第四十六話「影の戦場」
——時間は少し遡る。
安政六年、夏の初め。
江戸の空は高かった。
梅雨が明けて間もないころの空には、水を含んだ雲がまだ端に残っている。その切れ間から、夏の青がのぞいていた。冬の空のように透きとおった青ではない。水気と熱気をたっぷり含んだ、息をしているような眩しい青だった。
江戸の夏は、声が多い。
商いの声、子供の声、荷を運ぶ者の掛け声。それらがみな熱の中に溶け合い、街全体がひとつの生き物のように呼吸していた。
その喧騒の上に、江戸城は静かに立っていた。
白漆喰の壁が夏の陽を受けて眩しく光り、松の緑が濃く茂っている。堀の水面に夏雲の白が映り、水が動くたびにその白が揺れた。
城内には、城下の熱気とは別の張り詰めたものがあった。幕府の権力の形が、水面の下で動きはじめていた。
一 彦根藩江戸藩邸・夏
夏の初め、彦根藩江戸藩邸は蝉の声に包まれていた。
庭に植えられた何本もの松と楠が、夏の陽をさえぎって濃い影をつくっている。影の中にいればいくらか涼しいが、一歩出れば、陽の熱が容赦なく降ってきた。
縁側の先の庭では、油蝉が鳴いていた。単調な声だが、夏の空気そのものが鳴っているような厚みがあった。
井伊直弼の使う書院は、その蝉の声を遠くに聞きながら、薄暗かった。
障子は閉め切られていた。夏の眩しさと熱を避けるためだけではない。この部屋で交わされる言葉を、外へ漏らさないためでもあった。
調度は質素だった。床の間に掛かった一幅には「一期一会」とある。茶人としての直弼が好む言葉だ。その横に、使いこまれた黒塗りの硯箱が置かれていた。
直弼は膝の前に書状を広げていた。斜め前に、長野義言が控えている。
「大老としての権限を取り戻すには、一橋派の力を削がねばならん」
直弼は静かに言った。
「だが、政の場で正面から一橋派とやり合うのは、今は難しい。老中どもが合議を盾にしてくる」
「はい」
「ならば、政ではない筋を使うとしよう」
直弼の口の端が、わずかに上がった。
長野の身が硬くなった。長く仕えてきた長野は、主の口元がそう動くときに何が始まるかを知っていた。
「どのような筋でございましょう」
「上様のお身体だ」
直弼は静かに続けた。
「家定様の御容体が思わしくないことは、幕府の内では知られている。だが、その御容体が跡目の話にどう響くか。そこはまだ、十分に使われておらん」
「上様の御容体を、利用なさると?」
「利用とは穏やかでない言い方だな」
直弼は言葉を選んだ。
「言い換えれば、ありのままを形にする、ということだ。重い病の床で家定様が跡目を指名なされば、それは上様のはっきりしたご意志として記される。慶福様を正式に跡目と指名させることができれば、一橋派の推す慶喜の目は、表向きに消える」
「しかし、上様が御自らそのようなお考えを示されるかどうか……」
「そのための働きかけが要る」
直弼は言った。
「家定様の周り、大奥を通じた働きかけを、密かに始める」
「大奥を?」
「大奥は、上様のお考えを大きく左右できる場所だ。家定様のお身体を考えれば、大奥からの働きかけは十分に効く」
長野は少し間を置いた。
「……これは、かなり危うい道ではございませんか」
「危うい」
直弼は迷いなく認めた。
「だが、わたしがこのまま何もできずにいれば、もっと危うくなる。大老の権限を取り戻すためなら、多少の危うさは呑む」
「分かりました。密かに動かします」
「それから、近衛家への揺さぶりも、この大奥への働きかけも、決して外へ漏らすな。とくに大奥の件が露見すれば、わたしの立場は終わる」
「はい。固く管理いたします」
長野が下がったあと、直弼は一人で書院に座ったまま、書状に目を落とした。障子の外では、蝉が鳴き続けている。
床の間の掛け軸に目をやった。一期一会。
