第四十七話「潜入」
一 来客
冬の陽は短い。
一橋上屋敷の奥御殿に差しこむ光は、午後になると早くも傾いていた。付書院の障子越しに、小庭の松の影が長く伸びている。石灯籠の台座には、夜の冷えが残した白い霜が、昼を過ぎても消えずにいた。
上段の間の金箔の格天井が、傾いた陽を受けてうっすらと鈍く光っていた。床の間の山水の掛け軸は、墨の濃淡が静かに息づいている。青畳の縁には、近衛家の文様を写した織物があしらわれていた。
糸子は上段の間に座っていた。
膝の前には帳面がある。だが筆は置いたままだった。土方が部屋を出ていってから、まだ間もない。あの男が何を掴んでくるか。それを待つあいだに、自分は何ができるか。糸子はそれを考えていた。
そこへ近藤が来た。
「姫様、お客様がお見えです」
「どなたでしょう?」
「勝海舟殿と、中浜万次郎殿でございます」
糸子の顔が、ぱっと明るくなった。
「お通ししてください」
ほどなく二人が通され、御簾を挟んで向き合った。
勝海舟は相変わらずだった。着流しに羽織という気取らない格好で、目だけが鋭い。歩き方にも無駄がなかった。この人は江戸の海と空気でできている、と糸子はいつも思う。格式や礼法よりも、もっと根っこのところで動いている人だ。江戸っ子らしい物言いはぶっきらぼうだが、そのまっすぐさが、かえって誠実に聞こえた。
その隣に、中浜万次郎が穏やかに控えていた。がっしりとした体つきだった。漁師の家に生まれ、アメリカの捕鯨船に乗り、太平洋を渡って帰ってきた男。その来し方が体の芯に刻まれているような落ち着きがある。どこに置かれても自分の軸を失わない人だと、糸子は中浜に会うたびに思う。
「お久しぶりです、姫様」
勝が言った。
「勝殿、中浜殿。よくぞいらしてくださいました」
「江戸に来たと聞いちゃあ、会いに来るしかないじゃないですか」
勝は少し笑った。その笑いには、安堵が混じっていた。
「正直、道中の件を聞いたときは、姫様なら大丈夫だろうとは思ってましたがね。こうして無事な声を聞くまでは……」
「心配しておりました」
中浜が続けた。穏やかな声だが、その穏やかさの奥に本気があった。
「正直に申し上げると、不安でした。十八日の南海路の旅を終え、品川から江戸へ向かう途中で、と後から聞きまして」
御簾の向こうで、糸子は言葉に詰まった。
こんなにも自分を案じてくれる人たちがいる。そのことが、今さらのように胸に落ちてきた。京を出てから、伏見、大坂、南海路、品川、札の辻と、ずっと動き続けてきた。そのあいだ、誰かが心配しながら待っていてくれたのだ。
「ご心配をおかけして、誠に申し訳なく存じます」
「謝ることはないですよ。無事ならそれで十分だ」
「旭狼衛の方々がいてくれたおかげでございます」
「そうですね。あの方々がいてくださったおかげです」
中浜が頷いた。
「さて、近況をお知らせしておきますとね」
勝が話を変えた。
「まず龍馬のことですが」
「坂本殿ですか?」
「今は西へ旅立ってます。江戸にはおりません」
「……そうでしたか」
「あいつから文が来ましてね。『毎日が充実しちょって、まっこと楽しい。次会う時には、わしが成長した姿を楽しみにしちょけよ』とかなんとか……」
勝は苦笑いをした。
「相変わらずでございますね」
「まったく、あいつは。まあ、元気にやってるってことですよ」
糸子は小さく笑った。いかにも坂本らしい。あの男は文ひとつでも、口で喋るのとまるで変わらない。どこかで元気に、楽しみながら駆け回っているのだろう。その姿が目に浮かぶようだった。
「お元気とのこと、安堵いたしました」
