の切っ先に刺し、高く掲げた。


「逆賊井伊、討ち取ったりーーー! 我ら、天誅を下したりーーーー!!」


 その叫びは、奥の間から廊下へ、廊下から表御殿へ、表御殿から庭へと広がっていった。


 声を聞いて、廊下で斬り合っていた浪士たちの動きが変わった。目的は果たされたのだ。


 どこからか、金子孫二郎の声が上がった。


「目的は達した! 引き上げの支度にかかれ!」


 庭で戦っていた浪士たちも、その声を聞いた。


「我らの勝ちぞ!!」


「目的は果たした!!」


 彦根藩士たちも、その声を聞いた。そして愕然とした。


 指図する者がいなくなった。命令が来ない。藩士たちはばらばらに戦い続けていたが、もはや統制は崩れていた。


 だが、浪士たちの全員が理性を保っていたわけではなかった。


「彦根の者どもは皆殺しじゃー!!」


「彦根藩の者どもに、残らず天誅を下せーー!!」


 そう叫ぶ声があった。その声に引きずられる者が出た。


 藩邸の一角から、炎が上がった。誰かが火をかけたのか、行灯が倒れたのか。冬の夜に、橙の炎が彦根藩邸の一部を照らしはじめた。


 炎は夜空へ向かって揺れていた。遠くから見ると、彦根藩邸の一角が赤く光っていた。


十四 江戸城・堀田の判断

 江戸城、本丸御殿。


 堀田正睦が執務に使う一室は、本丸御殿の南側にある。床の間に松の掛け軸が下がり、窓の外に手入れの行き届いた苔の庭が見える、書院造りの落ち着いた部屋だった。


 その夜、堀田は執務をしていた。そこへ、急使が来た。


「ご老中様! 急ぎの使いにございます!」


 入ってきた家臣が、書状を差し出した。受け取った堀田は、怪訝な顔で差出人の名を見た。


 近衛糸子。


 こちらはこちらで、独自に調べさせていただきまする。近衛の姫君がかつて使者を通じて寄こした言葉が、堀田の脳裏によみがえった。


 堀田は急いで書状を開いた。


「……百人……だと」


 堀田の手が止まった。書状には、こう記されていた。


 百人を超える浪人が天誅を掲げ、大老井伊殿を討たんと、彦根藩江戸藩邸へ討ち入る企てあり。至急動かれたし。


 静かな座敷に、紙を開いた音だけが残っていた。


 だが、堀田はすぐに動いた。


「若年寄へ急使! 彦根藩邸へ兵を集めよ!」


 声が早口になっていた。


「町奉行に伝えよ。市中を閉じよ、木戸を落とせ!」


「火付盗賊改には、武装して向かわせよ!」


 家臣たちが慌てて四方へ駆け出していった。足音が廊下を走り、やがて部屋には堀田一人が残った。


 外から、夜の江戸の物音が聞こえてくる。遠くで何かが起きている気配がした。


 (これは好機か。それとも、破滅の始まりか)


 堀田は胸の内でつぶやいた。


 (誰がこの政を支える……)


 窓の外には、冬の夜空があった。


 だが堀田は、もう一つのことを考えていた。


「……しかし、あの姫君様は……我ら幕府も知らぬこのような話を、なぜ先に知っている? どうやって手に入れた?」


 堀田の背中を、冷たい汗が伝った。


十五 帰還

 冬の終わりのある朝、彦根藩江戸藩邸の騒ぎからずいぶん日が経ってから、土方と沖田が一橋上屋敷に戻ってきた。


 江戸の空気に、かすかな春の気配が混じりはじめていた。風はまだ冷たいが、その冷たさの中に、どこか柔らかいものがある。どこからか梅の香りが流れてきた。聞こえてくる鳥の声も、京とも品川とも違う、江戸の春の声だった。


 奥御殿の小庭の松は、冬のあいだも緑を保っていた。石灯籠に朝の光が当たり、もう霜は降りていない。庭の隅の梅の枝に、白い花が二つ三つ開いていた。


 上段の間の金箔の格天井が、春めいた朝の光を受けて、いつもより明るく輝いていた。


 糸子が座っていた。傍らに茶が一椀置かれ、近藤が廊下に控えていた。


「ようやく戻ってきましたー」


 沖田が元気な声で言った。


「無事に戻りました、姫様」


 土方が軽く会釈した。


 糸子は茶を一口飲んでから、静かに言った。


「よく戻りました。お二人の元気な姿を見られて、安堵いたしました」


 その声には、本当の安堵があった。待っていた、とは言わなかった。けれど待っていたことは、その声の中に全部あった。


「戻りがこれほど遅れたのは、引き上げたあと、後をつけられていないかを念のため確かめていたためです。申し訳ありません」


 土方がまた会釈した。


「近藤殿から話は伺っておりましたから、何の問題もございませんよ。それでは、報告をお願いいたしまする」


 土方は報告を始めた。


 討ち入りのあとの成り行き。有村次左衛門の末路。散り散りになった浪士たち。関鉄之介が今も逃げていること。藩邸の中で水戸藩ゆかりの品々が見つかり、百名を超える加わった者たちの目に触れたこと。そのあと市中の木戸が落とされ、火付盗賊改が出たこと。