「……この機を逃しはせん」
直弼は静かに言った。その顔に、どす黒い笑みが浮かんだ。薄暗い部屋の中で、その笑みだけが妙にくっきりと見えた。
二 企ての全容
直弼の企ては単純だった。単純だからこそ、恐ろしかった。
幕府は合議で物事を決める。跡目の問題を正面から論じれば、一橋派も力を持っている以上、決着はつかない。議論が長引けば、時は一橋派に味方する。慶喜を推す声が大きくなれば、やがてそれが既成の事実になる。
それを防ぐには、議論そのものを飛び越えるしかない。
将軍・徳川家定が自らの口で「慶福を跡目とする」と言えば、それで終わる。将軍の言葉は最後の決定であり、誰にも覆せない。
家定は病弱で、判断の力も弱く、周りの言葉に流されやすい。直弼は、今こそその弱さを使う時だと見ていた。
とはいえ、大老であっても、家定にじかに会って言葉を吹きこむのはたやすくない。家定の周りを固めているのは大奥の者たちだ。女中、側室、側仕えの者。彼女たちが将軍の日々を握っていた。
だから、大奥を通じて動く。
大奥の中に内通する者をつくり、そこに「慶福様を」という空気を育てる。空気が変われば、家定の耳に入る言葉が変わる。言葉が変われば、家定の受け止め方が変わる。受け止め方が変われば、決断が変わる。
命じるのではなく、周りを変える。強いるのではなく、導く。それが直弼の選んだやり方だった。
企ては、段を踏んで進めるつもりだった。
まず夏のうちに、大奥に伝手をつくる。出入りの商人を通じて目当ての女中に近づき、金や縁故で結びつきを固める。
秋には、その内通者を通じて「慶福様を」という空気を広める。紀州の慶福様は温和で素直だ。一橋の慶喜様は気性が激しい。そうした見方を、大奥の中の「常識」にしていく。
同時に、慶喜への不安も植えつける。慶喜様が将軍になれば政が荒れる。諸大名が割れる。幕府が揺らぐ。将軍が嫌がる方向へ、考えを導いていく。
そして初冬には、家定の御容体を理由に決断を急がせる。側仕えの者に「万一に備えて、お跡目を」「お身体が案じられますので」と繰り返させ、考える余裕を奪う。
最後に、家定自身に「慶福がよい」と言わせる。
肝心なのは、家定に「自分で決めた」と思わせることだった。導かれた結論を、自ら下した決定に見せかける。そこに、この企ての芯があった。
一度言わせてしまえば、すぐに書面に残し、「上様のご意志」として固める。幕府の内に触れを出し、「もう決まったこと」として押し通す。そうなれば、一橋派は将軍の意志に異を唱えられなくなる。
うまくいけば、年内に片がつく。
直弼はそう見積もっていた。
三 篤姫
だが大奥には、それを阻む者がいた。
篤姫。将軍・家定の正室である。
篤姫は薩摩の生まれだった。島津家の血を引き、近衛家の養女となって将軍家に嫁いだ。出自の華やかさもさることながら、この女は聡明だった。大奥という、政とも武家とも違う閉じた世界の中で、自分だけの連絡の網と人の繋がりを築いていた。
その篤姫が、夏の初め、大奥の奥深くにある自らの部屋に座っていた。
広い部屋だった。縁側の外には夏の緑が濃く茂った庭が広がり、赤と白の入り混じった芙蓉が咲いている。花の向こうの空を、雲が流れていった。
篤姫は庭を見ていた。温かみがあり、それでいて澄んだ目だった。外から見れば、静かに庭を眺めているだけにしか見えない。だがその頭の中では、近ごろの出来事を整理していた。
このところ、直弼と幾度か顔を合わせる機会があった。
儀礼の場での顔合わせだった。直弼は丁寧で、言葉を選び、表情も穏やかだった。
けれど篤姫には、その穏やかさが不自然に思えた。
人は気持ちがあるから言葉を持つ。気持ちと言葉が合っていれば、その言葉は自然に届く。だが直弼の言葉は丁寧すぎた。抑えが効きすぎていた。気持ちと言葉のあいだに、薄い膜が一枚挟まっているように感じられた。