「ところで、姫様に聞いておきたいことがあるんですがね」
勝が少し真面目な顔になった。
「なんでございましょう?」
「道中、本当に大変だったと聞いてるんですよ。二十六人ですか。白昼の往来でそれだけの数に囲まれて。まあ、旭狼衛がいたから大丈夫だったとはいえ、怖かったでしょう」
「……少し怖かっただけでございます」
糸子は正直に答えた。
「少し、ね」
勝は少し笑った。
「俺が聞いたところじゃ、囲まれたときに姫様が大声を出したそうで」
「……それは」
「なんて言ったんです?」
「……夢の話です」
「夢?」
「はい、夢です!!」
糸子は力をこめて言いきった。傍らで、近藤がかすかに笑いをこらえていた。
「ところで」
中浜が口を開いた。
「姫様は今も英語の勉強を続けておられるとか」
「はい。止まる理由はありませんので」
「感服いたします」
中浜は本気の顔で言った。
「三年半、師として向き合って参りましたが、姫様ほど学ぶ手を止めない方は見たことがありません。ハリス殿との交渉の件、私も全力でお手伝いします。江戸にいるあいだは、遠慮なく使ってください」
「中浜殿……感謝の極みに存じます」
糸子の声が少し揺れた。
「ハリス殿という人の癖や、交渉の間合いは、姫様はもう十分ご存じのはずです。ですが私は、それを横でずっと見てきました。何か確かめたいことがあれば、いつでも」
御簾の向こうで、糸子は深く頭を下げた。
二 旭狼衛の評判
「ところで」
勝が座り直して、近藤のほうを向いた。
「今、江戸城の中じゃあ、あんたら旭狼衛のことで持ちきりだぜ」
近藤が少し首をかしげた。
「さようでございますか」
「二十六人の刺客を十人そこらで返り討ち。しかもほぼ無傷ときた。噂にならないほうがおかしいぜ」
勝はからりと言った。
「某は姫様をお守りするのが務め。そのお役目を果たしたまでにございます」
近藤は静かに答えた。
「まじめだねえ」
勝は笑った。
「しかし、姫様はいい家臣を持ってるねえ」
「近藤殿たちは、わたくしの家臣ではありません」
御簾の向こうから、糸子が言った。
「必ず守ってくれる、強い味方です」
「へえ、いいねえ、その間柄は」
勝が生暖かい目を向けた。
「家臣より、味方か。なるほど」
中浜も穏やかに笑った。命令で動く者と、信頼で動く者は違う。この旭狼衛という者たちと糸子のあいだにあるものがどういう種類のものか、中浜にはよく分かった気がした。
三 城内の噂
「そういえば」
中浜が思い出したように言った。
「今、城内ではもう一つ大きな噂が出回っております」
「どのような噂ですか?」
糸子は身を乗り出した。中浜はゆっくりと話した。
「近衛家の姫様を江戸に呼び寄せたのは堀田である、という流言が城内に広まっているのです」
「堀田殿が?」
「その堀田は、以前朝廷に出向いた折に近衛家と揉め、強い恨みを抱いている、と」
中浜は続けた。
「その恨みを晴らすために姫様を殺そうと考え、自らの属する一橋派の水戸藩に手を借りて襲わせた、というのです。しかも、江戸は京から遠く、朝廷がすぐには動けないから、わざわざ江戸で事を起こしたらしい、と」
部屋が静まった。
「姫様、これは本当のことなんですか?」
勝がまっすぐに聞いた。
「事実無根です」
糸子は即座に答えた。
「堀田殿がそのようなことをなさるはずがございません。この交渉の場に、わたくしを呼んでくださったお方でございます。誰かが、でたらめの流言を流しているのでございます」
「やっぱりそうか」
勝は腕を組んだ。
「実はな、この流言、ちょいと気になることがあってよ」
「なんでしょう?」