 糸子は聞きながら、何かを書き留めていた。帳面の上を筆が走り、止まり、また走った。


「それから」


 土方が続けた。


「堀田様が、当夜のうちに動いていたそうです。ずいぶん素早い手配だったと、城内では言われているとか」


「そうでしたか」


 糸子は筆を止めた。


「……書状を出しておいて、良かったですね」


 ぽつりと言った。


「はい」


 廊下から、近藤が答えた。


 すべてを話し終えると、土方は少し間を置いた。


「一つだけ、聞いてもいいでしょうか」


「なんでしょう」


「あの連中は、本当に間違っていたのでしょうか」


 糸子は筆を置いた。


「死なねばならぬほど、悪いことをしたのでしょうか」


 部屋が静まった。墨の香りがした。


 春めいた風に庭の松が揺れ、石灯籠の影が少し動いた。かすかな光の中で、梅の花が白かった。


 糸子は、しばらく黙っていた。


 答えを探していたのではない。もうある答えを、どう言葉にするかを考えていた。


 頭の中に、関鉄之介の顔があった。直弼への怒りを抱えた男たちの顔があった。有村次左衛門の、迷いのない目があった。


 彼らは正しかったのか。間違っていたのか。


 二十一世紀から来た糸子には、この時代の行く末が分かっている。幕末がどう動き、この国がどこへ向かったかを知っている。けれど、その知識で、今ここで死んでいった者たちの義を量れるかどうかは、また別の問いだった。


「正しいか、間違いか。そんな理屈を追いかけているあいだにも、人はあっけなく死んでゆきまする……」


 やがて、糸子は静かに言った。


「義か不義か、迷うているあいだに人は死ぬ。……確かなのは、人は死ぬ、ということだけでございます」


 土方は、その言葉を黙って聞いた。返す言葉がなかった。


 刀を抱え直して、立ち上がる。


「そうか………」


 小さくつぶやくと、土方は静かに一礼して部屋を出ていった。


 沖田は、少しのあいだ残っていた。


「姫様」


「はい」


「今回は、楽しかったです」


 沖田はにこやかに言った。だがその笑顔の中に、いつもとは少し違う何かがあった。


「また呼んでください」


 沖田も一礼して、部屋を出ていった。


十六 春の風

 外では、春の風が吹いていた。冬のあいだずっと凍っていたものが、少しずつ溶けはじめていた。


 二人が去ったあと、糸子は一人、上段の間に座っていた。


 縁側の外の小庭を見た。春の最初の風に、松の葉が揺れている。その揺れ方が、冬とは少し違って柔らかかった。梅の花も、そよ風に小さく揺れていた。


 糸子は帳面を開いて、これまでに起きたことを整理していった。


 井伊は消えた。長野義言も死んだ。けれど、それで何もかもが終わったわけではない。


 大奥では、篤姫がまだ動いている。跡目の問題は片づいていない。


 条約の細則をめぐる交渉は延期されたままで、ハリスとの会談も、まだ先にある。


 この幕末の流れは、まだ続いていく。


 糸子の目が、帳面の上を動いた。やるべきことは、まだある。それが、今この幕末にいる意味だった。


「言葉と知恵と知識で……」


 糸子は小さくつぶやいた。


「剣と権力に、抗えるか」


 七つのころから何年もかけて抱えてきたその問いの答えは、まだ出ていなかった。ハリスとの交渉が、まだ待っている。


 外の風が、庭の松の葉を揺らした。


 春が少しずつ、江戸にやってきていた。


 第四十八話 了

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!


少しでも楽しんでもらえたら、下のブックマークや星(☆☆☆☆☆)をぽちっと押して応援してもらえると嬉しいです。次の話を書く元気がモリモリ湧いてきます!


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
直弼あっさり退場で草 いや、スッキリはしたけどね?
誠実さ???
土方はん……。気持ちは分かるけど少なくとも彦根藩の人達からすればテロだし、暴徒化して無関係な庶民にまで矛先を向けたならもう明確に悪なのよ……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。