この男は、何かを隠している。
一度だけ、直弼の目が将軍のいる方へ動いた。ほんの一瞬だった。けれどその目の動きに、篤姫は何かを見た気がした。
値踏みをしていた。将軍を。人としてではなく、道具として。
篤姫は庭を見つめたまま、そのときの感触を何度も思い返した。
(曲者め、何を目論んでおる……)
気持ちの問題ではない。確信だった。
何を企んでいるのかは、まだ分からない。だが、何かを仕掛けてくるのは間違いない。それも、大奥を通じて。
なぜそう思うのか、篤姫自身にも説明はできなかった。けれど、この勘が外れたことはなかった。大奥で生きていくには、見えないものを見る目が要る。篤姫はその目を、長い年月をかけて磨いてきた。
篤姫は障子に向かって声をかけた。
「於吉」
「はい」
障子の外から、控えめな声が返ってきた。
「少し、尋ねたいことがある。桐乃と志津を、これへ召してまいれ」
「承知いたしました」
篤姫は庭を見続けた。かすかな風に芙蓉が揺れ、白い花びらが光に透けた。
静かだった。その静けさの中に、篤姫の決意があった。
四 第一段階——大奥の引き締め
夏の半ば、篤姫は動きはじめた。
最初に手をつけたのは、大奥の空気を整えることだった。
大奥では、何百人もの女たちが働いている。御年寄、中年寄、御中臈、御錠口。それぞれに役目があり、それぞれに人の繋がりがある。この入り組んだ網の中に外から工作を忍びこませるには、必ず糸口が要る。
篤姫は、その糸口を塞ぐことから始めた。
「桐乃」
「はい」
篤姫が信を置く側仕えの一人が、膝の前に座った。
「近頃、外とのやり取りが重なる女中があるそうじゃが、誰のことなるぞ」
桐乃は少し考えた。
「……御末の千代が、このひと月ほど、出入りの商人としきりに話しているとのことで……」
「どの商人じゃ」
「呉服の者だと申しておりましたが、取引の量のわりに会う回数が多いと、御仲居の者が申しておりました」
「そうか」
篤姫は頷いた。
「千代を、御側から御末の仕事へ回しておくれ。理由は言わず、静かにな」
「……承知いたしました」
「それから、しばらくの間、外との軽々しき音信は控えるよう、皆に含めておくれ。大奥の噂を外へ漏らすことも、外の雑説を軽々しく持ち込むことも、厳しく慎むように、とな」
「はい」
「命じるのではなく、頼む形でな」
篤姫は言い添えた。
「命じれば、その命がまた新たな噂の種になろう。命じず、空で伝えるのじゃ」
桐乃は深く頭を下げて退いた。
篤姫は続いて志津を呼んだ。
「志津。……そなたに、少し頼みたいことがあるのじゃ」
「はい」
「大奥の中で、近頃誰が誰と親しくしているか、誰が誰に相談を持ちかけているか、少し気をつけて見ていておくれ。とくに、これまでなかった付き合いが、新しく始まっているようならな」
「……承知いたしました」
「決して問い詰めたりはせぬようにな。ただ、見ているだけで構わぬのじゃ」
志津は一礼して去った。
一人になった篤姫は、胸の内でつぶやいた。
(まずは事の「奔流」を見極める。それが、最初の一手じゃ……)
直弼がどこから入りこもうとしているのか、まだ分からない。それでも、大奥と外との接点を絞れば、入りこむのを遅らせることはできる。
それだけで時が稼げる。時がある限り、事は動かせる。
五 第二段階——空気の戦い
夏が深まるころ、直弼の工作が、少しずつ大奥の端に届きはじめた。
ある女中が、廊下で誰かとひそひそ話をしていた。漏れ聞こえた言葉の切れ端に「慶福様」という名があった。別の場所では、茶の席で「紀州のお方は温和だ」という話が出た。
篤姫の網が、それを拾ってきた。