「二年くらい前だったか、井伊殿が大老になる少し前にも、同じような広がり方をした井伊殿の流言が江戸の町中に出回ったことがあった。そいつがあっという間に広まって、次々と本当のことにされていったときには、ずいぶんと混乱したんだぜ」
勝は唸るように言った。
「今度の堀田殿の流言は、そのときの出方とそっくりなんだよな。今回は城内だけで、外には出てこない。規模だけは小さいが、同じころにあちこちで一斉に話が出る」
勝は腕を組んだまま首をひねった。
「どうなっていやがるんだ?」
勝は真相を知らない。だが、何かが動いていることは感じとっていた。それを感じとれる人間が、勝海舟という男だった。
御簾の向こうで、糸子は静かに考えていた。
井伊のおっさんは、あの悪評騒ぎでわたくしの情報の扱い方を学んで、それをすぐさま使ったのか。
感心した。本当に感心した。
あのおっさんは頭が切れる。学んで、すぐに使う。それができる者は、政の世界でいちばん危うい種類の人間だ。史実では安政の大獄を起こすほどの強権を握り、しかも謀の嗅覚まで持っている。
けれど。
糸子の中で、何かが動いた。
あのおっさんがわたくしのやり方を学んで使ったのなら、今度はわたくしが、あのおっさんの流した流言そのものを、逆に使わせてもらいましょうか。
黒い考えが、頭の中にするりと浮かんだ。消えなかった。それどころか、少しずつ形をはっきりさせながら、そこに居座った。
「とても良いことを教えていただきました」
糸子は穏やかに言った。
「良いこと?」
勝が首をかしげた。
「はい。お教えいただいたこと、心より御礼申し上げます」
穏やかな声だった。だが、どこかが違っていた。
御簾の脇でその声を聞いた近藤の背筋を、何かが走った。理由は分からない。ただ、姫様がこういう声を出すときは何かを考えているときだと、近藤は経験から知っていた。
勝がきょろきょろとあたりを見回した。
「……な、なんだ? この感じは」
中浜も同じようにあたりを見回した。
「……寒くはないのだが……なぜか、悪寒がする」
二人は顔を見合わせた。
御簾の向こうで、糸子は静かに笑っていた。腹黒い姫が、顔をのぞかせていた。
四 土方の出立
話が一段落したところで、勝と中浜は席を外した。糸子は近藤に声をかけた。
「近藤殿、土方殿を」
「はい、ただちに」
近藤は席を立ち、しばらくして、出立の支度を整えた土方を連れて戻ってきた。
「姫様、まだ何か?」
「出立の前に、一つだけ決めておきたいことがございます」
糸子は御簾の向こうから言った。
「先ほどお願いした二つの件、調べる先は水戸を中心に集まる者たちになります。旭狼衛の土方歳三のままでは、近づくこともできませぬ」
土方は一瞬で呑みこんだ。
「脱藩浪人を演じればいいんですね」
「京から下ってきた、大老への怒りを抱えた男。それがあなたの役でございます」
「名前は?」
「田中弥次郎にいたしましょう!」
土方は小さく頷いた。田中弥次郎。どこにでもいそうな名だ。その平凡さが、かえって使いやすい。
「承知しました。それでは、行って参ります」
土方は腰に刀を差して立ち上がった。素早く、音のしない動きだった。一礼して部屋を出ていくその背中を、糸子は御簾の向こうから見送った。
「あの男なら大丈夫です、姫様」
近藤が静かに言った。
「引き際はわきまえています」
「……はい」
糸子は小さく答えた。足音が廊下を遠ざかっていった。
五 本所の裏長屋
大川沿いの道から少し入ると、細い路地が続いていた。
両側に古びた長屋が並んでいる。板の腐りかけた戸、煤けた格子、干しっぱなしの着物。暮らしの匂いが濃い。冬の路地には日が当たらず、地面はまだ湿っていた。軒先には、つららの垂れた跡が残っていた。