(案の定、蠢きはじめたな……)
篤姫は胸の内で確かめた。取り乱しはしなかった。ただ、事の次第を正確に掴んだ。
次の手は、空気には空気で返すことだった。
篤姫は、はっきりとした言葉は使わなかった。「慶喜公を推す」とは一言も言わない。それを口にすれば、政に踏みこんだことになる。大奥の主として、将軍の正室として、政にじかに手を出すのは分を越える。
だが、「慎重に」と言うことはできる。
篤姫は大奥での日々の会話の中に、少しずつ言葉を置いていった。
「お跡目のことは、軽々しく口にできることではございませぬなぁ」
茶の席で、さりげなくそう言った。
「上様がよくお考えになるべきことですもの。周りが騒ぎ立てて、良いことなど一つもございませぬから」
庭を歩きながら、側仕えにそう言った。
「諸大名の声に広く耳を傾けられ、幕府全体が得心する形でお決めになるのが、長い目で見てこの国が安らかに進む道だと思いますよ」
どの言葉も、誰かを退けるものではない。慶福を否むものでもない。ただ、急がなくてよい、慎重に、よく考えて、という方へ空気を導いていた。
その一方で、篤姫は別の言葉も置いた。
「一橋様は、なかなか聡明なお方だそうでございますね」
「諸大名のあいだでも、随分と評判が良いと聞き及びますよ」
「広く人望を集めるお方が上様の位にお就きになれば、幕府の行く末も安らかでございますから」
これも、慶喜を推すとは言っていない。ただ、並べて比べられたときに、慶喜の値打ちを下げさせなかった。
大奥の空気は、危うい釣り合いの上にあった。
直弼の工作が「慶福様を」へ傾けようとし、篤姫の返し手が「どちらとも言えない」ところへ引き戻す。その綱引きが、人の目に見えないところで続いていた。
六 将軍・家定
中奥の奥深くに、将軍・徳川家定の居室があった。
静かな部屋だった。庭に面した縁側は広く、夏の緑が目にやさしい。縁側に吊るした風鈴が、風が来るたびに小さく鳴った。
家定は病弱だった。
もともと政への関心は薄い。体調のすぐれない日が続き、老中の報告を聞く表の場に出ることも、近ごろは少なくなっていた。
その家定の日々を支えているのは、大奥の女たちだった。側仕えの女中が食事を運び、薬を持ってきて、話し相手になる。その会話の中で自然と耳に入ってくる言葉が、家定のものの見方をつくっていた。
そのことを、篤姫は誰よりもよく知っていた。だからこそ、家定のもとへ届く言葉を、篤姫は丁寧に見張っていた。
「家定様」
ある夕方、篤姫は家定の居室を訪ねた。
「お加減はいかがでございましょう」
「……今日は、少し楽だ」
家定は穏やかに答えた。
「それは良うございました。ご無理をなさらず、今日はゆっくりお過ごしくださいませ」
「……うむ」
「近頃は難しいお話が多いようですけれど、今日はそういうお話は脇に置いておきましょう。お庭の萩が咲き始めましたよ。ご覧になりますかえ」
「……そうか。見てみよう」
篤姫は、政の話をさりげなく遠ざけた。
決断を迫る者がいれば、その前に「今日は休む日」という空気をつくる。跡目の話が出そうになれば、別の話へ流す。急がせようとする動きを、穏やかな言葉で止める。篤姫の将軍への働きかけは、いつもそういう形をとっていた。
「どなたの言葉にも、惑わされなくてよいのですよ、上様。大事なことは、上様ご自身がよくお考えになってお決めになればよいのでございますから」
篤姫は折に触れて、家定にそう伝えた。
命じるのでも、押しつけるのでもない。外から導かれることへの、静かな備えを植えつけていたのだった。
七 秋の攻防
秋になった。
江戸の空が高くなり、空気が乾いて遠くまで見通せるようになった。秋の陽の中で、江戸城の松の緑がくっきりと浮かんでいた。
直弼の企ては、見積もりよりも遅れていた。