その本所の裏長屋の一室に、土方歳三がいた。
粗末な羽織をまとい、垢の落ちきらない着物を着ていた。帯には結び直した跡があり、腰の刀は鞘の塗りが剥げている。どこにでもいる、くたびれた浪人にしか見えなかった。名は、田中弥次郎と名乗っていた。
部屋の隅に座った土方の前で、小皿にのった角豆腐が冷えていく。箸を持ったまま、土方は外の音に耳を澄ませていた。
路地の向こうで、誰かが話している。
「昨日の集まり、また人が増えたぞ」
土方は箸を置いた。
姫様が自分に頼んだのは、黒幕が誰かを確かめること。その証拠を集めるのが、この潜入の目的だった。
土方がまとった偽りの信念は、ごく単純なものだった。
「井伊を生かしておけば、日本は異国に呑まれる」
今の江戸の下町を歩けば、どこでも耳にする言葉だった。それを心から信じているように見せることに、土方は長けていた。
六 末端との接触
最初の数日、土方は居酒屋と剣術道場のまわりをうろついた。
燻っている者たちがいた。藩を飛び出してきた者、主を失った者、怒りと行き場のなさを抱えた者。そういう男たちが、江戸の下町の居酒屋に集まっていた。
土方は、そこで聞き役に回った。
「京で何か動きがあるらしいな」
「水戸の連中が騒がしいと聞いた」
噂を拾って歩く男として振る舞った。自分から核心には触れない。ただ話が来るのを待ち、来たら少しだけ先を促す。
その慎重さが、かえって信用を生んだ。大口を叩く者は多いが、聞く者は少ない。静かに正確に話を聞く者は、信用される。
三日目に、一人の男から「引き合わせたい人がいる」と声がかかった。
七 水戸浪士との接触
引き合わされた先は、本所の空き家だった。
夜で、道に灯りはなかった。凍りかけた地面に、足音だけが響いた。
空き家の中に、男が数人いた。行灯がひとつだけ灯り、その光が男たちの顔を下から照らしていた。
その中の一人が、土方を見た。
関鉄之介だった。鋭い眼光は、人を試す目だった。
「口で攘夷を語る者は多い。だが、血を見られるか?」
土方はすぐには答えなかった。一拍置いた。すぐ答える者は軽い。腹の底から言葉を持ってくるだけの間を、一拍だけ取る。
「見るだけでは足りぬ。流す覚悟で来た」
低い声だった。部屋の空気が、わずかに変わった。
関の目は、しばらく土方の顔から離れなかった。それから、小さく頷いた。
その夜、土方は最初の仕事を与えられた。繋ぎの伝達だった。土方はそれを確実にこなした。次に武器の運搬を頼まれ、これも確実にやった。一晩じゅう見張りに立ったこともあった。
土方は一度もしくじらなかった。目立たず、確実に。ただそれだけを続け、少しずつ核心へ近づいていった。
八 金子・高橋の線
数日後、土方は別の場所に通された。深川の料理屋の裏座敷だった。
店の表は静かで、客がいるようには見えない。だが奥のほうに人の気配があった。川沿いの冷たい風が、路地に吹きこんでいた。
座敷に入ると、空気が変わった。末端の浪士たちの熱気ではない。算段と覚悟の入り混じった静けさだった。
二人の男が座っていた。
金子孫二郎。この計画の総指揮で、繋ぎの要でもある男だ。五十がらみの鋭い目をした男で、気持ちを顔に出さない。
高橋多一郎。実質の指導者である。口数が多かったが、その多さの中に計算があった。
「お前は、誰に命じられて動いている?」
高橋が問うた。
土方は少し考えた。名を出せば、その名を調べられる。
「誰にも。だからこそ、裏切る相手もない」
高橋が土方を見た。金子も同じ目で見ていた。