大奥への浸透が思うように進まない。内通させようとした女中が、気づけば別の役目に移されている。「慶福様を」という声を広めようとすれば、必ずどこからか「慎重に」という声が返ってくる。将軍に近づこうにも、何かしらの理由で先延ばしになった。
(邪魔が入っている……)
直弼は気づいていた。誰が邪魔をしているのかも、おそらく分かっていた。だが証拠がない。篤姫は何ひとつ反対していない。慎重に、と言っているだけだ。それを直弼が咎めることはできなかった。
長野が報告に来た。
「井伊様、大奥への工作が滞っております。思うように進みません」
「分かっている」
「誰かが邪魔をしているようで……」
「御台所だ」
直弼は静かに言った。
「あの女が、大奥の空気を握っている。何も言わずに、こちらが何もできぬようにしている」
「……さすがに手強いお相手でございますな」
「だが、止まっていては意味がない。秋のうちに、上様への働きかけを強めろ。御容体を理由に、決断を迫る方へ動け」
「しかし御台所様が……」
「急がせろ。やり方を変えろ。大奥の別の筋を使え」
長野は頭を下げた。
だが秋になっても、事は直弼の思惑どおりには運ばなかった。
上様の御気分がすぐれないという理由で、政の話は先送りになった。篤姫が家定の周りを固めていて、跡目の話が出かかると、決まって「今はご養生が第一」という声が上がった。
誰も反対はしていない。それでも、決断は下されなかった。
大奥の表は平穏だった。だがその下では、直弼の工作と篤姫の守りが、静かに、そして激しくぶつかり合っていた。
八 大奥の秋——篤姫の情報戦
秋の前半、篤姫の網は少しずつ目が細かくなっていった。
はじめのうち、志津の持ち帰る知らせは断片的だった。誰と誰が話していた、という程度のことだ。だが積み重なるにつれて、その輪郭が見えてきた。
大奥の北の廊下に近い部屋に出入りする女中たちを中心に、慶福推しの話が広まっている。その女中たちには共通するところがあった。出入りの商人と接していた者や、彦根藩と縁のある家の出の者が、何人も混じっていたのだ。
篤姫は、このことを誰にも話さなかった。そして一つずつ、静かに手を打った。
ある女中を、北の廊下から遠ざけた。役目替えを命じ、理由は「奥向きの整理」とだけ告げた。逆らう者はいなかった。
別の女中とは、じかに話す機会をつくった。
「そなたのことは、信じておるよ」
篤姫がそう言うと、女中は胸を熱くした。篤姫への忠義を深めたその女中は、外からの誘いに自然と乗らなくなった。
人を罰さずに、人を動かす。それが篤姫のやり方だった。
一方、将軍の周りには、別の手を打っていた。
家定と日々言葉を交わす女中たちのあいだに、篤姫は少しずつ「慎重に」という考えを染みこませていった。
「お跡目の儀は国の重大事でございますから、じっくりとお考えになればよいのですよ」
そういう言葉が、家定の耳に届くように仕向けた。急ぐことはない。よく考えて。誰かに急かされる必要はない。そうした言葉が家定の日々の言葉として根づくよう、時間をかけて繰り返させた。
九 篤姫の内面
秋が深まるころ、篤姫は縁側に座って庭を見ていた。
楓が色づいていた。赤と橙に、まだ残る緑が混じり合い、庭は錦を広げたようだった。石灯籠のまわりに、落ち葉が積もりはじめていた。
一人だった。
(この果てなき戦は、いつまで続くものか……)
外に向けてはいつも穏やかな顔を崩さない篤姫だったが、一人になると、その目に疲れがにじんだ。
直弼という男は、しつこかった。
一つの筋が塞がれれば、別の筋を探してくる。一人の女中が役目を替えられれば、別の者を探してくる。その執念は、篤姫が思っていたよりも強かった。
それでも、負けるわけにはいかなかった。