危うい答えだった。だが裏を返せば、辿られる糸がないということでもある。組織にとって、足のつきにくい駒は使い勝手がいい。
「使えるな」
金子が短く言った。
九 計画の輪郭
内側に入ると、計画の話が聞けるようになった。
会合は数日おきに、場所を変えて開かれた。本所、深川、神田。江戸のあちこちで、男たちは静かに集まっていた。
ある夜の会合は、神田の裏手の空き家だった。冬の夜の空き家は冷えきっていた。板張りの床に藁が敷かれ、部屋の隅に行灯が二つ置かれている。その光の中に十数人が集まり、吐く息が白かった。寒さの中で、人の体温だけが部屋をわずかに温めていた。
その夜に語られたことを、土方は頭に刻みこんだ。
狙うのは、彦根藩江戸藩邸。
集める人数は、百名以上。
加わるのは、水戸藩の浪士を中心に、各地の脱藩浪人。
中核となる者は、水戸藩の出が十九名。
関鉄之介
岡部三十郎
稲田重蔵
松田三郎
山口辰之介
斎藤監物
佐野惣三郎
加田誠介
海後磋磯之介
杉山弥一郎
広岡子之次郎
森山繁之介
黒沢忠三郎
佐藤鉄三郎
中山誠一郎
大関和七郎
蓮田市五郎
金子孫二郎
高橋多一郎
そして、薩摩藩の出が一名。
有村次左衛門
井伊直弼に天誅を加える。それが、この集団の目的だった。
土方は黙って話を聞きながら、胸の内で冷静に書き留めていった。名前、人数、役目。ひとつも漏らさず、頭に刻んだ。
だが話を聞くうちに、土方は別のことに気づいていた。
この集団は、彦根藩の内情を妙に詳しく知っている。藩邸の警備の様子、長野義言の動き、直弼の外出の予定。それらが会合の中で、当たり前のように語られていた。
誰かが、ずっと彦根藩を見張っていた。それも、かなり前から、念入りに。
姫様の言っていた二つ目は、これだ。土方は確信した。
十 第一報
ここまでで形になったところで、土方は動いた。
本所の裏長屋の一室で、行灯の光の下に帳面を広げ、筆を取った。書いたのは、短い書状だった。
中核は水戸藩浪士十九名、薩摩藩士一名。彦根藩江戸藩邸への討ち入りの企てあり。かなり前から念入りに練られた形跡あり。加わる者は浪人、脱藩浪人を合わせて百名を超える見込み。詳しくは引き続き調べる。
墨が乾くのを待って、土方は書状を懐に入れた。
翌朝、日本橋へ出た。
日本橋の袂にある両替商は、外から見れば何の変哲もない店だった。暖簾をくぐると、番頭が顔を上げた。
「お越しをお待ちしておりました」
番頭は低く言った。呉服屋松屋の息のかかった両替商だ。松屋と繋がる者が来れば、すぐに分かる。
「これを」
土方は書状を差し出した。
「確かに。必ずお届けいたします」
番頭が受け取り、土方は店を出た。表通りには日本橋の往来が広がっていた。荷車が通り、人が行き交う。江戸の朝は活気に満ちていた。
その活気の中を、土方は粗末な羽織のまま、田中弥次郎として歩いていった。
十一 気になる男
会合に、口数の少ない男がいた。
ほかの者が熱に浮かされたように語るなかで、この男だけが違った。言葉は少ないが正確で、日付や人数をきちんと覚えている。彦根藩の動きを語るときも、ほかの誰より細かいところまで知っていた。
土方は何度か、その男の様子をうかがった。頭の中では「男乙」と呼んでいた。
ある夜、会合が終わったあと、土方は男乙の後ろを少し歩いた。
深川の夜道だった。川沿いの道に、橋の下から冷たい風が吹き上げてくる。提灯の灯りが揺れていた。
角を曲がったところで、土方は声をかけた。
「少し、よろしいか」
男乙が振り向いた。警戒した目だった。
「さっきの話、妙に詳しかったな」
男乙は黙った。
「俺も見たことがある。裏で動く連中の匂いをな」