家定は今、とても脆いところにいる。政の判断の力が弱り、周りの言葉に流されやすくなっている。そんな時に「慶福を跡目に」という言葉を植えつけられたら、家定は、それを自分の考えだと信じてしまうかもしれない。
導かれた結論を、自分の意志だと思いこむ。それこそがこの企ての一番恐ろしいところだと、篤姫は分かっていた。
(家定様をお守りする。……ただ、それだけじゃ)
政の思惑はない。慶喜を将軍にしたいという欲もない。ただ、大切な人が見えない手で動かされることに、篤姫は抗っていた。
風に楓が揺れて、葉が一枚落ちた。篤姫は、それを静かに見ていた。
十 直弼の怒り
秋も深まったある夜、彦根藩江戸藩邸の書院に、直弼は一人でいた。
行灯の灯りが、部屋を薄く照らしている。闇の中に庭の松が黒く立ち、枝が風に揺れるたびに、闇がかすかに動いた。
窓の外には、江戸の夜空が広がっていた。冬を前にした星は、夏の星より鋭く光る。冷えた空気の中で、その光が際立っていた。
長野の報告が終わったところだった。
大奥への工作は、相変わらず止まったままだった。将軍の決断は、まだ引き出せていない。
「……なぜだ」
直弼が言った。静かな声だが、その奥に鋭さがあった。
「この程度の企てが、なぜ動かん……」
「御台所様が……」
「分かっている」
直弼は遮った。
「御台所が邪魔をしている。だが、その御台所は何をしている? 反対しているか? していない。ただ、何も決めさせずにいるだけだ。何も決めさせぬことが、これほど効く手になるとは……」
直弼は立ち上がり、縁側の手前で足を止めた。
夜の庭を見た。闇の中に松の影があり、石灯籠が黒く立っている。晩秋の庭は、生気が抜けたように静まり返っていた。
「……あの女は、いつから大奥にいる?」
「安政三年に御入輿なさいましたので、三年ほどかと……」
「三年で、大奥をあれほど掌握したか」
直弼の小さな舌打ちが、静かな夜の書院に響いた。
「女というものは恐ろしい。権力もなく、剣もなく、ただ言葉と役目替えだけで、わたしの企てを止めている」
長野は黙っていた。
「それで、篤姫は、どこの養女だったか」
「……近衛家でございます。左府様の養女として将軍家に」
直弼の動きが止まった。ほんの一瞬だった。だが、その一瞬で何かが変わった。
「……近衛だと…?」
「はい。御台所様は薩摩島津家のお生まれですが、江戸に参られる際に近衛家の養女となられました」
直弼の顔を、何かが走った。
「また近衛か!!」
抑えた声の底に、隠そうともしない憎しみがあった。
「天朝物産会所、堀田との繋ぎ、そして今度は大奥の邪魔立てまで。すべての後ろに近衛がいるのか!」
長野は静かに、しかし深く頭を下げた。
「……偶然ではないのかもしれません」
「偶然などではない」
直弼は言い切った。
「近衛は、わたしの邪魔をする家だ。五摂家筆頭の格式を笠に着て、朝廷を動かし、大奥にまで手を伸ばし……!」
直弼は書院の柱に手をついた。夜の静けさの中で、その荒い息づかいが聞こえた。
しばらく、誰も口を開かなかった。風に揺れる松の音だけが、書院に届いていた。
やがて、直弼が言った。
「……しかし」
声が変わっていた。怒りから、冷ややかな落ち着きへ。その切り替わりの速さが、長野には恐ろしかった。直弼に仕えてきて、この瞬間を何度も見てきた。怒りが消えたあとの直弼こそ、最も危ういのだった。
「この女のせいで時はかかるが、企ては必ず進める」
「はい」
「それに、邪魔が入るということは、こちらの手が効いているということだ。だからこそ、邪魔をしたい者がいる」
行灯の光の中で、直弼は笑った。
「それに、この御台所の邪魔立ては、別の使い方もできる」
「と、おっしゃいますと?」