土方は言いきらなかった。知っている、とは言わない。ただ、感じている、とだけ伝えた。
男乙の目の張りつめたものが、わずかに緩んだ。
十二 証言
二人で近くの居酒屋に入った。
板張りの座敷に、ほかの客が数人いた。土方と男乙は端の席に座った。燗をつけた酒が運ばれてきた。
土方は急がなかった。まず一杯、黙って飲んだ。それから、ゆっくりと話を切り出した。
「あの話には、おかしなところがいくつかあった」
男乙は杯を手にしたまま、聞いていた。
「二十六人で姫を襲う? しかも、ほとんどが返り討ち……出来すぎてはいないか?」
男乙は黙りこんだ。その沈黙が答えだった。土方は続けた。
「……見ていたのか」
低い問いだった。男乙は杯を置いた。
「……見ていた」
小さいが、はっきりとした声だった。
土方は何も言わなかった。黙っていることが、続きを引き出した。
「襲撃の前、彦根の者がしきりに動いていた。品川のほうへ人が流れていた。その前触れを、俺はずっと見ていた」
「いつから見ていた?」
「夏の終わりからだ。彦根藩邸の出入りを追っていた。誰かが、何かを動かそうとしているのが分かったからな」
「騒ぎのあとは?」
「……妙に静かだった。あれだけの騒ぎが起きたのに、彦根からは何ひとつ出てこなかった」
男乙は声を落とした。
「それだけじゃない。騒ぎの夜、ぼろぼろになった八人が、彦根藩の江戸藩邸に逃げこんでいくのを、俺は見た」
土方の目が、わずかに動いた。
「何刻ごろだ?」
「夜の五つを過ぎたあたりだ。品川の方角から来た。門は開いていた。待っていたように開いていた」
「人数は、確かに八人か」
「間違いない」
土方は頭の中で数を確かめた。札の辻で逃げた者は八名だった。その八名が、その夜のうちに彦根藩邸に入った。数が合う。偶然ではない。
「生き残った者の扱いも、おかしかった」
男乙は続けた。
「本来なら、番屋に届けが出た以上、逃げた者の行方を追うはずだ。ところがそれが、どこかで止まった。誰かが手を回したんだ」
「……そうか」
土方は、それ以上は聞かなかった。
十三 内への根づき
土方は、男乙をそれ以上追わなかった。知りすぎた者は消される。それが分かっていたからだ。要るものはもう手に入った。これ以上は危うい。
翌日の会合で、土方はあえて強硬な構えを見せた。
話が「まだ支度が足りない」という慎重論に傾きかけたとき、土方は口を開いた。
「もはや猶予はない。討ち入りで決めるべきだ」
部屋が静まった。関が土方を見た。
「その通りだ」
関のこの一言で、土方の立場が変わった。疑いの目を向けられていたよそ者から、実行を担う者として信を置かれる側へ。
土方は、企ての中にいっそう深く溶けこんだ。全体の形、中枢の顔ぶれ、陰で見張っていた者の証言。すべてを手に入れた。
だがそれは同時に、土方自身もまた、命を預ける側へ踏みこんだということだった。それを承知のうえで、土方は動いていた。
十四 第二報
翌朝、土方は再び日本橋の両替商へ向かった。
朝の寒さは厳しかった。橋の上を吹き抜ける風が頬を刺す。川の水は鉛色に光り、水鳥が一羽、川面を低く飛んでいった。
店に入ると、番頭が今日も静かに待っていた。
「またお越しを」
「ああ」
土方は書状を出した。
今度の書状には、詳しいことを書いた。男乙という見張り役の存在。潜伏先。繋ぎに使われている筋。
そして、騒ぎの夜に八名が彦根藩邸に逃げこんだという目撃の証言。彦根藩が前もって事を掴み、後始末にも関わっていた節があること。さらに、企ての中枢の名前も記した。金子孫二郎、高橋多一郎、関鉄之介。
「確かに」
番頭が受け取り、土方は店を出た。