「大奥の企ての目くらましになる、もう一つの企てを用意せねばならん」
直弼は続けた。
「御台所がこちらの目をすべて大奥に向けているあいだに、別の場所で別の手を打つ。戦場を二つにすれば、どちらかに必ず穴が開く」
「……どのような手でございましょう」
「それは……」
答えかけて、直弼は口を閉ざした。
まだ形になっていなかった。頭の中で何かが生まれかけていたが、まだ言葉にはならなかった。
直弼は再び窓の外を見た。冬を前にした夜空に、星が冷たく光っていた。
十一 閃き
秋の終わりのことだった。
幕府の事務方から、一通の書状が届いた。
老中・堀田正睦が持ち出し、許しを得たという話だった。調印後の細則をめぐる交渉に、朝廷の使者を同席させるという。
その使者は「天朝外語御用掛」と記されていた。近衛家の姫君で、英語が話せ、御門様直筆の証文を持っているという。
読みはじめたとき、直弼が覚えたのは怒りだった。
また近衛か。
だが読み進めるうちに、直弼の中で何かが変わった。怒りが別のものに変わり、算段が動きはじめた。
近衛家の姫君が、江戸へやってくる。それは、目くらましに使える。
大奥の企ては篤姫に阻まれている。その篤姫は近衛家の養女だ。そして同じ近衛家から、別の姫君が江戸へやってくる。
この姫君を使えば、御台所の目をそちらへ引きつけられる。そのあいだに、大奥の企てを進める時を稼げるかもしれない。
それだけではない。この姫君が江戸へ来ること自体を、騒ぎの種にできる。朝廷の使者が江戸で何かに巻きこまれれば、幕府の政は乱れる。その乱れの中で、一橋派の立場が弱まるかもしれない。
直弼の頭の中で、企ての輪郭が浮かび上がった。
「長野」
直弼が呼んだ。
「はい」
「今から独り言を言う。その意を汲み取れ」
長野は頭を下げた。
「……近衛の姫君は、京の地よりわざわざこの江戸まで足を運ばれる。……近ごろこの藩邸の周りでも、不審な者を多く見かけるようになった。江戸はなにかと物騒で困る。その姫君が何事もなく、無事に……江戸にお着きになられるとよいなぁ。いや、まことに心配である」
「全くもって、その通りでございます」
顔を上げた長野の口元にも、主と同じ笑みが浮かんでいた。
書院の行灯が、静かに燃えていた。その光が、二人の顔を照らしていた。
大奥の工作はまだ続く。篤姫との静かな攻防も、まだ終わらない。そこへ、新しい企てが動きはじめた。
直弼は窓の外の夜空を見た。冬を前にした星が、冷たく輝いていた。
「待っていろ、近衛……」
直弼は静かに言った。
「この機を逃すほど、わたしは愚かではない」
黒い笑みが、夜の書院に浮かんでいた。
十二 二つの戦場
こうして安政六年の秋の終わりには、二つの戦場が同時にあった。
一つは大奥である。篤姫と井伊直弼の、目に見えない戦い。どちらも表には出ない。ただ空気と時間を奪い合う、静かな消耗戦だった。
直弼の企ては止まっていた。だが止まっているだけで、潰えてはいない。いつまた動き出すか分からないことを、篤姫も知っていた。
大奥の秋は、表向きは穏やかだった。庭の楓が色づき、茶の湯の席が設けられ、女中たちは日々の務めをこなしている。だがその日常の底には、目に見えない緊張が流れていた。誰がこちら側で、誰があちら側か。その見極めが、休みなく続いていた。
篤姫は疲れていた。それでも、その疲れを顔には出さなかった。
大奥の頂に立つ者が疲れた顔を見せれば、その疲れは波紋のように広がる。女中たちが不安になり、不安になれば空気が緩む。空気が緩めば、直弼の工作が入りこみやすくなる。
だから篤姫は、疲れを呑みこんで、今日も穏やかに座っていた。
いつまで続くのだろう。そう思う夜もあった。けれど朝になれば、また動いた。
そこに将軍がいるからだった。政のためでも、権力のためでもない。病弱な将軍が誰かの手の中で動かされることを、篤姫は許せなかった。
もう一つの戦場は、江戸への道だった。
近衛糸子と井伊直弼の、糸子本人もまだ知らない戦いである。
大奥では、篤姫が踏みとどまっていた。直弼の企ては遅れ、将軍の跡目の指名はまだなされていない。篤姫という一人の女が、声高な言葉を一つも使わずに、権力の動きを止め続けていた。
だが、止めているだけでは、この戦いには勝てない。
篤姫はそれを知っていた。自分にできるのは、時を稼ぐことだけだ。その時の中で、誰かが政の舞台で、直弼に正面から抗う軸をつくらなければならない。そのためには、外の世界が動く必要があった。
篤姫は知らなかった。江戸へ向かっている少女のことを。十一歳の公家の姫が、英語を武器に交渉の場へ向かおうとしていることを。その姫が今ごろ、南海路の波の上にいることを。
知らなかったが、待っていた。どこからか、何かが変わるきっかけがやってくることを。
十三 二人の女
江戸の秋が終わりに近づいていた。
大奥では、篤姫が縁側に座っていた。庭の楓はほとんどの葉を落とし、冬の空へ枝だけを伸ばしている。石灯籠の影が庭石の上に細く落ちていた。風鈴はもう片づけられている。冬を前にした、静かな庭だった。
篤姫は一人で、その庭を見ていた。
(この先、一体どうなるのであろうな……)
大奥の工作は止め続けている。けれど、あの男はいつか突破口を見つけてくるかもしれない。
それでも今日もまた、家定は穏やかだった。政の話も、跡目の話も出なかった。篤姫がそばにいて「今日はお庭の景色でも」と言えば、家定は素直にそちらへ目を向けた。
その穏やかさを守ることが、今の篤姫の務めだった。
同じころ、江戸に入ったばかりの近衛糸子は、一橋上屋敷の上段の間に一人で座っていた。前に帳面を広げ、手に筆を持っていた。
「やられたらやり返す。倍返しだ!!!」
そんな声が、江戸の冬の午後に小さく響いたかもしれない日だった。
二人の女は、互いのことを知らなかった。
一人は大奥の頂に立ち、権力の工作を内側から止め続けていた。鋭い見立てと静かな意志で、直弼という男の企てを半年近く足止めしてきた。表立って反対せず、ただ決めさせない。それだけで、権力の歯車を止め続けていた。
もう一人は十一歳で、長い旅の末に、言葉という武器を磨き続けて江戸へ来た。百貨店のバイヤーとして培った目利きと、四年近くかけて身につけた英語と、御門様の証文を携えて、交渉の場へ向かおうとしていた。そして刺客に狙われ、旭狼衛に守られ、倍返しを誓っていた。
この二人が、同じ時代の、同じ江戸の空の下にいた。そのことの意味を、まだ誰も分かっていなかった。
彦根藩邸の書院では、直弼が窓の外を見ていた。
大奥の企ては、まだ片づいていない。篤姫の邪魔は続いている。札の辻に放った刺客もしくじった。二つの企てが、どちらも思いどおりに進んでいなかった。
直弼の胸に、焦りが生まれていた。
それでも、直弼は折れる男ではなかった。
秋の終わりの江戸には、どこか張り詰めた空気がある。空は高く澄んでいたが、夏の澄み方とは違っていた。透きとおっているくせに近く、手を伸ばせば届きそうなところまで冷たい青が降りてきていた。
三つの意志が、同じ空の下で、それぞれに動いていた。
直弼の黒い笑み。篤姫の静かな決意。そして、誰も予想していなかった糸子の腹黒い倍返しが、今まさに始まろうとしていた。
時間は、また前へ動く。
第四十六話 了
史実では篤姫と近衛忠房は、義理の兄妹関係にあります。近衛忠煕の嫡男が近衛忠房であるため、養女の篤姫から見て忠房は義理の兄にあたります。
※この物語は史実を元にしたフィクションなので、広い御心で読んでいただけると幸いです<(_ _)>