十五 書状を読む糸子
昼過ぎ、一橋上屋敷の奥御殿にいる糸子のもとへ、書状が届いた。松屋からの荷に紛れこませた形で、葵が運んできた。
糸子は御簾の内で書状を開いた。
最初の数行で、目が止まった。企ての規模は百名超え。中核は水戸十九名、薩摩一名。狙いは彦根藩邸への討ち入り。第一報だった。
もう一通も届いていた。開くと、男乙の証言が記されていた。彦根藩が前もって動きを掴んでいたこと。騒ぎの夜、八名が彦根藩邸に逃げこんだこと。第二報だった。
両方を読み終えたあと、糸子はしばらく動かなかった。頭の中で、ばらばらだったものが組み合わさっていった。
勝から聞いた、堀田が下手人だという流言。あれは直弼が流したものだ。自分の仕掛けを隠すために、別の者に罪をなすりつけたのだ。
そこへ、土方の報せが来た。彦根藩が品川の刺客を前もって動かしていた。逃げた八名は彦根藩邸に逃げこんだ。何もかもが、彦根藩の関与を指していた。
証拠が揃いはじめていた。
「なるほど、これで確証が得られましたね。わたくしたちを襲った真の黒幕は彦根藩。そしてその彦根藩が、井伊の指図か意向もなしに、こんな襲撃を実行できるはずがない……」
土方が襲撃のあとに言っていたことを思い出す。かなりの組織を動かせる者が関わっている。こちらの動きを正確に掴んでいたのは、幕府の内にいる者かもしれない。
「……わたくしの思ったとおりでございましたわね」
糸子は少しだけ、ほっとした。
史実では、安政七年三月三日、一八六〇年三月二十四日に、江戸城の桜田門外で、水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士ら十八名が大老・井伊直弼を討ち果たす。桜田門外の変である。
ところが土方の寄こした第一報には、百名を超える規模、水戸十九名と薩摩一名の中核、そして彦根藩邸への討ち入りとあった。
「史実と違うのは、わたくしが、井伊が大老になる前に流した悪評のせいでしょうね。桜田門外での襲撃が、藩邸への討ち入りにまで膨れ上がって、十八人だった襲撃者も百人を超えている。わたくしが思っていた以上に、事が大きくなってしまいました……」
史実と変わらないのは、企ての中核にいるのが、桜田門外の変を起こした者たちと同じ顔ぶれだということくらいだろう。
だが糸子の考えは、その先にあった。
百名を超える討ち入りの企てがある。井伊直弼を狙う企てが、もう動いている。
それを、どう使うか。
「近藤殿、沖田殿を呼んできてくださいまし」
十六 沖田総司を呼ぶ
「分かりました」
近藤は席を立ち、しばらくして二人で戻ってきた。
「姫様、なんですかー?」
沖田総司が、明るい声で入ってきた。今日も屈託がない。旭狼衛でいちばん剣の鋭い男が、いちばん屈託のない顔をして立っている。その不思議を、糸子はいつも面白いと思っていた。
「沖田殿に、ちょうど頼みたいことがございます」
「楽しいことなら大歓迎ですよ!」
沖田はにこにこした。
「たぶん……沖田殿なら喜ぶのではないかしら?」
糸子は静かに笑った。
近藤の身が少し硬くなった。姫様が「たぶん喜ぶ」と言うときは、それなりのことを頼むときだ。近藤は経験からそれを知っていた。
「なんですか、なんですか?」
沖田が身を乗り出し、糸子と沖田のあいだで小声のやりとりが始まった。
近藤には聞こえなかった。ただ、二人の声の調子から、何かが動きだしたことだけは分かった。近藤は耳を澄ませかけて、やめた。
「へえ、それは面白そうだ!!」
沖田が顔を輝かせた。
「それで、沖田殿にはぜひ揃えてもらいたいものがございます」
糸子は胸元から書状を取り出した。
「この書状を呉服屋の松屋に持っていって、集めるのを手伝ってもらってくださいな」
「この書状を持っていけばいいんですね!」
沖田は書状を受け取った。
「そういうわけで、沖田殿にも当分、わたくしの警護から外れてもらいますが……よろしいですか、近藤殿」
「姫様は当分お出かけのご予定もございませんので、差し支えないかと」
「よかったー。駄目だって言われたら、近藤さんのこと斬ってましたよ」
沖田は笑顔のまま言った。近藤の顔が少し引きつった。
「それにしても楽しみだなあ。土方さんの驚く顔が楽しみだ」
沖田はにこやかに言った。
「集まったら、確かめのために一度わたくしにも見せてくださいませ」
「わかりました、姫様」
「このお役目が危ないと思ったら、すぐに引き上げてくださいまし。沖田殿の命のほうが、何よりも大事でございます」
「姫様はお優しいなあ。わかりました、肝に銘じます。それじゃあ、これで失礼しますね」
沖田は一礼して部屋を出ていき、その足音が廊下の向こうに消えた。
縁側の外の小庭に、冬の午後の光が差していた。かすかな風に松の葉が揺れ、石灯籠の影が地面に細く落ちていた。
まだ残っていた近藤が、口を開いた。
「姫様、何かお考えで?」
「はい」
「……どのようなことを?」
糸子はゆっくりと振り向いた。
穏やかな笑みだった。けれどその奥で、腹黒い公家の姫が静かに目を光らせていた。
「あなたはもう、おしまいです」
糸子は静かに言った。
「お・し・ま・い・DEATH!」
近藤は黙っていた。なるべく反応しないと心に決めて、ひたすら無表情を貫いていた。
十七 第三報
数日後の夜、土方は再び動いた。
その夜の会合で、企ての最後の段取りが語られた。討ち入りは冬の終わり。加わるのは合わせて百二十七名。金子孫二郎が全体を指揮し、関鉄之介が現場を動かす。高橋多一郎は後ろから支える。
日取りが絞りこまれてきていた。
会合の帰り道、土方は足を止めて空を見上げた。江戸の夜空に、冬の星が鋭く光っていた。
頭の中を整理した。
自分は今、百二十七名の討ち入りの企ての中に溶けこんでいる。黒幕の確かめはついた。彦根藩が品川の刺客を前もって動かし、逃げた者を匿った証拠も取れた。企ての中心にいる者たちも掴んだ。
送るべき報せは、これが最後だ。土方はそう判断した。これ以上深追いすれば、消される。引き際だった。
翌朝、土方は日本橋の両替商へ向かった。
朝の寒さは厳しかった。橋の上を吹く風が頬を刺し、川の水は鉛色に光っていた。橋を行き交う人々は、寒さに首をすくめて歩いていく。荷を担いだ者、急ぎ足の職人、笠をかぶった武士。それぞれが、それぞれの道を歩いていた。
土方はその中を、粗末な羽織のまま歩いた。
店に入ると、番頭が言った。
「三度目でございますね」
「ああ」
土方は書状を差し出した。
この者たちが彦根藩邸に討ち入る夜の目処が立った。加わる者は百二十七名。以下、詳しく記す。
番頭が受け取った。
「確かに」
「これで、終わりだ」
土方は静かに言った。
「はい。お疲れ様でございました」
番頭は深く頭を下げた。
土方は店を出た。日本橋の朝の往来の中に、田中弥次郎の姿が消えていった。
一橋上屋敷では、糸子が帳面に何かを書き続けていた。
冬の江戸の朝は静かだった。だがその静けさの中で、いくつもの企てが同時に、音もなく動き続けていた。
第四十七話 了
※一部内容を加筆修正致しましたm(_ _)m
沖田総司が物騒極まりない。糸子がだんだんその正体を隠さなくなってきた。近藤さんはいろいろ気苦労が堪えなさそうだ…(  ̄д ̄)がっでぇ~む




